第6話 生まれ変わり
そんな中で、
「ドッペルゲンガー」
というのは、
「誰かの生まれ変わりが、たまたま、もう一人の自分になったのではないか?」
という風に考えている人がいた。
それは、他あらぬ、二宮だったのだ。
二宮は、高校生の時にドッペルゲンガーというものに興味を持ち、いろいろな本を読んらりして、自分なりに、
「その正体がどういうものなのか?」
ということを考えようとしていた。
そこで考えたのが、
「同じ人間が、なぜ存在しえないのか?」
ということであった。
「同じ人間ではないが、双子などはよくあることではないか?」
と思ったのだ。
普通に考えれば、
「双子って、同じ母親から同時に生まれたというだけで、違う人間だ」
と人はいうし、自分もそう思っていた。
しかし、
「だったら、別の母親から、自分と同じような人間が生まれたとしても、無理もないことではないか?」
ということであった。
しかし、それだけでは、
「同じ人間」
というのは生まれない。
ただ、
「ドッペルゲンガーというのは、本当に同じ人間で、もう一人の自分でなければいけないのか?」
ということであった。
確かに、
「似ている人」
ということではいけないのだろうが、それは、あくまでも、
「血のつながりがない」
ということであり、それが、
「腹違いの兄弟」
であれば、もし、これが、あくまでも偶然ではあるが、同じ日に生まれるという偶然があれば、ありえないことではない。
妊娠してから、必ず、皆が皆同じ妊娠期間というわけではない。だから、
「予定日」
というのであり、前後1週間くらいの誤差があるのは、普通ではないだろうか?
そう考えると、
「妊娠してから生まれるまで、どれだけかかるのか?」
というのは曖昧なので、
「正妻と、不倫相手が同時に子供を宿したとして、一緒に生まれてくる」
などということもありではないだろうか?
そういえば、昔の小説が原作のドラマで、大正時代の商人の女将さんが、旦那が浮気をして、その人を腹ませたことで、嫉妬に狂って、相手の家に押しかけていけば、偶然二人が同時に産気づいて、結局、隣で生むという、
「どちらにとっても、やりきれない結果」
ということになったのだった。
その場合の二人の子供は、正反対の性格になっていき、お互いに数奇な運命を描くというものであった。
それは、時代が時代だっただけにしょうがない部分があった。
片方は、
「商人の坊ちゃんとしてぬくぬくと育ち」
もう片方は、
「丁稚奉公に出されて、虐められながら育つ」
ということだから、
「生まれながらに差別があった」
ということの典型であった。
こちらは、
「育った環境の違い」
ということで、運命のいたずらが起こったのだ。
では、
「生まれた子供がほぼ同じ環境で育ったとすれば、同じ遺伝子で、しかも、ほぼ同じ時間に生まれたのだとして、二人の容姿もほぼ同じだ」
ということになれば、どうなるであろうか?
そんなことを考えていると、
「この二人がドッペルゲンガー」
と言われるような関係であったとして、
「ドッペルゲンガーの存在」
ということに限定すれば、これくらいの確率は、それほど低いものではないだろう・
少なくとも、
「ドッペルゲンガー」
というものが本当にある確率というのを考えた時、やはり、
「偶然の産物」
という方が、確率的にはかなり高くなると考えることで、その信憑性という意味でも、高くなるのではないだろうか?
「普通の常識」
ということで、考えるなら、
「この発想というのは、かなり奇抜なものだ」
ということで、
「常識の範囲を逸脱している」
と思い、
「想定外ではないか?」
と考えてしまうことが大きいのではないだろうか?
しかし、そのような、いわゆる、
「常識」
という考え方というのは、考え方において、却って、
「ガチガチの雁字搦め」
ということになり、それを、例えば、
「科学では証明できないことはない」
という考えを額面通りに読み込んで、なんでもかんでも、証明しようとして、それができなかったということで、その説を、
「科学への冒涜」
として、
「冒涜という言葉を、免罪符に使って、自分の言い訳にする」
というのは、
「それこそが、科学への冒涜ではないか?」
といえるのではないだろうか?
二宮は、そういう考え方を結構している。
その中で、
「雁字搦めになるような考え方が、可能なことを不可能なこととして、証明などできるはずがない」
ということで、
「冒涜への免罪符」
という切り札を出してこようとするそんな考えを、あまり好きではないということで、基本的には、
「なんでもかんでも、科学で証明しようとしない」
と考えながらも、
「科学で証明できないのであれば、科学以外のもので証明するのもいいのではないか?」
ということを考えると、結局、
「科学が証明してくれる」
ということになるのであった。
それが、二宮にとって、
「一方向からうまくいかなければ、別の方向から見るということを、一筋縄ではいかないということで、免罪符にしない」
と考えるようになったのであった。
そんな中で、
「もし、生まれ変われるとすれば?」
ということで、
生まれ変われる命が、二つであった場合は、
「まるで、異次元のような気がする」
という考え方であった。
「命が、一つなのか、二つなのか?」
それは、
「パラレルワールドが存在する」
ということを、前提に考えた場合のことであった。
パラレルワールドというものの発想を、いかに考えるかということであるが、
「双子であったり、双子に類するような、両親が同じ人からでない場合に、それぞれの命が同時に授かった場合というのは、まるで、ドッペルゲンガーではないか?」
という発想であったとすれば、
「双子というのは、ドッペルゲンガー以上のものである」
ということはありえないといえるだろう。
「双子というのは、お互いにそれぞれの運命を知っていて、実は知らないふりをしているだけではないか?」
と、二宮は考えていた。
「知っているというのは、分かっているということであり、それが意識的なのか、無意識なのかということは関係ないのである」
ということである。
だから、双子というものには、昔から、
「大きなパワーのようなものがあり、それを恐れるあまり、もう一人を、里子にやったりして、本人たちは、双子に生まれたくて生まれたわけではないのに、そのやり方をひどいと思うのではないだろうか?」
ドッペルゲンガーというのも、それに近いものがあり、
「必ず、誰かにでも、もう一人の自分というものが存在している」
ということが分かっていると思っているのも、二宮であった。
それが、パラレルワールドであり、
「パラレルワールド」
というものが、異次元ではない。
ということから、
「ドッペルゲンガーというものは、同一次元の同一時間に存在しているものだ」
ということになり、
「その恐ろしさから、もう一人の自分を見ると、必ず死ぬ」
と言われるようになったのだろう。
そう考えた時、ドッペルゲンガーというものを見ると死んでしまうということで、
「死んでしまうのは、この世にいる方の人間だ」
と勝手に思い込んでいるのではないだろうか?
その発想から考えれば、
「ドッペルゲンガーを見かけるというのは、悪い方に考えてしまう」
という発想になる。
と考えてしまうのだった。
だとすれば、
「逆に、都合よく考えるというのもありではないか?」
と思ったのが二宮の発想であり、そこで思いついたのは、以前に本で見た、
「ここ半世紀くらいの間にいわれるようになった都市伝説である、カプグラ症候群という発想を頭に描くようになってきた」
というのであった。
この、
「カプグラ症候群」
というのは、
「恋人や家族などの自分に近しい関係の人が、いつの間にか、悪の秘密結社のような連中によって、身代わりが当てがわれ、入れ替わっているのではないか?」
という発想のことである。
それは、一種の都市伝説というよりも、
「精神疾患による錯覚」
というものではないかということであった。
つまり、
「カプグラ症候群」
を正しいとして、
「悪の秘密結社」
によるものかどうなのか分からないが、
「入れ替わった人間が、実はその人がドッペルゲンガーではないか?」
ということである。
カプグラ症候群になると、明らかに、入れ替わっていると思っている人は、性格がまったく変わってしまっていて。
「近しい間柄でなければ、決して知り合いにならない」
という相手であり、逆に親しい間柄だからこそ、むげにもできないということで、
「一体どうすればいいのだろうか?」
ということになるのであって、
「できれば、都合よく考えたい」
と思ってしまうのである。
精神疾患だということだから余計にそう考えるのだ。
まるで、
「夢の中にいるような気がする」
というような感覚であり、
「夢の中にいる:
という発想は、
「精神疾患というものとは違い、夢を見ているという意識を持っている」
ということだ。
だから、例えば、
「夢の中だから、空を飛ぶことだってできるのだ」
というような、
「夢を見ている」
という意識はあるのだ。
だが、意識があるだけで、
「空を飛ぶことができるはずだ」
と思ったとしても、
「もし、できなければ、墜落して死ぬことになる」
という思いが頭をもたげるからなのか、
「決して、高いところから飛び込もうなどということはしないであろう」
するとすれば、足元から自分で飛び上がるというようなことをしてみるとだけで、実際に飛び上がったとしても、それは、
「宙に浮く」
というだけのことで、とても、腰以上の上を飛ぶことができず、
「ただ、宙に浮いているだけで、進むこともできない」
ということにしかならないということであろう。
それが、人間の潜在意識というものであり、
「夢というものは、潜在意識のなせる業だ」
ということになるのであろう。
つまり、
「人間は、基本的には都合のいいように解釈しようとするので、夢というのを免罪符にして、都合よく考えようとするのだが、結局、臆病であるという発想から、最後には、自分たちが人間であるということを結論として、都合よく考えてしまうことを、辻褄が合わないことへの免罪符として理解しようとすることで、結局、その先をいかに理解するのであるか?」
と考えることになるのであった。
だから、
「ドッペルゲンガー」
という考え方も、
「双子というのが、事実として生まれることで、双子の発想に近いものを、人間は創造するのだろうが、それは、あくまでも、都合よく考えるということであり、そこに、ドッペルゲンガーというものが、双子のような事実として存在しない」
ということを都合よく考えることから、
「都合のいい免罪符」
として考えるようになったということになるのであろう。
二宮は、そこまで考えてくると、
「自分のドッペルゲンガーってどこにいるのだろう?」
と考えるようになっていったのだった。
ドッペルゲンガーというものを、
「都合のいい免罪符だ」
と考えるようになると、
「そこにある命というのは、一つなのか、二つなのか?」
という前述の考えに至るのであった。
そこで、一つおかしなことを考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」
というのが、事実であるとすると、
「死んでしまうのは、本当の本人なのだろうか?」
と考えるのであった。
「ドッペルゲンガー」
というものがどれだけ、本人と似た存在であり、本人そのものだと考えたとすれば、
「本人そのものに近いというのは、前提としてあるのだが、あまりにも近づきすぎると、今度は、ドッペルゲンガーではなくなってしまう」
ということを考えてしまうのであった。
つまりは、
「ドッペルゲンガーと本人との関係は、近づきすぎると、お互いに一度一つになってしまい、そこからまた分裂することになるのだが、その時にシャッフルされて、どっちがどっちだか分からなくなってしまう」
と考えられないだろうか。
つまり、
「交わることのない平行線」
というものの逆の発想で、
「交わることになるのだが、それでも、平行線」
という、まるで、
「時空の捻じれ」
というものに匹敵するかのような、
「メビウスの輪」
というものだといえるのではないだろうか?
この、
「メビウスの輪」
というものが、
「時空の捻じれ」
であるとするならば、二宮の中で、さらに、
「都合のいいもの」
ということで考えるならば、
「死んでしまう」
という方は、ひょっとすると、
「ドッペルゲンガーではないか?」
という発想になるのではないかと考えたとして、そこに何の不思議があるというのであろうか?
そんなことを考えると、
「ドッペルゲンガー」
というものを、いかに、都合よく考えるかとすると、
「カプグラ症候群」
というものとの合わせ技で、
「死んでいったのは、最初に入れ替わったドッペルゲンガーというものであり、ドッペルゲンガーというものが、本人の代わりに死ぬために、入れ替わったのだ」
ということであり、そう考えると、
「カプグラ症候群」
というのは、元々、
「人間というものを、都合よく解釈させるための免罪符なのではないか?」
と考えるようになり、
「ドッペルゲンガー」
というものにも、一つの人格が存在し、
「実際に、命がある」
ということになるのであろう。
だから、
「ドッペルゲンガーというものは、命が二つあることで、本当の自分を守るために存在している」
という、都合のいい解釈をするために、二つ命があるということになるのであろう。
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