祠を世話したお前が悪い

杉林重工

第1話 祠を世話したお前が悪い

「お前……あの、祠を……壊したんか」老人は息も絶え絶えにそういった。潰れた右目から漏れた血が、自身の口に注ぐ。彼の足元には、古びた木材や、供物だったらしい花、団子までもが散っていた。


〈蓮華光照暗 金剛破千印〉

〈佛陀眼下眠 地獄門始啓〉


「そうだよ。見て分かんないの?」若者は嘲笑交じりの声で、老人を見下ろしていた。その手にあるのは、どこから持ってきたのか鉄パイプ。それにはべったりとまた、老人の血液や、灰色の毛髪が張り付いていた。


〈佛陀眼下眠 地獄門始啓〉

〈梵音響天涯 魔心焚火盛〉


「みんながさあ、壊してみろっていうから。あんたがずっと、あんなもん世話してるの気持ち悪いって。なあ? みんな言ってるぜ。だから壊してやったんだ」


 彼の周囲には同じぐらいの年頃、十代後半の若者が九名ほど。彼らは一様にくすくすと笑っていた。


「でも、あんたが急に目の前に出てきたのは知らないな。危ねえよ、老い先短いのに」

「命、大事にしろよー」

「気を付けろって」


 鉄パイプの彼の後ろから、若者達は身を乗り出して老人を嘲笑した。


〈破戒怨魂出 涅槃今斷縁〉


「早く行こうぜ。どうせさ、あんたが死んでも誰も気にしねえからさ」


 気味が悪い、とでも言わんばかりに鉄パイプの彼はそれを周囲の木にこすりつけて血肉を落とそうとしていた。


「後悔するぞ、お前達……あれは、わしの、たった一つの……」


〈魂縛暗夜〉


 その日は新月の闇の夜。その暗黒が、ゆっくりと老人の体に張り付き、闇夜の中に沈めていく。ただ、それが行われたのは、若者達がスマートフォンのライトで照らす光の中。老人がLEDの光の下で尚蠢く『闇』に変わった時、若者のうち一人、女が真っ先に悲鳴を上げた。


「消えてる!」


 全員が改めて注視した時、ライトの範囲から闇も老人も消え、石ころや雑草に代わっていた。


「ジジイがいねえ! 逃げたか?」

「なんだ? どうした?」

「さっきそこに、黒いのが……」

「警察に行かれるとさすがにまずいな」


だが、次の瞬間、再び女が声を上げる。全員がその声に振り向く中、彼女の声はすぐに、タオルでも口に突っ込まれたような鈍い泡に似た音に変わる。


「お前、顔が!」


 誰かが振り回したライトの光が、女の顔を照らし上げる。だが、到底、人の顔とも呼べまい。暗黒に染まり、否、ヘドロとでも言おうか、どろりとした何かにその顔面が覆われている。それが今、ぐしゃりと潰された。血の一滴すら流れない。


「誰だ、なんなんだ!」


 男の一人が恐怖に駆られ、絶叫した。女の頭の向こうには、まさにその『泥』の主とでもいうべき、全高百七十センチほどの塊があったからだ。それが、心なしか破壊した祠の中から出てきた石像に刻まれた人型を彷彿とさせた。そういえば、あれはどこへ行ってしまったのだろう。


『わが名を〈鬼煞〉』


 その時、泥人から金色の角が七つ伸び、それぞれが若者達を串刺しにした。そして、その全身をあっという間に泥で包まれ、やはり血の一滴すら飛ばさずにぐしゃりと潰された。


「嘘だろ、あんた、なんなんだ!」


 一人残された、鉄パイプの彼は腰を抜かして倒れ込み、無様にも尻を向けて必死で泥人から逃げ出した。だが、彼の体にも泥が纏わりついて、あっさりとその動きを封じた。


 泥の臭い、すなわち腐った落ち葉や青い葉の香り、それらが鼻から口から脳へ染み、むせ込みたくてもすでに肺が泥で満ちていて、息を吸うことも吐くこともできず、ただ彼は直前に見た仲間達の様に死を覚悟した。だが、それでもなお彼は懸命に目を開け、対手を見た。


 ——まやかしだろうか。


 彼の前に、まるで黒曜石で全身を構成したような、真黒な人影があった。奇怪な化け物であった。腕が七本あり、それぞれに角の様な爪のような、一本の金色の棘がある。そして、頭にも王冠の様に七本の角。


〈鬼煞〉


 その存在が、つい先ほど自分が破壊した祠と、否応にも結び付けられる。まさか、あれを壊してしまったから、こんな化け物が現れたとでもいうのだろうか。あの嫌われ者の老爺が言っていたことが、正しかったとでもいうのだろうか。


 とはいえ、今更懺悔などしてももう遅い。『それ』が、彼の頭を捕らえ、握り潰そうとしてい達に彼は目をきつく閉じ、最後の時に備えた。


『待て!』


 だが、それを止める声があった。彼が薄ら目を開けると、なんとそれは、自分が先ほど殺しかけた老人ではないか。老人の顔が、黒曜石のような魔人の顔の内側に浮いている。


『わしは別に、こいつらを殺そうとは思っていない!』


 老爺の悲痛な叫びに、魔人は動きを止めていた。だが、やがて『それ』は喋った。


『何故だ。われが動くには未だ恨みが足らぬ、ここに在るには血肉が足らぬ。お前は、この者達を憎んでいた。そして、ここに血肉がある。お前の恨みでわれは動き、血肉を今、僅かばかり得た。だのに、何故止める』


 魔人の言葉だろうか。内臓をかき混ぜるように重く響き、なおかつ本能的に涙腺を刺激し、或いは鼻の奥を震わせて、鼻水や涎すら誘発し、反抗する気を削いでいく。若者はただ、顔面からあらゆる液体を絞り出して嗚咽し、震えることしかできなかった。


『あの祠は、わしが確かに暇を見つけては大事に世話してきたものだ。壊されて驚いたが、それでも、こんなことは望んではおらん。若気の至りだ、ちゃんと謝れば許してやるつもりだった』


 老人の言葉に、魔人はしばし硬直していた。否、力を失していると彼は感じた。黒い体がどんどん透けて、中の老人の輪郭を顕す。『恨み』が、溶けていると若者は感じた。不思議なことに、若者の体もどんどん軽くなる。だが。


『認められぬ! お前に沸いた憤怒は本物だった。故に、われを動かす力となった。そして、われは血肉を欲す。復活のために必要な力だ』


 再び、若者を掴む魔人の手に力が籠る。すると、若者は何かに弾かれたように叫んだ。体が軽いうちに、言わなくてはならないことがある。


「おれは、悪くない!」


『なんだと?』老人は問うた。


「村のみんながいってた! 山木の婆さんも、内村のおっさんもだ、あんな気味の悪い祠をかわいがって、花までやってるジジイが、気味悪いってな!」


『なに?』


「あんたの息子も、娘も、それを嫌って帰ってこないし、そもそもあんたのババアが死んだ原因もお前だよ!」


『そんな、そんなことがあるわけが……わしが、悪いだと?』


「まさか、あんた、気付いてなかったのか?」


 若者は心底驚いたように声を上げた。老爺は首を傾げるのみ。


「あんたんとこのババア、村ぐるみで虐められてたんだよ」


『なんだと? そんなこと、わしは知らん! あるわけが……』


「みたいだな! この村はみんな陰湿だから。あんたが村の花壇とか清掃とか、山の整備にも顔を出さず、祠の世話ばっかりしてただろう。青年団にも顔を出さないって、みんな言ってた! だから、ずっとババアも陰口叩かれてたんだよ」


「祠だって、この村の大事なものだ! 誰も世話しないからわしがやってたのに!」


 老爺は思わず唾を飛ばして反論した。だが、若者は一切退かなかった。


「きもいんだよ、そういうの! あんたのババアは、祠の世話だけやって、村の一員みたいな面してるお前の代わりに、青年団の仕事も何もかも、全部やってたんだ。だから、早死にしたんだよ!」


「そんな、あいつは、あいつは好きで村の人と……」


「そんなわけあるか! だからおれは、おれ達がやってやったんだ、おれ達は悪くない、悪いのは、村の奴らと、お前自身だ! おれだって、年末だから寮から帰ってきただけだ!」


 彼はわめき散らした。すると、急に周囲が暗くなった。いよいよ死んだかと思ったが、そうではない。これは、老人を殴打したあの山道だ。『戻ってきた』と、そう痛感する。


 しかし、安心したのも束の間、彼の首を、あの老爺が掴んで、軽々と持ち上げたのだ。慌てて鉄パイプで殴りつけようとしたが、その手すら抑えつけられ、微動だにしない。まるで老人の力ではない。彼は周囲にあの魔人の影を求めたが、どこにもなかった。


「これは……」


 若者を軽々持ち上げるその力に、老人のほうも驚いているようだった。背筋も伸び、心なしか体格も大きくなっているようだった。


『それが、われの力。われは、お前の復讐に力を貸せる』その声は、老爺でも若者でもない。〈鬼煞〉のものなのだろう。


「そんなことが、あるのか……?」


『憎くはないのか。この若造にここまで言われて。何も思わぬのか』


「……」


『われはお前の憤怒のもとにしか動けず、血肉を集めることすらままならぬ。われらは一蓮托生、この村に、お前は未練があるのか』


 ここは山の中腹。少し歩けば、眼下に村の明かりが見える。人口、千人と少しの小さな村だが、それでも老爺が生まれ育ち、ずっと過ごしてきた友人や知人がいるはずの場所だ。それを前にしかし、老爺の拳はきつく握られ、微震していた。


『われの力があれば、気も楽になろう。お前の陰口を叩いたもの、お前の妻を辱めたもの、鏖殺しよう』


「だが、そんなことをして、意味があるのか?」老爺は問うた。


『意味は、お前が見つけろ。ただ、今お前には、われの力がある』


「力……」


『見てみたくはないのか。われとお前の得た、この力がいかに恐ろしいか。ただ、もはやあの忌々しき祠を世話するだけのお前とは違う』


 老人の手が緩み、若者が地面に尻もちをついた。痛かったが、何よりも開放感が勝った。のどが開いて空気を肺へ一気に吸い込む。泥臭さ、山の臭いが生を感じさせる。


「じゃあ、おれはこれで……」


 若者はそそくさと立ち去ろうとした。だが、そんな彼の首根っこを、まるでガラスの様に冷ややかな感触が掴んだ。あの、金の角を生やした魔人の腕だった。それが、老爺の背中から伸びていた。


「案内しろ。誰が、わしと、妻に、何を言っていたのか、一人ずつ。お前も、共犯者だ」老人は冷たくそう言い放った。もはや、彼が先ほど鉄パイプで殴りつけた男とは別人だった。異形の力に支えられ、堂々と仁王立ちしている。


「あ、はい……」


 彼は引きつった笑顔のまま立ち上がり、摘ままれたまま老爺の傍に行く。不思議だった。明かり一つないのに、その闇の中で老爺と魔人の影がはっきり見える。二人と異形は、ついに村を眼下に一望できる場所に出る。


『いいぞ、行こうではないか。今日はよい夜だ。お前の恨みを、力を存分に見せてやろう』


 魔人はそういって、老爺の背から残り六つの腕を呼んで地を打った。老爺の体と異形の影が、若者とともに天を舞う。


 闇夜の風を、他ならぬ老爺の老体が切る。その心地よさに、思わず溺れてしまいそう。体が軽かった。今の状態であれば、こんな若者にも遅れは取らなかっただろう。これが、力なのだと実感する。


 もう止められない。きっと、このまま村に足を付けたら、この勢いのままにすべてを薙ぐ確信があった。


「じいさん、おれはもう、全部あんたに従うよ。でも、あんたはこれでいいのか」


 若者の目に涙が浮かんでいた。老爺は深く頷いた。


「もういい」『これでよい』


 だが。ふと老爺は別のことを考えていた。もしも自分が、祠の世話などしていなければ、全てはきっと、山野の果てに朽ちていたのではないか。そんな気がした。

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