アテルイ譚
一 エミシ
勝てば官軍、敗ければ賊軍。
時の権力者による正史が、曲解されて伝えられる事象は世の常なれど……
どっどど
どどうど
どどうど
どどう
風が、渡っていった。
荒涼とした、北の大地に……
国書『日本書紀』に曰く、
『東夷の中で、日高見国あり。(東の果ての未開地に、ヒタカミという国があっ
た)』
山雪の解けた野に、土筆が芽吹いている。
カモシカが狼に喉を食いちぎられている。
『冬は則ち穴に宿、(冬になると洞窟に暮らした)』
そんな人里離れた所に、ポツンと一戸の竪穴式住居の小屋があった。
つららが軒先に垂れ下がっている。
人が住んでいるかは、素通しの窓からユラユラと洩れている煙の様子で分かる。
その小屋を、ギラついた眼で見ている者どもがいた。
腹をすかせた屈強な体躯の三人の男達である。
所々破れた簡素な京の鎧を身に着けたその不埒な奴等は、小屋にそっと近づき、
獲物を狙う狼のような血走った眼光で、手には青龍刀を持っていた。
入口に垂らされたすだれを、男の一人が刀で斬り捨てた。
『其の国人男女並に椎結、身を文げて、(そこの人々は男も女も髪を結い上げ、
身体には刺青をして)』
髪を結い、透き通るような肌をした腕に、小さな刺青をした若く美しい女が、
魚料理をしていた時だった。
「ッ!」
女が振り向いて、二人の男達を見て驚いた。
『是を総べて蝦夷と曰う。(この野人をエミシと呼んでいた)』
「さすがに、エミシの女は肌が白いや」
男の一人が、下卑た物言いをした。
女はとっさに、裏口から逃げようとするが、そこには別の男が待ち受けていた。
「ウナダヅ、ナサキタ(お前達、何しに来た)
!」
女が、地元訛りで叫んだ。
男達の身なりと言葉遣いから、土地の者ではない事は、女にも分かっていた。
「うまいシャケだ」
頭目が、女が今こしらえていた焼魚をまるかじりにして、頬張りながら言った。
他の二人も、そこらにある惣菜を食い散らした。
「デハッテゲ(出て行け)」
女は、そばにあった石包丁を手に取った。
男達は、簡単に女の細腕をつかんで、包丁を取り上げた。
執拗に抵抗する女を、男達が二人がかりで取り押さえた。
女は両手を縄で万歳をするように縛られ、更に大の字に開脚させられた。
鮭をかじっていた頭目が、女の衣服を引きちぎった。
「ナニスダッ。ヤメロジャア(何をする。やめろ)」
女が、叫んだ。
頭目は鮭をゴクリと飲み込むと、露出させた自身の性器を女の股ぐらに無理や
り突っ込んだ。
「ヤメデケロ(やめて下さい)」
女は、凌辱を受けながら懇願した。
最初の男が終わり、次の男が輪姦した。
嬲られ三人目の性欲を満たす頃には、女はグッタリとしておとなしくなってい
た。
「ようし。それでは、仕上げといくか」
三人の男達は、それぞれ放心したようになっている女に向って放尿した。
「おい、どうする。このアマ」
男の一人が、汁物をすすりながら聞いた。
「俺らの顔を、見られたぞ」
もう一人が言った。頭目が、無言で刀を振りかざした。その時だった。
『毛を衣、(毛皮を着て)』
一人の目元の凛々しい毛皮を着た十二歳くらいの少年が、帰って来た。
少年の眼には、暴行された母親の惨めな姿が映った。
「カアヲ、ナジョシタ(母さんに、何をした)!」
少年が、叫んだ。狼藉を働いた男達が、一斉に少年を見た。
「アテルイ! ニゲロジャ(逃げなさい)」
母親が、振り絞るような声でわが児の名を言った。
「うるさい」
頭目が、母親を蹴飛ばした。
「ウワアアア」
アテルイは、我を忘れてわめきながら頭目に飛びかかった。
頭目は、刀を振りかざした。
『草を行ること走獣の如く、(獣のように草原を走り)』
アテルイは、獣のような敏捷な動きで刀をかわした。
「この餓鬼ッ」
残りの二人も、アテルイを追い回した。
しかし、狭い小屋の中ではそう逃げられるはずもなく、アテルイはカマドの端
に追い詰められた。
幾たびの戦で、人の血を吸った刃には、蝦夷の血糊が漆碗のように厚く上塗り
されていた。
その蝦夷の血錆が付いた刀が、アテルイの顔面に迫ってきた。
「アテルイ! オシラサマジャ」
母親が、アテルイの名を呼び、目配せでオシラサマを祀ってある神棚を見た。
オシラサマとは、岩手の旧家に古くから伝わる民間伝承で、四角い布の中心に
穴を開けた物を衣装とした、桑の木を削って馬の顔に彫った男神と人頭型の女神
との小さな二対の守護神である。
正月の一六日には、その顔に女を意味する白粉を塗って、お祀りする習わしか
らオシラサマと呼ばれている。
オシラサマの起源には諸説が存在するが、その昔、ある娘が馬と情を交わした
のに怒った父親がその馬を桑の木に吊り下げて、首を刎ねて殺してしまった。
これを知った娘は悲しみの余り、刎ねられた馬の首にしがみついたまま、天に
昇っていったいう伝説である。
岩手は古来より馬産地として有名で、それは馬を人間のように慈しむ姿勢から
生まれたものであろう。
南部曲家という、常に人馬が一緒に居住する家屋からも容易に想像できる。
つまり、オシラサマという馬頭観音は、人と馬を含めた自然との融和を強く望
む司祭神なき民間信仰なのである。
『山に登ること飛禽の如し、(鳥のように山に翔け上がった)』
男が、アテルイの喉元に刀を突いた瞬間、アテルイは垂直に飛び上がり、鴨居
を握ると軽やかに空中で体重移動をして、北の方角の天井近くに祀ってある神棚
をまさぐった。
これら一連の動作は、目にも止まらぬ速さだった。
男の刀は、アテルイの動きを追うように空を斬った。
オシラサマの裏に、緑色のヒスイから作られた勾玉の首飾りに護られるように
して、それがあった。
アテルイの手には、不思議な形をした一振りの剣が握られていた。
柄から刀身への部分で刃が逆に反り、振り下ろしながら斬るのに適していた。
「エミシの子わっぱめッ」
他の男も抜刀し、アテルイに斬りかかった。
アテルイが風のようにヒラリとかわしたと思ったら、柄と刀身が一体となった
その剣は、舞うように男の首を削いだ。
生首が転がり、ドッと血ふぶきが飛んだ。
首を失った男の身体は、筋肉の条件反射が残っていて、まだ、起き上がろうと
ピクピクと動いた。
「もう、容赦しねえ」
もう一人もアテルイに斬りかかったが、瞬時にして、刀ごと右腕を切断された。
「うぎゃー」
悲鳴を上げる頃には、腹もえぐられ、絶命していた。
最後に残った頭目は、アテルイの母親に刀を突き付けて人質に捕った。
「それ以上近づくと、この女の喉をかっ斬るぞ」
アテルイは、ジリジリと間合いをはかった。
頭目が、母親の喉元に刃をグッと押し付けた。
スーッと、一筋の血が流れた。
「ウオォ─ッッッ」
『人となり勇悍し、(性格は獰猛で)』
髪を逆立てて雄叫びを上げるアテルイに呼応するように、握っていた剣が目映
い光を放った。
窓外に見える原野では、椋鳥の群れが羽ばたき、野生馬が遠くに逃げて行った。
「…よ、よるなッ」
頭目は、恐怖心から後ずさった。
『怨を見ては、必ず報い、(危害を加えられると、絶対に復讐して)』
「ぐわあアァ」
剣が激しく熱を帯び、アテルイが核となった発光体の高熱で、頭目はドロドロ
に熔けるように蒸発してしまった。
業火のような灼熱は、小屋をも焼き飛ばした。
「…アテ…ルイ……」
母親は、虫の息だった。
「カア…」
『血を飲む。(生き血を吸った)』
アテルイは、肩で息をする母の首筋から大量に流れ出る血を、止めようとする
かのように傷口を舐めながら手を握った。
小屋が全焼し、周囲が見渡せるように開けていた。
その時、突然の驟雨の如く、弓矢が降り注いできた。
とっさに、アテルイをかばった母親が矢面に立った。
母の背中には、針ネズミのように数十本の矢が突き刺さった。
「ゴホッ」
母が、血を吐いた。
「カアッ!」
アテルイは、母親にしっかりと抱かれたまま叫んだ。
「アテルイ…」
「…カア」
「アテルイ……これがらぁ、一人だじゃ…強ぐ……生ぎろ…」
母は最後の力を振り絞りながら、そう言葉を残して息をひきとった。
「カア─ッッッ!」
アテルイの絶叫を聞きつけた斥候兵が、小屋趾の様子を見にやって来た。
アテルイは、覆い被さった母親の亡骸を見捨てられず、傷心のあまり身動き出
来ないでそこにいた。
頼みの剣は、手元から離れていた。
兵の一人が、槍をアテルイの顔のそばに、グサリと突き立てた。
アテルイの右頬には槍の先がかすかに触り、血が流れた。
「うッ」
思わず、アテルイが呻いた。
「フフ…まだ、生きてるぞ。こいつ…」
兵が、言った。
「変わった剣だ」
別の兵が、アテルイの剣を取り上げて言った。
「おい! 顔を上げろ」
アテルイの顔が、槍で叩かれた。
「ご覧下さい。珍しい獲物です」
兵は、背後にいた斥候隊長に言った。
「うむ。紀古佐美将軍に報告だ」
隊長が、不思議な形をした剣を手に取って見た。
時は、延暦七年(788)の事であった。
二 モレ
伊治城。
中央政府の命を受けた、蝦夷討伐の前線基地である。
古代史上における〝蝦夷征伐〟は、どういう意味をもっていただろうか?
農業が主産業であった古代において、関東から東北地方へ広がる国土は、国家
支配者にとって必要な土地であり領土と化したい地域であった。
中央貴族や国司には、国土ばかりではなく、陸奥国に無限にあるとも思われた、
馬・奴婢・金なども手に入れたかったに違いない。
だが、そこには蝦夷と呼ばれる、極めて強靭な先住民が住んでいた。
従って、支配者達は、その蝦夷をどのようにして征服するかが大きな問題であ
った。
東北地方は、日本国家の成立以後〝みちのく〟と呼ばれ、道の奥すなわち辺境
の地とされて、また近代国家が成立した時にも、〝白川以北、一山百文〟と軽蔑
されてきた。
特に岩手は、奈良・平安時代に中央政府の軍事征服に抗戦した歴史もあって、
それが後々においても、開発が遅れてきた一因でもある。
そんな動乱の時代に、アテルイは生まれ育っていた。
「うッ」
アテルイは、巖穴牢でビシッという鋭い音と激痛の中にいた。
熊のような大男が、両手足を鎖で繋がれたアテルイの背中に、馬用の鞭で繰り
返し打ちつけていたのだった。
「こいつを、どこで手に入れた!」
この年、征東大使に任命された紀古佐美は、アテルイが所持していた剣につい
て問い質した。
城に常駐する刀工によると、特殊な製法の剣らしかった。
空気を切り裂くような風切り音の後に、ビシッという肉を叩きつける音が響い
た。
「強情な餓鬼だ」
アテルイは、ひたすら責め苦に耐え抜いた。
「この剣は、ヒヒイロカネという永久に錆びない鋼で出来ている。そして、蝦夷
の中でも秘宝と謳われたこの剣を一体、どこで手に入れたのだ」
女に好かれそうな京風な細面の顔立ちの中に、強い残虐性を宿した紀古佐美が、
血管に青筋を立てて言った。
噂には聞いていた深密秘奥の剣が、ここに実在していたのだ。
ビシッ、ビシッと、鞭がしなってアテルイを打ち続けた。
アテルイは、余りの激痛に気を失った。
熊男が、アテルイの眼を覚まそうと桶の水をぶっかけた。
ぼんやりと、アテルイの意識が戻った。
再び、鞭がしなった。
また、すぐにアテルイは、気を失った。
熊男が桶を取ると、中の水は空だった。
「それを、よこせ」
アテルイが拷問を受けている現場に、偶然通りかかった年端もいかない下女を
紀古佐美がつかまえた。
そして、その運んで来た飲み水用の桶を乱暴にぶん取った。
中を仕切る垂れ幕の隙間から、チラリとアテルイの姿が下女の瞳に映った。
ほんの一瞬、下女とアテルイの視線が熱く絡み合った。
地底湖の水のように、どこまでも澄んだ瞳に、鋭さと優しさを兼ね備えたその
アテルイの眼差しに、下女は魅かれる何かを強く感じていた。
バシャーと水をぶちまける音に続いて、ビシッ、ビシッという鞭で叩く音が聞
こえた。
下女は、中で行われている恐ろしい出来事を想像してみた。
自分とさほど年齢の違わない男の子が、一体何をして、あんなに責められるの
だろうかと……
いでたちから察すると、同じ土地の者のようだった。
下女は、言い知れぬ感情を憶えたままその場を立ち去った。
城に松明が灯された。
漆黒の闇夜に、北の星座が宝石を散りばめたように輝いていた。
北斗七星が、真上に移動した頃だった。
捕虜を監視する衛兵が居眠りを始めているのを見計らい、下女はアテルイの幽
閉されている牢の閂を静かに外した。
そっと忍び寄るように中に入った下女は、真っ暗な洞穴で眼を凝らした。
暗闇の中で、下女の眼が全身傷ついて、グッタリとしているアテルイの姿を見
つけた。
下女は、ゆっくりと足音をたてないように、アテルイに近付いた。
アテルイの四肢は、鎖で柱に繋がれたまま放置されていた。
仮に、アテルイが凶暴な猛獣のような者だとしても、繋がれていれば安心であ
る。
そう思い、下女はそっと、アテルイの額に手を触れた。熱が高かった。
あれだけの鞭を浴びれば、当然だった。
まだ、寝顔にあどけなさを残す少年が、これほどの罰を受けるほどの罪を犯し
たとは、到底下女には信じられなかった。
アテルイは、拷問による疲労のために、ピクリとも動かない。
下女は持って来た膏薬を、ミミズ腫れしたアテルイの背中に塗り込み、アテル
イの鼻をつまんで熱冷ましの薬を口移しで飲ませた。
そして、衛兵に気付かれない間に、下女はその洞穴を出て行った。
朝靄と一緒に、辺りが白んできた。
夜明けと共に、アテルイに対する責め苦が再開された。
その日も、アテルイは紀古佐美の執拗な拷問に耐え、ヒヒイロカネで作られた
剣に関する事を一言も発しなかった。
「あの強情な小僧も、これまでか。今日、喋らなかったら、明日は処刑だ。賭け
金、用意しておけ」
野営地では、兵達が雑談していた。
「まだ、負けと決まったわけじゃないぞ」
そんな兵達の言葉に、下女はハッとして水汲みの手を止めた。
満天に天の川が、美しく流れていた。
下女は、今夜もアテルイのもとを訪れた。
昨晩と同様に、下女がそっとアテルイの額に手を触れた時だった。
眠り込んでいるはずのアテルイの手が、下女の手首をつかみ返した。
「ッ?」
ハッとして声を上げそうになった下女の口を、アテルイの掌が塞いだ。
アテルイは、右手の人差し指を下女の唇に持っていき、シーッと小さく言った。
そして、下女が持って来たナタを見た。
下女は、アテルイを助けるために、自らの危険を顧みずにやって来たのだった。
下女が、ナタをアテルイの自由を束縛している鎖に、消音のために水をタップ
リと染み込ませた布を当てて振り下ろした。
鈍い音が、周囲に洩れた。
が、一度くらいでは、なまくらなナタでは鎖を切る事が出来なかった。
年端もいかない女の細腕では、なおさらである。
下女は、繰り返し何度もナタを振り下ろした。
さすがに、その音に居眠りをしていた衛兵も眼を覚ましてしまった。
衛兵は、表のかがり火を小分けして、洞穴の様子を見にやって来た。
衛兵のかざした炎に、アテルイと下女の二人が映し出された。
「何をしてるッ!」
衛兵は、腰の刀を抜刀しながら詰問した。
下女は見つかったと思い、巻いてある布を取り払って、渾身の力を振り絞って
ナタを振り下ろした。
衛兵の刀が眼前に迫った正にその時、手鎖がようやく切れた。
その瞬間、アテルイは自由になった手で、足首に繋がれた鎖にナタを振り下ろ
した。
一撃で足鎖は切れ、そのナタを衛兵の持っているかがり火に向かって投げた。
かがり火が消され、辺りが真っ暗になった時、衛兵のみぞおちが突かれて首に
手刀が打たれた。
「うッ…」
暗闇の中、衛兵の呻き声が一瞬した後、再び洞穴に沈黙が流れた。
「ありがとう。俺、アテルイ」
アテルイは、下女の手をそっと握って言った。
「アテルイ…」
下女は、アテルイの手を控え目に握り返して呟いた。
「そう。キミは?」
アテルイが、質問した。
「モレ…それより、早く逃げないと、明日…殺されるわ……」
「…モレ、か…」
モレという名の少女は、アテルイを外に引っ張った。
アテルイは、刀ではなく動き易いナタを拾って、洞穴を用心深く出る事にした。
「夜明け前に、なるべく城から離れないと…」
モレが、心配そうに言った。
「うん。でも、大切な物を取り返さなくちゃいけない」
アテルイが、遠くを見つめながら答えた。
「何のこと」
「ここの親玉がいる場所、分かるかい?」
「ええ。まさか、そこに!」
モレは、アテルイの言葉に有無を言わさぬ強い決意めいた響きを感じた。
紀古佐美の寝所は、周囲に門番が常駐しており、警戒厳重であった。
しかし、フクロウのように夜目の利くアテルイは、背後から門番にそっと近づ
くとその口を塞いでナタで頭を殴って気絶させた。
そして、かがり火越しに遠くの草むらに身を潜めているモレに手を振った。
アテルイは、征東大使の部屋に猫のように、物音一つ立てずに入って行った。
そこには、アテルイを散々に拷問した熊男が護衛として、寝ずの番をしていた。
この熊男は、頭が働かない代わりに体力だけは人一倍あったので、そこに立て
と命令されれば、三日三晩でもウドの大木の如く立ち続ける事が出来た。
「おまえ、どうして!」
ウドの大木には、巖穴牢に繋がれていたはずの小僧がどうしてここにいるのか、
その猿ほどの脳味噌では合点がいかなかった。
熊男は、取りあえず大きな偃月刀を抜いた。
アテルイも、ナタを構えた。熊男の馬鹿力で振り下ろされた偃月刀は、アテル
イが手にしたナタを、砕くように弾いた。
丸腰のアテルイに対して、偃月刀がギロチンのように垂直に襲ってきた。
それをアテルイが機敏にかわしたので、大きく空振りをした偃月刀は、床に突
き刺さってしまった。
「何の騒ぎだ!」
騒ぎを聞きつけた紀古佐美が、寝床から起きて来た。
「キサマか」
紀古佐美は、アテルイを見て憎々しげに言った。
「夜が明けてからと思ったが、今、ここで成敗してくれる!」
紀古佐美が、寝間着姿のまま刀を構えた。
苦労して床から偃月刀を抜いた熊男が、二人の間を割って入るように、再びア
テルイに斬りかかった。
アテルイは、何の苦もなくサッと避けた。
その拍子に、紀古佐美の寝床に入り込んでしまう。
枕元の後ろに、天竺の経典が書かれた掛け軸があり、そのそばにあのヒヒイロ
カネの剣が置かれてあった。
「それを、奴に渡すなッ」
紀古佐美は、焦りの表情を浮かべて言った。
熊男は、執拗にアテルイを追い回した。
アテルイは、鷹が獲物を狙うような俊敏な動きで、剣を手に取った。
水平に偃月刀を振り回す熊男の両腕を、アテルイは取り戻した剣でスパッと斬
った。
偃月刀が、熊男の両手首ごと床に落ちる。
ヒヒイロカネの剣を持ったアテルイは、まるで水を得た魚のようだった。
その動きは、舞を踊るかのように軽やかでさえある。
「やはり、ただの水飲みエミシではないな、お前…」
紀古佐美は、真剣な表情で言った。
「敵襲だ。出会え!」
紀古佐美の号令に、辺りの警備兵が寝所に駆けつけた。
モレは、遠巻きに見ながら心配していた。
紀古佐美の寝所の出入口に、大勢の兵達が集まって来るのが見えるからだった。
「観念しろ。袋のネズミぞ」
紀古佐美が、勝ち誇ったような物言いをした。
アテルイは、数十人の兵に取り囲まれていた。
しかし、全く動ずる事なく、アテルイは無意識にギュッと剣の柄を握り直した。
その時、目映い光が剣から発光し出した。
「そ、その光り物は……」
とっさに、紀古佐美が一人だけその場から離れた。
「うわあぁぁぁ」
剣の光が増幅し、周囲にいた警備兵が悲鳴を上げながら全て蒸発してしまった
のだ。
モレは、寝所が爆発するように吹き飛ぶ様子を、アテルイがそれに巻き込まれ
ていないかと安否を気遣いながら離れた外で眺めていた。
三 端境
城内は、蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。
「水汲みの女が、一人足りないとの事です」
寝所から遠くを警備していた部下が、報告した。
「手引きしたのは、その女なのだな」
紀古佐美が、自問自答するように答えた。
「奴を追えッ!」
九死に一生を得た紀古佐美は、配下の者に怒鳴った。
直ちに、千人余りの兵が掻き集められた。
「あの小僧と、それを手助けした女を捕らえろ。殺しても構わぬ。但し、奴の剣
だけは押さえるのだ」
間近でヒヒイロカネの魔力に魅せられた紀古佐美は、血気にはやっていた。
アテルイは、全身傷だらけで汚泥にまみれた母の骸をきれいに拭いて布にくる
んだ。
生前、母が大切にしていた勾玉の首飾りを見つけ出し、形見とした。
モレがアテルイの母親の顔に、死に化粧を施した。
残雪を掻き分けて埋葬し、二人は祈った。
そして、静かにアテルイは、モレを連れて住み慣れた母との想い出の場所を後
にした。
暗闇の岩陰から同族の蝦夷が、密かにこの光景を覗いていた…
急遽、編成された紀古佐美率いる朝廷軍千人の兵達は、山狩りに駆り出された。
「将軍! こやつが奴等を見たと」
部下が、一人の夷俘を連れて来た。
当時、蝦夷は順化の程度によって夷俘、より恭順の姿勢が高ければ俘囚と呼ば
れていた。
その夷俘は、褒美欲しさにアテルイとモレの所在を売りに来たのであった。
「奴の行きそうな場所に、案内せい。褒美は、その後だ」
「ヤマサヘッタベドモ。ユギッコクルガモシンネエ、アブネジャ」
天を仰ぎながら夷俘は、地元の言葉で話した。
「山に逃げたと思う。だが、雪になりそうなので、山は危ないと言っております」
気を利かせて、部下が通訳した。
自然と共に生きる蝦夷には、微妙な天候を読む才が備わっていた。
「多少の雪など構わぬ。今日中に、決着を付ける」
紀古佐美は、馬に乗りながら己れが今吐いた言葉にハッとした。
以前にも同じような経験をした、既視感を覚えたのだ。
が、単なる偶然と自身を納得させて、その不安を拭い去った。
遠景の尾根に、朝日が昇ってきていた。
みちのくの鬱蒼とした森の中で、獣しか通らないケモノ道と呼ばれる道なき道
を、アテルイとモレが進んでいた。
二人の頭上に、大きな蛇が先の割れた舌を出しながら木の枝に、とぐろを巻い
て現れた。
アテルイが、パッと蛇の頭をつかんだ。
丸い頭と赤い斑紋が特徴のアオダイショウで、毒蛇ではないのですぐに放して
やった。
山育ちのアテルイには、食べるのと身を守る事以外は、無益な殺生をしないと
いう不文律があったのだ。
それは、山の民として生きる上では、当然の事だった。
山・川・動植物という自然に、人は生かされているという共生思想が蝦夷人に
はあるのだ。
トドマツやダケカンバといった、高山の原生林が道を阻んだ。
「行く当て、あるの…」
モレが、辺りの深い森を見て心配げに聞いた。
「……そんなモノ、ない…」
アテルイには、行く当てどころか、生きる目的すら見失う寸前だった。
それをモレの存在によって、得る事ができたのである。
二人は、険しい断崖から激流の落下する滝の上に抜けていた。
「降りるの?」
モレが聞いた。
「万が一、追手が迫っていても、ここを抜けたとは思わないだろうからね」
アテルイは、近くの木に絡まった蔓を伸ばして、その先にぶら下がるように滝
のそばを降りながら言った。
「ついて来て」
「……」
モレは、滝壷にドッと落ちる流水を見ながら不安げな顔で蔓をつかんだ。
「下を見ないでッ」
アテルイは、足場を確保しながらモレを守るようにして、ゆっくりと降りて行
く。
「あッ」
その時だった。
モレが、足を滑らせて蔓を放してしまったのだ。
モレの下半身が、滝の流れにさらわれていく。
アテルイは、とっさにモレの手首をつかんだ。
が、流水の勢いに押されて、握力が緩んでいく。
そして、ついに二人の手が空を切った。
一瞬にして、モレの身体が流れに消えた。
「モレ─ッッツ!」
アテルイは、モレを追って滝壷に飛び込んだ。
滝壷には、その底が見えないくらいの物凄い勢いで、激流が落下している。
流れの澱んだ岩の上を、サワガニが登っていた。
その岩に、モレを抱えるようにして、アテルイが川から這い上がって来た。
両岸を囲む巨大な岩盤が長い年月の川の侵食によって鋸状になり、奇岩怪石の
連なった厳美渓と呼ばれる渓谷に、二人は流れ着いていた。
「モレ!」
アテルイは、モレの顔を叩いた。
しかし、無反応だ。今度は、心臓に耳を当ててみた。
「ッ?」
動いていなかった。
アテルイは、すぐにモレの心臓を両手で押し、その口に自らの息を吹き込んだ。
「ごほッ、ごほッ」
モレが、むせびながら息を吹き返した。
「モレ」
「…アテルイ」
二人は、生死を確認しあった。
時折、水面にイワナが飛び跳ねた。
アテルイは、よく乾いた落ち葉や木々をかき集めた。
その細木を、錐のように両手で擦り合わせる。
次第に、細木の先が摩擦熱によって、煙が出てくる。
頃合いを見計らって、細木の先をフウフウと吹く。
少しだけ赤くなった先を、乾燥したヨモギの葉に付ける。
その火種に、一生懸命に息を吹きかけて、他の葉っぱに引火させていく。
ようやく、小さな火が炎となって燃え広がる。
アテルイは、すばやく枯れ木を積んで、焚き火を起こした。
春とはいえ、雪解け水は身を切るように冷たい。
「急いで、濡れた物を乾かさないと、夜、凍え死ぬぞ」
そう言いながらアテルイは、着ている物を全て脱いだ。
モレも、恥じらいながら全裸になった。
二人は、見つめ合った。
アテルイが、モレを抱きしめた。
人里離れた奥深い山育ちのアテルイにとって、母親以外の女に触れるのは、ほ
とんど初めての事だった。
無論、性行為など未経験である。
オスとメスが、何をすれば子が産まれるというのは、発情期の山猿を見て知っ
てはいた。
だから、ヒトも猿のようにメスの尻に乗って交尾するのだと、アテルイは思っ
ていた。
それは、物凄く汚らわしい行為のように考えてもいた。
アテルイの脳裏に、そんな事がチラリとかすめる間もなく、モレが優しくアテ
ルイの剥き出しの欲情の象徴を自身の体内にいざなった。
そして、滝壷に落下する激流のように互いの身体を激しく交えて、愛情を確か
め合うのだった。
焚き火が、爆ぜた。身も心も温め合ったアテルイとモレの間に、ポッカリと気
恥ずかしい沈黙が流れた。
「…ごめんなさい……初めてじゃなくて……」
モレが、消え入りそうな声で呟いた。
「…………」
アテルイは、依然黙っていた。
「去年の秋に、京の兵隊に襲われて、ムラごと全滅したわ。男は殺され、女は手
込めに…その時、あたしも…………」
モレは、下を向いたまま悲しげに話した。
犯された末に、そのまま妊娠する女も多い中で、モレだけはその類まれな薬を
使う技によって、精子を殺菌させる生薬を染み込ませた布を事前に膣内に挿入す
る事で、最低限の自己防衛の避妊を施していたのだった。
凌辱された屈辱から何度も死を考えたが、それでは犬死だと思い直し、いつか
賊に復讐する機会をうかがっていたのだ。
容姿端麗なモレは、殺される事もなく下女として朝廷軍に使われていたその時、
アテルイと出会った。
「言わなくていいッ」
アテルイが、モレの言葉を制した。
それから、二人に長い沈黙が流れた。
焚き火が、燃え尽きそうになってきた。
「腹、減ったなあ…」
ポツリと、アテルイが言った。
「何か、探してくるわ」
モレは、立ち上がると服を着て森に向かった。
一人その場に残ったアテルイは、枯れ木を竿にして魚釣りを始めた。
釣り上げたヤマメやイワナを串焼きにしている最中に、モレが帰って来た。
「たくさん、採ってきたね」
アテルイは、モレが抱えきれないほど採取してきた、ワラビやキノコなどの山
菜類を見て言った。
「この辺は、毒草が少ないから楽だったわ。でも、これを煮るお鍋がないわ…」
モレが、落胆しながら言った。
「鍋か…」
アテルイは、ちょっと考えてから、ヒヒイロカネの剣を取り出した。
そして、近くの竹を伐採し、器用に竹の両節をうまく残して鍋を作った。
「木のお鍋じゃ、一緒に燃えちゃうよ」
モレが、当然のように言った。
「竹は、燃えにくいんだ」
そう言うと、アテルイは川の水を入れた竹鍋を火にかけた。
水が沸騰する頃を見計らって、モレが山菜をどっさりと入れた。
モレが手際よく料理をしている間に、アテルイは竹の枝で箸を作った。
焼き魚と山菜鍋の取り合わせで、二人は二昼夜ぶりの食事を摂ったのだった。
「そのキズ、痛いでしょう…」
モレが、アテルイの全身に刻まれた、鞭で打たれた生傷を見て言った。
「馬だったら、死んでるな」
アテルイの言葉に、モレは箸を置いて、採ってきた薬草を焼き石ですり潰し始
めた。
「ヨモギとドクダミを混ぜて、すり潰すとキズ薬になるの」
そう言いながら、モレは膏薬を作った。
「ちょっと、しみるけど」
モレは、アテルイの生傷に丁寧に塗り込んだ。
「ッ!」
キズにしみて、アテルイは思わず顔をしかめた。
「ゴマノハグサは熱冷ましになるし、ハシリドコロは痛み止めになるのよ」
その種類の薬草を指差して、モレは説明した。
「モレは、物知りだな」
「あたしは、ただの水汲み女だわ」
モレは、微笑みながら自嘲した。
煮炊きの煙が、森の隙間から空に洩れていった。
その匂いを、近くで嗅ぎつけたモノがいた。
髭モジャに覆われた鼻が、クンクンと鳴った。
丸太のような二の腕が、木の枝をブチ折りながら匂いのする方向へ一直線に進
んで行く。
大木のような脚が、歩くたびにその重い体重によって、土にめり込んでいる。
やがて、その赤い眼光に談笑するアテルイとモレが映った。
二人の背後に、全身毛むくじゃらの巨大な影が射した。
「ううゥ…」
この辺りに棲む山男が、鈍い唸り声を上げながら煮出しの山菜鍋を見てニヤリ
とした。
「アテルイ!」
先に気づいたのは、モレだった。
アテルイは、パッとヒヒイロカネの剣をつかんだ。
「…うゥ」
鍋に手を出そうとする山男の腕を、アテルイが剣の鞘越しにブッ叩いた。
「うを~ん」
山男は、その痛さに悲鳴を上げた。
アテルイが身構えて、剣の鞘を抜こうとした時だった。
「マデジャ。ソイヅァ、コノアダリノヤマオドゴダベ(待ちなさい。それは、こ
の辺りの山男だ)」
何処からともなく、杖を突いた小柄な仙人が現れたのだ。
「カラダデケェダゲデ、キィヨワケンダ。カンベンステヤレジャ(身体が大きい
だけで、気が小さいのだ。勘弁してやりなさい)」
能弁に話す仙人の後ろに隠れるようにして、山男がビクビクと脅えていた。
「お腹すいてたのね、はい」
モレは、山男に鍋と焼き魚を添えて差し出した。
山男は、遠慮がちにそれらを受け取り、一気に飲み食いした。
「ホイドグイスナ(ガツガツするな)」
仙人の注意も聞こえないらしく、山男は牛飲馬食の勢いで全てを平らげた。
「うほおー」
久しぶりに美味い物を食べた山男は、歓喜の唸りを発した。
「クッタラケエレ(食べたら帰りなさい)」
仙人は、そう言いながらアテルイの剣をジロリと見た。
「それは……ヒヒイロカネ…じゃな……」
アテルイは、この言葉に警戒して剣の柄を握り直した。
「トラネデバ。エエガラ、アドサツデコ(盗みやしないよ。いいから、ワシの後
をついて来なさい)」
そう言うと、仙人は踵を返した。
馬返し。
勾配が急にきつくなり、溶岩でゴツゴツした狭い斜面では、これ以上馬に乗っ
ては進めない区域に差しかかった。
夷俘の道案内を頼みに、蝦夷しか知らない獣道を通った。
深山に入山すると、行く手を阻むかのように大粒の雪が降ってきた。
馬も使えない遠く人里離れた山奥で、千人の朝廷軍は突然のどか雪に身動きが
取れなくなっていた。
「ユギデワガネデバ。オラ、エサケェル(雪では行く事はできない。俺は、家に
帰る)」
降雪に、夷俘がこれ以上行く事を拒んだ。
「うぎゃ~」
間髪を入れずに、紀古佐美が夷俘を斬殺した。
休み無しの強行軍による疲労困憊で、士気が下がっている兵達への見せしめも
兼ねていた。
四人の兵に担がせた輿に乗った紀古佐美は、焦燥の念に駆られるように山越え
を敢行した。
このまま、賊を野放しにすれば、朝廷軍が侮られる。
意地でも捕らえて、その威光を示せば、今後の蝦夷平定がやり易くなると思っ
ていた。
そして、蝦夷の秘剣とやらを帝に献上すれば、我が行く末も明るい。
「山小屋だ!」
斥候兵が、叫んだ。
断崖絶壁の突端にある、古びた一軒屋を発見した。
小屋の煙突から、焚き火の煙が洩れている。
そこだけは台風の目のように無風状態で、雪も無かった。
まるで、目に見えない何かに護られているようでもあった。
無謀にも満足な防寒具も持たず、急拵えの軽装で出兵した千人は、険しく慣れ
ぬ山道に途中で多くが脱落し、ここにいるのはその半数もいなかった。
が、三方を囲んでしまば、背後の崖からは逃れられない。
「奴は、あそこにいるはずだ」
残存する兵の数からも、戦局は我がほうが有利だと考えながら紀古佐美は、満
足げに言った。
兵達は膝まで積もった雪を漕ぐようにして、鈍重に進攻した。
「まさかな……」
紀古佐美は、初めて陸奥に赴任してきた副将軍時代の事を考えて因果を感じて
いた。
同様に、先々代の将軍から仕えている最古参の老兵が考えていた。
以前にも、このような状況があったと…
濛々と濃い霧が立ち込めて、周りは何も見えなかった。
アテルイとモレが案内されたのは、仙人の棲み家だった。
二人は、簡素な炭焼き小屋の中を見回した。
一冬を越したのであろう。部屋の片隅に、多量の炭と薪が山積みになって残っ
ていた。
仙人は、囲炉裏に薪をくべた。
やはり、霞を食べているのか、食べ物らしい物は何もない。
「その剣は、いにしえより迷い家から授かるという言い伝えがある」
仙人が土器に茶を注いで、二人に差し出しながら言った。
「マヨイガ…」
アテルイは、その初めて聞く不思議な語を復唱した。
「深い霧の中にあると云われる隠れ里の事じゃ。山で迷った正直者が、人影こそ
ないが、湯などが沸いたままの留守の家にたどり着く事がある。その家の物を持
ち出して帰ると、その者は生涯、富か力を得ると云う」
夜の静寂に、仙人の声だけが滔々と響いた。
「正直者は、黙って人の家の物を持ち出さないわ」
モレが、揚げ足を取った。
「モレの言う通りだ」
アテルイも賛同した。
「いずれ拾い物をして、それが縁で長者になる。マヨイガからの贈り物なのじゃ」
仙人は、茶をすすりながら答えた。
「ふーん」
アテルイが、生返事をした。
「マヨイガを知らずして、そのヒヒイロカネを、どこで手に入れた?」
仙人が、本題に入った。
「爺さんも、それを聞くのかい」
アテルイは、お前もそれを聞くのかといった、ウンザリしたような態度で言っ
た。
「前に見てから、十年以上経つかのぉ」
仙人は、そんな事は意に介さずに呟いた。
「俺の産まれた頃だ…」
アテルイが、仙人のその言葉に興味を示した。
「伊治公呰麻呂という若い長が、持っておったが…」
伊治公という役職名が示す通り、中央の命に従い伊治地方を守るという意味か
ら官職を与えられ服属した者であった。
「アザマロ…」
「初めは、ただ食うためだけに帰順する姿勢を示したが…〝夷を以って夷を征す〟
という戦略だと分かったのじゃろう……按察使を殺害し、多賀城に火を放って、
行方をくらました……京に服従した呰麻呂を裏切り者と呼ぶ輩も少なくなかった
からのう…」
そう言って仙人は、また茶をすすった。
「アザマロという人は、その後どうなったの?」
アテルイは、ある推測をして聞いた。
「自害したとも、殺されたとも言われるが……そうそう、そやつと身篭った女が
おってな。無事に育っておれば、ちょうど、お前ぐらいに成長しとるじゃろ」
「その女の人の名は?」
アテルイは、身を乗り出して言った。
もしかしたら、自分の両親の事ではないのかと思ったのだ。伊治公呰麻呂とは、
父ではないのかと…母は生前、父の事に関してはただ立派な人だったという以外、
口を濁していたのだ。
「分からぬ。呰麻呂ともども、行方知らずだ」
「そう…」
しかし、アテルイの期待する答えではなかった。
「気をつけろじゃ。ヒヒイロカネは、その力を一度使うたびに、一年寿命が縮む
と云われておるでな。外は雪が深い、今夜はここに泊まりなさい」
〝ぼおッ〟
と、急に囲炉裏の炭が爆ぜて燃え出した。
半刻ほどが経ったろうか、仙人は雪の中に踏み込まれないように、輪のような
形をしたカンジキを履き物に付けて一人、炭焼き小屋を出て行った。
「爺さん…」
もっと聞きたい事があるとの思いで、仙人を追うと、外は一面の銀世界だった。
春の大雪に吸い込まれるように、仙人は姿を消した。
濃霧のため分からなかったが、炭焼き小屋は切り立った断崖上の端に位置して
いた。
山小屋だけが、ポツンと雪景色の中にあった。
「ッ?」
アテルイは、周囲に異変を感じた。
天上では、鬼のような風神が大きな袋を使って、大風を吹かせていた。
連なった尾根から吹き降ろす雪降ろしで、吹雪いてきた。
「よく、見えないわ」
小屋から外を臨む、小窓を閉めながらモレが言った。
「いる。数百を超える数の息遣いを感じる」
アテルイは、即製の弓弦を作ると、薪を縦に細く割って切り、矢をたくさん拵
えながら答えた。
朝廷軍は火矢を準備しようとしたが、突風で火が点かないばかりか、放つ矢も
目先で落下して役に立たなかった。
雪を掻いて進軍路を作るが、踏み固められたそばから道は降りしきり大雪によ
って、元の木阿弥になった。
「力攻めだ。一気に押し込めッ」
紀古佐美の檄の下、百名の兵が前進するが、深雪に嵌まり足を取られて蟻地獄
のように沈んでいった。
そこに、小屋から矢が飛来して、次々に兵士達を狙撃してきた。
アテルイの強い膂力と、小屋側では風の抵抗が無かったため、まさに狙い撃ち
だった。
吹雪は激しさを増し、寒さで倒れる兵が続出した。
「全軍進めーッ。敵は、目の前のたった二人ぞ!」
動ける三百名の兵達が、まとめて小屋を目指した時だった。
炎の揺らめく薪が、崖の下に吸い込まれるように落下していく様子が見えた。
その数は、数十本にのぼっていた。
「将軍。奴は、薪を捨てています」
部下が、言った。
「止まれッ」
紀古佐美が、進軍を止めた。
薪が、投下されなくなった。
「前進ッ」
兵達が前に進むと、再び、火の点いた薪が投げられた。
「ええい。止まるのだ!」
紀古佐美は、敵の戦術を理解した。
攻め上れば、薪を全て処分した上、山小屋ごと焼失させるつもりである事を。
こちらを立ち往生させて、凍死させる作戦なのだ。
春とはいえ、夜の山頂付近の温度は氷点下になる。
「紀古佐美将軍! このままでは凍え死にして、全滅してしまいます」
悲痛な叫びで、部下が訴えた。
剣は、使えなかった。
迂闊に飛び出せば、視界が全くと言っていいほどに利かない状況では自殺行為
だ。
ヒヒイロカネの剣は、鬼・物の怪・妖怪・精霊や様々な死者の霊魂等を呼び寄
せる力がある事を、アテルイはまだこの時知る由も無かった。
モレは、アテルイの言われた通りに無心で、藁をよじって縄を紡いでいた。
この吹雪の中、前進さえさせなければ勝機はあった。
例え、千人の相手が一旦後退して態勢を立て直すとしても、野営する場所も無
ければ、暖を取る事さえままならない。
果敢に前進して来る猛者も数十名いたが、アテルイの正確無比な弓の的になる
だけであった。
野を駆ける鹿や猪といった獣を射て口を糊していたアテルイにとっては、朝廷
軍の兵など物の数では無い。
武装した賊はたった一人と侮り、矢から身を守る楯も持たずに山に入った兵達
は無惨な醜態をさらした。
アテルイは、一晩中弓矢を射続けた。
アテルイの影が拡大して向かい側の雲に、化け物のように映った。
「助けてくれッ」
昼夜の強行軍による疲労から朦朧とした意識の兵達は、雪男の幻影と勘違いし
て驚愕した。
恐怖に怯える者の脳裏には、雪女も現れて、手招きしながら死神のように疲弊
した兵達を死の淵へと追いやった。
反撃する戦意の萎えた朝廷軍の兵達は、眼前にある暖かい山小屋を前にして、
バタバタと寒さと飛来する矢のために倒れていった。
完全に、形勢は逆転していた。
紀古佐美は、苦肉の策として戦死や凍死者の骸を積み重ねて陣を敷き、風雪が
やむのを待つしか手が無かった。
身を寄せ合いながら生き残った朝廷軍の兵達は、携行していた火打ち石を使っ
て、死んだ兵士から剥いだ鎧を燃やして暖を取った。
一進一退の膠着状態のまま、夜明けを待った。
荒れた吹雪きが嘘のようにピタリとやんで、辺りが白んできた。
空が明るくなると、息をしている者より、凍死した兵のほうが断然に多い事が
判明した。
生きている兵の顔は皆、憔悴しきっていた。
「同じ過ちを……繰り返すとは…………」
紀古佐美は、この先に待ち受ける様を予想して呟いた。
老兵は、今はっきりと思い出していた。
アザマロの再来だと…
「いかん! 退けーッッ」
老兵は、越権行為と分かった上で自身の判断で思い切り叫んだ。
アテルイは、山小屋にある全ての炭と薪を集めて火を点け、モレを背負って縄
を伝い、崖を一気に谷底深く滑り降りた。
轟々と炭焼き小屋が、燃え出した。
昨夜とは一変して、春の陽光に風花が舞っていた。
しかし、陸奥の山は甘くない。人知を超えた自然界は、突然その牙を兇暴に剥
き出した。
ドドドォォォォ
と、地鳴りのような響きが轟いて、山小屋の火災で温められた高熱で表層雪崩
が誘発された。
雪崩は朝廷軍をアッと言う間に呑み込み、馬よりも早い物凄い勢いで、津波の
ように斜面を押し流していった。
モレを伴いながらも自然を読んで味方に付けたアテルイの策に、千人の朝廷軍
が一夜で全滅した。
さて、昨晩の仙人は、どうしたのだろうか。
本当に、ヒヒイロカネの剣の伝承者として、その資質があるのか否かを見極め
る目的でアテルイを試したのかもしれない。
時空に浮かぶ“マヨイガ”を経る事によって、ヒヒイロカネは神剣としての真
価を発揮するのだった。
四 火種
勿来の関。
東北と関東の境界である。〝蝦夷勿来(エミシよ、これより先に来るなかれ)〟
という意味から、この名がついたとされている。
上代においては、白河の関の異称とも云われた東国と陸奥の境界線であり、蝦
夷の侵入の防御施設であるその関所を、陸奥に赴任していた征東大使・紀古佐美
が数名の従者と共に西へと抜けて行った。
手勢の兵を失った紀古佐美は、早馬で城から遁走していた。
ほうほうの体で逃げ延びた紀古佐美一行は、ひたすら京を目指していたのだっ
た。
長岡京。
近辺の仏閣の境内には、桜が咲き乱れていた。
位の高い高官や、雅やかな十二単をまとった女御などを乗せた牛車が、ゆっく
りと大路を行き来している。
奈良時代の内裏では、椅子に座る生活様式だったので、動きやすい朝服が正装
衣として着られていた。
平安時代になると、床に直接座る形態に変化したので、座って見栄えのする十
二単という幾重にも重ね着して不必要に重い、機能的にはとても動きにくい着衣
が用いられるようになった。
源氏物語に代表される平安絵巻に現れる女達の美意識が、その後の京文化を彩
る事になる。
男が戦場で、鎧兜を身にまとうように、女は艶やかな長い黒髪と華麗な十二単
の甲冑で、宮中を生き抜いていたのかもしれない。
「朕の千名の兵が…一匹の蝦夷相手に、一日で全滅とな……恥を知れ!」
内裏では、桓武帝が蝦夷征伐について書かれてある巻物の報告書を読んでいた。
「輝く剣を持つ者か……で、どうしろと?」
帝は、かぶっている冠を動かさずに、巻物から眼だけを移動して言った。
「兵を、お預け下さい」
衣冠束帯をまとって正装した紀古佐美が、下座から物申した。
「遷都し直すのに、たいそうな入り用で、戦費の余裕などないが……よかろう。
その代わり、必ず平定し、陸奥の金と剣を奪って参れ」
「はッ。命に代えましても」
帝に対して、紀古佐美は即座に答えた。
「その言葉、しかと忘れるな」
帝は檜扇をパッと広げて、口もとを隠しながら静かに威圧した。
「…………」
紀古佐美は、背水の陣で臨む悲壮な覚悟の表情で黙していた。
京の巷においては、一人で千人の兵をやっつけたというエミシの噂で持ちきり
だった。
アテルイの名は、悪路王と発音されて人口に膾炙していった。
龍泉洞。
人目を避けるように、当ての無い逃避行を続けながら初夏を迎えた二人は、龍
が棲むと云われる周囲を高山に囲まれた鍾乳洞に入った。
松明をかざしながら真っ暗な坑道を進むと、兎のような長い耳を持つウサギコ
ウモリが群れをなして飛んできた。
一群が去った後、鍾乳石や石筍にぶつからないように気をつけて歩いた。
真っ暗な洞窟を闇雲に進んでいるわけでなかった。
アテルイには、花や鳥、風や月の動きで自然を読む力が備わっていた。
四季折々の中、北国の厳しい山奥で生きてきたからこそ、視覚・聴覚・嗅覚・
味覚・触覚の五感が研ぎ澄まされる。
危険を察知する能力は、現代人の数十倍も高い。
その昔、弱肉強食の食物連鎖の輪の中に、ヒトも入っていたのだ。
天敵無き頂点に立つ事を自覚したヒトは、同族のヒトに上下を作って従わせ、
自然からの恵みを当然のように乱獲し始めた時、自然界の調和が崩れ出した。
畏れを知らぬヒトの不幸は、ここから始まったのかもしれない。
モレはただ黙って、アテルイに付いて行った。
松明の炎が、風で流され出した。
「出口が近い」
抜けるような透明度の地底湖の冷たい水を飲みながら、アテルイが言った。
甲高いキジの声が、響いていた。
北上山系の山々を、三つ四つ抜けた頃だった。
二つ並んだ岩の上に、鴨居のように大石が乗せられた、考古学上ドルメンと呼
ばれる続石がある。
岩手の山岳信仰において、山の神社に見られる巨岩遺跡である。
その神社の祠の前に、アテルイとモレは並んで座っていた。
「不思議な謂われの剣ね」
モレが、アテルイの腰にある剣を見て言った。
「家のオシラサマに、納めてあったんだ…俺は、カアを守れなかった……でも、
モレは必ず守って見せる。この剣に誓って」
アテルイは、拳をギュッと握り締めた。
「オシラサマのある家は、由緒ある家系の印だわ。あなたには、その剣でやるべ
き事が、きっとあるのよ」
「やるべき事……」
アテルイは、ヒヒイロカネの剣をジッと見つめた。
「雨が、きそうね」
モレが、西の空に昇る入道雲を見て言った。
二人は、急いで下山した。頭の上の皿に水をたくわえた河童が、キュウリをか
じりながら小川の淵に帰っていった。
眼下に、小さな集落が見えてきた。ムラの子供達が、独楽を回して遊んでいた。
「オメダヂ、ミダゴドネ。ドゴノワラシャンドダ(お前たち、見たことのない顔
だ。どこから来た子供たちだ)」
二人がその集落に入ると、一人の子供が前に現れて詰問してきた。
「ヤマガラキタベ(山から来たな)」
「ヤマオドゴトヤマオナゴダジャ(山男と山女だ)」
「ンダンダ(そうだそうだ)」
一番幼い童が、年上の子供達の話に付和雷同した。
「キヅネトタヌギガ、バゲデデハッテキタガモスンネエジャ(狐と狸が、化けて
出て来たのかもしれないぞ)」
「ンダ。キヅネトタヌギダベ(そうだ。狐と狸に違いない)」
幼い童が、オウム返しに喋った。
「ワラスニハ、ニアワネモヂモノモッデラナ(子供には、似合わない物を持って
いるな)」
子供たちの中でも、年長の者がアテルイの剣を見て尋ねた。
「テングデネェノゲェ(天狗じゃないのか)」
二番目に年長の者が言った。
「ンダ。テングガモスンネ(そうだ。天狗かもしれない)」
相変わらず、幼い童が繰り返した。
「オメダヂ、ドッツダ(お前たち、どちらだ)?」
「シャルミリデモイワネバ、ムラサイレネド
(どうしても白状しないと、ムラには入れないぞ)」
「ンダ。イレネジャ(そうだ。入れないぞ)」
幼い童は、両腕を一杯に伸ばしてとおせんぼをした。
「マネッコスナ(真似ばかりするな)」
三番目に年長の者が、幼い童を小突いた。
「うわあああああああ~ん」
途端に、幼い童は大声を上げて泣き出した。
「ウルセド。ナシタ(うるさいぞ。どうした)?」
そこへ、威厳のある白髪のムラの長老が通りかかった。
「それは、ヒヒイロカネ」
長老は、アテルイの剣を見て叫んだ。
その時、空が急激に暗くなり、閃光が走った。
空の上から雷神が、太鼓を打ち鳴らして雷鳴を轟かせた。
「ゴロゴロサンダ(カミナリだ)!」
積乱雲がムラの真上を通過して、土砂降りの夕立が降り出してきた。
「ミナ、ヘソトラレッド。エサケエレ(みんな、臍を盗られるぞ。家に帰りなさ
い)」
長老が、童達に帰宅を促した。
アテルイとモレは、長老の家に連れて行かれた。
中では、長老に呼ばれたムラの主だった者達が、車座になっていた。
その中央で、アテルイが静かに、鞘から剣を抜いて見せた。
誰とはなしに、感嘆の声が上がった。
一人、長老だけが剣を見て、アテルイに平伏した。
長老の姿に倣い、回りの衆も慌てて平伏した。
土に染み込んだ雨の匂いが消える頃、空に七色の虹が上がっていた。
軒先では、モレが赤い櫛を差した幼児と綾取りをしている。
「この前の満月の晩に、ムラからザシキワラシが出て行くのを、イタコの婆さま
が見たと言うとった。何か、良からぬ事が、このムラに起こるに違いない」
長老は、上座にアテルイを座らせて言った。
「どういう事?」
アテルイが、聞いた。
「きっと、京の兵が襲って来る」
「山向こうのムラも先頃、焼き討ちにあったそうな」
モレは、自らの過去を思い出したように沈痛な表情をした。
「稲刈りを終えた、食糧が一杯の秋が危ない」
ムラの衆が、口々に不安を訴えた。
「ムラを守ってくれんかのう…」
長老が、アテルイをジッと見て懇願した。
「俺が?」
アテルイは自分の顔に、人差し指を当てるようにして言った。
「必要な物は、準備します」
長老の次に年長の者が、言った。
「お頼み申し上げます」
長老が頭を下げて言うと、回りの衆全ても真似た。
アテルイは、黙って頷くモレの顔を見ながら困惑した。
〝カナカナカナカナカナ〟
ムラの太い神木に張り付いたヒグラシが、激しく鳴いている。
まるまると肥えた馬と、こうべを垂れてみごとに育った黄金色の稲の田園風景
が広がっていた。
リンドウの青紫色の花が咲き乱れ、ナナカマドが紅葉して赤い実をつけていた。
アテルイとモレは、このムラで一夏を過ごし、季節は秋に移っていた。晴れて
いるのに、小雨が降っている日だった。
狐の面をかぶり、白装束の身なりをした行列が笛や太鼓のお囃子に合わせなが
ら山峡の道を歩いていた。
狐の嫁入りの儀式である。
アテルイは、母の形見である勾玉の首飾りをモレの首にかけた。
ヒスイの緑色が、モレの上気した顔に映えた。
秋風に吹かれたススキの穂が、月の光に反射してキラキラと輝く十六夜に、二
人は長老の媒酌の下で夫婦の契りを交わし、甘い蜜月を送っていた。
しかし、良い事ばかりが続くはずはなかった。
「ヒヒイロカネは、両刃の剣。できるだけ、使わないで欲しいの…」
モレは、アテルイを熊笹が密生する山に誘った折りにこう言った。
アテルイは、川に産卵のために溯上してきた鮭を捕まえたり、ヒヒイロカネの
鞘でイガ栗を落とし、両足を使って器用に剥き、その実を取り出して焼いて食べ
ていた。
モレには、謎の仙人が語った、ヒヒイロカネの力を一度使うたびに、一年寿命
が縮むという言葉が気になっていたのだった。
命を削るくらいなら、剣を捨てて欲しいとさえ考えた事もあったが、それは口
にはしなかった。
アテルイがこの剣を授かったのは、天の導きによるものだからだ。
天運ならば、それに従うしかない。
そして、自分がアテルイと出会ったのも、天運のなせる業であるとモレは思っ
た。
自分の使命は、アテルイを陰ながら支える事である。
産まれたのは別々でも、死ぬ時は一緒であり、この先ずっと自分は一人ではな
いと思うとモレは嬉しかった。
その時までは、アテルイの力になりたい。
そう考えながら、モレは毒々しいトリカブトをすり潰した。
その液体を塗り込んだ矢じりを付けた弓矢で、アテルイは鹿を射た。
鹿は、矢が命中すると同時に全身を痙攣させて息絶えてしまった。
モレは、死んだ鹿の肉から白くてねばねばした脂分や植物の種を搾り取った油
を集めた。
五 戦
延暦八年(789)。
中秋も過ぎ、秋も深まってくる頃だった。
勿来の関所を、無数の京の軍靴が通過して行った。
その集団は、次第に大きくなり、国府多賀城に終結して行った。
「全軍、進め─ッ!」
軍馬に跨った紀古佐美が、朝廷軍の旗印の下に進軍を命じた。
この号令によって、五万二千にも及ぶ大軍が、蝦夷征伐を敢行しようとしてい
た。
朝廷軍は、北上しながら行く先々で、北の先住民に対して残忍な略奪と蹂躙を
繰り広げて行った。
北海道のアイヌと東北の蝦夷の祖先は同民族という説もある中、津軽海峡を隔
てて両者は異なる進化を辿る事となるが、共に隷属される運命にあった。
食糧を奪い、女は犯し、男は奴隷にして付き従わない者は容赦無く殺害してい
った。
“えぞ”とは、アイヌの雅語・ユーカラにある“enchu”(エンチュ)から転
じたとされる。
また、古代エジプトのヒエログリフには生命を意味するアンクという語がある。
国境など明確化されていない時代に、言霊として伝わったのかもしれない。
語源のいずれにせよ、文字を持たないアイヌに対して、中央の人間が蔑称を込
めて呼んでいる事は、その当てた漢字が証明している。
蝦夷の蝦という字は、虫偏で成り立っており、夷は未開の人種という意味であ
る。
虫ケラのような野蛮人は、害虫として駆除すべき存在であり、即ち同じ人間と
して見ていない、思い上がった差別意識がうかがえる。
植民地化において、そこにある物は全て戦利品であり、現地調達によって戦時
維持費用を賄うのは当然の考えであった。
この思想は、後の秀吉による朝鮮出兵や今なお顕在化している、旧日本軍の侵
略戦争時の従軍慰安婦問題にも通じる植民地政策である。
未曾有の大軍で押し寄せて来た朝廷軍の報せは、各ムラにたちまち伝わった。
「大変じゃーッ」
ムラの外れから、アテルイの属するムラの若者が叫びながら走って来た。
男達は、長老の家に集まった。
「多賀城を出た大軍が、周辺のムラを襲撃して、衣川の先まで迫っている」
アテルイは、長老の横でムラ人達の話を聞いていた。
「やつらの通った跡は、苔も生えないそうだ」
「川を越えられたら、ここまで目と鼻の先だ」
ムラ人達は、動揺していた。
「祭壇に、ケサランパサランがあったぞよ」
そこに突然、巫女装束のイタコの婆さまが、タンポポの白い綿帽子のようなモ
ノを持って入って来た。
ケサランパサランとは、岩手に今も存在する生物かどうかもはっきりとしない、
謎の物体である。
オシロイを与えると成長するという、この不可思議な物体は、旧家のタンスの
隅などに偶然現れたりする。
ケサランパサランの出現により、吉凶を占ったりする風習もある。
「それは、吉報の印。天啓のある証拠」
長老が、言った。
「だども、大軍だぞ」
ムラの衆の一人が、心配げに呟いた。
「地の利はこちらにある。やつらは、わしらの事を木から降りられねえ猿くらい
に思うて、油断しておるはずじゃ。この時のために、他のムラにも声をかけてお
る」
長老は、檄を飛ばした。
「それに、こっちには、ヒヒイロカネを持つ者がいる」
長老が、アテルイを見て自身ありげに言った。
「んだな」
「やるべ」
「やつらを、迎え撃つべ」
ムラの衆の結束に、アテルイは口をキッと結んで立ち上がった。
日高見川。
後に、北上川と呼ばれる東北随一の流量を誇る河川である。
「全軍、一時停止ッ」
その下流域で、紀古佐美が馬を止めて言った。
後続に、一時停止の伝令が伝えられた。
前方を流れるこの大河が、紀古佐美以下、五万二千余の軍勢を阻んでいた。
「第一軍は川の東に行き、江刺の方へ進み、再び西に渡る。第二・第三軍は、衣
川を渡ってまっすぐ進み、第一軍と合流し、胆沢の蝦夷を挟み撃ちにする」
紀古佐美は、各軍の長に向かって軍略を説明した。
「全軍、進撃開始!」
紀古佐美は、馬上から鞭を前に向けながら号令した。
「進め─ッ」
第一軍隊長の下、先発隊が、北上川を東に沿って進んで行った。
「行くぞ」
第二軍隊長が、叫んだ。
「二軍に続けッ!」
第三軍隊長が、第二軍の後続に入った。
第二・第三合同軍が、衣川に向かって平野を直進した。
第一軍は、日高見川を迂回するように、山岳地帯に入って行った。
崖の上から、駿馬に跨ったアテルイがそっとこれを見下ろしていた。
モレの調合した染料が塗られたアテルイの顔と身体は、周囲の木々を覆う草む
らに溶け込んで、遠目にはその存在が判別不能だった。
アテルイは、敵との十分な間合いを計った上で、従えた蝦夷の仲間達に手を振
った。
アテルイの合図の後、眼下の第一軍に対して、テコを使用しながら岩の塊を次
々に落とした。
行く手を阻まれた第一軍に、全身に木の枝や葉を付け、顔料と共に迷彩を施し
た蝦夷の百姓達は、一斉に弓矢を放った。
まさに、その戦法は遊撃戦である。
腕や脚に当たっただけなのに、第一軍の兵士達が、バタバタと倒れて行った。
「毒矢だッ」
第一軍の兵の一人が、叫んだ。
モレがトリカブトから抽出して、量産化した毒を矢じりに塗付した物だった。
「何ッ。うわッ」
下がろうとする第一軍の背後からも、巨大な岩塊が落下してきた。
退路を絶たれた第一軍隊長は、その岩に押し潰されて圧死した。
これを見てアテルイは、ムササビのように木から木へ乗り移った。
アテルイは、主要なブナの木に刻印された、不思議な記号と文字の組み合わさ
れた森の近道を示す“木印”と呼ばれる誘導地図に従って、森を最短距離で抜け
て行く。
衣川の流れ近くに、目指す日高見の南に位置する巣伏のムラがあった。
紀古佐美は、第二・第三合同軍を率いて、川を渡ろうとしていた。
胆沢地方に入るには、この川を越えなければならなかった。
なぜ、紀古佐美が胆沢にこだわるかと言えば、ここの蝦夷がもっとも頑強に、
京に対して敵意を抱いていたからだった。
胆沢さえ叩けば、他の蝦夷は降伏するはずだった。
ドッドド
ドドンド
ドドンド
ドドン
対岸から地鳴りのような太鼓の音が、聞こえてきた。
獅子の面をかぶった異様な姿の者達が、腹に乗せた太鼓を叩きながら踊って現
れた。
その昔、猟師の夫が放つ矢から鹿を庇って亡くなった妻の墓を、その命を助け
てもらった御礼に、八頭の鹿が柳の枝を咥えて回って感謝の意を示した。
以後、鹿の姿に感動した夫が、妻の供養のために踊った鹿踊りと伝えられる神
楽であった。
ドッドド
ドドンド
ドドンド
ドドン
その数、およそ三百人…その音と姿に、紀古佐美軍は圧倒されていた。
「な、何をしておる。蝦夷どもを蹴散らすのだ!」
紀古佐美の軍勢が、川を渡り出した。
たちまち、蝦夷達が逃げ出した。
「見ろ。所詮、こけおどしだ。敵は、こちらの軍勢に恐れをなして逃げ出したぞ。
追撃だ!」
大半の紀古佐美軍が川に入った所で、鹿の格好をした蝦夷達は、えびらから矢
を取り出して弓矢を一斉に射出した。
逃げ出したかに見せて、一度入水させる陽動作戦だったのである。
これも毒矢だったので、紀古佐美軍が次々に倒れて行った。
「ええい。敵の背後からの支援は、どうしたのだッ」
紀古佐美は、苛立った。
地の利は蝦夷側にあったので、朝廷軍の動きは大軍ゆえに鈍く、アテルイ軍の
遊撃戦に取っては有利に働いたのである。
紀古佐美軍は、それでも何とか川を渡り切った。
だが、今度は竹槍の突き立った落し穴が待っていた。
鋭く切った毒塗りの竹の先で、全身を突き刺される朝廷軍の兵達…手足が取れ
たり、はらわたを出してもがいて、朝廷軍はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図の様相
を呈していった。
これらの罠を逃れたある程度の兵は、これ以上の難を恐れて一塊ずつの小集団
になっていった。
物陰に隠れたモレが、火打ち石で火を点けた。
導火線状によって敷いた乾燥させたヨモギの葉が、走るように燃えていく。
その先には、モレが生成した多量の油の詰まった箱が、地面に埋めてあった。
辛うじて生き残った兵が逃げた所には、油が仕込まれていた。
その油に引火し、辺りは火の海になっていく。
火攻めに翻弄され、右往左往しながら川に戻って行く。
だがしかし、その対岸から別の蝦夷達が、毒矢を飛ばしてくる。
蝦夷による、挟み撃ちだった。
逃げ道を作り、鹿や猪を追い込む際の“巻狩り”と呼ばれる狩猟法である。
川下から背中に矢が突き刺さり、全身傷付いた伝令兵が、紀古佐美の前方で倒
れ込んだ。
「第一軍の兵か……」
紀古佐美は、第一軍が潰滅したと悟った。
「皇御軍として、敗けては帰れぬ。退がるな─ッ。退がってはならぬぞ!」
紀古佐美の言葉など無視して、兵達は我先にと敵前逃亡をして行く。
「貴様らッ。逆らう気か!」
紀古佐美は、自軍の兵士達を馬上から斬り殺した。
そして、馬ごと川を渡り出した。
顔から倒れたはずの伝令兵が、ムックリと起き上がり、鎧兜を脱ぎ捨てた。
「お、お前は?」
紀古佐美は、朝廷軍に偽装していた眼前の少年に覚えがあった。
「俺は、アテルイ」
アテルイは、毅然として言った。
「アテルイ……」
紀古佐美が、刀を振り上げた。
アテルイは、川岸に下がってヒヒイロカネの剣を構えた。
「ここは、俺達の土地だ」
アテルイは、そう言いながら剣を強く念じて握った。
伝家の宝刀が、抜かれた瞬間だった。
馬が何事かを察知し、いななきながら紀古佐美を振り落として遁走した。
アテルイが、剣の先を川面に付けようとした。
ウグイやカジカ等の魚が、一斉に下流に散っていった。
「や、やめろッ」
紀古佐美が、青ざめながら叫んだ。
剣が水に触れると、たちまち川が沸騰し出した。
「うわ~ッッッ」
紀古佐美本人は無論の事、その軍勢もろとも感電死してしまう。
死人の山が、川を滞りながら静かに流れていった。
奈良時代末期。
桓武帝の時代、藤原種継の事件に代表される熾烈な政権闘争により、次期帝候
補の相次ぐ変死・怪死が後を絶たなかった。
政治抗争の末の暗殺である。
暗殺と言っても、直接的暴力に訴えるものは少なく、謀略が主であった。
派閥間による組織的な恣意的人選の他に、中には陰陽師の呪術を用いて、呪い
殺すという物まであった。
それら志半ばで死んでいった御霊を清めるために、加持祈祷が行われた。
しかし、都に変事は絶えなかった。
桓武帝は、穢れた都に邪悪な霊の怨念が取り憑かれてしまっていると、本気で
考えていた。
夜毎に、百鬼夜行が跋扈するという噂を耳にした帝は、様々な御霊の報復を恐
れて、遷都する事を決断した。
都ごと方違えする事により、凶事を払拭するつもりだった。
それと、そういったシャーマニズムの他に、実は物質的な問題を平城京は抱え
ていたのだ。
途中、幾たびの遷都があったものの、足掛け七十年にも及ぶ奈良時代の都は、
貴族社会を浸透させたが、その繁栄の陰でそれを支える人口の集中が起きていた。
貴族達は、物質的に何の生産もしない代わり、その政治的支配力により、周辺
の農民から富を吸い上げる事で生活の基盤を築いていた。
特に、この時代は租・庸・調などの苛烈な年貢の徴収と天候不順が重なり、農
民に飢饉や疫病が蔓延した。
親が産まれた児の首を絞めて口減らしの間引きを行なったり、先に餓死した親
の死肉を生き残った子が、食い潰すという惨劇も起こっていたのである。
餓死寸前の者の上空には、ハゲタカの群れがその死を待つように飛んでいた。
辛うじて、生き長らえた農民達は、京に食を求めて集まって来た。
しかし、貴族達は自分達の生活を潤してくれていた飢えた貧民達を、冷酷にも
追い払った。
飢えた者は、野垂れ死に、累々と屍が横たわっていた。
やがて、その屍骸は腐り、蛆が涌き、猛烈な悪臭を放った。
都は、まさに人心共に腐っていたのである。
そして、延暦三年(784)。桓武帝は、長岡に遷都した。
巨費を投じて造営された長岡京ではあったが、その新しい都にも変事が続いた。
桓武帝は、再び遷都を考えた。
今度は、山城の国に新都を建設するという計画だった。
だが、都を移すとなると、巨費が入り用である。
長岡に都を移す際、各地方豪族の荘園から税を取り立てたばかりであった。
この上に増税となれば、荘園で暮らす農民に対して、乾いた雑巾をさらに絞る
ようなものである。
これ以上の増税は、農民の根絶と不平分子の蜂起を煽ぐようなものだった。
そこで、桓武帝は新たな植民地を求めたのである。
北にある広大な土地と作物と馬、そして、何よりも帝の興味を魅いたのが、無
尽蔵に眠る砂金だった。
問題は、最果ての地に存在する蝦夷人である。
他の地方諸国の民と違い、この北の先住民は、畏れ多くも中央政府に反抗して
きたのである。
時間のかかる蝦夷平定に、桓武帝は紀古佐美による軍の増援要求を飲んだ。
そして、蝦夷征伐に五万の兵を、その総大将の紀古佐美に授けて、こう宣旨を
述べた。
「坂東の安危この一挙にあり。将軍よくこれをつとめよ」
この蝦夷征伐作戦は、数の上からも絶対敗けるはずのない戦のはずだった。
その紀古佐美率いる朝廷軍が、敗北したのだ。
文字通り、北に敗けたのである。
それも、五万もの大軍が、たった一五〇〇余りのエミシに大敗したのだった。
桓武帝、いや、京は動揺した。
天皇を中心とする中央集権体制を確立しようとする京の思惑を、真っ向から対
立する勢力が北に存在するのだ。
一国二制度は、認める訳にはいかなかった。
それを認めてしまうと、いつ地方豪族が合従連衡して、京に反旗を翻すか計り
知れない。
延略十一年(792)になると、選抜した郡司などの子弟を兵部省に属させ、
健児という兵制を敷いて、蝦夷等の襲撃に対して諸国の関所や国府の警護に徴兵
した。
朝廷における危険因子を分散させ、早い段階で芽を摘んで、その力を削ぐ目的
も兼ねていたとも考えられる。
そういった数々の強引な手法が仇となり、まるで長岡から逃げるが如く延暦十
三年(794)には、内憂外患を払拭して平安楽土のような永遠の平和を具現す
るつもりで平安京に遷都した。
短期間に同じ天皇によって、二度も遷都をするのは異例の事であるが、その後、
この都が東京奠都を迎えるまで、帝都としては日本史上最長期間となった。
桓武帝は、征東大使に大伴弟麻呂、副使四名、軍監十六名、軍曹五十八名、総
勢約十万の大軍を北の戦に投入した。
副使の一人に、帝の縁戚関係にあった坂上田村麻呂の名もあった。
実は、桓武帝は渡来系の血、すなわち現在の朝鮮の血筋が入っていた。
例え、近親相姦になろうとも、純潔主義を守る皇族にあっては異例の事ではあ
るが、仏教の伝来により大陸との交易が盛んになるに従い、物流と同様に人間も
流入していたのである。
結果として、その血が混じった嫡子の一人が皇位継承権を得るというのは、自
然の道理だった。
桓武帝は、その出生の関係から同じ渡来系出身の坂上田村麻呂を推していた。
いずれは、それなりの地位に上げ、自己の派閥を守る役目を担わせるためだっ
た。
周囲の軋轢から、その表立った人事工作をためらっていたのだが、戦は良い機
会であった。
目覚ましい戦功を上げれば、大義名分ができるからだ。
桓武帝は、まず副使として北の戦地に赴任させる事を画策した。
副使であれば、戦況の成否に限らず、あまり責任を負わされない。
要は、地位を上げるための既成事実が欲しいのだ。
そのため、戦は好都合だった。
失敗して、左遷の憂き目を見ないように、桓武帝は十万という大兵力を準備し
た。
歴史的に見ても、鎌倉時代以前、一つの戦争にこれほどの軍が派兵されたのは
前代未聞の事である。
これ以上の大兵力投入は、源頼朝による奥州征伐時の二十万という軍勢である。
さらには、明治維新の際に帝を擁した薩長軍と奥羽列藩同盟による会津戦争等、
時代を隔てても、みちのくと中央との因縁めいたものを感じざるを得ない……
田村麻呂は、蝦夷については京の貴族等とは異なる考えを持っていた。
無知蒙昧な部族に、朝廷軍がなぜ負けたのかを。
陸奥で悪路王と仇名された、エミシの首長〝アテルイ〟の噂を耳にするにつけ、
強い関心を抱いていた。
蝦夷とは、謂われるような蛮族ではなく、我々と同じ知能を持ち、しかも組織
立った軍略を用いる術を持つ集団であると。
田村麻呂は、まず敵を知る事を考えた。
戦地に赴くのは、それからである。
戦略無くして、如何に戦えよう。
そして、ある男を自分の屋敷に呼んだ。
その男は顔中の酷い火傷の痕を隠すために、鉄で面のように作られた顔面を防
護する面頬という武具をかぶっていた。
「そちに、胆沢のアテルイ攻略の手立てを考えてもらいたい。今度は帝も本気ぞ。
陸奥に十万の兵を送り込む気だ。多くの民が巻添えになろうな」
「……」
男は、黙っていた。
「それを、防いでもらいたいのだ。帝に対して帰順の姿勢を示せば、和議となり
戦を終わらせる事になる」
「……」
「私は、仮面の下の焼け爛れる前の、そちの素性を知った上で話しておるのだ」
狩衣を着た田村麻呂はそう言うと、男の眼を見据えた。
同じ渡来系の血筋である桓武帝によって見出されているものの、その血筋ゆえ
に前政権時代には冷遇された経験から、言われ無き差別を受けるエミシに同情の
念もあって、現政権以前の乱については不問に付した。
が、従わぬ場合は断罪するつもりで取引した。
「…………」
「共に生きる道を探るためだ。協力してくれ」
京の人間にも対等に話しができる者がいる事を、この男は初めて知った。
田村麻呂は、この男を通じて蝦夷に入京を許したり、服属の意思のある族長に
は爵位を授けて様々な懐柔策を取った。
一子相伝で蝦夷の首長に授けられるという輝く剣を持つアテルイの呪術にも似
た、その霊力の呪縛から、人心を離反させる必要があった。
人は、神秘的な力に吸い寄せられ、それが集団化すると大きな権力となる。
まず、それを封じて削ぐ事に、この戦の勝敗の鍵がある。
田村麻呂は、直接的な戦闘を出来る限り避ける代わりに、領地等を約束する事
で、陸奥の支配権を拡げていった。
蝦夷社会を内部から崩し、十万の兵力で朝廷軍は陸奥を攻撃した。
後方支援の補給部隊の人数もあるので、実際に戦地で闘ったのはその三分の一
の勢力だったが、総勢十万という軍勢に怖れをなし、帝に恭順の意を表すエミシ
の族長達が続出した。
こうした中央政府の様々な籠絡に、蝦夷側にも足並みの乱れが生じて、一枚岩
の団結が徐々に崩壊していった。
盆地。
坂上田村麻呂率いる俘囚(服属した蝦夷)軍と、アテルイ蝦夷軍が対峙してい
た。
朝廷軍の先鋒隊が、正面から突入して来た。
アテルイは、平野での戦は好まなかった。
周囲を見渡せる平地は、数を頼んだ朝廷軍にとっては有利だからだ。
他のムラの助力を得られるという約束を信ずればこその作戦だった。
アテルイ軍は、果敢に討って出た。
アテルイは、帝軍を十分に引きつけて、奥に控える仲間に合図した。
挟撃の策のはずだったが、仲間は動こうとしなかった。
直接、アテルイに弓を引く事まではしなかったが、援軍する約束を破り、戦線
を離脱してアテルイを見殺しにしたのであった。
「族長達には、それぞれに爵位と土地の領有権を与える旨を伝えておろうな」
朝廷軍の陣所では、総大将の田村麻呂が戦況を見ていた。
「………」
側にいた鉄仮面の男は、無言だった。
アテルイと帝軍が戦っている間、援軍のはずの仲間が黙って戦列を離れて、そ
れぞれのムラの山に戻って行った。
「調略は成功したようだ。弓を!」
「それでは、先陣の味方にも当たってしまいます」
部下が、諌めた。
「味方だと。所詮は同族同士。構わぬ、放て」
田村麻呂の非情な命令に対して、鉄仮面の男は拳を握りしめていた。
弓隊から自軍に混じったアテルイ達に向けて、矢が一斉に射出された。
「突撃!」
田村麻呂の号令で、本隊がアテルイ達に襲い掛かった。
虚空に円を描くようにして、数千の矢が飛んできた。
「楯に隠れろッ!」
アテルイの指示に、数人が一塊になって陣形を作り、楯を三角形の屋根状にし
て防御した。
孤立したアテルイ軍に向って、降り注ぐように矢が落ちてきた。
凄まじい音を立てて楯に矢が突き刺さっていく。
楯の隙間から矢に当たり、一人が倒れた。
その三角の陣形が崩れ、矢継早に矢に当たってしまい、バタバタと倒れていく。
それを救おうとしてアテルイは、無謀にも飛び出した。
目の前で倒れる者を、性分として放ってはおけなかった。
結果、負傷した者を介抱していたアテルイは、逃げ遅れてしまった。
味方がいる戦場では、ヒヒイロカネは使えない。
かと言って、独り敵陣に向えば、矢面に立たされる。
帝軍の本隊が、迫って来ていた。
そんな危機的状況の中、単騎の馬が走って来た。
「乗れッ!」
馬上の若い男は、アテルイを拾い上げ、戦場を駆け抜ける。
陸奥の駿馬は、敵の矢よりも速かった。
山奥。
「どうやら、寝返りを打たれたようだな」
アテルイの窮地を救った男が、言った。
「助かったよ。名は?」
アテルイは、馬上の男に礼を言った。
「ツガル(東日流)から来たイカコだ」
若い男は、名乗った。
「ツガルとは、どこのムラだ」
アテルイが、聞いた。
「あの山々を斜めに越えて、十日ほど西に抜けた先に在る」
イカコは、遠くに見える奥羽山脈を指差しながら答えた。
「俺はアテルイだ」
「アテルイ……胆沢のか?」
アテルイは、少し警戒しながら頷いた。
この頃、アテルイの首には朝廷軍によって大層な賞金が賭けられていた。
自分を捕らえに来た賞金稼ぎの類かもしれないのだ。
「噂を聞いて、お前に会いに来た」
イカコの言葉に、アテルイは速度を落している馬から降りて身構えた。
目先の安住を求めて、どこに内応する者がいるとも限らない。
だが、よく考えてみると、自分を殺すつもりならとっくにできたはずだ。
「どうした!」
イカコが、馬を止めて言った。
アテルイは、イカコの眼をじっと見据えた上で、一緒に戦える仲間だと感じた。
延暦十六年(797)。
この年、坂上田村麻呂は、これまでの戦功により征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷
討伐の最高司令官となった。
田村麻呂は、約四年の歳月を費やして、蝦夷とは何たるかと徹底的に調べ上げ、
各地方の族長達の結束を骨抜きにしていった。
蝦夷は刀で人を斬るが、朝廷は策を用いて人を斬ったのである。
日高見国は、揺れていた。
アテルイはモレと共に、〝達谷の窟〟と呼ばれる山深い秘境の岩室に居を構え
ていた。
スズランに似た花の馬酔木が咲いていた。
そこは獣道さえ無く、地元の者でさえ容易に辿り着けない自然の要害だった。
その気配を感づかれる事無く、一人の男が忍び寄って来た。
「…イカコか…」
アテルイが、近付いて来た男に言った。
この頃、朝廷に寝返る蝦夷も多く、内通や暗殺防止のため、直接この洞窟を訪
れる事を許されたのは特に信用が厚い者と限られていた。
「また、策が漏れたようだ」
以前にアテルイの窮地を救い、以来絶対の信頼を置かれたイカコがアテルイに
報告した。
大切な事は、この腹心であるイカコに相談していた。
「なぜだ。なぜ、京に取り込まれる。ここは俺達の大地のはずだ」
声変わりをし、背丈も伸び、胸板も厚くなって、今や逞しい青年となったアテ
ルイが呟いた。
「我等の戦い方を知っている者が、敵の軍師にいると」
イカコが、言った。
「まさか、同族ではあるまいな」
「多賀城にいるらしい」
「そいつを殺らねば、なるまいな…」
アテルイが、答えた。
六 父
国府多賀城。
アテルイは、人目を忍ぶため嵐の夜を選び、イカコだけを伴って城内に潜入し
た。
さすがに、田村麻呂の所在はつかめなかった。
目的は、ただ一つ。
蝦夷から寝返った上に、田村麻呂の下で同族を攻撃している売国奴を倒す事で
ある。
帰順したとはいえ、俘囚の詰め所は生え抜きの帝軍からは離れた区画にあり、
また同族ゆえに潜り込み易かった。
豪雨と強風のため視界が悪いせいで、敵に見咎められる事も無く、アテルイは
一つの屋形に侵入した。
イカコを外で見張りに立たせ、サシでケリをつけるつもりだった。
そこには、まるで待ち侘びたかのように、落ち着き払った男が一人居た。
鉄仮面をかぶったその男は、突然乱入して来たアテルイに対して、動揺する事
無く相対した。
「胆沢のアテルイだ」
アテルイは、毅然として名乗った。
男は、鞘から刀を引き抜きざまに、アテルイに斬りかかった。
猫のような敏捷さで、アテルイが刀をかわしながらヒヒイロカネの剣を抜刀し
た。
ヒヒイロカネの剣を見て、男が不敵な笑みを浮かべたように見えた。
「…?」
アテルイは、不審に思いながらも仮面の男に刃を向けた。
その切っ先が男の顔面をかすめると、仮面が割れ、焼け爛れた異様な顔が現れ
た。
「ッ!」
アテルイは、焼け爛れたその男の顔にギョッとした。
同時に、自身と同じ匂いを感じた。
男は、おもむろに持っていた剣を床に捨てた。
そして、静かに念じた。
アテルイの手中にあるヒヒイロカネが鈍く光り始めた。
己以外の者に反応したヒヒイロカネの剣を見ながら、アテルイは言い知れぬ恐
怖を感じた。
その時、騒ぎを聞き付けた警備の者達が駆け付けて来た。気が動転したアテル
イは、その場を離れた。
訳も分からないイカコだったが、アテルイの後に続いた。
男が、吹き荒ぶ嵐の中に消えて行くアテルイを目で追った。
多賀城から逃走し、途中に隠しておいた馬で安全な地域に来た頃だった。
「なぜ、一息に斬らなかった」
イカコが、アテルイに質した。
「伊治公砦麻呂という者を、知っていよう」
アテルイが、言った。
「朝廷軍に対して、初めて反旗を翻して死んだという伝説の蝦夷」
「顔を変えて、今も生きているらしい」
「まさか! 奴がそうなのか?」
イカコは、信じられないという面持ちで言った。
「アザマロが敵となれば、手強い相手だ」
アテルイは、困惑げに答えた。
延暦二十年(801)。
朝廷軍は戦によって植民地を増やすが、エミシは守るだけでそれ以上得るモノ
はない。
エミシにとって戦は何も生まなかった。
それゆえ、朝廷側に寝返って所領を安堵される者が続出した。
坂上田村麻呂は、満を持して勝負に出た。
蝦夷最後の砦である胆沢に対して、大規模な掃討作戦を敢行した。
アテルイは、来る日も来る日も死力を尽くして戦った。
しかし、負けはしないものの決して一方的な勝ち戦でもなかった。
蝦夷軍と朝廷軍との戦いは長期化し、泥沼化の様相を呈していた。
味方の死傷者の数も戦の度に増え続け、蝦夷側にはいつしか、厭戦気分が生ま
れていた。
田村麻呂は、調略した蝦夷を巧みに利用して、もっとも頑強に抵抗を続ける胆
沢のアテルイ軍を孤立させていった。
白鳥が越冬のため、大陸から飛来していた。
北の山野が銀世界に覆われる間際まで、攻め続けた。
が、敵の将であるアテルイより冬将軍のほうが難儀であった。
もう一歩という所で、雪おこしに見舞われた。
雪に埋もれ、閉ざされた厳寒の北の冬で、戦を行うのは不可能である。
双方にとって、戦は年を越さざるを得なかった。
陸奥の季節に、アテルイは救われた。
〝この先、戦を続けていいものだろうか〟
アテルイは、悩んでいた。
長期化すればするほど仲間が死んで逝く。
翌年は山脈から吹き降ろされた冷たい偏東風“ヤマセ”のせいで、夏だという
のに寒冷で農作物がうまく育たず、不作により日高見地方は困窮していた。
アテルイは、できるだけヒヒイロカネの剣を使わないように戦った。
剣を念じて発光させると、その日を境に以前より疲れが残るようになり、実年
齢より歳を取った感覚になった。
剣を使わないと、戦は人もムラも時間も大量に浪費させた。
戦は、何も生まない。
ただ、人命と生活を破壊するだけだ。
朝廷軍によって焼き討ちにあい、灰となっている集落群の址が増えていった。
母を失った子供の姿があった。
「…これまで…だな……」
累々と山野に倒れている屍を見て、アテルイは呟いた。
その光景を自身の幼い頃の境遇に重ね合わせて、戦の意味を考えていた時だっ
た。
イカコが戦場でアザマロらしき者より預かったという坂上田村麻呂からの書状
を携えて、アテルイのもとを訪れた。
自らの署名が記してある、親書だった。
敵将が文を送ってくるのは、初めての事であった。
田村麻呂は、蝦夷に対して最大限の敬意を払っている証拠だった。
なぜなら、蝦夷についての都人の思想は、およそ文字など持たぬケモノという
無知さ加減である。
アテルイは、ゆっくりと読んだ後、腹心であるイカコに見せた。
「降伏…」
イカコが、呟いた。
「俺とモレの二人の身柄を条件に、胆沢への攻撃をさせないという」
アテルイが、隣にいるモレを見ながら言った。
「……」
モレは、沈痛な表情で俯いていた。
「罠だろう」
イカコが、言った。
「敵も焦れているのは確かだが、試してみる価値はあるかもしれない」
アテルイが、言った。
「これまでもそうだったように、あたしはあなたに付いて行きます」
モレが、決然として言った。
「俺とモレが、この土地にいる限り、戦は永遠に続く。それを終わらせる機会か
もしれん」
アテルイは、条件を飲む決意をした。
多賀城周辺には、万単位の警備兵が集まっていた。
北上川に沿って、アテルイは向かっていた。
アテルイは、モレの他に一騎当千の精鋭五〇〇人を従えていた。
イカコは、白旗を掲げている。
朝廷軍は、アテルイ一行を見守っていた。
「海を、見た事はあるか?」
東日流出身のイカコが、不意にアテルイに聞いた。
「ウ、ミ…」
アテルイには、意外な質問だった。
「おらのムラのツガルには、海がある。この川のずっと先は、海に続くと聞いて
いる」
イカコが、北上川を指差しながら説明した。
「海で舟を使えば、陸地を歩く何十倍もの速さで移動できる」
「馬より速いのか」
アテルイが、質した。
「帆に風を受けて、水の上を走るんだ。海を渡れば、ミヤコには三日で着ける」
イカコが、答えた。多賀城の門前に、到着した。
「世話になった。後は任せたぞ」
アテルイは、イカコの手を強く握った。
「案ずるな」
そう言いながらイカコは、アテルイとモレを送り出した。
五〇〇名の蝦夷達が、アテルイとモレに一斉に礼をした。
二人は、静かに城の中に入って行った。
平安京。
約一万人の役人を含めた十数万人を、この京は抱えていた。
坂上田村麻呂は、蝦夷征伐の大将軍として、大勢の都人に出迎えられて凱旋帰
国を果たし
た。
アテルイとモレは、降伏後共に陸奥から陸路で移送され、身柄を拘束されたま
ま一ヶ月を牢で過ごした。
その間、二人の処遇について議論された。
田村麻呂は、アテルイとモレに朝廷の温情を示し、恩赦を与えて蝦夷地を束ね
させた方が、今後の陸奥を統括するには得策であると主張した。
参議の多くは、逆賊悪路王アテルイと、その女モレを討つべしと唱えた。
モレを同罪とするは、その子孫をも根絶して、朝廷への遺恨を排除せよという
意見が大勢を占めたからだった。
朝議は長引いた末、田村麻呂は最後まで強く二人の助命嘆願をするが、朝廷の
威光を示すため、見せしめの処刑と決定された。
処刑地は都では縁起が悪いという理由から、裏鬼門である河内国が選ばれた。
新しき都を、獣のような蝦夷の血で汚したくないという考えが趨勢だった。
処刑の命が下ったので、田村麻呂は視点を変えて、ヒヒイロカネという秘剣の
奇蹟を試してみたい衝動にかられた。
田村麻呂は直接、柄を握ってみたが何の反応もせず、普通の剣だった。
剣を輝かせ、その力を発動させるには、何か特別な呪文のようなモノが必要ら
しかった。
例えば、陰陽道で使われる九字を切るような何かがないと……
それを確かめるべく、アテルイとその連れを試し斬りの人身御供に考えた。
斬首の刑に服すなら、残酷だが実験台として検体になってもらおう。
何事も起こらねば、ただの剣。
もしも、変事が起きるようなら、天皇以外に人智を超越したモノが、この世に
存在する事になる。
一つのクニに、二人の天皇は不要である。
朝廷が蝦夷を忌嫌い、いたずらに貶めて抹殺を謀る理由には、その根底に蝦夷
に対する畏敬の念がありはしないか。
己が信ずる神話を覆す、もう一つの異形のモノが、北に眠っていると。
通説では、蝦夷の祖は出雲地方から流れて来たと云われている。
出雲神話に代表されるように、日本のルーツを辿ると、現在の認識とは異なる
見方も厳然としてあるのだ。
その北の民の眠りを醒ませば、現体制を根本から否定され、逆に蝦夷のように
追われる立場になる。
朝廷は、それを知っていて、ひたすらその事実を闇に葬ろうとしているのでは
ないか。
朝廷に身を置く田村麻呂に取っては、その疑念を払拭する意味においても、ヒ
ヒイロカネの剣でアテルイを斬首しなければならなかった。
蝦夷平定の本当の理由を知るために、独断で決めたのだった。
河内国、杜山。
降るような蝉時雨の夏の暑い日だった。
血の色をした空の西日の陽射しが痛いほどだった。
おびただしい数のハゲタカの群れが、まるで獲物を待っているかのように上空
に飛来してきた。
蝦夷国で、悪路王〝アテルイ〟と呼ばれた男と連れの女が、今まさに斬首され
ようとしていた。
卑しい蝦夷の処刑は、怨念から悪霊となって取り憑かれないように、同族であ
る蝦夷が選任された。
〝夷を以って夷を征する〟、毒には毒をという発想であろう。
鉄仮面をかぶった男が、アテルイの前に進み出た。
男は面を外して、焼け爛れたその顔をアテルイに見せた。
「アザマロか…」
アテルイは、呟いた。
男の手には、ヒヒイロカネと呼ばれる蝦夷製の剣が握られていた。
アザマロと呼ばれた男は、連座したモレの首飾りを手に取って凝視した。
見覚えがあった。
男が、アテルイの背後に回った。
「■■■■■■」
不思議な呪文のような韻律を、アザマロが唱えた。
その音色に、ヒヒロイロカネの剣が呼応するように光り輝き出した。
ハゲタカが姿を消し、蝉の声がピタリと止んだ。
「ッ?」
アテルイは、唖然とした。
ヒヒイロカネが隣のモレの見つめる中、アテルイの首めがけて、振り上げられ
た時だった。
急に突風が、吹いてきた……アテルイは、確信した。
アザマロが父であると。
どっどど
どどうど
どどうど
どどう
風雲急を告げ、辺りが暗くなり、閃光が走ると同時に雷鳴が轟いた。
剣に落雷し、アザマロと共に処刑執行官達が、一瞬の間に蒸発してしまった。
刑場に繋がれていたはずの二人の姿も、そこから消えていた。
どっどど
どどうど
どどうど
どどう
七 海…そして出雲へ
「鬼のような怨霊となってミヤコにとどまる事を懸念して、二人は処刑後、その
亡骸を焼却処分にしたと伝わっているぞ」
山道を抜けた林に、イカコが準備しておいた一艘の帆を畳んだ舟を出しながら
言った。
裏をかいて、平安京のある山城の国を抜けて日本海側に出ていた。
「死んだと思われたほうが、都合が良い」
イカコに案内されたアテルイが答えた。
小高い丘を登りきると、そこは荒磯だった。
海猫が、一直線に翔んでいた。
「汐の匂いがするわ」
モレが、言った。水平線が円くなって見えている。
アテルイは、息を呑んだ。故郷の川とは比べ物にならない、その大きさに。
「これが、海……」
生まれて初めて見るその大海原に、アテルイは我を忘れて魅入った。
二人は、イカコを水先案内人として、小さな帆掛け舟で出帆した。
沖に出た頃、背びれの群れが海上に現れた。
「豚みたいなあの魚は、何だ?」
アテルイは、子供のようにはしゃぎながら言った。
「海豚と言って、犬のように頭が良いんだ」
イカコが、解説した。
「イルカは、この海の先に何があるか、知っているんだろうな……」
アテルイは、眼を遠くに移して言った。
「そうだ、海の向こうから伝わってきた、これをやる」
イカコが、粉末の入った包みをモレに手渡した。
「何?」
受け取りながらモレが言った。
「火を点けると爆発する。木炭と硫黄、それとこのクニでは手に入らない硝石と
かいうのが混ぜてあるらしい」
イカコとモレが話している間に、アテルイは海に飛び込んでいた。
「アテルイ!」
モレが、叫んだ。
イルカを追って潜ったまま浮き上がってこないアテルイを、イカコとモレは心
配した。
しばらくすると、アテルイが浮上してきた。
「プハー。しょっぺー」
アテルイは、舟に戻りながら言った。
「フフ」
モレが、嬉しそうに笑った。
「潮の流れに乗れれば、三日でおらのムラだ」
そう言ってイカコは、帆を揚げた。
帆の中心木には、ヒヒイロカネの剣がしっかりと括り付けられていた。
《我一人、命を賭してこのヒヒイロカネを最大限に念じ、ミヤコを灰燼に帰す事
も考えた》
アテルイは、アザマロの事を思い出していた。
自分を生かしてくれた父。命と引き替えに、自分を守ってくれた母。
《今度は、俺が守る番だ》
アテルイは、モレの肩を抱きながら思った。
《生きて、生きて、どこまでも生き抜いてやる。俺は、たとえ鬼と呼ばれようと
も、ミヤコの者共に、目に物見せてくれる》
そして、自分に誓った。
三人を乗せた船が夕陽の射す陰となって、洋上に溶け込んでいった。
海は、凪いでいた。
いつもは見える星も月も、この夜は姿を隠していた。
暗闇の大海原を、帆を畳んだ舟が一艘、浮かんでいる。
アテルイとモレは、寄り添うように船上で眠っていた。
舟底の中心に通った竜骨の上の喫水線に、水のはね返す音だけが響いていた。
ブクブクと、泡が舟の周りに上がってきた。
突然、打ち寄せる波の調子が変化した時だった。
「!」
イカコが、真っ先に異変に気が付いた。
アテルイも、カッと両眼を開いて目覚めた。
真っ暗で見えないが、その気配から舟の十倍はあろうかと思われる頭の丸い巨
大な化け物が、海上にせり上がってきたのだ。
「海坊主だ…」
イカコが、言った。
モレが目を覚ました時には、アテルイはヒヒイロカネの剣をつかんで、海の化
け物と対峙していた。
海坊主が、舟に襲いかかってきた。
アテルイは、鞘からヒヒイロカネの剣を抜き、海坊主の喉下の逆さ鱗をかすめ
て斬った。
海坊主は、怪音をさせながら海中に没した。
モレが、顔を強張らせて舟の縁につかまっていた。
空が、光った。
雷鳴が轟き、一瞬にして大シケの嵐となった。
海坊主の逆鱗に触れたからだった。
「女を…乗せたからかな……」
イカコが、ボソリと呟いた。
古来、山の奥深くや沖の海は、女人禁制と謂われていた。
女は、不浄の存在と定義付けられて、近づけてはならぬと信じられていた。
その禁を冒すと崇りがあると。暴風雨の中、舟は木の葉のように舞っていた。
イカコが、先に海に投げ出された。
「イカコ!」
叫ぶアテルイを、竜巻が舟ごと呑み込み、残された二人も海に放り出された。
海中でアテルイは、モレの手をつかんだ。
そして、着衣を固定している縄を解き、自身の左手首とモレの右手首をしっか
りと結わいた。
海坊主は、大渦を作って二人を引き離そうとした。
物凄い水流に、二人の身体が独楽のように回転しながらもまれていった。
一昼夜後、アテルイとモレの二人は、黄色い砂の広がる浜辺に打ち上げられて
いた。
月の出ない丑三つ時だった。
海上に点滅する火に、アテルイが目を覚まされた。
それはまるで、八代海の不知火のようだった。
「ッ?」
陸奥の墓地や沼等にも、夜に火の玉が空中で燃えている事がある。
死者の霊が現世にさ迷って見える所から人魂と呼ばれているが、海にも似たよ
うなモノがあるものだと、アテルイは思った。
傍らには、左手に繋がれたモレが横たわっていた。
舟も食料も無く、命からがらこの砂丘に漂着してきたのだった。
「モレ!」
アテルイは、起きあがってモレの身体を揺すった。
「う、う~ん」
モレが、唸りながら目覚めた。
「ケガは?」
「何とか、大丈夫みたい。アテルイは?」
「俺は何ともない」
ヒヒイロカネも無事に、腰に下がっていた。
「イカコ…あいつは?」
アテルイとモレは、周囲を見渡した。
だが、イカコの姿は無かった。
海上の反対側には、海風によって砂の上を吹いて出来た風紋の幾何学的な模様
が果てしなく続いた砂以外、何も見えなかった。
海の上にぼんやりと見える光を頼りに、はぐれたイカコを捜索したが、見つけ
る事ができずに途方に暮れた。
砂の中のあちこちに、二人を凝視する眼が点在していた。
「ッ?」
かなり多勢の呼吸音が、アテルイの耳に聞こえていた。
ザバーッと、砂塵を上げて砂の中から爬虫類のような異様な姿のモノどもが現
れた。
それはまるで、墓場の死霊のごとく涌いて出てきた。
指の先が鋭利な刃物のように鋭く、眼は小さいが口は耳まで裂けた砂丘に棲息
する夜行性の沙神だった。
獲物が迷い込んで来るまで、砂の中でじっと待っていたのだ。
アテルイは、ヒヒイロカネの剣を抜いた。
明滅する沖の光が剣に白色の煌きとなって反射しながら沙神の肉を焼き切り、
その緑色の血を蒸発させた。
「ギェブッ」
奇妙な悲鳴を上げながら沙神が、次々に倒れていく。
一人、また一人…あるモノは左目から口にかけて切り裂かれ、あるモノは腹を
えぐられて、血が湯水のように何の不思議もなく流された。
「アテルイ!」
別の沙神に捕らえられそうになったモレが、アテルイを呼んだ。
アテルイは、跳んだ。
アテルイの倍はあろうかと思われる上背の沙神の肩を踏み台にして、メスのよ
うな形をしたモノの斜め後ろに着地した瞬間、その顔を思わず見入った。
メスだと感じたのは、胸のあたりに乳房のような突起物が、二つ垂れ下がって
いたからだ。
油断だった。
敵とは言え、メスを殺す事を一瞬ためらった時だった。
アテルイは、ふくらはぎを軽く斬られた。
これでは歩く事はできても、とても走れない。
「フォヲグァ」
意味不明な叫び声を上げ、おののきながら左右から複数の沙神が襲って来た。
両手首を斬り、続けて喉元をえぐった。
先ほど飛び越えた大きな沙神が、向かってきた。
「これじゃ、きりが無い」
その背後から無数のモノどもが、迫って来ていた。
「モレ、海に入るんだッ」
モレが、アテルイに指示された通りに海に逃れた。
アテルイは、後ずさりながら自身も切り傷のないほうの片足で海水に入って、
ヒヒイロカネの剣を砂地に刺し込んだ。
剣を突き立てながらアテルイは、念じた。
その使う者の命を喰らい、吸い取ると謂われた剣……
だとすれば、皮肉にもアテルイは生命を削って生き抜いてきた事になる。
剣が発光すると同時に、砂丘が蒸してきた。
砂もろとも蒸された沙神たちが、干からびていった。
一陣の風が吹いてきた。
渦を巻いた、つむじ風だった。
「痛ッ」
真空の風が、アテルイの手の皮膚を鎌で切ったようにスパッと裂いた。
「鎌鼬だ」
アテルイは、モレをかばいながら地面に伏した。
アテルイの背中がカマイタチの風によって、切り刻まれる。
幼少の折、母がこうして矢面に立って、自分を守ってくれた事を想い出した。
「…アテルイ……」
申し訳なさそうに、モレが呟いた。
モレに肩を借りながら全身傷だらけのアテルイは、海岸線の砂丘の果てまで歩
いた。
沙神とカマイタチに傷付けられた身体は、潮風にさらされて痛かった。
夜明けが近いらしく、空が白んできた。
その明かりで見渡せるようになり、遠くに木立があるのが見えた。
モレは、木立の朝露を集めてアテルイの傷付いた身体を洗い流し、近くに密生
していた蒲の穂を敷いて、その上で手当てをした。
それはまるで、因幡の白兎伝説を模しているかのようだった。
傷付きながらも剣を使って体力が弱っているアテルイを見て、モレは心配にな
った。
〝一度その力を使うたび、一年寿命が縮む〟
以前、仙人に言われた言葉だった。
今までの戦における剣の使用回数を考えると、二十年は寿命を短くしている計
算だ。
バサバサッと、一羽の鳥が飛び立った。
アテルイは、身構えると同時に、怪鳥音を叫びながら飛び掛かって来る大男の
首を刎ねた。
大男の正体は、顔が赤く鼻が異常に高くて、烏のような嘴を持ち背中の羽で自
由に空を飛び回るカラス天狗だった。
別のカラス天狗が手にした団扇であおぐと、無数のカラス達が突進してきた。
ふくらはぎを痛めて、思うように歩けないアテルイは、最小限の動きでカラス
達を剣でなぎ払った。
モレは、イカコからもらった硝石と木炭と硫黄を配合した爆薬に火を点けた。
〝ボン!〟
突然の閃光と音にびっくりしたカラス天狗等が、逃げ返った。
「助かったよ」
アテルイが、剣を杖代わりにしながら言った。
「これだけ私達を襲って来るのは、近付いてはいけないという警告なのかしら?
魔物達は、何かを守っている感じがするわ」
モレが、言った。
「ああ……」
アテルイが、そう答えながら小枝を束ねて即席の防具を二人分こしらえると、
モレと共に身に着けた。
「?」
鋲を打った金属のような棒が、アテルイの眼前で空を切った。
アテルイは、とっさにモレを木陰に突き飛ばした。
黒い大きな複数の影が、ツバメのごとく左右に展開した。
避けきれない物は剣と手甲と肘当てでかわした。
肉弾戦の間に、時おり聞こえる刃物の接触する音と共に火花が散った。
敵は、金棒を振り回して向かって来た。
今度の相手は、頭に二本の角を生やし、肉食獣の如き牙を持った鬼だった。
それぞれに金棒を手にした赤い色と青い色をした二種類の鬼達は、血に飢えた
野獣より手強かった。
剣と金棒がぶつかり合う金属音にかき消されて、肉を切り裂く音はしない。
しかし、あたりには数匹が手を失い、足を失い、はては首を失って倒れていた。
アテルイの真紅の剣が空を切ると、それだけ相手が死ぬ。
斬るアテルイとて無傷ではない。身体のあちこちに爪ほどの穴は開いているの
だ。
けれども、痛みを感じる暇などない。
遮る物は全て除く。
それが、生きる証しなのだ。
〝こんな事までして、生きるのは嫌だ〟
アテルイは、常にそう感じた。
〝だけど、殺されるのは、もっと嫌だ〟
矛盾を感じながらもこれが本心だった。
両の手足の指を足したくらいの数を斬ったろうか…それでもなお敵の群れは迫
って来た。
ゆっくり痛みを味わっている頃は、それは死にゆく時だ。アテルイは瞬きより
早く、下からすくうように相手の胸をえぐった。
斬って斬って、斬りまくった。
モレに青い鬼が迫っているのが分かった。
アテルイは、剣を槍投げのように一直線にその青鬼に投げ込んだ。
アテルイの剣は、青鬼の右眼を貫いてしっかりと突き刺さった。
安心する間もなく、最後の一匹の赤鬼が金棒で向かって来る。
アテルイに手持ちの武器は無い。
金棒はアテルイの黒髪と左の頬をかすめた後、アテルイの頭に殴りつけてくる。
容赦無く殴りかかる血糊で赤錆びた金棒がアテルイの胸に突き刺さろうとした
時、アテルイは頭上の小枝をつかんで、身体をかわした。
片手には、手ごろな岩塊をわしづかみにして、それを赤鬼の脳天に渾身の力を
込めて叩きつけた。
赤鬼は後頭部から鮮血をほとばしらせながら一言も語らず、顔から倒れていっ
た。
「ハァ、ハァ、ハァ」
大きく深呼吸をした後、アテルイは突き刺した鬼の眼から自分の剣を引き抜い
た。
剣を引き抜かれた眼からは、血がドッと流れ出し、片方の眼はギロリとアテル
イを見据えていた。
満身創痍のアテルイの前に、広場が見えてきた。
広場には、中心が立石からなる環状列石が置かれていた。
そこは、祭祀場であった。
ヒューと風切り音をさせて、中空で数個の穴があけられた飛ぶ時に高い音を立
てる数十本のかぶら矢が一斉に飛んできた。
先端に付いた股を開いたような形をし、内側が刃になっている雁股には炎が燈
っていた。
火矢であった。
アテルイとモレは、火攻めに遭った。
炎は二人を取り囲むように、轟々と燃えて行く手を阻んだ。
炎の勢いが弱い所を見つけて、そこに走り込むと、縄で作られた布状の袋に身
体ごとすくいあげられて宙吊りにされた。
あらかじめ逃げ道を作り鹿や猪を追い込む狩猟法で、エミシも使う“巻狩り”
という罠だった。
軽率だった。
相次ぐ戦闘での疲労がここにきて、判断力を失わせていた。
雁字搦めのため、剣を抜く事もできなかった。
陽動作戦にはまってしまい、捕らえられたアテルイとモレは出雲人によって連
行された。
巨大な社が、聳えていた。
杵築大社、現在の出雲大社である。
「ここは、八百万の神々が住まう聖なる地である。何人たりとも、出雲の結界を
突破する事などできぬわ」
祭司が、二人に言った。
「イヅモ?」
アテルイが、聞いた。
「この剣を、どこで手に入れた?」
祭司は、ヒヒイロカネの剣を持ち出して問うた。
「それは、俺のだ」
「どこから、来たのだ」
「北からだ」
「北のいずこだ」
「日高見だ」
「何ゆえ、お前はこの剣を使えるのだ」
「……」
アテルイは、黙した。
「ヒノモトノクニはツルギによって創られたと云われる。いにしえの神々がツル
ギを海に浸し、引き揚げた時、四つの雫が滴り落ち、その雫がさらに分かれて八
洲になったのだとか」
八洲とは、本州・四国・九州・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡の八島、つまり
当時の日本列島である。
「この剣は、タタラ場のあるこの出雲で製鉄し直したモノだ」
「何?」
アテルイは、相手が何を言ってるのか分からなかった。
「古来より、このクニの長に授けられる三種の神器を知っておるか」
「サンシュノジンギ?」
「八咫鏡(ヤマタノカガミ)・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)・八尺瓊勾
玉(ヤサカニノマガタマ)。天孫降臨の際、天照大神から授けられ皇位継承の印
として、代々の天皇に受け継がれる三種類の宝物。これら無き者は、帝にはなれ
ぬ」
祭司が説明するミカドという言葉に、アテルイは関心を示した。
「その昔、大和族が覇権のために、我等の祖先をこの地に流刑にした。
その際、三種の神器を奪おうとしたが、肝心の宝剣だけは見つからなかった。
剣は古来、我が祖先が退治したヤマタノオロチから受け継いだ代物。
その剣だけは誰にも渡さなかった。
剣は、密かに北のクニにもたらされて、その者はエミシの長になった」
「?………」
「ここ出雲は、大和族が神々を流刑にし、殺戮した流竄の地…」
祭司は、衝撃の事実を打ち明けた。
封印されたまつろわぬ者の集う魑魅魍魎が跋扈していて、当然の土地だった。
「お主、名は何と言う」
祭司が、聞いた。
「アテルイ。連れのモレだ」
アテルイは、毅然として答えた。
「アテルイとな!」
祭司は、驚きの表情だった。
「輝ける剣を持って、朝廷軍と戦をした陸奥のあの悪路王か!」
「そうだ」
「アテルイは、京で殺されたと聞いたが……」
「そのヒヒイロカネの剣のお陰で、助かった」
アテルイは、祭司の持つ剣を指差して言った。
「ヒヒイロカネ……エミシでは、そう呼んでおるのか…」
祭司は、配下の者に目配せして、アテルイとモレの縄を解かせた。
「この剣を持つ者が、この出雲の地に現れたのは、神の導きであろう」
そう言って、祭司がアテルイに剣を返した。
「出雲は我等の結界により外部からの侵入を強固に阻んでいる反面、大和族によ
る陰陽道もまた、我等をこの地に封じ込めている」
「ここから出られないのか」
アテルイは、聞いた。
「そなたらは、我等の導きがあれば可能だ」
「解放してくれのか?」
「条件がある」
「何だ」
「そちが言うヒヒイロカネという剣を、大和族に永遠に渡さぬと約定できるか」
「…できるさ……」
「そちが死んだ後も、未来永劫ぞ」
「約束する」
アテルイは、キッパリと返事をした。
アテルイとモレは、鉱山を案内された。
鉱山からは鉄鉱石が、露天掘りという手法で掘り出されていた。
「直接、掘り出すのか…」
陸奥では使われていない技術だと、アテルイは思った。
タタラ場と呼ばれる場所では、石臼で潰された鉱石が高熱を加えられて精錬さ
れていた。
工房では、鉄器や土器など様々な工芸品が作られていた。
祭司は七つの孔があいた龍笛と呼ばれる横笛を手に取り、口に当てた後、モレ
に手渡した。
「吹いてみなさい」
見よう見まねでモレが吹くと、不思議な音色がした。
「笛の才があるようだ。剣を持つ者は、その力ゆえに迷い、悩み、そして孤独じ
ゃ。戦に明け暮れるだけでは神魂が腐る。腐った魂には鬼が宿り、鬼神に捕り込
まれる。そのような時は、そなたが支えてやりなさい」
そう言って祭司は、モレに笛を与えた。
「ありがとう」
モレは、大事そうに受け取りながら礼を言った。
「三種の神器は、陰と陽を司るモノ。これら一つでも欠けらば、この世を支配で
きても、あの世までは手出しはできぬ」
祭司が、アテルイの剣を見ながら話した。
「………………」
アテルイは、使用するたびに寿命を吸い取るこの剣の正体を知って愕然とした。
この世とあの世を結ぶモノ………魔剣とも神剣とも謂われる所以であった。
京に巣食う輩は神を名乗ってはいるが、不完全なカミなのだ。
出雲人との出会いから、天皇と称する者が真の神になるべく、この剣を欲して
いる。
剣が揃えば、絶対的支配神が完成してヒトは隷属してしまう。
ただ平和に暮らしたいと願っていた、北の人々を蹂躙したヤツラの専横を許し
てしまう。
天皇=神の偽善を知ったアテルイは、決意した。
命に代えても、この剣だけは渡してはならないと。
出雲族の祭司によって、アテルイとモレはミソギ・ハライを済ませた。
さらに、海の神であるワタツミに、航海の安全を祈願した。
「剣がここにあると、大和族が再びその力を得ようとして、この出雲に侵略して
くる。剣と共に、北のクニに戻れ。我らの祖先も災禍を逃れるため、そして国を
守るために、宝剣を遥か北のクニに逃したのだ」
太古の昔、宝剣の東北への伝播に伴い、出雲における神話が妖怪やお化けとい
った民間伝承として各地に伝わるようになる。
こうした種々の神々の言い伝えが変遷して、遠野物語に代表されるような民話
となっていった側面もあろう。
婉曲的な表現として、宝剣が陸奥に伝わったと同時に宝剣を守り隠す暗示とし
て、不思議な伝説を遺したのかもしれない。
「お主が、調和の取れた正しき事に、その剣を用いられん事を……」
祭司は、祈祷しながら言った。
出立間際に、祭司はアテルイに新しい軽くて丈夫な甲冑を渡した。
モレには、青い色の天鵞絨の服が与えられた。
「綺麗だ…」
見違えるように美しく着飾られたモレを見て、アテルイが言った。
アテルイがモレに見惚れている時、祭司はモレのお腹に向けて謎の符牒を呟い
た。
そして、二人は出雲族から与えられた食糧を満載した真新しい丸木舟で、海を
渡った。
八 刺客
この世を支配できるが、あの世からの報復を怖れた朝廷は、陰陽道など様々な
妖術を駆使して、その侵入を防御してきた。
魔界からやって来る鬼は、今日では悪の象徴である。
しかし、かつては権力に敗北した者、社会の周辺に排除された者が鬼とされた。
だが、彼らは単なる弱者ではない。
暗黒の他界から富と力と情報を持ち帰る、超能力者でもあった。
千年にわたる王都だった京都とその周辺には、鬼が出没する闇の空間が至る所
に存在する。
それは、王や貴族の権力が他界から来る力なしには、維持できないと信じられ
ていたからだ。
例えば京都の真北の鞍馬山には、他界との媒介者である修験者がいたし、貴船
は天皇自身が参詣して呪力を強化する場所だった。
人間は、恐怖する動物である。見知らぬ者、異形の者、異文化に属する者を恐
怖する。
そして、何よりも自らの権力にまつろわぬ者を恐怖し、その結果、葬り去った
者の怨念を怖れる。
こうして恐怖の対象となった者が、鬼と名づけられた。
その一方で、恐怖する人間はその怖れから逃れるために集団を作り、やがて国
家を形成する。
換言すれば、国家が国家として存続するには、その外部に常に鬼を必要とした
のだ。
王都・京都から見た東北は、鬼が棲む国だった。
蝦夷や平将門の反乱、ほとんど独立国家を作った奥州藤原氏などの存在がそう
させたのである。
しかし、中央に屈服させられた東北にとっては、京都こそ鬼の都に見えたはず
だ。
双方の唱える鬼払い役として、役小角や安倍清明といった陰陽師や種々の宗教
家が、重用されたのはこのためである。
琵琶法師などの芸能者は、その出自を天皇家とする伝承を持っているが、彼ら
もまた他界と通じる『鬼』と見なされた人びとであった。
しかし、それは諸刃の剣でもあった。
あの世を制御できる力は、現世の天皇と地位を脅かすものであり、呪術を操る
者達は、ある段階から抹殺されてきた。
出雲族が、その最大の例である。
三種の神器は、元々その宝剣だけは朝廷に存在しなかった。
この事は最高機密であり、即位した天皇にのみ代々申し送りされてきた。
時代を隔てた源平の戦の折、同時期に賊軍追討の院宣が双方に出された。
いずれも官軍を名乗れば、二人の天皇が立つ危機があった。
院政を敷いていた後白河法皇は、宝剣の秘密を苦慮したあげく、壇ノ浦の合戦
時に二位尼が宝剣と幼い安徳帝を抱いたまま入水した際、宝剣のみ回収できなか
った事を巧みに利用した。
最初から存在しなかった宝剣を、この戦で無くした事にしたのだ。
宝剣は、平氏と共に海に沈んだと。
その剣が何の因果か、北のエミシにあると云う。
桓武帝が、色めき立つのは当然だった。
三種の神器で、唯一欠けているアメノムラクモノツルギ(天叢雲剣)が入手で
きれば、朝廷史上最高の絶対的権力が得られるのだ。
この世とあの世、全宇宙・三千大千世界に力を及ぼす事ができるのだ。
坂上田村麻呂は、ヒヒイロカネがエミシの魔剣なのか、真の宝剣なのか確かめ
るためにアテルイ斬首に使用したが、まさか逃げられるとは思っていなかった。
アテルイとモレの逃亡を死亡説と流して、その整合性を計り、二人の捜索に躍
起になっていた。
「ヒヒイロカネと呼ばれる剣を、捕らえた蝦夷に独断で用いたは、そちの過ちぞ」
帝は、宮中の密室において田村麻呂を叱責した。
「申し訳ございません」
田村麻呂は、平身低頭して答えた。
「田村麻呂。鬼退治じゃな」
「は?」
「悪路王とその連れは、死んだのであろう」
「……」
朝廷の体面を保つため、逃げられたとは口外できなかった。
発覚すれば、田村麻呂は失脚し、その後ろ盾である桓武帝自身にも災禍が及ぶ
可能性があった。
蝦夷討伐は、政権を維持するための仮想敵国なのだ。
敵の大将を取り逃がしたとあっては、政権基盤が根底から揺らいでしまう。
「鬼は、どこにでもおるものぞ。いなければ、作ればよい」
帝の言う意味が、田村麻呂には合点がいかなかった。
「陸奥に棲むという鬼を殺さねばなるまい。さすれば、剣は弔いのために奉納さ
せる大義が立とう」
田村麻呂は、帝から隠密裏にアテルイとモレの暗殺、そしてヒヒイロカネの奪
還を指示された事を理解した。
「あの剣だけは、いかなる犠牲を払っても取り返すのじゃ」
帝の顔は、真剣そのものだった。
─至上命令─
宝剣ヒヒイロカネの奪取と二人のエミシの抹殺、この二つが達成されなければ、
田村麻呂の命も危ういものになっていた。
桓武帝から密命を帯びた田村麻呂は、その方策を画策した。
田村麻呂は、河内国の処刑場から逃亡したまま、杳として消息が分からないア
テルイとモレの行方を追った。
その捜索に、帝お抱えの陰陽師を頼った。
大内裏の二官八省の一つである中務省に属し、陰陽道を司った頭を長官として、
陰陽寮という役所を構えていた。
陰陽とは、古代中国の易学の術語で、天地万物は全て陰・陽の二つの気から生
じ、この二気は互いに相反する性格を備えて、月・秋・冬・西・北・水・女等は
『陰』、日・春・夏・東・南・火・男等は『陽』とされる。
陰陽道は、中国から伝来した陰陽五行の説に基づく学問で、自然現象と人間社
会の出来事を因果関係で考えている。
陰陽道を司るのは陰陽家でその頭の下、陰陽博士と呼称される者が、天文・暦
数・卜筮に関する事、及び陰陽生の教授等を担当した。
陰陽師は、星の相を観、人の相を観る。
占い・夢判断・星・数・地相・家相・呪詛によって人を呪い殺す事もでき、幻
術を使ったりもする。
眼に見えない力を用いて、運命や霊魂とか鬼とか、そういうモノの事に深く通
じており、またそのようなあやかしを支配する技術を持っていた。
朝廷に仕える役職の一つであり、帝が居住する内裏に近い所に陰陽寮が設けら
れている。
しかし、田村麻呂は例え朝廷直属と言えども、アテルイが生きているとは伝え
られなかった。
故に、アテルイの悪霊となった魂の追跡という、隔靴掻痒とした物言いにして
依頼するしかなかった。
アテルイとモレの逃亡という事実は、帝と田村麻呂しか知らない事なのだ。
田村麻呂は、悪鬼となった二匹のエミシという事にして、陰陽師に龜トをさせ
た。
龜トとは、カメの甲羅に溝を彫り、それを焼いて出来た亀裂によって吉凶など
判断した占いである。
占いには、裏鬼門の先に行った後、鬼門である艮(丑寅)の方角に向かってい
ると出た。
皇宮のある地図上からは、忌み避けるべき方角を移動しているらしい。
「やはりな」
田村麻呂は、得心したように頷いた。
裏鬼門の先は出雲、鬼門は東北すなわち陸奥、蝦夷地であった。
陰陽道が忌み避ける、鬼星の宿る方位を移動していた。
気懸りなのは、出雲に立ち寄った事だが、逃亡先の撹乱とも取れなくもない。
次に、陸奥へはどの経路で向かっているかを占わせた。
結果は、海と出た。田村麻呂は、驚愕した。
山の民であるエミシが、海を渡るとは考えてもいなかった。
海上を使うとなると、まさに神出鬼没、宝剣の力を携えているとしか思えなか
った。
舟は大潮を利用して、海流に乗った。
アテルイが舟を操っている間、モレは横笛を吹いてみた。
女人禁制の海も、出雲の霊力が海神ワタツミに通じているらしく、海路は穏や
かだった。
最初は、うまく音が鳴らなかったが、次第に旋律を奏でるようになっていった。
酒を呑みながらアテルイは、笛の音に酔いしれていた。
新調した服を着た美しいモレを、アテルイは抱きしめた。
潮騒だけが聞こえる朧月夜の洋上で、二人は激しくまぐわった。
二十日後、舟は東日流の十三湊に着いた。
北国に、早い秋が到来した頃だった。
主要なブナの木に刻印された、独特な記号を組み合わせて森の位置を示す“木
印”と呼ばれる誘導地図に従って、星宿海に出た。
満天の星々を映して輝く泥沢地である。
アテルイが北の星座を目印として、方位と位置を計算した。
白い川のように見える夜空を見上げると、眩しいくらいだった。
もしもイカコとはぐれたら、ここで待ち合わせる事にしていたのだった。
アテルイはヒヒイロカネに生命力を吸い尽くされて、精魂尽き果てていた。
青息吐息でモレと共に、山に戻った。
〝俺がこの世に残せるモノは、何なのだろうか?〟
アテルイは、考えていた。
ヒヒイロカネの剣?
いや、そうではない。
日高見の人々が、誰の支配を受ける事無く平和に暮らす事だ。
服属したまま、エミシと呼ばれてニシノクニの言う通りになっているとは思え
ない。
いずれ、再び立ち上がるだろう。
その時のために、一体何をすれば良いのか?
戦?
違う。
長期戦になれば、物量で負けていく。
武力以外の力を持たなくてはいけない。
相手に勝つ必要もない。
エミシノクニとニシノクニとの力の均衡。
相手に、付け入る隙を与えなければいいのだ。
同じ事を、モレも考えていたようだった。
「ニシノクニの人とも、共に生きる道はないの?」
モレが、そう言った時だった。
無数の弓矢が、飛んできた。
疲労困憊のために、動きが取り難い。
剣でなぎ払いながら矢を避けて、近くの竹薮に逃げ込んだ。
矢が青々とした竹林に突き刺さって、アテルイ達に届かない。
だが、体力を消耗している二人は、たちまち追い詰められ、周囲を取り囲まれ
て四面楚歌となった。
「その剣を渡せ!」
イカコだった。
死に物狂いで突破しようとすればできたが、同族とは戦えない。
「オマエが…なぜ……」
困惑したアテルイは、剣を抜くのをやめた。
同族の、しかも相手は戦友でもあるイカコだったのだ。
「その剣さえあれば、ニシノクニと取引できる」
イカコが、言った。
「もっと頭が切れると思っていたが、浅はかなヤツ…」
アテルイは、言った。
「海の嵐で難破した舟から助けてくれたのは
、田村麻呂の手の者だ。恩がある」
イカコが、これまでの経緯を説明した。
情の深いイカコにとっては例え敵といえども、義理は果たさねばならないのだ
ろうと、アテルイは理解した。
「……なるほどな……俺を殺したければ、そうしろ……見ての通り、俺の命も残
り少ない…」
憔悴しきったアテルイの髪は、総白髪になっていた。
「アテルイ!」
モレが、哀しそうな表情をした。
「剣させ渡せば、命は取らぬ…」
イカコが、言った。
「………分かった……少し時間をくれ…………」
アテルイは、ゆっくりと答えた。
イカコは、納得したようだった。
「ゲホッ、ゲホゲホゲホゲホゲホゲホ」
アテルイは、続けざまに激しい咳をした。
モレが、アテルイの額に手を当てて熱を計った。
「熱がある」
モレが、言った。風邪をひいたようだ。
「慣れない舟旅と海風で、疲れたのさ」
イカコが、言った。
「オレも年かな」
アテルイは、冗談とも言えぬ表情で答えた。
モレは、星明りの下で薬草を探している時だった。
急に激しい吐き気を催した。
新しき命の鼓動が、芽生えていた。
長らくできなかった児が、その体内に宿っていた。
出雲神の霊力かもしれない。
児を育てる落ち着いた環境になるまで、しばらくは黙っていようと考えた。
何事も無かったかのように戻って来たモレは、ユズリ葉にジャコウ草の油を混
ぜて作った軟膏を、咳き込むアテルイの胸に塗り込んだ。
「胸がスーッとする」
アテルイが、言った。
イカコは、アテルイとモレを自分のムラに案内した。
〝ダーダーダーダーダースコダーダー〟
農耕馬の頭を模して、大きな馬のたてがみ状に五色の紙が幾重にも張られた烏
帽子をかぶり、手平鉦の早打ちに合わせて激しい“えんぶり”と呼ばれる舞いが
踊られた。
元来、春にその年の豊作を祈願する神事だが、めでたい席でも舞われたりもし
た。
宙吊りに引っくり返された鹿の肉が、丸焼きにされていた。
酒や肴が振舞われている間、モレは感冒薬を作ってアテルイに飲ませた。
今も昔も、風邪は万病の元である。
幸いにも初期症状での手当てが功を奏して、アテルイの体力は回復していた。
「日高見には、もう戻れないのか…」
アテルイが、宴の席でイカコに聞いた。
「……まだ抵抗しているムラもあるが………陸奥の大半は、朝廷に支配されてい
る……共存するためには、その剣がここにあるとまずいんだ……………」
彼なりに悩んだ末の結論であり、イカコは沈痛な面持ちで答えた。
京は、魔界から現世に繋がる魔境でもある。
あの世から現出しようとする鬼を封じ込める伏魔殿だ。
天子は南面するという中国の易経の思想に基づいて、南に向かって大内裏が作
られ、その門として朱雀門、京域空間と異界との境界として羅城門が置かれてい
た。
また、四神相応と呼ばれる四方を、配置した神々に護らせた。
東の流水に青龍、西の大道に白虎、南の湿地に朱雀、北の丘陵に玄武、以上の
四つの神々を想起した中国の長安を模して造営された。
青龍は、青色の龍。
白虎は、白い虎。
朱雀は、頭はトリ、首はヘビ、顎はツバメ、背はカメ、尾はサカナ、羽は極彩
色で聖人が世に出る時に現れると云われる。
玄武は、カメとヘビが一体となった姿とされる。
前の京である平城宮址の井戸からは両眼と胸に木クギを打ち込んだ呪いの木人
形が多数出土しており、中国思想は古代日本にはかなり浸透していた。
その思想を汲む陰陽道の前身にあたる呪禁道と呼ばれる呪詛は、時の政府によ
って禁止例令が出て、その首謀者が斬首された。
貴族同士が呪い合って、政道が乱れたからであろう。
陰陽思想から形成された新都平安京は、渡来系出自である帝の考えもかなり影
響したであろう事は容易に想像できる。
陰陽道における陰陽師とは、一言でいえば『呪い』の請負人である。
その呪いには、ある特殊な技術を用いた。
蠱毒である。
蟲というのは、虫や動物を意味し、例えば犬を頭だけ地面から出して、餌も水
も与えないばかりか目の前に、肉を置いて飢餓感を募らせながら何日間も埋めて
おく。
犬は当然、腹を減らして苦しがり、眼前の肉を食えない怒りに狂って騒ぐが、
死の直前まで時期を見計らい、首を刎ねてその生首を魂魄とする。
この世にとどめおかれた魂を意味する魂魄は、式神として操られて呪いかける
事に使われる。
呪者の妖術を実行するために遠隔操作された式神が、その手足となって動く。
田村麻呂はヒヒイロカネの捜索に、陰陽道を使う事を考えていた。
陸奥の山奥に入られては、探しようが無い。
平定されていない蝦夷は、まだ各地に多数存在していたのだ。
徒党を組んで行動してくれれば、その動静をつかみやすいが、単独で動かれる
と難しかった。
アテルイとモレをかくまう勢力は、いくらでもいるのだ。
陰陽博士が、陸奥に向けて式神を放った。
アテルイとモレを斬首した際、処刑場で閃光と共に干乾びた土から採取した死
んだ蛙や蛇などの蠱を煩悩と同じ数の百八匹集めて、殺された怨念の霊を魂魄と
した式神を基にヒヒイロカネ探索に用いた。
殺された恨みの塊となった式神は、巨大な光の玉となって山中を駈け回った。
神無月。
この時期になると、日本中の神々が出雲の地に年に一度、一堂に会するので各
地の神社には神や精霊がいなくなる月だ。
出雲では神々が集うので神在月、翌月の霜月は神々が各地に帰っていくので神
帰月と謂う。
他の神々に邪魔されない時期であり、式神を操るのには好都合であった。
イカコは剣を渡すと言ったアテルイを信じて、礼を尽くした。
アテルイとモレは、イカコの勧めで奥羽山脈を抜け、北上山系の隠れ家に移り
住んでいた。
不吉な鵺の鳴く晩だった。
頭はサル、胴はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビの姿をした不気味な鳥である。
夜空の月が、欠けていった。
月蝕によって、やがて真っ暗になった。
巖鷲山、現在の岩手山中に植生する高山植物のコマクサも見えなくなった。
湖のほとりに、青白いはかなげな光を明滅させていた蛍も姿を消した。
「ッ?」
アテルイは、不吉な予感がした。
空の遠くに、白い火が見えた。辺りの燃えるような色の紅葉が、暗闇に映えた。
まるで、月が炎となっているようだった。
それが、ドンドン接近して来た。
魔剣ヒヒイロカネに反応するように作られた式神は、アテルイとモレの上空に
現れた。
巨大な光が舞い降りて、アテルイの腰にある剣の周りを回った後、モレを包ん
だ。
あっという間に、鞠のような光の中にモレが取り込まれて宙に浮く。
「モレ!」
アテルイが、叫んだ。
モレは何かに取り憑かれたごとく、アテルイの首を物凄い怪力をもって両手で
絞めた。
「…く、苦しい……」
アテルイは、気を失いそうになった。
モレは、臨月にはまだ遠かったが産気付いた。
憑依されたモレは、陣痛によって我に返った。
呪殺に失敗したと考えた陰陽博士は、作戦を変えた。
「女は預かる。返して欲しくば、その剣と交換だ」
光の玉は、そう伝えるとモレごと西の空の彼方に去って行った。
月が再び、闇から現れてきた。
田村麻呂は最初から呪術だけでアテルイを殺し、ヒヒイロカネを奪えるとは考
えていなかった。
代替策として、陰陽博士のコドクを用いた式神による妖術で、モレを人質に捕
る事によってヒヒイロカネを持つアテルイをおびき寄せる事を考えたのである。
魔を封じ込める魔境でもある平安京において、現人神である帝を擁して戦えば、
いかなる邪鬼であろうとかなうはずがない。
このような呪術に頼る事はしたくはなかったが、背に腹は変られない。
陰陽家のほうでも軍事を司る田村麻呂に恩を売って、これを機に呪術を操る陰
陽寮の地位を上げ、朝廷に物申す立場を得たかった。
権力闘争である。
京は、常に人の足を引っ張る勢力が目を光らせているのだ。
下手をすると、田村麻呂は蝦夷征伐の英雄からアテルイを逃した罪で逆臣の汚
名を着せられかねない状況だった。
不本意でもあり汚いやり方ではあったが、魔剣を手にする尋常ではないモノを
相手にする以上、陰陽家と組んでモレを餌にでもするしか、アテルイからヒヒイ
ロカネを奪うのは不可能だと思われた。
その場に一人取り残されたアテルイは逆上し、咆哮した。
「■■■■■■」
父であったアザマロの断末魔に吐いた不思議な呪文のような韻律の音色が、ア
テルイの口から自然と放たれた。
心で念じていただけの時とは、比較にならない程の強大な力を体感した。
五感を超越した感覚、肉体を意識せずに精神のみに身を委ねたような感じだっ
た。
ヒヒイロカネの剣は、この世とあの世を往来するための鍵だった。
これを解放すれば、この世に生ある者はその命を吸い取られ、他界のモノを現
世にいざなう事ができた。
時空の狭間を、自由に去来できる。
アテルイの体から遊離した霊魂が、焔となって脱け出した。
覚醒。
母が、今はの際に自分に託した剣。
自分とモレを助けるために、他界に行ってしまった父。
父はその最期に、身命を投げうって教えてくれた事が解った。
母も父も、この世にはすでに存在しない。
この剣の力を解放した以上、自身もただで済むとは思っていない。
命を賭けて、モレを助けるのだ。
後悔など、全く無かった。
アテルイの姿は、鬼剣舞のようであった。
鬼の土面をかぶり、剣を自在に振り回して舞う様子から胆沢地方でそう呼ばれ
る。
アテルイの霊魂は、モレを追って平安京に向かった。
九 魔境
ゴォォォオオオオオ。
空を切り裂くような音が近付いて来た。
有名な三蔵法師に代表される僧によって、インドから中国に、そして遣唐使等
で日本に伝えられた仏教思想を画にした曼陀羅図。
東西に一里五町(約4.6㎞)、南北に一里十三町(約5.3㎞)、東西に走
る39本の道路と南北に走る33本の道路が碁盤目状に区画された、この世とあ
の世を総合的に描いた曼陀羅空間を具現化した平安京の夜のとばりに轟いた。
その最北に位置する十二町(約1.3㎞)四方に囲まれた大内裏の陰陽寮には、
陰陽師によってモレが拉致監禁されていた。
異変を察知した坂上田村麻呂は、20を越す建物が廊下で結ばれた内裏に駆け
つけた。
その一つに、帝が日常生活を送る清涼殿がある。
殿中にある全ての灯明皿の炎が、一斉に消えた。
「何事か!」
帝が、清涼殿で田村麻呂に聞いた。
「妖しき暗闇が、ここに向かっていると」
田村麻呂が、答えた。
「物の怪か?」
「…計り知れない怨念としか……」
陰陽寮からは、五人の陰陽師が祈祷していた。
飛来したアテルイは、羅城門で剣を振りかざした。
人が登る階段の無い二階建ての羅城門は幅二十六間(約47m)、高さ十二間
(約22m)の大きさで外界と対峙していた。
外敵から京を守るために、高さが一間を越える六尺三寸(約1.9m)の軍の
神である兜跋毘沙門天像が階上に安置されていた。
怒りの形相で手に矛を持ち、鎧兜を着けて北方を守る仏法守護神だが、その姿
はアテルイにも似ていた。
陰陽師達は、弓弦をバンバン打ち鳴らして
人を呪い殺したり、怨霊を鎮めたりする呪術である調伏を始めた。
アテルイの黒い魂は、そんな調伏をものともしなかった。
同じ陰陽寮に属して、時を司る漏刻博士がいる。
銅の容器に水を入れ、底の穴から水を落ちるようにし、これを受ける容器の中
に立てた矢の刻んだ目盛りにより時を計る水時計に従って、京の時間を管理して
いる。
その配下の時守の叩く太鼓の合図以外、夜明けから日没は閉じられているはず
の門が、バッと全開した。
開閉門が吹き飛ばされ、羅城門本体が大きく左に傾いて、崩れ落ちた。
鬼神のような形相のアテルイは、まるで破戒神のように八条大路を横切った。
台風の如き暴風の勢いで、軒を連ねた公卿達の住む寝殿造の屋根が吹き飛んだ。
荒神となったアテルイは、東側の左京と西側の右京の中心を走る、幅四十七間
(約85m)の朱雀大路を中央突破して、朱雀門の前に仁王立ちした。
陰陽師達は、それぞれ印を結び、口の中で呪を唱えた。
呪の霊力が五芒星の☆形となって結集し、最後の砦である朱雀門で結界を張っ
た。
剣を持った鬼神アテルイが、結界を突破しようとする。
アテルイが、五芒星の光輪の中に捕らえられる。
陰陽博士は、この時とばかりに護身の秘法である九字を切った。
「臨」
「兵」
「闘」
「者」
「皆」
「陣」
「列」
「在」
「前」
これら九種類の文字を唱えながら、指先で空中にまず縦に四本、次にその上に
重ねて横に五本の線を描いた。
「グララアガア」
アテルイは、人の声とも思えないような怪音を吐いて苦しみ出した。
「…アテルイ……」
光の輪の中で囚われの身になっているモレは、懐から横笛を出して吹いた。
神の調べのような龍笛の奏でる波動が空を飛翔し、アテルイの耳に届いた。
すると、アテルイの力が増幅した。
陰陽師の結界とアテルイ、双方の力が拮抗した。
「その女の笛を、止めさせろっ」
陰陽博士が、指示した。見習いの陰陽生達が、モレに近付いた時だった。
「■■■■■■」
アテルイは、ヒヒイロカネの剣を帝に向けて咆哮した。
「あの姿は……」
田村麻呂は、絶句した。
怒髪天を衝いたアテルイの形相は、まさしく鬼そのものであった。
─日緋色金─
やはり、特別な力を秘めたとんでもない代物のようだ。
「悪鬼じゃ。生き霊となった悪路王だ」
ヒヒイロカネの力を発揮するアテルイを、その眼で見た帝は取り乱していた。
陰陽博士は、五芒星の結界に阻まれているアテルイに、呪文をかけた一本のか
ぶら矢を放った。
かぶら矢は空中でばらけて、アテルイの頭上から流星のように降り注いだ。
流星の落ちた後は、光の縄となってアテルイの全身を縛った。
身動きが取れなくなったアテルイの手元から、剣が地上にバタリと落ちた。
この世のモノとは思えない光景に、陰陽生達が呆気に取られている隙に、モレ
は続けて龍笛を吹いた。
笛の音に、体内の新しき小さな命が疼いた。
胎動した児と旋律によって、モレの力が発動した。
笛の七つの孔からそれぞれ七色の光が天に向かい、七つの星を降らせた。
星々は舞うようにして、陰陽師の作る五芒星の結界を打ち破った。
「何と、面妖な…」
ただの笛ではなさそうだと思いながら田村麻呂が呟いた。
「アテルイ!」
モレが叫ぶと、龍笛は共鳴しながら小太刀に変わった。
同時に、モレの姿が自分の児を取られた夜叉のような鬼子母神に変化した。
夜叉のモレは、瞬く間に宙を舞い、清涼殿で高みの見物をしていた帝の喉元に
刃を当てた。
「私達を自由にしなさい! さもなくばミカドを葬る」
憑依したモレは、帝の喉を今しもかっ斬る勢いだった。
女は弱し、されど母は強かった。
「ひッ」
帝は、気絶した。
「し、承知した」
田村麻呂が、代わりに返答した。
陰陽博士は、陰陽師達に結界を解かせた。
呪から解き放たれたアテルイは、ヒヒイロカネの剣をかざした。
怒りにかられ、自制のきかなくなった状態だった。
京ごと消滅させるつもりであった。
騒ぎを聞きつけた宮中の乳呑み児が、猛烈に泣き叫んだ。
「ッ!」
モレは、ハッとした。
ここにも子供がいる。北の故郷と同じように、男がいて女がいて、子供がいる。
身なりや考え方が異なるとて、同じヒトである。
ヒト同士が争って、喜ぶのはオニだ。
オニになってはいけないのだと、モレは思った。
それを見たモレは、夜叉の姿から我に返った。
田村麻呂は、帝を保護した。
「帰って来て、アテルイ! 闇に取り込まれてはダメ。鬼にならないでッ。あな
たの児ができたのよ!」
モレが、叫んだ。
アテルイは、モレの懐妊については知らなかった。
連れ合いの体調の変化に鈍感だったわけではなく、急激な速度で成長していた
のだった。
出雲の神を通して授かった生命は、常人の懐妊期間をはるかに短縮した。
モレは、龍笛を吹いた。その調べは、荒ぶる鬼となったアテルイの琴線に触れ、
次第におとなしくなった。
人間の姿になったアテルイは、ヒヒイロカネの剣を鞘に収めた。
この隙に、田村麻呂の部下達が弓を射かけようとした。
アテルイは、再び剣を抜こうとした。
「やめいッ。まだ解らぬのか!」
田村麻呂が、部下達を諌めて止めた。
アテルイは剣の柄を緩やかに持ち直した。
鬼神の時とは一変して穏やかな表情になったアテルイは白馬姿になり、剣が背
中に取り付いて大きな翼になった。
モレは馬の首にしがみつき、その光景はオシラサマ伝説のようであった。
天馬となったアテルイはモレを背にして宙に浮き、東の空に向かって天空を翔
けて行った。
結局、田村麻呂は、ヒヒロイロカネの剣を手にして帝に差し出す事はできなか
った。
アテルイとモレの扱いについては、既に斬首されたという事で記録された。
史実には、黒雲轟く雷神の怒りが内裏清涼殿に落雷して、動転する皇族の様子
が描かれている。
朝廷は、悪路王アテルイを抹殺し損ねたという秘密を守るためと失敗の責任を
問う形で、関係した陰陽家を全て失脚させた。
それからは別の陰陽家の賀茂氏が陰陽博士になり、後に安倍清明が台頭してく
る素地となった。
坂上田村麻呂の英雄伝説は、宝剣を得るまでの出雲神話のスサノオと似ている。
あちこちの賊を退治した後、ヤマタノオロチを殺し、そこから剣を得て天皇に
奉じる。
桓武帝は、自らを神話になぞるような自作自演を演じようとしたが、ヒヒイロ
カネ奪還の失敗後は悪鬼の報復を怖れ、身の危険を感じて蝦夷征討の中止を決定
し、密かなる野望を諦めた。
四五歳で即位してから遷都と蝦夷征討に残りの生涯を費やした末、その数年後、
志半ばで延略二五年(806)三月一七日、七十歳で崩御となり玉座を降りた。
田村麻呂は現役を引退させられ、その征夷大将軍の座を文室綿麻呂に譲る事と
なる。
十 遺産
岬と入江とが鋸の歯のように複雑に入り組んだ三陸の海岸線を、モレを抱いた
アテルイが飛行していた。
ふと、虚ろな眼で遠くをアテルイが見た。
桃色をしたコスモスの咲き乱れる野原に、澄みきった川が流れている。
その奥の細道にある山向こうの地肌に、光る物を発見した。
地層の狭間が、山吹色に輝いていた。
「モレ、あれは?」
「金の鉱脈だと思うわ」
アテルイの指差した方向を、モレが見て答えた。
二人は、イカコのムラに戻った。
「いずれ分かると思うが、田村麻呂は退く。それを束ねたミカドも長くはないだ
ろう。剣を欲しがる理由も消える。義理は剣でなくとも返せる」
アテルイが、静かに話した。
なぜなら、ヒヒイロカネの照射を浴びた者は、全て命を吸い取られるからだっ
た。
「何?」
意外な事実にイカコは、どう答えていいのか迷った。
「ミカドの一人や二人、死んだところで体制は変わらぬ。代わりはいくらでもい
る。新たな戦が、いずれ始まろう」
アテルイは、身重のモレを気遣いながら歩き出した。
「どこへ、行く?」
イカコが、行く手を遮った。
「この剣は、この世にあってはならんモノだ」
アテルイが、キッと睨んだ。
その形相は、金色の瞳をした白髪鬼だった。
言い知れぬ畏れを抱いたイカコは、怯んだ。
何者を以ってしても、アテルイを止める事は出来ないと悟った。
今まで蹂躙されるエミシとして、生きるためにヒヒイロカネを闇雲に使ってき
たアテルイだったが、その使い方を間違えると闇の力を発動させる鍵となってし
まう事に気がついた。
神剣にも魔剣にもなってしまうヒヒイロカネ。
元来、剣の力には善悪の基準は無いのかもしれない。
それを使う者次第という事である。
だが哀しいかな、ヒトは剣によってオニになってしまう。
オニは剣を通じて、ヒトの世を魔界化したいはずだ。
鏡・剣・玉の三種の神器と呼ばれる三つの力に分散させたのは、この世に調和
を保つための先人の智慧なのだろう。
一人の者が集中的に力を持つのは危険であり、この剣だけは永遠に誰の手にも
渡らないようにするのが賢明だとアテルイは悟った。
父も、そう考えていたに違いない。
アテルイは、最後の力を振り絞り、ヒヒイロカネに全精力を傾けた。
どっどど
どどうど
どどうど
どどう
亡き父と母の温もりを感じるような、柔らかな風が吹いて来た。
どっどど
どどうど
どどうど
どどう
アテルイを新たなる途にいざなう時に、吹く風に思われた。
人を殺める事以外に初めて、その力を利用した。
金鉱脈が覗く山を吹き飛ばし、黄金の鉱山を切り開いた。
出雲族から学んだ露天掘りの技術を、改心したイカコに教えた。
石臼でつぶし、熱を加え、砂金に比べて純度の高い金を採る方法を。
─京から蝦夷と呼ばれたこの地における独立したクニへの礎として、その財政
的基盤となる軍資金になるようにと─
姫神山の岩清水が流れる峠で、モレが水筒にその清らかな冷たい水を入れてい
た。
「もう、…俺の戦は終わりだ……」
アテルイは、言った。
「おらは、ヤツラにもう一泡吹かせるべ。達者でな」
イカコは、二人の手を握りながら別れを言った。
アテルイは、自分が陸奥にいる事で、無用なエミシ間の争いである“夷を以っ
て夷を制する”という同族同士の殺し合いを避けるため、人知れず隠棲する事を
決意した。
「俺は戦には勝てなかったけど、この剣だけは護り通すよ」
そう言い残して、人知れずモレと共に陰陽道などの呪術が及ばない遠く奥深い
所に消え去った。
剣に命を吸い取られたせいか、急激に歳を取り、杖を突く翁になった仙人のよ
うな姿のアテルイは、誰にも言わずに一人〝マヨイガ〟の中に、ヒヒイロカネを
封印した。
イカコは、アテルイの遺志を継いで、ニサタイに背水の陣を敷き、朝廷軍にエ
ミシとして最後の大戦に出て壮烈な玉砕をした。
その後、アテルイとモレが、白神山中の神の領域に行ったとか、十三湊から海
を越えて異国へ渡ったとか………
どこでどうして生涯を終えたかは消息不明である。
モレのお腹にはアテルイとの子供が、余げつとして胎動していた。
余げつとは、滅びた者の子孫という意味である。
本当に、この世に遺すべきモノが何かを、アテルイは気付いた。
剣でもなく、土地でもない。
それは、エミシとしての自分の血を、後の世に受け継がせる事だと。
その子孫は、藤原経清の児に繋がり、黄金の経済力を持つ奥州藤原氏へと、エ
ミシの血脈が連綿と受け継がれていく事となる。
─どんどはれ。
※黒塗伏字〝■■■■■■〟に関しては、梵字で〝ヒヒイロカネ〟と変換表示と
なります。
余孽之剣─日緋色金─ 不来方久遠 @shoronpou
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