アザマロ譚

  一 野人


 賽の河原。

 幼き子供が、亡き父母の供養のために、小石を積んで塔を作っている。

 積んだ端から、地獄で亡者を懲らしめる獄卒という頭に角を生やし、耳まで裂

けた口を持つ恐ろしい形相の鬼が来て、石を蹴散らして行った。

 三途の川を渡るのに必要な六道銭を持たない幼児は、積み終えるまで無間に石

積みを続けていかなければならなかった。

 そんな幼児を不憫に思ってか、地蔵菩薩が現れて、悪い鬼を追い払ってくれた。

 幼児は、ようやく石積みを終えて、橋を渡り始めた。

黄泉の国に旅立つ際、必ず通過するこの川は、この世での業の深さによって、

善人は橋を、軽い罪人は緩やかな浅瀬を、悪人は深い流れの急な瀬を渡らなけれ

ばならなかった。

 運悪く、三途の川を渡れなかった者は、冥途に行く事も叶わずに、この世とあ

の世の狭間を霊となって永遠にさ迷う事になる。


 奈良時代の末期─

 陸奥を流れるヒタカミ(日高見)川に、産卵のために溯上してきた鮭が跳ねて

いた。

 浅瀬では、喉に三日月形の白い毛がある月の輪熊が、鮭を器用に腕で掬い上げ

るように獲って、口に咥えていった。

 腹に張った乳房をぶら下げた一頭の母狼が、獲物を求めて子狼の元を離れて狩

りに出ていた時だった。

 大空から一連の鷹が舞い降りて、狼の子を掠め取っていった。


 満天の夜空に、天の川が流れていた。

 弱肉強食の世界は、獣だけではなかった。

 山間の洞穴に、乳呑み児の赤子を抱えた女と男の蝦夷の夫婦が、焚き火で暖を

取りながら秋鮭を炙っていた。

 その夫婦は、邑の長老が指定した婚約を破棄して、駆け落ちしたのだった。

 掟に背いた事により、葬儀と火事の二分を除いた付き合いの無い村八分の断絶

した関係に耐えられずに、追われるように邑から逃れて生活していた。

 明日をも知れぬ日々であったが、懸命に生きていた。

 それも束の間だった。倹しいながらも一家団欒で過ごしていた時、突然に山賊

達が来襲し、背後から夫を袈裟斬りにした。

「ナギ…」

 夫は、そう一言残して事切れた。

 絶句しながらも女は、両腕に抱えた赤子を懸命に守ろうとした。

 無言の内に山賊は、その母親も斬殺した。

 さすがの山賊達も、赤子を殺す事をためらった。

 どうせ三日も放置しておけば、獣に食われるか、餓死するのだから……斬り殺

された母親の首飾りが取れ、カワセミの羽の色に似た緑色のヒスイでできた勾玉

が零れ落ちた。

 一瞬にして孤児となった赤子は、その勾玉を拾って握った。

 横取りした鮭をかじっている山賊の一人が、赤子の動作に気が付いた。

 赤子の右指を開かせようとするが、きつく握り締めているので、てこずった。

「マンヅ、ゴシャゲルナ(物凄く、腹が立つ)」

 強引に赤子の腕をひねるがダメで、今度は焚き火に近付けた。

 右腕を火傷して、赤子は激しく泣き叫ぶが、握り拳のままである。

「ジョッパルゴド(強情なものだ)」

 うるさい赤子に癇癪を起こした山賊は、刃を向けた。

 〝ガルルゥ〟

 牙を剥いた、兇暴な雌の狼が現れた。

 赤子に刃を向けた手が、食いちぎられて落ちた。

 片腕を失ったまま、仲間の山賊と共にほうほうの体で退散して行った。

 狼は、赤子に近付いて顔を舐めた。

 赤子は、微笑みなが狼の乳を吸った。

 その小さき右の手には、勾玉が握られている。

 たわわに乳房が膨らんだ授乳期の雌狼は、鷹にさらわれた子の代わりを見付け

たのだっ

た。

 子を口に咥えて、狼が立ち去った。


 深い森の中の土に、小さな木の芽が出ている。

 やがて、芽は根を張り、幾星霜の風雪に耐えて一本の樹に育った。

 太古以来、まだ人の手が加えられた事の無い原始林が生い茂った原野で、山賊

達が弓矢

を構えていた。

「イマダベ(今だ)!」

 片腕の無い山賊が、仲間に言った。

 数本の矢が宙を飛び、獲物に向かった。

 獲物である年老いて動きの鈍い狼の背に、一本の矢が突き刺さった。

 追い込まれた狼は、尖った竹の突き立った罠の落し穴に落下した。

 赤子から少年にまで成長した野人が、大量の血を流しながら今まさに絶命しよ

うとしている狼を見ていた。

 右腕に火傷の痕が残る野人は、育ての親である狼を助け出そうとして、穴に下

りた。

 狼は鞘に収められた、柄から刀身への部分で刃が逆に反る不思議な形をした一

振りの剣を咥えていた。

 後にこれを真似て作った物が蕨手刀と呼ばれ、蝦夷独自の刀となっていく。

 慈しむように野人は、狼の傷口を舐めとって流れ出る血を抑えようとしたが、

狼は剣を差し出しながら人の耳には聞こえない超低周波で一声咆哮した。

〝■■■■■■〟

 その剣を持ち上げた野人は、何かが体に入り込んで来たような感覚を味わった。

「コッツダジャ(こっちだぞ)」

 山賊達の声と足音が、聞こえてきた。

 野人は、狼を諦めて前屈みに立ち上がり、苦しむ姿を見ていられずに剣で一息

に刺し殺して、木に攀じ登った。

 弓と剣で武装した山賊達を、その頭上から見下ろしながら狼をそのままにして、

野人は静かに立ち去った。

 多勢に無勢、武器を所持した複数の相手に、剣を満足に使った事の無い野人は、

機を窺う必要があった。


 日高見川の河川敷。

 罪状と人相書きが貼り出された、立て札があった。

 札には山賊の悪行の数々と、奨金が書かれてあった。

 ベリッと、人相書きが引き剥がされた。

 無学文盲ではあったが、絵は理解できた。

 破り取った手配書を握って、野人が暗闇に消えた。


 洞窟で、夜の宴が開かれていた。

 狼を丸焼きにして、山賊達が酒盛りをしていた。

「ヤッドコサ、コノウデッコノアダトレダベ

(ようやく、この腕の仇を討つ事ができた)」

 片腕の無い山賊が、言った。

 〝ガルルゥ〟

 狼のような唸り声がして、火が消えた。

 夜陰に乗じて、悲鳴を上げる間もなく、山賊達の喉は獰猛に食いちぎられた。

 辺りは惨殺された山賊達の流血で、血の海になっていた。因果は、応報した。

 狼の乳を呑んで生き長らえた野人に取っては、母の仇も同然であった。

 剣を使わなかったのは、狼の子として復讐しなければならないと考えたからだ

った。

 剣と共に、焼け残った狼の死骸は丁重に埋葬されて、土に還された。

 野人が、一本の大樹に不思議な記号を刻んだ。

 それから、まるで賽の河原の石積みのように小石を積み上げた後、すぐにそれ

を崩してばら撒いた。

 鰯雲の浮かんだ夕焼け空に、カラスの群れがねぐらの森に向かって飛んでいた。

 周辺の蝦夷を監視するために置かれた朝廷軍の砦である伊治の柵では、初秋を

告げるエンマコオロギが美しい音色で鳴いていた。

 櫓門からは、朝廷軍の物見兵達の話す京の言葉遣いが聞こえてきた。

 日が短くなり、夜の帳が降りるのも早い季節だった。

 フラリと、門前に半裸の野人蝦夷が現れた。

 手には布に包まれた球状の物を、三つ持っている。

 野人は、破り取った人相書きを警備の兵に見せた。

「臭いッ」

 兵は、異臭を放つ物体を一瞥すると、鼻をつまみながら早く行けと野人に促し

た。

 大柄と小柄の二人の小役人達が常駐する詰所に、野人は案内された。

 ドカッと、三つの生首が無造作に置かれた。

「本当に、お前が倒したのか?」

 大柄なほうの小役人が、人相書きと見比べながら首実検をしながら言った。

 いずれの生首も、まるで野獣に噛み殺されたような無惨な状態だったからだ。

 それに答えるかのように、野人は口をパクパクとさせた。

「オシか……たまたま、獣に喰われた者の首を、斬り落としてきたのではあるま

いな」

 小柄な小役人が、言った。

「拾うた首では、褒美はやれぬ」

 相手が少年という事もあり、小馬鹿にしながら褒美の品を脇に置いて、大柄な

小役人が意地悪く言った。

「……」

 狼に育てられたせいで、人間の言葉を発する事のできない野人ではあったが、

あの剣を握ってからは人間の言葉を理解できるようになっていた。

「首は本物のようだ。腕を、確かめたい」

 小柄な小役人は、剣の柄を握りながら言った。

「やめておけ。殺しを生業とするヤカラだ。こちらも無傷とはいくまいて。それ

に、騒ぎとなってはまずい。弓ではどうだ」

 大柄な小役人が、提案した。

「なるほど。弓の使い手は、剣にも通ずるからな。では、あの灯明を全て消して

みよ」

 と言って、小柄な小役人が野人に弓を手渡した。

 初めて弓を手にした野人は、興味深そうに弓を引っくり返したりしながら感触

を確かめた。

「まさか、弓を知らぬのではあるまいな。エミシでも、狩りはするのだろう」

 大柄な小役人は、三本の蝋燭の並んだ燭台を、わざと遠くに運びながら言った。

「矢は、三本とする」

 小柄な小役人は、矢を渡しながらも万一を考え、弓弦を持った野人の背後に回

って警戒した。

 野人は、弓をぎこちなく構えて一矢を射った。矢は十間(約18m)先にある

燭台の脇を逸れて、板壁に突き刺さった。

「ほう…」

 小柄な小役人は、意外にできると感心した。

「火のついた蝋燭は三つ。残りの矢は二本。

勝負はついたな」

 大柄な小役人が、勝ち誇ったように冷やかした。

 野人が、そんなヤジを遮るように弓弦を調整して、続けざまに二矢を放った。

 一矢は並行した燭台の本体に当たって、縦向きに位置を変えた。

 最後の一矢は直線に並んだ三本の蝋燭の芯を、まとめて通過した。

 燭台上の蝋燭が全て消えた瞬間だった。

 偶然にもこの光景を、一本でも命中すれば大したものだと思いながら将軍が、

覗き見ていた。

 照明が無くなり、室内が真っ暗になった。

「誰か、灯りを!」

 外から松明が灯された。

 室内には、褒賞ごと野人の姿が無かった。

 北極星が見える星空の下、野人は脱兎の如くに駆けていた時だった。

「待てッ!」

 野人の才能を見抜いた将軍が、呼び止めた。

「なかなかに良い腕だ。我は、朝廷よりこの地を預かる紀広純である。奨金稼ぎ

なぞやってないで、我が皇御軍に参加せよ」

 将軍職を兼務した、陸奥按察使参議の紀広純が名乗った。

 地方官の治績や民情を視察する役人である按察使と、二官八省の頂点である神

祇官の下で、大宝令で制定された中央の全官庁(八省諸司)及び、諸国を統括し

て治めた太政官の職員である参議をも兼任していた。

 令外の官、大・中納言に次いで国政を審議する重職である。参議の定員は八名

で、四位以上の、有能な者のみが任じられる職でもあった。

 正一位~従八位まである官位の中において、五位以上が殿上人、すなわち勅許

により、帝が日常生活を送る清涼殿の〝殿上の間〟に昇る事を許されていた。

 三位以上は、都に寝殿造と呼ばれた建物を所有し、上級貴族の公卿であり、大

臣、納言、参議等その数は約二十人であるから、紀広純の地位は選ばれし者とい

う事になる。

「…………」

 野人は、黙していた。

「聾でなかろうに、名は何と? 口が利けず、文字も解せぬ者でも、名は必要だ。

痣が酷いの……痣丸では子供か…アザマロではどうだ?」

 紀広純は、野人の腕にある火傷の痕を見ながら言った。

「ガゥ…」

 アザマロと名付けられた野人は頷いた。

「物が言えずとも、その才を存分に活かすが良い」

 野人の名付け親となった紀広純は、励ますように言った。

 アザマロは、飛ぶ鳥のように舞い、獣のように戦場を駆け巡った。

 孤軍奮闘で相手の武器を奪い、天性の術の巧さで敵に斬り付け射殺した。

 敵と言っても、同族である蝦夷だったが、その同族に両親を殺されて、狼に育

てられたアザマロに取っては仲間意識など皆無であった。

 散発的な戦ではあったが、朝廷軍の出城を襲って来る相手以外は決して深追い

しなかった。 

 山奥に入っての闘いは、地の利を活かして迎撃する方が有利な事を、アザマロ

自身が良く知っていたからだ。

 それと、不必要な殺生も好まなかった。

 食うためと身を護る以外の争いは避けるのが、山に生きるモノの心得だった。

 戦の合間には文字を覚えた。

 幼年期の外的な要因による発達障害を除けば、生来、頭脳は優れていたらしく、

乾いた砂が水を吸収するように習熟した。

 狼から授けられた剣については、何か特別な意味のあるように思えて、隠し通

していた。


   二 ナギ


 宝龜十一年(780)。

 短期間での数々の功績が認められて、アザマロは国司が常駐する伊治城に呼ば

れた。

「伊治公の姓をもって、呰麻呂を伊治の地を治める俘囚長に任ずる」

 紀広純将軍が、朝廷の名において爵位と領地をアザマロに授けた。

 当時、蝦夷は順化の程度によって夷俘、より恭順の姿勢を見せれば俘囚と呼ば

れていた。

 また、律令制下において朝廷が支配した民を公民と位置付けていた。

 公民でもなかったアザマロが、伊治地方の国司の下で俘囚の族長として、一郡

を統治する大領に抜擢された事は破格の昇進であった。

 叙勲の式典が終わると、祝いの酒宴が催された。

 主賓は、当然アザマロである。

 一人の役人らしき男が、アザマロに酒を注ぎにやって来た。

「異例の特進だな。よほど巧く将軍に取り入ったものだ。いやはや、恐れ入った」

 道嶋大楯は、嫌味を言いに来たのだ。

 陸奥牡鹿地方の豪族で、世襲を条件に朝廷から大国造という地方官を任ぜられ

て、中央貴族にのし上がった道嶋嶋足という蝦夷がいた。

 嶋足の縁戚関係の威光を着て、牡鹿大領に治まっていたのが、大楯であった。

 同族であるアザマロの出世は、大楯にとって脅威であった。

 将軍が決めた人事なので致し方ないが、内心は快く思っていなかった。

 大楯は、そこで一計を案じた。

 酒席で失態を演じさせて、アザマロを始末してしまおうと画策した。

「オーイ。サゲッコペッコシカネ(おーい。酒が少ししかないぞ)」

 深酒で出来上った俘囚の蝦夷が、酒の催促をしていた。

 陽も落ちて、宴もたけなわの頃合いを見計って、大楯が部下に指示をした。

 大広場に、捕虜となった蝦夷の男が引き出されて来た。

 男の両足のそれぞれに、頑丈な縄が括り付けられている。

 縄は、数十頭に纏められた馬群に繋がれていた。

 部下が、馬をけしかけた。

 二手に分かれて一気に走り出す馬群の馬力によって、捕虜の男は無惨にも悲鳴

を上げながら股先から真っ二つに裂けていった。

 泥酔している朝廷軍の兵達から歓声が上がったが、他人事ではないと思った同

族の俘囚兵達は押し黙った。

 そんな俘囚達に流れる空気を察したアザマロも、同族を討って得た恩賞に疑問

を感じていた。

 次々に捕虜の蝦夷達が引き摺り出され、その首が刎ねられた。

 処刑官によって、獄門台に生首が事務的に並べられていく。

 次に、大楯は一組の親子を連れ出した。

「砂金の採れる金山の在りかを白状せねば、子の首があそこに並ぶぞ」

 大楯が、子供の首に剣の刃を突き付けながら両親に詰問した。

「トウ、カア(お父さん、お母さん)」

 子供が、悲しそうな声で叫んでいた。

「オラダヅ、ナンモスラネデバ(私達は、何も知らない)」

 父親は、抗議した。

「タスケデケロジャ(助けて下さい)!」

 母親が、助命嘆願した。

 将軍の前で、大楯は点数を稼ぐ算段でもあった。

「グララアガア」

 アザマロが、首に下げているヒスイの勾玉の飾りをギュッと握り締めながら獣

のような叫び声を上げた。

 眼前で両親を惨殺された、幼少期の潜在意識を喚起された瞬間であった。

 アザマロの奇怪な行動に、周囲の兵達が何事かと驚いた。

「エミシなど、所詮ヒトでは無いわ。朝廷にあだなすケダモノだ」

 紀広純将軍が、高見から酒を煽ぎながら物言った。

 アザマロは、濁酒の盃を乱暴に叩き割ると立ち上がって、嬲り者にされている

蝦夷の親子の縄を剣で斬って解放した。

「言い過ぎたようだ。趣向を変えよう。機嫌を直せ」

 将軍は、アザマロが本気で怒っているのを感じて、穏便な態度を装った。

 広場に、大きな鉄板が運び込まれてきた。

 鉄板に油が注がれて、下から炙られた。

 燃え盛る炎に、アザマロが少し気後れした。

 幼児体験と獣に育てられた経験から、火を怖れる性質が残っていたのだ。

 煮えたぎる油が、はねてきた。

 沸々となる油に同調するかのように込み上げてくる怒りが、その恐怖を打ち消

していった。

「あれは、京から連れて来た渡来系の側女で、エミシではない。この素晴らしい

陸奥が嫌らしい。逃げようとばかりしておる。代わりの見せしめだ」

 将軍は、従軍慰安婦のような扱いの妾を生贄にする事で、アザマロの機嫌をと

ったつもりだった。

 個人的所有物と思っている側女一人の命など、代えのきく消耗品と考えている

風である。

 十五才位の側女が、火炙りにされるべく猿轡を噛まされたまま、亀甲縛りにさ

れて引き出されて来た。

 アザマロは、対決姿勢を見せた。

「既に同族のエミシを多数討ち取り、爵位と城を付けた領地までも授けた朝廷を

裏切れば、帰る処などこの世には無くなるぞ。血迷うな、アザマロ!」

 将軍は、席を立って怒鳴った。

 ハラハラして二人のやり取りを見ていた兵達をよそに、酒乱の気がある将軍を

察した大楯は、一人ほくそ笑んでいた。

 まさか、こうも首尾良く事が運ぶとは思わなかった。

「これまでの戦功を鑑みて、酒席の座興の無礼講と許すのも、ここまでだ。この

女の命をもって手打ちにしようぞ」

 兵達は、縛られた側女を熱い鉄板に通じる階段に昇らせようとした。

 このまま、手打ちにされては堪らない。

 大楯は、頑強に抵抗する側女を斬るように目で合図を送った。

 アザマロの怒りを、煽る必要があった。

 アザマロが、側女を救出に向かった。

 大楯には、僥倖に思われた。

 アザマロを始末する口実が、転がり込んできたからだ。

 側女の瞳に、素早く縄を解き放ってくれるアザマロの眼光が映り込み、吸い寄

せられるように見詰め合った。

 二人は、それぞれに運命的な何かを感じ取っていた。

「賊徒めが!」

 大楯は自ら抜刀し、大きく振りかぶった。

 同時に、アザマロと側女が互いを庇い合った。

 側女の長い黒髪がバッサリと斬られた瞬間、ドバッと、手傷を負ったアザマロ

の返り血が側女の顔にかかる。

 斬り落とされた側女の黒髪の上に、アザマロの鮮血が滴り落ちた。

「ガルルッ」

 激昂したアザマロは、獣の如く咆哮しながら高く跳躍して、大楯の首を刎ねた。

 壇上の高見で見物をしていた将軍も、これにはさすがに酒の酔いも一変に覚め

てしまった。

「謀反だ! 裏切り者アザマロを斬れ─ッ!」

 突然の出来事に、呆気に取られていた兵達は、将軍の発した号令に我に返った。

 アザマロが、側女に顎をしゃくった。

 側女は、アザマロの瞳をジッと見据えながら静かに頷いた。

 朝廷軍の兵達が、二人の周りを取り囲んだ。

 この状況を打破するには、指揮系統を混乱させるしかなかった。

 アザマロは、雛壇に向かって飛び上がった。

「キサマ!」

 将軍は、目の前に来たアザマロを憎々しげに睨みながら剣を抜いた。

 アザマロは、将軍の腕を蹴り上げた。

 怪我程度で済ませるつもりだったが、運悪く将軍はアザマロに蹴られた勢いで、

自身の持つ剣で額を割ってしまった。

「我が、このような死に様を……」

 衆人環視の中、壇上で息絶えた将軍に、兵達はうろたえた。

 その隙に、アザマロは側女を連れて走った。

 騒ぎの中、白装束を身に纏った男の手が、転がった大楯の首の隣にあるアザマ

ロの血で塗れた側女の斬り落とされた黒髪を拾って、袖の中にそっとしまい込ん

だ。


 納屋。

 ドクドクと、倒された油樽から灯明用の油が流れ出していた。

 アザマロは、松明で油に引火させた。

 一気に火は燃え広がり、城内は騒然となった。

 火事は、最優先事項だ。謀反人を斬れとの号令だったが、命令を下した当の将

軍が殺されては元も子もない。

 普段から城を護る事を厳命されていた兵達は、将軍暗殺と国府の火災の前で、

ただ動揺し、烏合の衆と化していた。

 伊治城が炎に包まれる騒ぎに乗じて、アザマロは側女と脱出した。


 国府多賀城。

 陸奥支配のために置かれた多賀城は、百反(約1㎞四方)の土地に三間(約五.

五m)近い築地塀を廻らせて蝦夷に睨みを利かせていた。

 東西五十五間(約100m)・南北六十六間(120m)の中枢には、政庁や

各官庁があり、その周りを竪穴住居でできた兵舎が並ぶように建っていた。

 将軍が殺されたという噂は、瞬く間に陸奥を駆け巡った。

 主の居ない国府は蜂の巣を突ついたような騒ぎになり、多くの兵達が離散して

無防備になった。

 その混乱に乗じて、多数の賊徒達が先を争うかのように朝廷軍の物資を略奪し、

あげくの果ては火を放ち焼き払った。

 これら一連の蛮行も、アザマロの仕業と吹聴された。


 巌穴。

 バサバサッと、洞穴の深淵からコウモリの大群が飛び出してきた。

「物の如くに海を渡らされ………身寄りも無い私には、帰る処など元々無い……

……」

 腰布を引き千切り、アザマロの手傷に巻きながら側女が呟いた。

 暗闇の中で獣のようにアザマロは、側女の乳房を揉みしごき乳首を吸い、その

白い体を貪り抱いた。

 本能に任せるままに、側女の体の奥深くを貫いた。

 求めに応じて、女も花芯を火照らせた。

 その夜、二人は激しく深い契りを結んだのだった。

 小さな火が、灯された。

 アザマロは、側女の腕に火で焼いた小刀で蝦夷特有の刺青を入れるところだっ

た。

 プチプチと音をさせながら刃の先から、墨が白い皮膚に刷り込まれていく。

 側女は、歯を食いしばって痛みに耐え抜いた。

 蝦夷には成人の証しとして、腕に刺青を施す習慣があった。

 十五才になる女は、立派な大人である。

 アザマロが刺青を彫ったのは、蝦夷として生きざるを得ないという覚悟を側女

に解らせるためだった。

「…ナ…ギ」

 ポツリと、アザマロが言った。

「ナギ?」

 側女が、復誦した。

 幼きアザマロの記憶に残っていた言葉だった。

 今は亡き父が、三途の川を渡る前に賽の河原から唯一、我が児に遺した言霊で

あった。

 アザマロは、ナギと名付けた女の刺青を完成させた。

 ナギの髪を結い上げると、アザマロは細く

美しい白い首に、勾玉の飾りを掛けた。

「これは?」

 ナギが、首飾りを触りながら聞いた。

 アザマロは、首飾りを握らせたナギの拳に手を添えた。

 贈り物を受け取ったナギは、嬉しそうに笑みを浮かべるのだった。

 それから、真昼でも陽射しが陰る、鬱蒼とした森の中に向かった。

 アザマロは、八方に散らばった小石を地面に見つけた。

 そして、その近くの大樹の枝葉を、両腕でなぎ払った。

 掻き掃われた樹皮に、木印の刻印があった。

 その下の土を掘り起こして、剣を取った。

 そこは、育ての親である母狼を埋葬した神聖な場所でもあった。

 古代、日高見の民が信ずるアラハバキ(荒覇吐)の神によれば、狼は大神とも

書き、カミの化身と伝えられている。


   三 呪


 平城京。

 碁盤の目のように区画された鳥瞰図が、大和の国に広がっていた。

 天皇が居住する内裏の中心部に、紫宸殿が存在する。

 〝紫〟は紫微星で天帝の居所、〝宸〟は天子の居所を顕わして、この世を統べ

る者が存在する場所という意味である。

 元日の朝、天皇が親しく天地四方・山陵を遥拝し、五穀豊穣を祈る四方拝や大

臣以外の諸官職を任命する儀式の除目といった公事の行なわれた九間四面、内裏

の中央に南面して設けられた正殿である。

 四方拝は旧暦一月一日の寅の刻に、黄櫨染御袍という黄色の朝服を着用した天

皇が、清涼殿の東庭で北に向かって祈る。

 その際、陰陽道による誕生年によって定める北斗七星の中の一つで、その人の

運命を司る命運星である属性を拝する。

 次に、天を拝し、西北に向かって地を拝し、それから四方を拝して、山陵を拝

する。

 千年を隔てた現代においても、この儀式だけは天皇自らが、宮中で厳格に執り

行っている。

 四方に庇があり、北庇から通じた廓を渡って、光仁帝が西にある清涼殿に歩い

て来た。

 九間四方東向きの清涼殿の中にある、石灰の壇・昼の御座・夜の御殿・弘徽殿

の上の御局・萩の戸・藤壺の上の御局・朝餉の間・台盤所等を通過して、殿上人

の詰所である殿上の間に向かった。

 殿上の間では雲客とも呼ばれ、殿上人である参議達が朝議を待っていた。

 降ろされた御簾越しに帝が座すと、檜扇を手にして衣冠束帯に正装した参議達

が拝礼した。

 帝が、調査官である軍監の報告した巻物を、冠を動かさずに読み終えた。

「裏切ったアザマロの処罰のほどは?」

 指導的な立場にある、老獪な古老の参議の藤原小黒麻呂が物申した。

「朕が差し向けた将軍を殺め、国府を焼き払うは言語道断。エミシなど根絶やし

にして、陸奥に眠る全ての金を獲って参れ」

 帝は、開いた扇子で口元を隠しながら居並ぶ参議達を前にしてのたまった。

「獣の如く神出鬼没で、その所在は、まるで

雲をつかむが如く……」

 若い参議は、困惑げに返答した。

「なれば、獣に戻してしまえばよかろう」

 そう言って小黒麻呂は、若輩の参議をたしなめた。

 他の参議達は、大過なく朝議を終わらせたいので沈黙を保っていた。

「一つ、考えがござりまする」

 清涼殿の邸の外に控えて白装束に身を包んだ陰陽博士に、小黒麻呂が目配せし

た。

「この者に、逆賊エミシの居場所を探らせて、術をかけまする」

 陰陽博士の手には、陸奥に派遣させた陰陽師から入手した、アザマロの血が溶

けたナギの黒髪が握られていた。

「解った。新たに将軍を立てて、三千の兵を付ける故、良きに計らえ」

 パチンと扇子を閉じると、帝が清涼殿を退出した。

「はは─」

 参議達が、平身低頭した。


 陰陽寮。

 壬申の乱で皇位を奪取した天武帝が、崇りを怖れて設けたと云われている。

 天意を伺う役目を負った機関が陰陽寮であり、天皇に天意を伝える役職である

天文博士が伺い、天文密奏によって直接、天皇に報告奏上する。

 北極星を意味する天の支配者である天皇大帝は、天の命を受けた者であり、天

命を受けたればこそ帝位を保証されているのだ。

 それゆえ、常に天意を伺う必要があった。

 八省の一つである中務省は、中宮職と三司の他に六寮を支配しており、その一

つに属する陰陽寮とは、陰陽頭を長とする事務官と技術官を置いた役所である。

 事務官には、助・允・大属・少属の各一人。

 技術官には、陰陽博士を長として、陰陽師六人・陰陽生十人・暦博士一人・暦

生十人・天文博士一人・天文生十人・漏刻博士一人・辰丁十人・使部二十人・直

丁三人の総勢八十名近い所帯であった。

 風一つ無い、満月の晩だった。

 草木も眠る丑三つ時に、縦横いずれの行の数字も、それぞれの和が等しくなる

ように並べられた魔方陣を使って、その儀式が行なわれていた。

 数人の陰陽師達を従えた陰陽博士が、式占いを行なうための専用具である式盤

の前に鎮座していた。

 “天円地方”を具現化した式盤とは、方形の台の上に回転する球面を重ねて、

その整合を観る事で運勢を試すものであり、呪術に用いられた。

 下部の方形の地盤には、方位や太陽の軌道を表わす黄道に沿って、月が地球を

一周する28数に星を区分した二十八宿・八卦・十干十二支等が、上部の球面の

天盤には、薬師如来の眷属で仏法を守護する十二神将・十干十二支等が、それぞ

れに刻まれている。

 クルクルと、回転する天盤の球面に、地盤上の方位や描かれた星・時・干支等

の図柄が妖しげに投影されている。

 東の空高く浮かぶ満月が、欠け出した。

 陰陽博士は、邪気を払い除くため、足で地を踏みしめる反閇をしながらまじな

った。

 反閇は、敵から憎まれるほど強い者である醜を踏むという意味がある。

 力士が片方ずつ脚を高く上げては強く踏み、立ち合いの準備運動をする大相撲

の四股踏みの動作に、その名残を見る事ができる。

 全ての事物は陰陽二つの消長に基づくという考え方による易経は、積み木風の

小さな角棒を用いた算木と五十本の竹製の細くて平たい棒の筮竹とを使って、物

事の吉凶を判断した。

 その原理を応用した八卦は、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八つが自然界、

人間界のあらゆる現象を示した。

 八卦良いという掛け声や四股踏み等、随所に国家神道に通じる陰陽道の所作を

盛り込んだ大相撲が、数多ある格闘武術の中でも信認され、国技の如く人口に膾

炙する所以である。

 地盤の方位が北を向いて、戌の干支を指した。

 天盤の球の回転が止まり、東位置の酉の干支部分と交錯した。釈迦入滅の際、

十二種類(鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・猪)の動物が、危篤

を案じて参集したと謂われる。

 その方位・時刻・年月日を表わした十二支と、木・火・土・金・水の五元素か

ら成る五行を、兄(エ)と弟(ト)に分けた十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚

・辛・壬・葵)との最小公倍数六十を一巡すると元に戻る。

 六十歳を還暦とする理由もここにあり、これらの組み合わせを駆使して運勢が

計られる。

 ユラユラと、天文と数学を巧みに駆使した魔方陣に、狼と鷹の幻影が映し出さ

れる。

 陰陽道において、命令を受けて妖術のために働くという式神の憑代に、生き霊

が宿った。

「ケダモノが憑きし血。それと交わる黒髪の女ともども、闇夜に帰るがいい」

 陰陽博士は、残されたアザマロの血に塗れたナギの黒髪を用いた憑代に語りか

けた。

「賊寇之中過度我身」

「毒魔之中過度我身」

「毒気之中過度我身」

「毀厄之中過度我身」

「五鬼六害之中過度我身」

「五兵口舌之中過度我身」

「厭魅咒詛之中過度我身」

「百病除癒」

「所欲随心」

「急々如律令」

 相手に禍を与え、自身が呪い返されないための陰陽道独特の呪文を唱えて、急

ぎ律令の如く厳しくせよという意味の結びの語で締めた。

 古代インドの梵語から成る中国の呪禁道から派生した陰陽道は、梵字を漢字の

音に借りて表わした。

 この時、羅刹が現れた。

 仏教には、最悪で恐ろしいという意味を指す羅刹という梵語の音訳がある。

 体は黒く、赤い髪に青い目で、獣のような牙と雁のような爪を持ち、空中を飛

び回りながら素早い動作の大力で人を食うという魔物である。

 呪術を使う時、魔界への扉が開くのである。

「双方とも死ぬまで、また、日輪がこの世から無くならぬ限り、この術は未来永

劫解けぬ」

 冷静を装った陰陽博士は、空中に指を縦に四線、横に五線を引いた九字を切っ

て印を結んだ。

「獣になりて、共に喰らい合うがよい」

 陰陽博士が魔境を閉じて後、呟いた。

 月が完全に消え失せて、漆黒の闇夜になっていた。


 暮れなずむ春の日に、移ろっていく季節だった。

 アザマロとナギは、多賀城から離れて追っ手を逃れるようにして、深山に入っ

ていた。

 海抜千メートルを越すひっそりとした場所に、湖があった。

 かつて火山の大爆発でできた、大きな円形の窪地に雨水等が貯まり、それが湖

になったカルデラ湖である。

 夏は満々と水をたたえる湖面は、春まだ浅い夜更けの凍てつく氷点下の山の気

温により氷結していた。

 氷に乱反射して映っていた、月の光が消えた。

 皆既月蝕によって、漆黒の闇夜になった。

 その時だった。

 身体に異変を感じたアザマロは、剣を持ち出すとナギを置き去りにして、野山

を走り出した。

 剣を持ってきたのは、説明の付かない何かに襲われるような感覚があったから

だった。

 手足に長い獣のような尨毛が生えてきて、全身毛むくじゃらになっていった。

 ピンと耳が尖り、その耳まで裂けた口からは牙が剥き出した。

 いつしかアザマロは、二足歩行から四つ足で駆け出していて、自分という意識

すら失っていた。

 狼と化したアザマロは、もはやただの獣でしかなかった。

 狼は、暗闇の深い森の中を当て所も無く走り回った。

 アザマロを追って、ナギは落ちていた剣を拾った。

 寒さに震える狼は、体を温めるために木にぶつかりながらもひたすらに走った。

 どれぐらい駈けずり回ったろうか……喉の渇きを覚えた。

 クンクンと、辺りを嗅いで水の匂いを探した。

 暗闇の中、慣れない不安定な足取りの狼が、氷で固まった湖を滑りながらも長

い舌で、氷を舐めて水分補給をした。

 急に、足下の氷が割れて、狼が厳寒の湖水に落ちてしまった。

 湖面の真ん中辺りは、氷が薄くなっているのが分からなかったのだ。

 ナギは、夜空を見上げた。

 月が再び、光を放ち出していた。

 パシャパシャと、水を叩く音が聞こえた。

 僅かに洩れる月明りに、溺れている狼が見える。

 その獣がアザマロであると思ったのは、連れ添った女の勘であった。

 ナギは、凍った湖面に注意をはらいながら狼に近付いて、剣を差し出した。

 爛々と両眼を光らせて、狼が剣にかぶり付いた。

 牙が、月に映えた。

 ナギは、腹這いになりながらゆっくりと、狼ごと剣を手繰り寄せた。

 狼は自分の身に何が起きているのかも分からずに、ただ闇雲に足をバタつかせ

てもがくだけで埒があかなかった。

 ナギは、夢中で狼に寒さでかじかんだ手を差し出した。

「コワガンナ。テッコタモヅケ(怖がらないで。手をつかみなさい)」

 土地の言葉が、自然にナギの口から発せられた。

 藁をもつかむ状態で慌てふためく狼の鋭い爪で傷だらけになりながらも、ナギ

が救いの手を懸命に差し伸べた。

 陸奥の蝦夷の中でも岩手地方の方言には、手っこ・酒っこ等のように名詞の語

尾に“こ”を付けて表現を柔らかくする傾向がある。

 これは、穏やかな物言いを好む人柄を表出した言葉遣いであり、優しい音で話

される言の葉の音域には動物がよく懐くものである。

 ナギの手を借りて、やっとの事で狼が何とか氷上に這い上がり、ブルブルッと

体を震わせて水気を掃った。

 〝ガルル〟

 狼が、人間であるナギを警戒して唸り声を発しながらナギの右腕に噛み付いた。

 ナギは、むしろ狼に身体を預けるようにして黙っていた。

 狼は噛むのを止めて、流れるナギの血を舐めた後、納得したかのように頭を垂

れた。

 ナギが、不思議な形をした剣を拾い上げて、大事そうに胸に抱いた。

 剣が二人を再び、引き合わせたのだから…

 満月に戻った月が、西の地平線に沈んでいった。


 半刻の間、消えていた月が再び、ゆっくりと現れてきた。

 憑代に使用した血染めの髪の式神が、業火のように燃やされた。

「依然、陸奥に獣となって潜伏しておると」

 呪術を終えた陰陽博士の説明に、松明をかざしながら小黒麻呂が聞き返した。

「かの地は鬼の巣窟。引き続き、この者を同行させて探させます」

 陰陽博士は、隣に控えた陰陽師を見ながら答えた。

 アザマロの血に塗れたナギの黒髪を、伊治城から持ち帰った陰陽師であった。

「うむ」

 小黒麻呂は、頷いた。

「ただ、呪詛返しが強く、完全な獣にはできず、半分は人、半分は獣の半獣半人

となっているかもしれませぬ」

 陰陽博士は、神妙な面持ちで言った。

 呪詛の術を用いる者は、同じだけ魔界からの力を受け止める技量を持たなくて

は務まらないのだ。

 術が不完全に終わったとしても、深入りは禁物であった。

 無闇に使えば、自身が鬼に捕り込まれて、ミイラ捕りがミイラになるだけであ

る。

「であれば、人からも獣からも受け入れられず、孤立無援という事であろう。逆

に、好都合というものだ」

 小黒麻呂は、一人ごちた。

 満月が清涼殿の建物に隠れて、辺りが白んできた。


 原野。

 山頂に雪を戴いた尾根伝いに、後光のように朝陽が洩れてくる。陽の光を浴び

て、一瞬にしてナギが鷹の姿に豹変した。

 〝ピー〟

 と、一声鳴いて大空から一連の鷹が、地上に急降下した。

 〝ワオォォォォン〟

 草むらから背を丸めて態勢を低くした狼が現れて、鷹に近付いた。

 日輪が、二つの獣を優しく包み込んだ。

 野獣どもの瞳が、男と女の眼差しに、一瞬間だけ交錯した。

 アザマロが、四つ足の動物から人間の姿に戻っていった。

 狼でいた時の記憶は無かった。

 鷹が舞い降りて、アザマロの右手の指を強く噛んだ。

 鷹の首には、緑色の勾玉が巻かれてあった。

 アザマロは、その鷹がナギであると確信した。

 鷹に噛まれて流血したが、アザマロは痛みに耐えながらジッとしていた。

 血を舐めて安心したのか、おとなしくなった鷹はアザマロの左肩に止まり、羽

づくろいを始めた。

 何故、ヒトがケダモノになるのかは分からない。

 狼に育てられた自分なら、或いは有り得るかもしれない。

 しかし、どうしてナギが猛禽類になったのか…狼の乳を呑んだ者とまぐわった

からなのか? 

 そんなナギに対して、アザマロは愛情と共に同情を感じていた。

 昼は鷹、夜は狼……一匹の獣と一人のヒトとに分かれた、流浪の旅が始まった

……


   四 マヨイガ


 勿来の関。

 東北と関東との境界である。

 〝蝦夷勿来(エミシよ、これより先に来るなかれ)〟という意味から、この名

が付いたとされている。

 上代においては、白河の関の異称とも云われた陸奥と東国の境界線であり、蝦

夷の侵入の防御線であるその関所を越えて、朝廷軍三千が多賀城に向かっていた。

 逆賊アザマロの人相書きが、お尋ね者として人の集まる場所に張り出された。

 かつては俘囚長をも務めたアザマロは、一転して追われる身となっていた。

 アザマロは、日中は人として鷹を肩に乗せて守り、夜中は狼として番犬のよう

にナギに付き従って外敵を遠ざけた。

 より安全な場所を求めて、鍾乳洞に潜り住んだ。

 迷路のように入り組んだ地下道が、地底深くどこまでも続いていた。

 そこは地元の民でも、滅多に足を踏み入れる事はなかった。

 入ったら、再び生きて外には出られないと云われていたからだ。

 二人は、翡翠のような鮮やかな濃緑色の地底湖近くに、人知れず越冬用の食糧

と薪を持ち込んで、そこで冬の終わりを凌いだ。

 洞窟の中は一定の温度に保たれ、冬でも地底湖の水は凍らなかったので、生命

の源である飲み水には事欠かなかった。


 ふきのとうが芽吹き、たくさんのものが生まれて花盛りになるという弥生の頃

だった。

 厳しい北の冬が過ぎ、春の雪融けの季節になっていた。

 朝廷軍の新しい征東大使が、陸奥に赴任してきた。

 大宝令で定められた国政を処理する太政官の次官である中納言で、従三位の肩

書きを持つ藤原継縄が将軍職に就いた。

「将軍! こやつがアザマロを見たと」

 新将軍が伊治城に着くと、側近が一人の夷俘を連れて来た。

 その夷俘は、新しく着任してきた将軍にいち早く取り入って、褒賞を得ようと

いう魂胆であった。

「奴の潜んでいる場所に案内せい。褒美はその後だ」

 ぴしゃりと継縄が、釘を差した。

「ヤマサヘッタベドモ。ユギッコクルガモスンネェ、アブネジャ」

 天を仰ぎながら夷俘は、地元の言葉で話した。

「山に逃げたと思う。だが、雪になりそうなので、今夜は危ないと言っておりま

す」

 気を利かせて、側近が通訳した。

 自然と共に生きる蝦夷には、微妙な天候を読む才が備わっていた。

「多少の雪など構わぬ。早々に決着を付けようぞ」

 継縄は、確たる戦略も無いまま安易に、副将軍の紀古佐美に命令した。

 前将軍を殺したアザマロの首さえあれば、昇進と共に帰京できる。

 帝の命により、やむなくはるばる陸奥まで来たものの、野蛮人が棲む辺境の地

からできるだけ早く引き上げたいと継縄は考えていた。


 鷹が獲物を探して、上空に円を描きながら旋回している。

 そこは幅が狭くて、両岸が険しい崖になっている谷間の続く峡谷だった。

 人の視力では到底、確認できない遠距離に、朝廷軍の兵が行軍していた。

 アザマロは、知っていた。夷俘が朝廷軍に自分の居場所を密告した事を。

 どうせ追われる身ならば、逆に利用して待ち伏せしたのだった。

 先んじて叩いておかなければ、図に乗った朝廷軍は、陸奥奥地まで際限無く侵

攻してくる。

 適当な所で食い止めなくてはならない。

 かつての自分とは、全く正反対の立場で戦う事になった。

 〝ピー〟

 と、一声鳴いて鷹は急降下すると、筋骨隆々としたアザマロの左肩に止まった。

 アザマロは、まだ見えぬ敵の気配を鷹が感じ取ったのだと理解した。

 しばらくして、総勢三千名の軍勢が、整然と迫って来た。

 高い丘から息を殺しながらアザマロは、草木の汁を塗りたくった顔面から鋭い

眼光を覗かせて、朝廷軍が通り過ぎて行くのをジッと見下ろして待った。

 四半刻を過ぎた頃に、ようやく、その本隊が見えてきた。

 肩に鷹を載せたアザマロは、朝廷軍と対峙した。

 そして、牛車の周りを囲む兵に向けて、コロを使って岩の塊を落とし込んだ。

 戦闘が始まった。

 轟音を立てながら多量の落下してきた岩塊が、兵達を押し潰して狭い山間の道

を塞いだ。

 朝廷軍の兵達は、何が起きているのかをまだ、理解できていなかった。

 アザマロの肩から、鷹が飛び立った。

 同時に、ムササビのように林の中を、アザマロが木々を飛び越して行った。

 あっという間に、朝廷軍の先頭に追い着いたアザマロは、松脂の塗られた大量

の貯木が積まれた場所に移動していた。

 再び、鷹がアザマロの肩に止まった。

 テコの原理で、一斉に横積みの木々を解き放った。

「敵襲! エミシが襲って来たぞッ」

 ようやく、気付いた兵の一人が叫んだ。

「将軍を、御守りするのだ」

 副将軍の紀古佐美は、臨戦態勢を敷かせた。

 屈強な選りすぐりの兵達に囲まれながら将軍継縄は、驚愕していた。

 まさか、白昼堂々と討伐する側である帝の正規軍が襲われるとは、予想だにし

ていなかった。

「アザマロかッ! 敵の数は?」

 副将が、聞いた。

「不明です」

 側近は、自身なげに答えた。

 丘の上からアザマロが、力強い膂力で連続して火矢を放った。

 狭い山道に転がった大木群に、火が燃え移った。

 松脂の塗られた大木は、一瞬にして炎となり、朝廷軍の進路を塞いだ。

 退路は既に岩塊で閉ざされ、後続隊から分断されて袋小路になっているのを、

継縄は伝令でこの時知らされた。

 獣のように四つ足で駆け下りるアザマロの肩から、鷹が空に飛び去った。

 山道に下りると、無言で狼から贈られた不思議な形をした剣を、アザマロは初

めて鞘から抜いた。

 アザマロは、敵の将に向けて一直線に走った。

 邪魔する者には、その剣を振り回した。

 その切っ先が触れなくても、まるでカマイタチのように敵兵が斬られて倒れた。

 尋常ではないアザマロの駆ける速力は、つむじ風となって周囲は瞬間、真空と

なっていたのだ。

 兵達は、アザマロの迫力に気圧された。

「ええい。何をしておる。弓を射掛けよ」

 副将が、怒鳴った。その時だった。

 アザマロが、剣を空高く垂直に頭上に掲げた。

「■■■■■■」

 無意識に、意味不明な怪音が自然と口から吐き出された。

 それは、彼を育てた狼が死に際に伝授した韻律だった。

 剣の刃は、日の光を浴びて七色に輝いた。

 空の上から雷神が、太鼓を打ち鳴らした。

 光り出した剣に呼応するように風雲急を告げ、山間に雷鳴が轟いた。

 神より授かりし、この剣には鬼・物の怪・妖怪・精霊や様々な死者の霊魂等を

呼び込む力がある事を、アザマロはまだこの時知る由も無かった。

「あの光り物は……」

 副将が、目映いばかりの剣を見て呟いた。

 稲光が、朝廷軍の兵達に落雷した。

「お、鬼だッ!」

 稲光に映えるアザマロの姿は、鬼のように見えた。

 兵達は恐れおののいて、後方の積まれた岩と岩の隙間に体を捻じ込み、我先に

と這い出すように逃げ惑った。

 護衛兵の放った矢群が、アザマロに向かった。

 アザマロは、高く跳躍して弓矢をかわした。

 全身、緑色に塗られた悪鬼のようなアザマロの形相を間近で見た将軍継縄は、

恐怖の余り、小便を漏らしながら腰を抜かして地べたにへたり込んだ。

「日緋色金…」

 将軍は、その光り輝く剣を見て呟いた。

「おのれ、賊徒めッ」

 副将紀古佐美は、果敢に弓弦を構えた。

 矢は、アザマロの後頭部に飛来してくる。

 黒い影が、それを遮った。

 〝ギー〟

 鷹が矢を受けて、悲鳴を上げた。

 アザマロは、背負っている円形の楯を外して前に置き、身を隠しながら鷹を守

った。

 複数の矢が楯に命中している間、地面でグッタリとなっている鷹を気遣いなが

ら突き刺さった矢を途中で折った。

 大事そうに鷹を抱えて、アザマロは戦線を離脱した。

「将軍。大丈夫でござるか」

 敵を追い払ったのを確認してから、副将が言った。

「う、うむ…」

 将軍は、辛うじて体面を保ちながら冷静を装って答えた。

「ヒヒイロカネとは?」

 副将が、聞いた。

「エミシでは、そう呼んでおると…」

 将軍は、言い澱んだ。

「副将である私にも、言えぬ事にござりますか」

 紀古佐美は、詰め寄った。

「どのようなモノかは、わしも知らなんだが……内裏に伝わる噂によれば、永久

に錆びぬ特殊な鋼でできており、限られた蝦夷に一子相伝で伝授されるという幻

の秘剣という事だ」

 命を救われた恩義を感じて、将軍は重い口を開いた。

「秘剣?」

 副将が、怪訝な表情で言った。

「蝦夷征伐においては、金と同様に重要なモノらしい」

 将軍が、沈痛な面持ちで話した。

「分かり申した。帝がお望みとあらば」

 と言って副将が、立ち上がった。

「追えッ。敵は一人だ。あやつを捕え、その剣を奪うのだ!」

 副将は、護衛兵に言った。

「将軍の警護は?」

 側近が、聞いた。

「将軍には、三分の二の兵を率いて多賀城にお戻り頂く。残りは我と共に、あや

つを追うのだ」

 副将は、言った。

「オラノセェデネデバ(俺の仕業ではない)」

 自身の命がかかり、夷俘は褒美どころではなくなっていた。

「して、こやつの処分は?」

 連行されて来た夷俘を見て、側近が聞いた。

「我等を罠に嵌めるつもりならば、とっくに逃げておろう。逆に、奴に利用され

たのだ。奴の立ち寄りそうな場所ぐらいは、見当がつくはず。居場所を見付けな

ければ、命は無いものと思え」

 夷俘を副将が脅している間に、随行していた陰陽師は、鷹の残した羽毛を拾っ

ていた。


 奥羽山脈に連なる獣道だった。

 周りは、鬱蒼としたブナの木に覆われていた。

 陽が陰り、小雪が散らついてきた。

 左腕に大事そうに傷付き弱った鷹を抱いたアザマロは、濃い霧の立ち込めた追

手の迫って来られないであろう道無き道を進んだ。

 死にかけた鷹の臭いに反応してマムシが現れるが、アザマロが睨むとすごすご

と湿地に隠れた。

 出羽の外れにある宝珠山に、誘われるように登って行った。

 当時、陸奥よりも早くに征討された出羽の国には国府が置かれて、朝廷による

支配が既に固まっていた。

 夕闇迫る遠くに、ぼんやりと山小屋の影が見えた。

 もっと先に進みたかったが、陽が沈む前に手当てしたかった。

 濛々と霧が一層濃くなり、視界は靄がかかったようだった。

 アザマロは、周囲を警戒しながら戸をそっと開けた。

 囲炉裏には薪がくべられて、鉄瓶から湯気が立っているが、人影は見られなか

った。

 部屋の片隅に、多量の炭と薪が山積みになって残っていた。

 炭焼き小屋として、一冬を越したのであろう。

「コエグレェ、カゲレ(声ぐらい、かけなさい)」

 白髪で髭をたくわえ、杖を突いた小柄な翁が、アザマロの背後から忍び寄るよ

うに声をかけた。

「ッ!」

 振り向きざま、アザマロが腰の剣の柄を握って構えた。

「ナニオッガナガッテラ。ソッダナモン、ヤグニタダネド(何を怖がっている。

そんな物は、役には立たないぞ)」

 そう言いながら翁は、アザマロの顔を覗き込むように見た。

 この間、アザマロの身体は金縛りにあったように硬直した。

 〝ぼおっ〟

 と、囲炉裏の薪が爆ぜた。

 翁は、アザマロの額に手を当てて頭の中を観てみた。

   ※   ※   ※

 月蝕によって月が消えた、不気味な漆黒の闇夜であった。

 方位や十二支の図柄が描かれた地盤が見える。

 クルクルと、方形の地盤上に載せた球面が回っている。

 魔方陣と言う、陰陽道の儀式が行なわれている様子が映し出された。

〝賊寇毒魔毒気毀厄五鬼六害五兵口舌厭魅咒詛之中過度我身百病所欲急々如律令〟

 陰陽博士が、アザマロの血に塗れたナギの頭髪を祭壇に奉じて呪詛している。

 空中に縦に四線、横に五線を引いた九字を切って結ばれる印の仕種が見えた。

〝双方とも死ぬまで、また、日輪がこの世から無くならぬ限り、獣になりて共に

喰らい合うがよい〟

 闇夜に蠢く、鷹と狼の姿が映り込んだ。

   ※   ※   ※

「月が失われし宵にかけられた鬼道は、昼に夜が訪れる時、術師をそのヒヒイロ

カネで殺めねば、そなた等は永遠に元に戻らぬ………いにしえより選ばれし者の

み授かりし、そのツルギ………人の寿命を吸い取りし剣なり。心して用いよ」

 そう翁が言った後、アザマロは金縛りから解放されて、身動きができるように

なった。

 獣身になった経緯を知ったアザマロは、翁がヒヒイロカネと呼ぶ剣を見詰めた。

「タカッコ、アンベワリノガ(その鷹は、具合が悪いのか)?」

 翁は、杖で鷹を指しながら聞いた。

 無言のままアザマロは剣を置き、小刀を囲炉裏の火にかざした。そして、鷹の

嘴と脚と羽を動かないように縄できつく縛って固定した。

 燃える薪の炎で炙られて赤くなった刃で、鷹の傷口から矢じりをえぐり出した。

 〝グエェ〟

 鷹が押し殺したような呻き声を上げた。

 殺菌消毒のため熱した刃を押し付けると、あまりの激痛に気絶してグッタリと

なった。

 アザマロは、傍らで見ていた翁の前に剣を置いて山小屋を出て行った。


 馬返し。

 勾配が急にきつくなり、溶岩でゴツゴツした狭い斜面では、これ以上馬に乗っ

ては進めなかった。

 馬も使えない遠く人跡未踏の山奥で、およそ千人余りの兵を率いた副将軍紀古

佐美は、馬を諦めた。

 夷俘の道案内を頼みに、蝦夷しか知らない獣道を日が落ちる寸前まで行軍した。

 深山に入山すると、行く手を阻むかのように大粒の雪が降ってきた。

「ユギデワガネデバ。オラ、エサケェル(雪では行く事はできない。俺は、家に

帰る)」

 降雪に、夷俘がこれ以上進む事を拒んだ。

「うぎゃ~」

 すかさず、副将が夷俘を斬り殺した。

 休み無しの強行軍による疲労困憊で、士気が下がっている兵達への見せしめで

もあった。

 四人の兵に担がせた輿に乗った副将は、山越えを敢行した。

 このまま、将軍を襲った賊を野放しにすれば、朝廷軍が侮られる。

 意地でも捕えて、その威光を示せば、今後の蝦夷平定がやり易くなると思って

いた。

 紀古佐美が執拗にアザマロを追跡するのには、それだけではなく、実は本当の

理由があった。

 彼は伊治城でアザマロに殺された、前将軍紀広純の息子だったのだ。

 親の仇を討つため、陸奥への赴任は、そんな彼のたっての願いだった。

 朝廷はその意志を汲み、彼を蝦夷討伐の副将軍として任官した。

 紀古佐美は、逆賊アザマロを倒し、噂の秘剣とやらを帝に献上すれば、その恩

に報いる事ができると思っていた。

 日は完全に落ち、野営せざるを得なかった。

 森の小川のせせらぎが、聞こえている。

 日没と共に、ヒトから四つ足の獣に変化したアザマロは、渇きを癒すかのよう

に川の水を呑んでいた。

 暗くなり、夜空に星が降るように耀き出した。

 〝デコスケデーホー、ホーホー〟

 星明りが洩れる木の枝に、フクロウが鳴いている。

 〝ワオォォォォン〟

 夜のしじまに、耳をピンとそばだてた狼の遠吠えする泣き声が響き、その眼光

に満月が反射していた。

 狼の姿になったアザマロは、敵の本陣に現れた。

 人としての意識は無かったが、ナギを外敵から守るという野性の勘が働いた。

 暗闇から、陣を構える副将軍に襲いかかり、そのみぞおちにぶつかった。

 副将は、気を失った。

 不意を突かれた陣所は、反撃する間もなかった。

 狼は気絶した副将を器用に牙で縄を巻き付け、背に乗せて森の奥に去って行っ

た。

「追えッ。副将軍を救出するのだ!」

 突然の事に唖然とする部下達を、側近が怒鳴った。


 山小屋。

 腕に刺青をして、髪を結い上げた裸の年若い女が、静かに寝息を立てて熟睡し

ていた。

 白い裸身の胸に刻まれた、焼け爛れた傷痕が生々しい。

 翁は目を閉じると、傷のある胸にかざした手を移動させて腹を探った。

 児を宿しているのを感じた。翁が目を開けると、女の傷痕が綺麗に消えていっ

た。

 女にムシロをかけて、大雪の際に踏み込まれないようにする輪のような形をし

たカンジキを履き物に付けると、翁がスーッと消え失せた。

 入れ代わりに戸の外に狼が現れて、副将をぐるぐる巻きにして置き去った。

 山稜。

 稜線が光り、東の尾根から神々しい朝陽が昇ってきた。

 山小屋の周りだけはなぜか、手元も見えないほどの深い靄がかかっている。

 人に戻ったアザマロが、山小屋にやって来た。

「アザマロだな」

 床に転がっている副将が、聞いた。

 アザマロは、副将を見据えた。

「我を殺せッ。帝の兵として、エミシに捕えられるなど、生き恥ぞ」

 副将が、怒鳴り散らした。

「キサマが殺した、前将軍の紀広純は我が父だ」

「…………」

 アザマロは、副将の首に手刀を打って気絶させ、出入口の土間に放り込んで柱

に繋いだ。

 小屋の中に入ると、昼はいる筈の無いナギの姿があった。

 その山小屋の空間だけは、時が止まっているようだった。

 床の間に、昨晩翁に預けた剣が置かれている。

 アザマロは、胸の傷が完治しているナギを強く抱き締めた。

 ナギの首には、ヒスイの勾玉の首飾りが緑色に輝いていた。

 二人は、互いの瞳を見詰め合ったまま激しく交わった。

 チロチロと、薪の残り火が燻っていた。

〝時空の狭間にある秘境マヨイガでは、本来の姿でいられるが……鬼術を解くま

では、宿せし新しき命は封印されよう〟

 翁の声が木霊のように響いた後で、静寂と共に靄が急速に晴れてきた。

 ナギが、自分の腹をいとおしむように丁寧にさすっていた。

 アザマロは、声を追って外に出た。

 一面の銀世界が広がっていた。

 濃霧のため分からなかったが、炭焼き小屋は切り立った断崖上の端に位置して

いた。

 この山小屋だけが、ポツンと雪景色にあった。

「ッ?」

 アザマロは、周囲に殺気を感じ取った。

 天上では、、鬼のような風神が大きな袋を使って、大風を吹かせていた。

 連なった尾根から吹き荒ぶ雪降ろしで、猛吹雪になった。

「全然、見えない」

 小屋から外を望む、小窓を閉じながらナギが言った。

 アザマロは、即製の弓弦を作り、薪を縦に細く割って切って多くの矢を拵えて

いた。


 拉致された副将を追って、山狩りが行なわれていた。

 追跡できたのは狼が副将を連れ去る途中に、その甲冑の飾りや小物類を点々と

落としていったからであった。

 雪はどんどん深くなり、兵達は膝まで積もった雪を漕ぐようにして鈍重に歩を

進めた。

 遺留品のある所を求めて、遮二無二進探索していた頃だった。

「あちらに、山小屋が見えます」

 斥候兵が、側近に報告した。

 断崖絶壁の突端にある、古びた小屋を発見した。

 小屋の煙突から、焚き火の煙が洩れている。

 そこだけは台風の目のように無風で、雪も無かった。

 まるで、目に見えない何かに護られているようでもあった。

 無謀にも満足な防寒具も持たずに、軽装で出兵した千人の兵達は、険しく慣れ

ぬ山中に途中で多くが脱落し、ここにいるのは三百名をきっていた。

 が、三方を囲んでしまえば、背後の崖からは逃れられない。

「これまでに潜む場所など無かった。奴は、あそこにいるはずだ」

 残存する兵の数からも、戦局は我が方が有利であると考えながら側近は言った。

 朝廷軍は火矢を準備しようとしたが、突風で点火しないばかりか、放った矢も

目先で落下して役に立たなかった。

 雪を掻いて進軍路を作るが、踏み固められたそばから道は降りしきる大雪によ

って、元の木阿弥になった。

「力攻めだ。一気に押し込めッ」

 側近の檄の下、百名程の兵が前進するが、深雪に嵌まり足を取られて蟻地獄の

ように沈んでいった。

 そこに、小屋から矢が飛来して、次々に兵士達を狙撃してきた。

 アザマロの強い膂力と、小屋側では風の抵抗が無かったため、まさに狙い撃ち

だった。

 吹雪きは激しさを増し、寒さで倒れる兵が続出した。

「全軍進めーッ。敵は、目の前のたった独りぞ!」

 動ける五十名の兵達が、まとめて小屋を目指した時だった。

 山小屋の戸が開けられて、捕縛された副将軍が見えた。

 剣の刃が、副将の首筋に当てられている。

「副将軍だ!」

 部下が、叫んだ。

「ええい。止まるのだ!」

 側近が、進軍を制止した。

「人質にしての立て篭りか……」

 側近は、敵の戦術を理解した。

 攻め上れば、副将軍が殺される。こちらを立ち往生させて、凍死させる作戦な

のだ。

 春とはいえ、夜の山頂付近の温度は氷点下になる。

「我に構うなッ。アザマロを討つのだ!」

 副将の声が、小屋から聞こえてきた。

 バタンと戸が閉じて、副将が小屋の中に引き戻された。

「このままでは凍え死にして、全滅してしまいます」

 悲痛な叫びで、部下が訴えた。


 ナギは、アザマロの指示通りに無心で、藁をよじって縄を紡いでいた。

 この吹雪の中である。副将を楯にして、前進さえ阻めば勝機はあった。

 急斜面のため野営して暖を取る事さえままならず、部隊が一旦後退して態勢の

立て直しを計った。

 果敢に前進して来る猛者も数十名いたが、アザマロの正確無比な弓の的になる

だけであった。

 野を駆ける鹿や猪といった獣を射て生きる糧を得ていたアザマロにとっては、

朝廷軍の兵など物の数では無い。

 武装した賊はたった一人と侮り、矢から身を守る楯も持たずに山に入った兵達

は無惨な醜態をさらした。

 夜目の利く野生児だったアザマロは、一晩中暗闇の中で弓矢を射た。


 厳寒の暗闇の極限状況に置かれて、恐怖に怯える者の脳裏には雪女が現れ、手

招きしながら死神のように疲弊した兵達を、死の淵へと追いやった。

 反撃する戦意の萎えた朝廷軍の兵達は、眼前にある暖かい山小屋を前にして、

バタバタと寒さと飛来する矢のために倒れていった。

 完全に、形勢は逆転していた。

 側近は、苦肉の策として戦死や凍死者の骸を積み重ねて陣を敷き、風雪が止む

のを手をこまねいて待つしかなかった。

 身を寄せ合いながら生き残った朝廷軍の兵達は、携行していた火打ち石を使っ

て、死んだ兵士から剥いだ鎧を燃やして暖を取った。

 それはさながら、三途の川岸の衣領樹の下にいて、死者が着ている衣を剥ぎ取

って樹上の懸衣翁に渡す老女の鬼である、奪衣婆が取り憑いているようであった。

 一進一退の膠着状態のまま、夜明けを待った。

 荒れた吹雪きが嘘のようにピタリと止んで、辺りが白んできた。

 空が明るくなると、息をしている者より、凍死した兵のほうが断然に多い事が

判明した。

 生きている兵の顔は皆、憔悴しきっていた。

 アザマロの影が拡大して向かい側の雲に、化け物のように映った。

「助けてくれッ」

 昼夜の強行軍による疲労から朦朧とした意識の兵達は、幻影を雪男と勘違いし

て驚愕した。

 暁に高山の頂上で東方の雲のたなびく中に、薄墨色に輪の形をしたものが上が

って、ぼんやりと巨大な人影のように映る日本に昔から伝えられる御来迎は、近

代科学においては反射する光の屈折によって起こるブロッケン現象と呼ばれた。


 アザマロは、山小屋にある全ての炭と薪を集めて火を点けた。

 そして、副将を解放した。

 小屋を出ると、外界の光によってナギが瞬時にして鷹に変身した。

 アザマロは、鷹になったナギを抱きながら縄を伝い、裏手の崖を一気に谷底深

く滑り降りた。

 轟々と燃え出す炭焼き小屋から、やっとの事で副将が脱出した。

 昨夜とは一変して、春の陽光に風花が舞っていた。

 しかし、陸奥の山は甘くない。

 人知を超えた自然界は、突然その牙を兇暴に剥き出した。

 ドドドドドォォォォ

 地鳴りのような響きが轟いて、燃える山小屋の火災で温められた高熱により表

層雪崩が誘発された。

 雪崩は朝廷軍をあっという間に呑み込み、駿馬よりも早い物凄い勢いで、津波

のように斜面を押し流していった。

 ナギを伴いながら自然を読んで味方に付けたアザマロの策に、千人の朝廷軍が

一昼夜で潰滅した。

 この山頂は約一世紀を隔てて、異界から死者の霊が還る霊山として慈覚大師に

より立石寺(山寺)が建立される場所となった。

 さて、昨晩の翁はいずこに去ったのであろうか…本当に、その資質があるのか

否かを見極めるためヒヒイロカネの剣の伝承者としてアザマロを試したのかもし

れない。

 時空に浮かぶ“マヨイガ”を経る事によって、ヒヒイロカネは神剣としての真

価を発揮していくのだった。


   五 月


 古来、東北は魔界から鬼が出入りする鬼門に当たり、特に岩手は鬼の巣窟と謂

われた。

 その昔、赤い髪に青い目で身体が黒い羅刹という悪鬼の、あまりの悪行に里人

は困り果てていた。

 里人は、人力ではとても動かせないほどの大きさで並んで立った二つの石と、

やや小さな石一つが寄り添っている、三ツ石の神様に祈った。

 里人の願いを聞き入れた三ツ石の神様は、鬼を捕まえて岩の中に閉じ込めよう

とした。

 大いに怖れた鬼は、悔い改めた印として、この巨岩に「手形」を押し、許しを

乞うたので神様は二度とこの地に来ないよう諭して放免した。

 それからは、羅刹が再び姿を見せるような事はなくなったので、この地を「不

来方」と呼び、岩に手形の意から『岩手』の名が生まれたと言う。

 まだ朝廷の支配が及ばず、鬼の棲むという岩手の南部に位置する胆沢地方に、

アザマロは入って行った。


 副将軍紀古佐美は、率いた九割の兵を失って、多賀城に帰還していた。

 惨憺たる負け戦の報に、将軍藤原継縄は愕然とした。

 三千の兵を帝から預けられ、着任早々にその三分の一を戦死させたとあっては

面目も立たなかった。

 アザマロに撃退され、戦意を喪失した藤原継縄は、態勢を立て直した後で蝦夷

攻撃を再開すると言いながらもこれ以上の失策を怖れて、以後は蟄居したまま城

から一歩も外へ出る事はなかった。


 夏の盛りを過ぎて、秋の気配が訪れようとしていた。

 とっぷりと陽が暮れ、夜を迎えた。

 森の中では、夜行性の動物達が活動を始めていた。

 〝ポリポリ〟

 と、野ネズミが雑草の芽をかじっている。

 〝キイキイ〟

 喉を鳴らしながら、イタチが野ネズミを捕らえた。

 〝バサバサ〟

 羽音を立てて、ワシがイタチを文字通り、鷲づかみにして空に舞い上がろうと

している。

 一貫(約3・75㎏)位までの重量なら、ワシはその鋭い爪でつかんで舞い上

がる事が可能である。

 イタチ一匹など造作も無かった。

 だが、狩りではイタチも負けていなかった。

 イタチはワシの脚首を噛み切って、地上に引き摺り降ろした。

 激しい取っ組合いの末、ワシの首根っこにイタチがかぶり付いた時だった。

 苦労して獲ったワシを、テンがイタチから横取りした。

 テンは素早い動きで息絶えたワシを口に咥えて、そのままスルスルと高い木に

攀じ登った。

 ワシとの格闘で傷付いたイタチは、テンを追う体力を失っていたので、折角の

獲物も諦めるしかなかった。

 テンが木のてっぺん近くまで登ってきたので、野鳥達が騒ぎながら羽ばたいて

いく。

 揺れる枝から、木の実がポロポロと落ちていった。

 カモシカが落下する木の実を見つけて、食べていく。

 〝ピヤッ〟

 スッと、耳をそばだてたカモシカが危険を感じた。

 腹をすかせた一匹狼が猛然と、カモシカに向かってきた。

 カモシカは全速力で逃げる。

 狼はカモシカを追い回した末、あっという間にその喉笛を噛みきった。

 狼の一晩の行動範囲は、7㎞から14㎞と言われる。

 例え、好物の鹿肉であっても、自分で得た獲物以外には手を出さない。

 まして、鼻の利く狼は人間のニオイの付いた物は絶対に避ける。

 その嗅覚に優れるがゆえ、極力人間に近付かないように注意していた。

 甘い樹液に、甲虫が群がっていた。

 数匹の甲虫がまとめて、潰された。

 赤褐色の毛足の長い、大きなヒグマが潰した甲虫を団子にした。

 後ろから、小熊が親熊から甲虫を受け取って食べ始めた。

 親熊は甲虫のいた木を引っ掻いて、ガリガリと瑕を付けた。

 木に瑕を付ける行為は、熊の縄張りの目印を意味する。

 他の動物においても、自分の子供を育てるために必要な餌を供給してくれる地

域として、それぞれに縄張りを持つ習性を持っている。

 これを守るためには、同族であっても寄せ付けず、命を賭けて侵入者を撃退す

る。

 そこに、カモシカを咥えた狼が現れた。

 親熊は低く唸って、侵入者を牽制した。

 狼は獲物のカモシカを置いて、逃げるつもりは無かった。

 この場所は、狼にとっても縄張りであったからだ。

 ヒグマは子供を守るため、狼は獲物を盗られないように、二頭の獣の眼が合っ

た。

 〝グフォ〟

 親熊が威嚇の声を上げながら、丸太のような右腕を振り回した。

 熊の鋭い爪が、狼の左耳に当たって少し裂けた。

 狼は後ずさり、熊が自分の獲物を狙っている訳ではないと判ったのか、尻尾を

巻いてその場を立ち去った。

 自然界の厳しい食物連鎖の中では、その狼は新参者で不慣れであった。


 洞窟。

 ナギが独り火を焚いて、まんじりともしないで待っていた。

 〝ワオォォォォン〟

 狼の遠吠えが聞こえてきた。

 ナギは、その鳴き声を確認すると、安心したように眠りについた。


 朝焼けの光に中に立つ影は、アザマロだった。

 アザマロの肩に、鷹が舞い降りてくる。

 アザマロの裂けた左耳に気付いて、鷹が舐め始めた。

 日中は朝廷軍を警戒し、夜中は獰猛な野獣達から身を守らなければならない。

 昼夜を問わず、アザマロに安息の時は無かった。

 アザマロは、自身とナギの身が何ゆえ獣に成り果てたのか、その原因を考え直

していた。

 事の発端は朝廷軍の将軍らを殺めた時から始まっている。

 事態の真相を究明するため、アザマロが胆沢を出た。

 アザマロに撃退された朝廷軍は、多賀城に引き返したので、伊治城はもぬけの

殻同然で閑散としていた。

 アザマロは、獣身から脱するための手掛かりを求めて、かつての居城である伊

治城に潜入した。

 勝手知ったる城内には、たやすく潜り込めた。

 詰所にいた兵の首に、背後からそっと小刀を当てた。

「ひッ」

 兵は、驚いた。

「助けてくれ」

 脅された兵は、両目を見開いて懇願した。

 アザマロは、マヨイガの仙人が見せてくれた術師の施す九字を切った。

「陰陽師の事か…」

 兵が、意味に気付いたようだった。

「ここには、いない」

 続けて、兵が答えた。

 アザマロが、小刀にグッと力を入れた。

「…月見の準備とかで、国府に…」

 兵は、慌てて答えた。

 空を、アザマロが指差した。

「いつかって? こ、今夜だ」

 どもりながら答えた後、気配が無くなったの感じて兵がゆっくりと振り向いた。

 そこには、誰もいなくなっていた。

 今のは夢であったのかと思う、兵だった。

 アザマロは、笹の葉を唇に当てて、草笛を吹いた。

 それに応えるように、鷹がアザマロの差し出した左腕に留まった。

 鷹の頭を一撫ですると、再び空に放った。

 釈迦の遺骨の仏舎利を奪って逃げた鬼を追いかけて捕えるという韋駄天の如く

に、アザマロは原野を駆けた。

 空が夕焼けに染まる前に、国府多賀城の町外れに到着した。

〝オンミョウジ…〟

 アザマロは、伊治の兵が言っていた言葉を反芻した。

 多賀城に近付くにつれて、朝廷軍の兵達の数が目に付いてきた。

 広大な敷地を占領した柵の周りには高い塀が立ち並んで、さすがに国府は警戒

厳重であった。

 ここまで遮二無二駆けて来たが、陰陽師なる者を如何にして探し出せばよいの

か……アザマロは、物陰に隠れながら頭を巡らせた。

 遠くにカラスが鳴いて、日没が迫っていた。

 夜陰に乗じて行動したかったが、今の自分の身の上では、それは叶わない。

 一体、どうすれば………

 と、アザマロが頭を抱えていた時、白装束の身なりをした者が出入口の門に、

チラッと見えた。

 まだ、陽が暮れていないのに、東の空には満月が薄く見えていた。

「ッ?」

 アザマロの脳裏に、ピンとくるものがあった。

 月見がどうとかと、脅した兵が言った事を思い出した。

 祭壇の下に、白い大きな団子を並べた皿があり、その横にススキと御神酒、様

々な供物が置かれていた。

 〝誰そ、彼は〟

 薄暗くて、人の顔が見分け難く、〝そこにいるのは、誰か〟と問う意味の黄昏

時だった。

 アザマロは、辺りが暗くなり始めたのを見計らって、猫のような跳躍で塀を飛

び越えた。

 陰陽師が、官衙街の数ある館の一つに入って行くのが見える。その後を追って、

アザマロが屋根を伝って近付いていった。

 陰陽師は、館の明りを灯そうとした時だった。

 アザマロは、陰陽師の首筋に刃を突き付けながら口を塞いだ。

 陰陽師は、冷静を保ったまま頷いた。

 刃を首に当てたまま、陰陽師の口からアザマロは手を放した。

「何用だ」

 陰陽師は、静かに聞いた。

 明り取りから、月明りがわずかに射し込む

 暗がりの中で、アザマロは陰陽師に相対した。

「アザマロか…」

 と、陰陽師が呟いた。

 サッと、陰陽師の左腿をアザマロが斬った。

 陰陽師が、動揺した。

 続けて、右腿も斬った。

「何をする! 術を施したは我ではない」」

 陰陽師は、斬られた両脚を押さえながら言った。

 アザマロが、小刀を振り上げた。

「陰陽博士…」

 逃げられないと観念したのか、陰陽師が白状した。

 アザマロは、地面に日輪を模した円を描き、それを塗り潰して見せた。

「日蝕の事を言っているようだが…」

 意味を解して、陰陽師は言った。

 アザマロが、空を指差した。

「詳しい日時は星の相を観る、博士にしか解らぬ」

 再び、アザマロが小刀を構えた。

「まことだ。陰陽道にも位が在る。我如きは、まだ暦を見定めるほどの立場では

ない」

 命の危機を悟った陰陽師は、慌てて話した。

 アザマロの天性の野性の勘が、見え透いた嘘をつく男ではないと直感した。

 そして、前を探るような仕種をした。

「内裏だ」

 陰陽師が、答えた。

 朝廷に雇われていた時、赴任して来た下士官達が、帰京を懐かしみながら内裏

にいる貴族達の雅やかさについて雑談していた事を、

アザマロは思い出した。

 アザマロは、さらに遠くを指した。

「己如きが、立ち入れる処ではないわ」

 この時とばかりに、帝がおわす京も知らぬ無礼な野人に対して、陰陽師が毅然

として言った。

 朝廷を侮辱する事は、この世の何人と言えど許されないと考えたからだった。

 外に灯りが点き始め、館に光が洩れてきた。

 日没直前だった。

 アザマロは脱兎の如く館から出て行き、陽が落ちる寸前に柵を飛び越えた。

 一瞬にして、狼に変わったアザマロは、満

月の光を避けるように闇に紛れていった。

 ヒトに戻るのは、そう簡単ではない事を知らされただけであった。

 陰陽師が、灯明皿に火を点けた。

 そして、血に塗れた装束を着替えて、何事も無かったかのように月見の儀式に

向かった。

 この頃、中国・唐の時代から日本に伝えられた風習で、陰暦八月十五日に行な

われる。

 元々は、当時貴重であった里芋の収穫を祝う行事で芋名月とも呼ばれていた。

 その後、天の恵みに感謝して、この時期の収穫全般を供えるようになる。

 月は欠けてもまた満ちる。

 つまり、一度姿を消しても再び現れる事から不老長寿の象徴でもあり、天に耀

くモノとして畏敬の対象とされた。

 仲秋の名月と呼ばれる十五夜には、芋・野菜・米等を月の形に似せて団子にし、

その年の月数である一二個(閏年は一三個)とススキを供える。

 ススキは生命力が強い事から、健康祈願の意味が込められていて、軒先に吊る

すと一年の間、病気にならないとされている。

 また、日本独自の文化として、翌月の少し欠けた十三夜に粟や豆を供える所も

ある。

 完全に満ち足りた瞬間から凋落が始まるので、頂点に達する途上であるモノを

愛でる独特の美意識でもある。

 この思想は徳川家康を祀る日光東照宮において、廓の柱の一つを逆さに作り、

故意に不完全にする事で魔を祓う建築技法にも垣間見る事ができる。

 長月になり、満天の星の真ん中に、満月の次に美しいと謳われ、栗名月と異称

される十三夜月がぽっかりと出ていた。

 陰陽師は、先月に引き続いて月見の儀式を執り行なっていた。

 十五夜と十三夜の両方を祝わないのは“片月見”と謂われ、縁起が悪いとされ

ていたからである。

 藤原継縄は、館の縁側において、夜風に吹かれながら空を見上げていた。

 欠けていく月を見ながら、我が世の儚さを感じていた。

 国府にさえ易々と押し入り、陰陽師をも傷付けたという報を聞き及ぶにつれ、

継縄はいよいよ屋敷の奥座敷に引き篭った。

 そんな臆病風を吹かせる彼に対して、軍監からの報告を受けた朝廷は、陸奥将

軍職を罷免した。

 継縄がこれ幸いとばかり逃げるように京に戻って行った事は、言うに及ばなか

った。

 士官としては、紀古佐美一人が多賀城に居残り、国府を守る事になった。


   六 謀


 奥州街道。

 路傍に咲き乱れるリンドウやナナカマドを、無数の軍靴が踏み潰していく。

 青紫色の花と紅葉した赤い実が押し潰されて流れ出る汁は、虐げられた陸奥の

民の血を想起させた。


 平城京。

 勿来の関を抜け、解任された藤原継縄と共に約一月を要して陰陽師が帰京した

のは朝方に霜が降りる、まさに霜月の頃であった。

 その足で所属する陰陽寮に行き、陰陽博士にかの地における状況を報告した。

 個人的に、アザマロに襲われた事までは言わなかった。

 長い旅路の末、病や流れ矢に当たって死に至る危険のある陸奥から生還した事

に対して、労いの言葉一つも無かった。

 それどころか、博士は三度、陸奥への下京をニベも無く促した。

 大内裏から出る事もなく、実際に現地で矢面に立つのは自分なのだ。

 博士に都合よく手足のように扱われる事に対して、以前から不満を持っていた。

 政治的野心を持つ博士は、己の後任人事を血縁関係の者に決めていて、陰陽寮

における院政を敷こうと画策していた。

 在籍する六名の陰陽師の中で、自分だけが都落ちを命ぜられ、冷遇されている。

 部下の仕事は上役の手柄を立てる事と承知はしているものの、文句も言わず粉

骨砕身に仕えた、その結果はどうだ。

 博士の人となりからは予想された事とはいえ、陰陽師は腸が煮え繰り返る思い

にひたすら耐えた。

 再び、陸奥に派遣されれば、アザマロとの一件から自身の命が危うい。

 ぞんざいに扱われた末、ボロ切れを捨てるように辺境に追いやるなど、まるで

流刑も同じだ。

 出世街道から外れて、遥か北の果てで朽ち果てる事など、到底受け入れられる

ものではない。

 陰陽師は、決意した。

 このままでは、終われない。 

 そして、その陰陽師は、博士暗殺のある企てを練った。

 寝て待っていると、やっと月が昇ってくるというほどに月の出が遅いので、そ

の呼び名が付いている寝待月の晩だった。

 陰陽師は、二本の瓶子を持参して、無類の酒好きで好々爺然とした暦博士の屋

敷を訪ねた。

 陰陽博士と共に陰陽寮に在籍する暦博士は、日月運行の度数を測り、暦を作る

暦数の技術官として暦学を司っていた。

 正確無比な暦を朝廷に奏上するのが暦博士の仕事であり、その暦を元に様々な

年中行事が組まれる。

 永らく江戸時代まで使われた太陰暦は、月の満ち欠けを基準に作られていた。

 呪術や祈祷を生業とする陰陽道に必要不可欠な星々の動きを観るには、天体に

おける専門知識が要求される。

 暦を作る天文記録は門外不出であり、一介の陰陽師には入手困難であった。

「さ、一献。陸奥土産です」

 陰陽師が、盃に濁酒を並々と注いで勧めた。

「かたじけない」

 酒に目の無い暦博士は、遠慮なく呑み干した。

 陰陽師は、別の瓶子から手酌で呑んだ。

「これは、またうまい。しかし、遠路遥々陸奥まで、そちも大変よのう」

 暦博士は、北方の酒の味に満足した様子である。

「いえ、務めに御座りますれば」

 陰陽師は、暦博士に続けて酌をした。

「陸奥と言えば、いつもの年とは異なり、この秋の十五夜は月が僅かながら欠け

ておりました。月蝕の影響でしょうか」

「五年に二度、月余りの閏年は知っておろう」

「はい」

「蝕で欠けるは、その不足分を調整しているのだ」

「なるほど。さすがは、暦博士」

 陰陽師は、おだてた。

「何、それがワシの仕事である」

 誉められて満更でも無いといった風で、暦博士はほろ酔い加減から酩酊状態に

なっていた。

「では、日も月と同様と考えてよろしいのですか」

「さよう。今年は月蝕。次は、日蝕だ」

「それはいつの事で」

 更に、酒を勧めながら陰陽師は催眠術を使って聞いた。

「再来年、十五夜の明けじゃ」

 陰陽師の誘導尋問に、暦博士は他言無用の事柄についてもつい口を滑らせた。

 陰陽師は、序列上自分の上官である陰陽博士に聞く事が憚られる日蝕に関する

正確な日時を、暦博士から聞き出す事に成功した。

 酒に強い筈の暦博士は、短時間で泥酔して意識朦朧となり、強い催眠効果に襲

われた。

 一方の陰陽師は、素面だった。彼が呑んでいたのは、水であった。

 暦博士が呑む瓶子には、椎茸のカサの裏に付着している粉末が混ぜられていた。

 椎茸の粉は、酔いを急激に増幅させる酵母作用がある。

 今、話した事を忘れるように術をかけた後、昏睡した暦博士を置いて、静かに

陰陽師は立ち上がった。


 国府多賀城。

 いつもは落ち着きがある坊さん(師)でも、この時期は非常に忙しくて走ると

いう師走のさなか、朝廷において参議を務めていた古老の藤原小黒麻呂が新しく

将軍の座に就いた。

 度重なる将軍の首のすげ替えにより、御鉢が回ってきたのだった。

 盛りを過ぎた齢五十にして、小黒麻呂は人生最後の大勝負に出た。

 同じ藤原姓として、継縄のようなブザマな家系と一緒にされて没落する訳には

いかない。

 陸奥下向における手柄の土産を足がかりにして、最高官位である太政大臣に登

りつめるつもりだった。

 そして、人事権を握った後は身内の者を内裏に推挙して、次世代にも影響力を

残しつつ一族の派閥を磐石なものとしたかった。

 付随して任官された四人の副将軍の中には、本人の強い希望もあり、引き続い

て紀古佐美も名を連ねていた。

 まるで、アザマロは鬼のようであったと、副将紀古佐美は伝えた。

「胆沢から先の日高見は、鬼の棲む国と噂されるが、まことさような事があろう

か」

 新将軍小黒麻呂は、言った。

「鬼とは大袈裟な。畜生にも劣る獣の一匹や二匹に怖気づくなど、私がその陸奥

の夷狄を退治してみせましょうぞ」

 新任の渡来系副将軍、百済王俊哲が自身ありげに言った。

 当てつけがましく言う俊哲を、古株の古佐美は睨んだ。

「何か、策でもあるのか」

 ムッとしている古佐美を一瞥しながら将軍が、俊哲の方に顔を向けた。

「はい、兵の数を頼むより質が大事。夷を以って夷を征す。噛ませ犬を使います

る」

 京言葉を端々に響かせて、俊哲は皮肉交じりに吹聴した。

「この北国では、春までは戦など不可能です。陸奥の地形を熟知し、妖刀を使う

アザマロは侮れませぬ。まず、出城を造って橋頭堡を築いた後に、じっくりと攻

めるのが肝要かと。アザマロを他のエミシから孤立させて、燻り出すのです」

 古佐美が、進言した。

「将軍。アザマロとやらを見せしめに討つのが先決です。そやつがエミシを束ね

でもしたら、それこそ手を焼く事に」

 俊哲は、持論を主張した。

「どちらも一理ある。俊哲には、手勢を率いて討伐へ。古佐美は、夷俘を集めて

築城の手配に取り掛かれ」

 将軍が、下知をした。

「はは」

 副将達は、返答した。

 独裁的な紀広純、事勿れ主義の藤原継縄らの前任の将軍達とは異なり、小黒麻

呂は人を使う調整型の大将であった。

 小黒麻呂が折衷案を取ったのは、副将同士の不協和音を避けるという単純な事

ではなく、それなりの訳があった。

 新たに城を築くには、その周辺の敵を遠ざけておかなければならない。

 俊哲にアザマロを狩り出させている間、他のエミシにも睨みが利く。

 注意を逸らしている間に、着々と築城していくというものだった。

 随行者として、陰陽師がとんぼ返りのように陸奥に舞い戻される事になった。


 アザマロとナギは、夏の間は高地の木の上に、鳥の巣のような物を作って暑さ

を凌いだ。

 夏バテ対策には、体の大きさが20㎝にも達し、牛に似た太い声で鳴くウシガ

エルや蛇の皮を剥いで滋養をとった。

 カエルや蛇は鶏肉に近い味がするとされ、貴重なタンパク源であった。

 秋には鮭を燻製にして、冬の保存食とした。

 更に、アナグマを捕まえた。

 クマという名が付いてはいるが、イタチの仲間である。

 日本のアナグマはタヌキに似ていて、自然の中でちょっと外形を見るだけでは

見分けがつかない。

 よく、タヌキ汁の話を聞くが、本当に美味しいタヌキ汁はアナグマだそうだ。

 冬は洞窟に潜って、雪から逃れた。

 洞窟内に流れている清水には、大山椒魚がいたので、それを焼いて食べた。

 現在では天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているが、かつては相当数棲

息していた。

 味は牛肉に似て、大変美味であるという。

 地下道の奥には冬眠中のコウモリも無数にいるので、それも潰して食べた。

 蝦夷と呼ばれたアザマロのような山の民にとって、生きる事とは常に食べ物を

探す作業の連続であり、人との殺し合いは本来無用なものであった。

 しかし、食べる事と同様に身を守るためには、戦わなくてはいけない時がある。

 執拗に武装して京から攻めて来る朝廷軍は、動物界における縄張り争いと同じ

種類のものだった。

 ただ、動物達と異なる点は、ヤツラの欲望には際限が無いという事だ。

 叩いても叩いても、後から後から蛆虫のように湧き出てくる。

 逃げて身を隠すだけでは、解決しない。

 自分の居場所を確保するには、ヤツラを近付けてはいけない。

 そのためには、ヤツラよりも強い者がいる事を知らしめなければならない。

 弱い者や抵抗する者を殺し、それでも足りずに鬼術を操って、獣に貶めたりも

する。

 ミヤコと呼ぶ場所から襲って来る兇暴な魔物を滅ぼさなくては、この日高見に

未来は無い。

 アザマロは、雪に閉ざされた冬の間中、暗い穴倉で考えを巡らせていった。

 狼は、決して人に近付かない。

 夜になると、アザマロは外に出て行った。

 昼の間、鷹として空を舞っていたナギは、狼と入れ替わるようにして洞窟に戻

った。

 一人きりで何もする事もないナギは、夜なべをして着る物を編んだりして過ご

した。

 当然ながら獣でいる時は裸でいられるが、ヒトに戻った時には、たまらなく寒

い。

 氷点下の気温に耐えるには、厚着をしなければならなかった。

 焚き木を節約するためにも、防寒用の上着として自分とアザマロの二人分を拵

えた。

 アザマロは食糧を、ナギは衣類を担当する分業が、いつのまにか二人の間に成

立していた。


 平城京。

 一向にはかどらない蝦夷征伐を苦慮した帝は、陰陽博士に吉凶を占わせた。

 その結果、鬼の影響が強いと出た。

 六十日の内、一六日間は天一天上にあり、その他は巡行して東・西・南・北に

各五日間ずつ、北東・南東・南西・北西にそれぞれ滞留する神を、陰陽道におい

ては天一神と言う。

 この神がいる方角は、“方塞がり”であるとして、その方角に向かって行く事

を嫌った。

 帝は魔を祓う意味で、陰陽博士から勧められた物忌みを行なって年を越した。

 中国の古い言い伝えによれば、革命が起きる辛酉の年であった。

 帝位在位中、十一度目の年が明けて四方拝を執り行なった後、次期皇位につい

て急激な動きがあった。

 光仁帝の皇后は、皇室の先祖を祀る伊勢神宮に奉仕する伊勢斎宮を務めた経歴

があり、聖武天皇の皇女時代には井上内親王と名乗っていた。

 その実子である他戸部親王は、血統的にも皇太子として申し分無い存在である。

 しかし、帝を呪詛していたとして皇后・皇太子共に、突然廃される事件が起こ

った。

 更に、難波内親王をも呪ったとして、人質に捕られるように母子二人は幽閉さ

れた。

 政変が起きたのである。

 皇位の継承儀式である践祚が行なわれ、年号である宝龜を一二年(781)で

終わらせて天応元年と改元された。

 帝の足元は揺らぎ始め、陸奥の蝦夷征伐どころではなくなっていた。


 冬の間に凍った北国の土も柔らかくなり、白い卯の花が咲き乱れる卯月になっ

た。

 副将古佐美は、新たなる進出拠点としての出城の場所選定に取り掛かっていた。

 それに際して、江刺の実力者である蝦夷を伊治城に呼んだ。

 イサセコ(伊佐西古)と名乗る大柄な男に、交易権と共に吉弥候と賜姓を与え

て爵位も授け、江刺地方における俘囚長に任じた。

 既にこの地を実質上治めていて、何ら失うものの無いイサセコにとっては、朝

廷からの申し出を断わる理由も無かった。

「江刺より下った処に、小さな柵を設けたい」

 イサセコとの関係を築いてから、古佐美は本来の目的の話を切り出した。

「サク?」

 イサセコが、聞き直した。

「我等が休憩する場所だ。そちらの家々を借りる訳にもいかぬであろう」

 古佐美は、軽い調子で続けた。

「そこで、何をする」

「帝が望む金を採るための準備だ」

「ミカド?」

 江刺において金は無用の長物だったが、ミカドという言葉にイサセコは反応し

た。

「神とお呼びしても良い」

「お主等のカミであろう」

「お前も既に臣下ぞ。とにかく、早急に柵を造らせてもらう」

「どのくらいの広さだ」

「何、ほんの数十名程が寝泊りするぐらいだ」

「その程度なら、好きにするがいい」

 イサセコは、武力を持って自分達の家屋に上がり込まれるよりマシだと思い、

柵の造営の許可を出したのだった。

 無駄に争わず、柵造りの材料と京の絹織物等を物々交換して、双方が富めれば

それに越した事は無いと考えたからだ。

 この時はまだ、イサセコ自身、紀古佐美を結果的に謀る事になろうとは、夢に

も考えていなかった。


 陰陽師が、地面を踏みならして反閇をしながら立位礼拝をしていた。

 伊治城より北の胆沢側に、覚べつ城と名付けられた柵の建築に当たり、陰陽師

が土地の神を鎮める地鎮祭を行なうべく、その儀式が行なわれた。

 将軍と四人の副将の内、二名が国府に残り、古佐美と俊哲の二名が地鎮祭に出

席した。

「陰陽師殿」

 清めの儀式の後で、俊哲が陰陽師を呼び止めた。

「アザマロとやらが狼にされたというのは、まことでござるか」

 中務省陰陽寮は、帝が重用する役所でもあったので、そこに所属する陰陽師に

対して俊哲は丁寧な口調で応対した。

「……」

 陰陽師は、俊哲の質問の真意を考えあぐねた。

「連れの女は鷹になったとも。であれば、鷹を追えば狼に辿り着く道理」

 俊哲は宮中に居た時に、アザマロの血で塗れたナギの髪で呪術をかけたという

話を小黒麻呂から聞き及んでいた。

 呪詛に用いた血塗れの髪を陸奥から持ち帰ったのが、目の前にいる陰陽師であ

るという事も突き止めた。

 朝廷における処世術として、耳聡い情報力を持っていたのだった。

「何を、聞きたい」

「以前、アザマロらしき者に前将軍が襲撃された折り、鷹の羽毛を拾われてござ

らぬか」

「……」

 俊哲が何を考えているのかが見当もつかなかったので、陰陽師は即答を避けた。

「ヤツを狩るのに、是非お力をお借りしたい。詳細は伊治城に戻ってから、改め

て伺いまする」

 そう言い残すと、周囲を憚るように俊哲が踵を返した。

 古佐美の方は、柵に必要な木材とそれを繋げる木釘の材料の卯木を、イサセコ

を通じて大量に確保し、夷俘を掻き集めて昼夜を通じて築城の突貫工事を行なう

ように指示した。


   七 豺狼


 五月雨が続いていた。

 剣の形をした葉を持ち、白くて紫のぼかしの中心に黄色い可憐な花を開いた、

シャガが咲いていた。

 アザマロは、覚?城の造営に気が付かなかった。

 朝廷軍の兵が攻めて来る様子については、事前に把握する術もあったが、同属

の蝦夷が働いている所には注意を向けていなかったのだ。

 建築現場で作業する夷俘に紛れて、アザマロは柵の周りを探った。

 その規模に危機を感じて、俘囚だった頃に伊治城で面識があったイサセコの館

を訪れた。

 京の交易により財を成したらしく、京の建物を模した造りであった。

 イサセコは、突然のアザマロの訪問に驚きながらも、かつては朝廷に帰順して

いたよしみから敷居を跨がせた。

 室内には、数々の京の調度品が飾られて並んでいた。

 風折り烏帽子に狩衣・指貫を着用したイサセコの姿は、まるで恵比須を思わせ

る風貌でその京ぶりをうかがわせた。

 アザマロは、壁に貼られた柵の完成図を指差した。

「柵の事か。金を採る人足のために、数十人が宿営する場だ。争うよりは、良か

ろう」

 イサセコは、悠然と構えて京言葉で答えた。

「築柵に従事する者は収入が得られ、働きに応じて豊かになれる」

 詭弁がましく説明するイサセコを、アザマロが軽蔑の表情で見詰めた。

 イサセコ自身、納入した材木や卯木の量から考えても、ただの柵ではない事を

薄々は勘付いていた。

 見て見ぬ振りをしていただけであった。

「……どうせよと」

 多少の罪悪感はあったようだった。

 イサセコが、観念して折れてきた。

 アザマロが、短剣を抜いて柵の図面に突き刺した。

「城を潰すと。あそこは同胞が多く働いている。今、刃向かったら仕事を失った

上に、皆殺しになる」

 イサセコが語る事を、黙ってアザマロは聞いていた。

「手立ては、あるのだな」

 短い沈黙の後、イサセコがポツリと口にした。

 アザマロは、静かに頷いた。

 イサセコは、アザマロの強い覚悟を感じた。

 三千の帝の兵を相手に、たった独りで戦ったアザマロならやるのであろう。

「柵の人足には、他の地域の者も混じっている。和賀のモロシメ(諸絞)をはじ

めとして、気仙のヤソシマ(八十嶋)や稗貫のオトシロ(乙代)らにも話を通し

ておかねばなるまい」

 根回しの必要性を、イサセコは説いた。

 この頃、中央政府による蝦夷に対する同化政策が強化され始め、イサセコにと

っても日高見まで朝廷軍の支配が及ぶ事には危惧していた。

 だが、交易による富も捨て難く、イサセコはある考えを持っていた。

 商人の気質があるイサセコは、稼げるだけ稼いだ後、柵を取り壊してくれるア

ザマロを利用する魂胆だった。

 無論、アザマロもそれを承知していた。

 そうでなければ、イサセコが話に乗る筈も無い。

 裏切り者と謗られたアザマロの心中にも、イサセコには同情するものがあった。

 京からやって来て実力行使する者に対して、俘囚の烙印を捺されて生きる事は

無駄に血を流さない処世術だった。

 同時に、蝦夷と蔑まれて生き長らえる恥辱より、北の民としての誇りを胸に戦

う姿勢にも共感できた。

 その狭間で生きるアザマロには、一種憧憬にも似た思いを抱いていた。

 ずるいようではあるが、自身は安全な場所に身を置きつつも、陰ではアザマロ

を支援する事で、葛藤する心に折り合いを付けた。

 俘囚として隷属した振りをしながら朝廷軍の北進を阻むという、二枚舌の外交

で古佐美の思惑を出し抜く腹積もりだった。

 イサセコとて、蝦夷の血が流れている。

 各地の蝦夷の長を説き伏せて、アザマロに賭けてみる事にした。

 彼もまた、心を決めた。


 伊治城。

 古佐美が柵の建設を指揮していた頃、俊哲は伊治城に常駐して陰陽師と会って

いた。

「鷹を生け捕れば、アザマロは必ず現れましょう」

 俊哲が、策を述べた。

「……」

 陰陽師は、黙して聞いていた。

「一息に呪い殺す事は出来ませぬのか」

「陰陽博士が施した方術は強力で、他の術師の技など容易に受け付けぬ。簡単に

解ける術ならば、アザマロが苦しむはずがない」

「これは、したり」

「が、我とて陰陽師の端くれ。そちの願い、聞き入れようぞ」

 術を行なうには、最良の時期というものがある。

 時期は、この月に雨量が少ないと稲穂が育たないので、豊作を天に願う雨乞い

の祭礼を行なう水無月の、月が満ちる望月の夜と決まった。

「お願いいたしまする」

「但し、条件がある」

 俊哲が呪術を頼むと、陰陽師はそう答えた。

「誰にも知られずに、我の前に連れて来るというのならば」

 陰陽師は計画を実行するための仕込みに入った。

 それには、アザマロと会う必要があった。

 密かに、入れ智恵しつつ俊哲を利用するつもりであった。

「分かり申した」

「鷹に印を付けるのは請け負うが、見付けた

として、いかように鹵獲する」

「手なずけた夷俘の犬使いがおりまして」

 ヒトの姿のアザマロに手を焼くなら、狼になっているアザマロを追えばいい。

 獣には獣に狩らせるのが良策だと、俊哲は考えていた。

「なるほど…」

 陰陽師は、納得した。望月の丑寅の刻限だった。

 それまでうるさかった、蟇蛙の鳴き声がピタリと止んだ。

 陰陽師が独り、鷹の羽毛を使って邪な呪術を行なっていた。


 他の鷹に追われながら西日を遮るようにして、鷹の姿のナギがアザマロの肩め

がけて舞い降りた。

「ッ?」

 アザマロは、驚いた。

 いつも通り毛づくろいをしている鷹の羽毛が新雪のように、真っ白になってい

たのだ。

 その日の夕刻であった。

「わあああああ」

 ヒトの姿に戻ったナギが、顔を洗おうと小川のせせらぎに映った自身を見て悲

鳴を上げた。

 黒かった髪と、さらに眼球さえも、白子のように全身真っ白になっていた。

 その昔、隔世の劣性遺伝により黒色系統のメラニン色素が極端に欠乏して、皮

膚の色が白くなって産まれた児を白子と呼んだ。

 瞳孔さえ白い異常な白皙から不吉とされ、また身体的にも弱く短命であったの

で、人目を避けるように死ぬまで座敷牢に軟禁された哀しい定めがあった。

 ナギは、有り得ない事態に一晩中泣き腫らしたまま、旭日を浴びて化身してい

った。

 真夜中になると、狼となったアザマロが、月夜の湖面に映る自らの姿を見てい

た。

 その眼に白い牙が見えた。

 牙と同様に、体毛も白くなっていた。

 白鷹から感染したのであった。

 〝ワオォォォォン〟

 望月に向かって、白狼は咆えた。


 大勢の兵を率いて敗退した紀古佐美の愚行を教訓に、俊哲は少数精鋭の地元の

蝦夷を使う事を考えた。

 山に棲み慣れた同じ蝦夷の方が、探索し易い筈である。

 不幸にも、マタギと呼ばれる特殊な伝承を持つ猟師の長である老齢な夷俘に、

白羽の矢が立てられた。

 熊狩りで名うてのマタギは、豺という獰猛な山犬を連れた犬使いであった。

 狼に似て痩せ、性質も乱暴な山犬のサイは日本の固有種であるが、日本狼同様

に絶滅種となっている。

 自然の神々を抹殺する引き換えに、ヒトは文明を築いていったのかもしれない。

 狼に比べると、ヒトに懐く習性が残るサイの群れが野に放たれた。

 滅多にヒトに近付かず、賢く用心深い狼の習性を知るマタギは、単独でサイの

群れを連れて深山に入って行った。

〝白い鷹を捕らえろ〟

 それがマタギに下された命だった。

 マタギの年老いた母と、病弱な妻が人質に捕られた。

 白鷹を生け捕れば、妻を国府にいる医者に診せてくれると言われた。

 断われば、一家根絶やしにするとも…自分の置かれた境遇に観念したマタギは、

猟師仲間に手分けをして白い鷹を探させた。

 梅雨の長雨が過ぎて、一月が経っていた。

 モクモクと、澄み切った梅雨明け空に、炭を燃やした合図の狼煙が上がった。

 経験から辺りを付けた要所に配置した仲間の一人が、目的のモノを見付けたら

しい。

 マタギの長は、七頭のサイを連れて、黒い煙の立つ方角に向かった。

 遠目の利く犬使いのマタギは、遠く空に白い鷹が山から吹き降ろす上昇気流に

乗って、ゆっくりと飛んでいるのを発見した。


 アザマロは、白子となった自身の姿に驚愕した。

 何が、起きたのか分からなかった。気が動転していたせいもあり、狼に変身す

る夕闇迫る直前まで、空に上がる黒煙には気が付かなかった。


 ねむの木が、房のような淡い紅色の小花を開いている。

 鷹を追って行く内に、辺りが暗くなり、マタギが松明を灯して野営の仕度をし

た。

 長い期間、獲物を追って季節を跨ぐ事も稀ではないマタギにとっては、野宿な

ど日常茶飯事であった。

 〝ヲォンヲォンヲォンヲォンッ〟

 急に、サイの群れが騒ぎ出した。

 おじぎ草の名で知られたねむの葉がたたまれて、垂れ下がった付け根から水気

を出していた。

 マタギは、異変に気付いた。

 この種の木は小動物等のちょっとした接触でも、葉の柄の内部に含まれた水分

が刺激に対して、敏感に反応する植物だったのだ。

 クマが通った痕跡かもしれない、そう感じてマタギが身構えた。

 〝ガウウゥゥ〟

 サイ達の唸り方は、何か得体の知れないモノに脅えているようでもあった。

 マタギの手綱を振り払って、サイ達が駆け出した。

 ただならぬ気配を感じて、マタギも後を追いかけた。

 山中の暗がりでも、その白いモノは際立っていた。

「……これは………」

 マタギは、驚嘆した。

 松明に映ったモノは、これまでに見た事も無い、目の玉から足の爪の先までが

一点の曇りも無く雪のように白い狼だった。

 白い狼など、滅多にいるものではない。

 きっと、シルマシであろうとマタギは思った。

 シルマシとは、東北地方に伝わる天からの前兆を意味する。

 マタギは、山のカミからの御告げだと考えた。

 獲物を求めて、サイ達が白狼に襲い掛かった。

 白狼の周りを、七頭のサイが取り囲んだ。

 一頭が白狼に、突進していく。白い鋭い牙が、サイの顎をえぐった。

 〝キャイーン〟

 サイの一頭が、野にもんどりうった。

 別のサイが、白狼の背後から襲った。

 臀部を齧られて、動きが止まった白狼に、残りのサイ達が一斉に飛び掛かる。

 多勢に無勢と思った白狼は、頭格のサイを探した。

 頭を張っているサイは、争いを遠巻きにして睨んでいた。

 白狼は、傷めた臀部から血を流しながらも高く跳躍して、頭格のサイの前に進

み出た。

 頭格以外のサイ達が、盛んに咆え立てた。

 白狼と頭格のサイは共に咆えずに、低い姿勢をとって、互いの喉笛を狙ってい

た。

 狼もイヌ科であるが、強い犬ほど安易に咆えない。

 二頭の睨み合いが続く中、他のサイ達の鳴き声を聞き付けて、マタギが追い付

いて来た。

 間近で見ると、純白の神々しい耀きに吸い込まれるように魅入られた。

 サイ達は何かに憑かれた如くに物狂いのような状態になり、マタギもまた、し

ばし茫然自失となっていたが、ハッと我に返ると火矢を弓の弦につがえてキリキ

リと引き絞った。

 依然として、サイと白狼は睨み合ったまま、互いの強さを認めるがゆえに迂闊

に手が出せずにいた。

 マタギが、サイ達からカミの化身である白狼を逃がすつもりで弓を射た時だっ

た。

 白狼が、顎をえぐられて昏倒しているサイの体に身を隠した。

 地面に突き刺さった火矢が、周りを照らした。

 火を怖れて、サイ達は後ろに引いた。

 その間隙に、白狼が逃走した。

 マタギは、犬にしか聞こえない特殊な犬笛を吹いた。

 頭格を先頭に、正気に返ったサイ達が戻ってきた。

 白鷹を追って、白狼が現れたのは偶然ではない。

 霊感のようなモノを、マタギは感じた。

 白狼を追えば、白鷹を捕らえる事が出来るかもしれない。

 マタギは、白鷹を求めて白狼の追跡を再開した。

 白狼は、山々を走って走って走り抜けた。

 サイ達との獣同士の闘いなら受けて立つつもりだったが、人間が相手では逃げ

ざるを得なかった。

 傷付いた体に鞭打って険しい崖を登った。

 いつしか、急峻な断崖に白狼は追い込まれていた。

 〝ガルルゥゥ〟

 威嚇するように、いつでも飛び掛かれる半立ちの姿勢で白狼が咆哮した。

 サイ達は、ゆっくりとにじり寄った。間合いを計るように頭格のサイが、白狼

を崖の端に追い詰めていく。

 もうすぐ、夜明けだった。

 白狼の強さを知る頭格のサイは、主人が到着するのを待った。

 一刻が過ぎたろうか。

 チラチラと、マタギの灯す松明が崖下に見えてきた。

 人の歩幅では、獣の数十倍も時を要する。

 特に鼻の利くサイに、臭いを追わせながらようやく追い付いたのだった。

 朝靄が立ち込めて、周囲が見える明るさになってきた。

 マタギが、松明を消した。

 それから、再度、弓矢を構えた。

 矢じりには布に綿を包んで丸くした柔らかいタンポを付けて、傷付けずに済む

ように配慮した。

 白狼は崖のギリギリまで後ずさると、後ろ足を地に付けて飛ぶ態勢になった。

 崖から、小石が落下していく。

「ネマッテロヤ(座っていろよ)」

 マタギは、祈るように呟きながら狙いを定めた。

 〝ヒュン〟

 と、弓から矢が弾けるように白狼に向かって飛んでいく。

 矢が胴体に当たる瞬間、白狼の姿が消えた。

「ッ!」

 アッとマタギが思った時には、そこに白狼の姿が無かった。

 〝バシャーン〟

 川面に、落ちる音が聞こえた。

 慌てて、マタギが崖の下を覗き込んだ。

 崖下の激流に飲み込まれたのか、白狼は浮き上がってくる様子は無かった。


 朝焼けが射してきた。

 流れの澱んだ川岸に群生する樹上に、親指くらいの大きさに包まれた白い泡が、

たくさん垂れ下がっていた。

 モリアオガエルが、産んだ卵を天敵から保護するための智恵だった。

 卵の側の岸から、アザマロが青息吐息で這い上がって来た。

 なぜ、自分が尻にケガをし、川で溺れかけている時に目覚めたのか? 

 白狼としてサイに追われて、命からがら逃げて来た事など覚えている筈も無か

った。

 狼でいる時の記憶は無い。

 ただ、白子になった事と、何か関係があるとは思った。

 これまでにも、朝、気づくと身体に身に覚えの無い傷があったり、口の中が血

塗れで生臭い肉の味が残っていたりした。

 昼の間、ナギが鷹になるのだから、夜になると野獣と化した自分が獲物を捕食

しているだろうとは想像できた。

 近くにサイ達の気配は無かった。

 アザマロに幸いしたのは無意識にも川に入った事により、偶然にも自分の臭い

を消す事が出来たので、その後サイ達はここまでは追ってこられないようだった。

 白鷹が慕うように、アザマロの左肩に止まった。

 このような追跡のされ方は、かつてなかった。

 煙を焚き苦しくさせて燻り出させるが如く、全身の色を変えて周囲から浮き上

がらせるなど、これはまさしく鬼術だとアザマロは直感した。

 自分を追い詰めているのは、陰陽師であると。

 傷付き疲れた身体を引きずるようにして暗い洞窟に辿り着くと、アザマロはそ

の場にどっと倒れ込んだ。

 アザマロは夜になったのも気付かずに、眠り続けたまま白狼の姿になっていた。

 洞窟の中で、ナギが虫の息の白狼を一心に手当てをしていた。

 白狼はナギの膝の上で頭を撫でられながら静かに眠っていた。

 朝、白鷹は鳥としての習性からか、外の明るさを求めて暗い洞窟を飛び立ち、

その周囲を円を描きながら旋回した。

 昼になっても、人の姿になったアザマロは死んだ様に眠り続けた。

 山おろしの風向きが、変わったようだった。

 白鷹が伸ばした羽を左に傾けて、急激に高度を下げていった。

 山人の勘から辺りに潜んでいた犬使いのマタギは、この時を待っていた。

 二つの小石を紐で分銅のように取り付けた鏈弾を、白鷹に向かって投げた。

 双方の端を重りに支えられた鏈弾は、曲線を描きながら宙を舞う白鷹の脚首に

絡まると、クルクルと巻き付いた。

 〝ギーッ〟

 飛行の態勢を崩された白鷹は、訳も分からないまま羽をばたつかせて、地上に

引き摺り下ろされた。

 続けて、サイの群れが放たれた。

 〝ヲォンヲォンヲォンヲォンッ〟

 サイ達は白鷹を、激しく追い立てた。

 マタギは、白鷹に投網をかけた。生きたまま白鷹を羽交い締めにし、鋭い嘴と

爪を縄で縛った。

 マタギ衆しか知らない道を抜け、サイ達を従えて最短距離で城に向かった。

 サイ達のお陰で、クマなどに襲われる事もなく獣道を突き進んだ。

 飛ぶ鳥を縛り付けると、途端に弱る。

 白鷹を死なせずに届けなければ、家族の命が無いのだ。

 何としても、陽が落ちて足下が見えなくなる前に、城に着かねばならなかった。

 マタギは、老骨に鞭打って山を下りて行った。


 伊治城。

 夕闇迫る、人気の無い場所であった。

 マタギが、鳥篭に入れた白鷹を俊哲に渡した。

 傍らで、陰陽師が両手を袖に入れて見ていた。

「よくやった」

 俊哲が、言葉をかけながらマタギの頭を白刃一閃した。

「誰にも知られずに、そういう約束でしたな」

 俊哲の言葉に、陰陽師が頷いた。

 〝ガウウウゥ〟

 目の前で、主人を殺されたサイ達が唸り出す。

 俊哲が剣をサイ達に向けると、陰陽師は袖から両手を差し出した。

 すると、サイ達は懐くように陰陽師の手を争うように舐め出した。

「これは、面妖な」

 俊哲は、驚いたように言った。

「犬万だ」

 陰陽師は、涼しい顔で答えた。

 犬万とは、イヌを呼び寄せる発臭薬の事である。

 ちょうどネコに対するマタタビと同じで、主成分はミミズを天日に干しながら

腐蝕させたものだ。

 惨殺された主人の側で、サイ達が尻尾を振りながら陰陽師に纏わり付いていた。

 サイと言えども、所詮は本能のままに餌を

求めるただのイヌである。

 残酷な人間を顕わす例えを豺狼と言うが、マタギの長に対する俊哲と陰陽師の

二人の所業は、まさしくヤマイヌとオオカミより残虐であった。


   八 カムイ


 〝リーンリーン、チンチロリン〟

 季節は移ろい、外からスズムシとマツムシの鳴く声が競うように聞こえてきた。

 三日三晩、アザマロは洞窟で眠り続けた。

 白子になってから、体力の衰えが著しい。

 四日目の朝に目覚めると、疲れた身体を引き摺るようにして穴から這い出して

みたが、鷹の姿が見当たらなかった。

 夜、どこか哀しげな白狼の声がこだましていた。

 次の日の昼であった。

 その若いマタギは、近くの山を猟犬のように嗅ぎ回っていた。

 ある樹木に、特殊な記号が刻まれているのを目敏く見付けた。

 木印という、マタギが使う暗号のような物だった。

 クマが自分の縄張りを主張する引っ掻き傷にも似ていた。

 自然界の仕組みの中で生きるマタギの智恵である。

 記号には、白鷹をここで捕まえたという意味が込められていた。

 そこで、不思議な形をした剣を杖のように突きながら歩くアザマロと出くわし

た。

「ひッ!」

 目の前に現れた全身白い男を見て、若いマタギが思わず腰を抜かしそうになっ

た。

 季節外れの雪男が出たと思った。

 アザマロが、自身の白い肌を指差した後、両手の指を器用に使って鷹の形にし

た。

「シラケェタカッコケ(白い鷹の事か)」

 若いマタギが、意味を理解して答えた。

「オラホノジッコガトッタッケ(俺等の爺サンが捕ったようだ)」

 雪男の白い瞳孔に恐怖の余り、他言無用と長に言われていた事を若いマタギが

白状した。

 アザマロは、若いマタギの眼を見据えた。

「サガステルノス(探しているのだ)」

 長の家族が殺されていたので、心配しながら木印の痕跡を辿っている途中だっ

た。

 若いマタギは、樹の枝を払って木印を雪男に指し示した。

 アザマロも使う手法だった。

 なるほどと思ったアザマロは、若いマタギに付いて行く事にした。

 二人は、獣道の中に道標のように刻印されていたマタギ同士の特殊な木印を頼

りに、行方不明のマタギの長を追跡した。

「ッ!」

 煙が上がっていた。

 若いマタギは、その煙が長の所持する炭の色だと判った。


 伊治城。

 俊哲が証拠隠滅のために、斬殺したマタギの長の骸を焼却していた。

 陰陽師は、着衣に混じっていた炭が一緒に燃えて、狼煙のように空に上がった

煙を眺めながら何事かを思案していた。

 焼き終えると、陰陽師は骨壷に骨を入れて印を結んだ。

「後は、アザマロが来るのを待つのみ。ヤツが来し時は頼むぞ。但し、隠密裏の

策ゆえ人に洩らしてはならぬ」

 陰陽師は、俊哲を戒めた。

 陰陽博士ほどの知識を持たない彼が施した術は、長い効力を持続させられない

ものであった。

 博士の地位に就かなければ、代々陰陽寮に伝わる秘術を体得する事ができない。

 一介の陰陽師で終わるつもりなど、さらさら無い彼には歯痒いものであった。

 いかなる手段を取ろうとも、より大きな力を得るのには博士にならねばならな

い。

 アザマロの存在は、千載一遇の機会だった。

 博士就任への足掛かりに、アザマロを踏み台にするつもりだった。

 陰陽寮の長となれば、呪術を尊ぶ帝さえ操る事ができる。

 帝を抑えれば、この国を統べる事も夢ではない。

 白子となって弱らせ、俊哲を噛ませ犬に使わなければ、とても手に負える相手

でない事は、たった独りで皇軍を苦しめてきたこれまでの戦績によって十二分に

解り切っていた。

 それゆえに、捕縛した鷹を救出に現れてくれるのを心待ちにしていた。

 早くしなければ、術が解けてしまうからだ。

「承知」

 そんな陰陽師の計略も知らされずに、俊哲の方は内心ほくそ笑んでいた。

 この期に、紀古佐美を出し抜いて自分がアザマロを討てば、次期将軍の座が見

えるからだ。

 陰陽師は、小さな倉に白鷹を入れて鍵を掛けていた。

 それぞれの思惑の渦巻く中、陰陽師は結界を張る旨を俊哲に伝えて、用がある

まで立ち入りを禁止した。従って、倉の様子を覗けるのは他にはいなかった。

 中には、猿轡を噛まされ足鎖を付けられたナギの姿があった。

「心配するな。じっとしておれば、殺さぬ」

 陰陽師は、狙った魚を寄せ集める撒き餌のように、白鷹が首に付けていたヒス

イの勾玉を、施錠した戸にぶら下げながらナギに話しかけた。

 水溜りに、シオカラトンボが尻を水に付けて卵を産んでいた。

 その側で、七頭のサイ達が檻に閉じ込められ、何の食い物を与えられずに腹を

減らしていた。

 空腹の余り、白狼に顎を割られてケガをした一番弱そうな相手を、よってたか

って嬲り殺した。

 肉を噛み切り、目玉の回りから毛皮をどんどん剥がすと皮下脂肪が出てきて、

内臓をうまそうに食い漁った。

 あっという間に骨と皮と尻尾だけが残されたが、やがてはそれもしゃぶり尽く

した。

 弱ったサイが順番に共食いされ、最後に生き残った頭格が檻から出された。

 そして、頭格のサイは頭だけ出して地面に埋められたまま、餌も水もやらずに

何日間も放っておかれた。

 目の前には、肉を置かれて飢餓感を募らされた。

 当然、サイは餓えと乾きで苦しがり、怒り狂って騒いだ。

 咆える体力も無くなった頃合いを見計らって、サイの首が刎ねられた。

 そして、蟲毒という犬神の怨念の詰まった魂魄が作り出された。

 伊治城の門が閉じられる夕刻だった。

 若いマタギは、炭煙の色から確かにここにマタギの長が来た手応えを感じてい

た。

 きっと、捕らえた白鷹をこの城に届けに来たのだと推測した。

 夕闇迫る森に紛れるように、スーッと雪男が消えた。

 その夜、城の近くで野営した若いマタギは、深い闇の中で光のように駆け抜け

る白い何かを見た気がした。

 月の無い深夜に、僅かではあるが、白狼はナギの臭いを感じた。

 臭いを辿って、城柵を飛び越えた。

 白い眼孔に、カワセミ色に光る勾玉が映り込んだ。

 白狼がナギの囚われている倉を、その嗅覚で探し当てた。

「キューン」

 白狼の発した声に、ナギが気付いた。

 ナギの気配を感じた白狼が、戸に体当たりする。

「ウ~ウ~」

 口を塞がれて声の出せないナギは、白狼の身を案じて精一杯唸った。

 白狼は、何度も体をぶつけると、勾玉が地面に落ちた。

 その時、陰陽師が松明を持って近付いて来た。

「ガルウゥ」

 白狼が、陰陽師と対峙した。

 陰陽師は、懐の包みを開けて犬万を放り投げた。

 白狼は、一瞬見たがその臭いに反応しなかった。

「やはり、半獣身の己には通じぬか」

 陰陽師は、冷笑しながら言った。

「その姿では話はできぬ。日の出に出直せ」

 陰陽師は言うと、方術を使った。

 白狼を取り囲むように、炎が地面に燃え上がった。

 火を怖れて、白狼がうろたえた。陰陽師は、火線の一角を故意に開けた。

 白狼は、ナギの勾玉を口に咥えると、火を避けるように去って行った。

 スズメのさえずりで目覚めると、アザマロの口にはヒスイの勾玉が入っていた。

 近くにナギがいると悟った。

 昨夕、埋めておいた剣を掘り出すと、アザマロは伊治城に向かった。


 伊治城には朝霧が立ち込めて、十歩先も見えない状態だった。

 翌朝になっても、雪男は現れなかった。

 若いマタギは、熊の胆や毛皮などを売る口実で城門の前にやって来た。

「朝っぱらから、何だ」

 衛兵は、シッシッと犬でも追い払うように若いマタギを迷惑がった。

 若いマタギとやり取りしている隙に、剣を携えた雪男が霧に隠れるように近付

いていた。

 アッと思ったが、若いマタギは機転を利かせた。

「メエニ、マタギノジッコ、コネガッタベガ(以前に、マタギの爺サンが、ここ

に来ただろうか)」

 若いマタギが、門前の衛兵に聞いた。

「さあな」

 衛兵が答えている間に、動物が外敵に見つからないために周囲の色に似せて自

分を守る保護色のようにして、霧に溶け込む雪男姿のアザマロが、早朝の閑散と

した城内に静かに侵入して行った。

 衛兵と争い、つまらぬ騒ぎとなって無駄な体力を消耗したくなかったので好都

合であった。

 アザマロは、ナギの居る場所を探した。

「しばらくだな。白子となってからは、身体が思うようになるまい」

 陰陽師が、アザマロの行く手に立ち塞がった。

 アザマロは、狼から授かった剣に勾玉を巻き付けたまま握り締めた。

 そのヒヒイロカネとも呼ばれる剣に、陰陽師が異様な力を感じて警戒した。

「体力がない分を、魔剣で補って戦う気か」

 陰陽師は、懐から小さな折り鶴を空に放った。

〝ヤツが来た〟

 式神となった折り鶴が、離れに居る俊哲に告げた。

「話を聞く状態では、ないようだな」

 諦め顔で、陰陽師は言った。

 連絡を受け、押っ取り刀で馳せ参じた俊哲が抜刀して、アザマロに斬りかかっ

た。

 アザマロも鞘から剣を引き抜いて、俊哲の太刀を受け止めた。

「ウギャ~」

 剣は太刀を砕いて、そのまま俊哲の首に食い込んだ。

 断末魔を吐きながら俊哲の首が飛んだ。

〝これで、この一件を知る者は我とアザマロ以外、他にいなくなった〟

 今度は、陰陽師がほくそ笑んだ。

 アザマロは、肩で息をしていた。ここまで、必要最小限の動きで体力を温存し

ていたが、もうそんなに戦える力はなかった。

 アザマロが、にじり寄った。

「その妖気を発する剣を収めよ」

 陰陽師は、声を荒げて言った。

 素直に言う事を聞く相手では無いと考えた陰陽師は、アザマロに自身の力を見

せ付ける事で交渉を計ろうとした。

 だが、あの魔剣を封じ込めねば、こちらが危うい。

 両手の指を組みながら陰陽師が呪を唱えると、サイの魂魄から造った犬神が地

面から盛り上がるように這い出た。

 さらに、右手の人差し指を倉に向けた。

 犬神が、ナギの囚われている倉に入って行く。

 倉の中から白鷹を咥えた犬神が、今しも噛み切らんばかりに出て来た。

「捨てよとまでは言わぬ。今すぐ収めねば、白き鷹を殺す」

 その剣に、ただならぬ力を感じ取った陰陽師が言い放った。

 牙を剥き出した犬神の口から、ダラダラと異臭を漂わせた涎が垂れていた。

 ググッと犬歯に噛む力が加えられ、白鷹の嘴と体を縛っていた縄が切られて肉

に食い込んでいく。

 アザマロは、剣を静かに鞘に収めた。

 ホッとした陰陽師が術を緩めると、犬神の口がパックリと開き、白鷹が解放さ

れた。

「ようやく、聞く耳を持ったか」

 陰陽師が言う間に、白鷹がアザマロの肩に脅えながら止まった。

「前にも言うたが、我を討っても己にかけられた術は解けぬ」

 陰陽師は、言った。

「……」

 ナギを取り戻したアザマロは、相手の出方を待った。

「マタギを利用して屠ったあやつを使い、色々と回りくどい策を施したのは、こ

うして差しで会うため」

 陰陽師は、首を失い横たわった俊哲の死体を見ながら本題を話し始めた。

「やってもらう事がある」

 陰陽師の呼びかけに、アザマロは不審な表情をした。

「陰陽博士を殺めるのだ。朝廷と蝦夷、時に味方にもなれば敵にもなる。己なら、

それが解る筈だ。ヒトの姿でいられるも、そう長くは無い。時を経れば獣身に取

り込まれ、遠からずその鷹共々本物の獣となろう。術から解放されたければ、博

士を殺すのだ。ただ、時期を逸すれば意味が無い」

「……」

 アザマロは、沈黙した。

 陰陽師の言う事にも一理あった。

 確かに、次第に狼と一体化していく感覚を持っていた。

 なぜなら、一日の内で意識を失っている時間が以前より長くなっていたからだ。

 このままでは、知らずに狼になってしまい、ナギさえも忘れてしまう事を恐怖

した。

「今は、互いの利害が一致している。良い取引だとは思うが」

 アザマロの胸中を見透かしたかのように、陰陽師が畳み掛けるように言った。

 アザマロ自身もそうだが、ナギを救うためなら、例え悪魔とでも取引するつも

りもあった。

「来たる年、葉月の月が満ちる翌日、一六日。昼が夜になる時、京にいる博士を

殺さねば術は解けぬ」

 アザマロは、陰陽博士の潜むというまだ見ぬミヤコという遠い異郷の地を空想

した。

「機会は一度きり」

「……」

「まだ、信じられぬようだな」

 と言って、陰陽師が舞うような仕種をした。

 白子の呪術を解かれて、アザマロと鷹は元の膚色に戻った。

「まず、我を京に戻してくれ。そのためには、覚べつ城を討って潰滅させて貰わ

ねばならぬ。既に副将の一人も死んだゆえ、朝廷軍も一時引き上げる。さすれば、

京にて手引きできるというもの」

 陰陽師の策謀は、アザマロがやろうとしている事と共通するものであった。

 自分の利のためなら敵にさえ与するという戦術を、アザマロはこの時に学び取

る事になった。

 鷹が恨みを込めたように俊哲の生首をついばんで、目玉を引き出していた。

「マタギの骨だ。その首級は手向けとして、マタギの墓前に捧げよ」

 アザマロは陰陽師から骨壷を受け取り、俊哲の首を拾い上げた。

 鷹が獲物を取り上げられて物足りないようにしているので、勾玉を付けてやっ

た。

 鷹は機嫌を直すかのように、元気に飛び上がった。

 ヒヒイロカネと呼ばれる魔剣の真の力をアザマロに解放させれば、自身の計画

に利用できる。

 そんな邪悪な野望を内に秘めつつ、陰陽師はアザマロと鷹を野に戻した。


 昼過ぎであった。

 高地に棲む雷鳥が、飛べない羽をバタつかせながら川からイワナを咥えた。

 その獲物を、カワウソが横取りする。

 アザマロは、若いマタギに長の骨と俊哲の首を手渡した。

「ジッコノアダカ(爺サンの仇か)」

 若いマタギは、雪男から人間の肌に変わった男に、惹かれるモノがあった。

 長もこの男も、白い鷹を追っていた。

 その謎を解かないと、長の殺された理由も分からない。

 このままでは、犬死したマタギが浮かばれない。

「スケルゴドネェベガ(手伝える事はないのか)」

 この男は、まだ何かやるつもりだと感じ取った若いマタギは助っ人を買って出

た。

 これ以上の危険を冒させたくないアザマロは、若いマタギの身を案じて首を横

に振った。

「ヨウアレバスミモセ。セバワガル(用があれば炭を燃やせ。そうすれば分かる)」

 そう言いながら若いマタギが、炭の塊をアザマロの手に握らせた。

 それは、マタギしか使わない特殊な煙を出す狼煙用の炭であった。


 〝スイッチョン〟

 虫が鳴いていた。江刺の里では、ウマオイの鳴き声が少なくなっていた。

 西日の傾きが、日に日に早くなっていた。

 行く秋もいよいよ深まってから、アザマロはイサセコの館を訪れた。

 イサセコが約束通りに動いてくれた事を踏まえて、アザマロが行動に移った。

 覚べつの柵造りは、順調だった。

 イサセコは、古佐美に七日の内一日だけ夷俘を休ませるように提案していた。

 古佐美は、柵の造営と並行して城内の屋敷の建設もあるので完成を急がせたか

ったが、使役の大半がイサセコの手配によるものだった事情もあり、無理強いは

出来なかった。

 蝦夷に襲撃されて工事を中断する事もなくはかどっているのは、イサセコの力

によるものが大きい事は認めざるを得なかった。

 イサセコの協力無くしては、柵の造営は不可能だったからである。


 山中に入ったアザマロは、貰った炭を燃やして狼煙を上げた。

 昼の間しか動けないので、やむなく若いマタギの力を借りる事にした。

 夕方になると、合図の煙を見た七人のマタギ衆が、殺された長の弔い合戦にと、

何処からともなく集って来た。

 柵の裏手の裾野に、イサセコの準備してくれた百頭の牛がいた。

 アザマロは、松明を牛の二つの角にそれぞれ括り付けるようにマタギ衆に頼ん

だ。

 黄昏時に忍ぶようにして、柵近くの森に牛を待機させた。

 夜になり、狼が出没したら、松明に火を点けて牛を放すように指示した。

 落日が迫っていた。

 身体に異変を感じたアザマロは、急ぐように鷹を連れて深い森の奥へと消えた。

 狼は、決して自らヒトに近付かない。

 狩人として生きるマタギは、人間の臭いや気配を消す能力を備えていた。

 だから、狼も気付かずに、御馳走が並ぶ牛の群れに寄って来る筈だった。

 アザマロは、狼を仕向けるように七日の間、断食していた。

 狼となった自分が、その空腹のため、牛に近付くであろう事を想定しての事だ。

 マタギと獣の習性を熟知したからこその作戦である。

 後は、狼に任せるかしかない。

 寝る時刻である亥の刻過ぎ、夜更けを待たないと昇らないという寝待月の晩だ

った。

 夜目の利くマタギ衆は、獣に警戒されぬように火も焚かずに、闇夜でじっとま

んじりともせずに待っていた。

 その間、若いマタギは長の仇を取ってくれた、鷹を連れたあの男の事を考えて

いた。

 猟師見習いの頃、長にヒトとオオカミが共にある、人狼の噂を聞いていた。

 〝カムイ〟

 古くからマタギに伝わるカミの名である。

 白鷹を介して、雪男と狼が現出した事実を結び付けて導き出した答えだった。

 夜間に活動するリスやネズミが、樹木の節穴に急に隠れ出した。

 小動物達の不穏な動きを感じて、マタギ衆は近くに狼が来たのを察知した。

 予想通り、その狼が現れた。

 マタギ衆は、テキパキと牛の松明を燃やした。

「ベゴハナセ!(牛を放せ)」

 若いマタギの号令で、繋がれた牛が一斉に野に解き放たれる。

 牛が頭に炎を燈していたので、火を怖れる狼は後方から追い立てる結果となっ

ていた。

 闇の中をより広い土地を求めて、狼に追われた牛の群れは隊列を組むようにし

て突進していく。

 ドドドドドォォ

 日付を跨いだ頃だった。

 その地響きに、紀古佐美が眼を覚ました。

 地震かと思われた。

 勢いが付いて自力では止まれなくなった牛の群れは、覚べつの柵を山津波のよ

うに一気になぎ倒した。

 猛り狂う牛の群れは、蛇行しながら柵という柵を踏み潰していく。

 牛角に付けられた松明が柵に引火して、紅蓮の炎が上がった。

 突然の猛牛の襲来に、朝廷軍の兵達はただ城を捨てて逃げるしかなかった。

 日の出と共に、被害状況が白日の下に晒された。

 八割がた完成していた柵が、瓦解していた。

 復興は、絶望的だった。

 不幸中の幸いは、人足達に休日を取らせていたために、若干の兵達が軽症を負

ったぐらいで人的被害は少なかったという事だった。

「偶然であろうか」

 事実が浮き彫りになるにつけ、紀古佐美はハッとした。

 後日、イサセコを召喚して尋問した。

 イサセコは悪びれもせず、再び柵を作れば良いと言った。だが、秋の作物の刈

り入れ時期なので、人足達は収穫を終えるまでは出せないと突っぱねられた。

 年貢の元である収穫を、邪魔するわけにもいかなかった。

 紀古佐美は、してやられたと思ったが、後の祭りであった。

 さらには、同じ副将の俊哲が伊治において、何者かに殺されたという報せを受

けた。

 将軍は、賊を割り出すように紀古佐美を国府に呼び戻した。

 新たなる城の柵造りは頓挫し、宙に浮く形となった。

 小黒麻呂の子飼いの部下だった俊哲殺しの真相も、用意周到な陰陽師が握り潰

したので、迷宮入りした。

 やる事なす事、後手に回る将軍に対して急速に求心力を失った朝廷軍は、一時

撤退を余儀なくされた。

 赤黄色の小花を咲かせたキンモクセイの芳しい香りが漂う頃、時節征東大使・

藤原小黒麻呂は、前任者同様に将軍として何の成果も上げる事もなく失意の内に、

その責任を問われる形で帰京する羽目となった。


   九 ミヤコ


 平城京。

 陸奥のイチョウやカエデの葉が紅葉して、燃えるように色づく錦秋に出立した

藤原小黒麻呂一行と陰陽師が帰京したのは、日本中の神々が出雲大社に集う月で、

各地の神社には神が留守にしていなくなる神無月だった。

 ちなみに、出雲では逆に神々が集まるので神在月、翌月の霜月は神々が帰るの

で神帰月と呼んでいる。

 紫宸殿正面きざはしの向かって左側に植えられた橘の香り高い白い花が既に落

ち、蜜柑に似た小さな果実がなっていた。

 北を背にして南面する玉座から右側に位置する右近衛府が管理していたので、

右近の橘と称される。

 対を成すように植えられた左近衛府が管理する左近の桜の木も、きざはしを挟

んで冬越えの遠い春を待っていた。

 右近の橘を横切って、正装した藤原小黒麻呂が、清涼殿の南西の隅にある一室

に向かった。

 鬼の間と云われた壁には、伝説の白沢王が鬼を切る絵が描かれていた。

 陸奥征夷にてこずったあげくの果て、その失敗の報告を針の筵の思いで訥々と

語る小黒麻呂のしわがれた声だけが鬼の間に響いていた。

 御簾越しの帝は一言も発せず、憮然として奥に下がった。

 後日、小黒麻呂は引責辞任の処分が下されて失脚し、以後は昇殿を許されず二

度と政の表舞台に出る事を憚られた。


 陸奥胆沢。

 ピーンと、木の枝が弓のようにしなって軽くなった雪をなぎ払い、まっすぐに

なっていく。

 北国の長い冬を越して春になり、草花が芽吹き始めた。

 弓のような形をした下弦の月が、真夏の頃まで残雪に埋まっている高山の谷間

の雪渓を照らし出していた。

 雪月花、雪と月と花が同居する幻影的な空間が広がっていた。

 一日の内、四刻しかヒトでいられない。

 日が短い冬には、それだけヒトに戻れる時間が少なかった。

 今年は、これまでと違っていた。

 春を迎え、日が長くなっても、ヒトでいられる時間は冬のままだった。

 陰陽師の言っていた通りだった。

 このままでは、互いに禽獣に取り込まれるのは明白である。

 奇妙な感覚であった。

 日の出と日の入にだけ、お互いの瞳がヒトとしての姿に見えるような瞬間を、

夢のように覚えていた。

 それだけが、アザマロとナギにとっての生きる支えであった。

 ミヤコに行かなければ、先が見えない。

 陸奥で生まれ育ったアザマロは、ミヤコの場所など皆目見当が付かなかった。

 さりとて、朝廷軍の兵を捕らえて道案内をさせる訳にもいかない。

 アザマロは思案した末に、頼りになるのはあの男しか思い当たらなかった。

 ほぼ雪が解けた江刺の里を流れる河から、渡り鳥のコハクチョウが大陸へと飛

び立っていった。

 アザマロは、鷹を伴ってイサセコを訪れた。

 縁側の欄干に、鷹が止まって毛繕いをしていた。

 アザマロが、地図を広げて京を指差した。

「何をしに行く」

 イサセコは、アザマロの前の盃に濁酒を注ぎながら聞いた。

「理由は、知らぬが花か」

 手酌で酒を並々と注ぐと、ゴクゴクと豪快にイサセコが酒を呑み干した。

「で、いつだ」

 イサセコは、アザマロが何か朝廷に対して企てるつもりであると感じた。

 アザマロは、暦の葉月の満月を指した。

「陸路でお尋ね者を連れて、国府や関所を抜けるのは無理だ」

 イサセコが、言った。

 アザマロは、酒の膳を横にずらして、イサセコに頭を下げた。

「分かった。梅雨が明けたら、また来い」

 柵を造って攻めて来ようとした朝廷軍を追い払い、この地を治め続けられてい

られるのは、目の前にいるアザマロのお陰だと思っていたイサセコはその意を汲

んだ。

「舟を使い、海を渡ろう」

 イサセコは、提案した。

 アザマロは、伊治で俘囚だった頃、朝廷軍の兵に聞かされた事があった。

 日高見川の流れの果てには、一面水に覆われたウミと呼ばれる場所がある事を。

「長雨を避けて、潮を読んで行かねばならぬ」

 イサセコは、冷静に語った。他に手立ての無いアザマロは、イサセコに賭ける

しかなかった。

 〝ピーッ〟

 鷹を笹笛で肩に呼び戻すと、アザマロは山に戻って行った。


 内裏の左近の桜が咲く頃、長く幽閉されていた元皇后・皇太子の母子の二人が、

同日の内に双方亡くなった。

 毒殺であったとされている。

 光仁帝には、高野新笠という百済系帰化人である側室との間に、山部王が産ま

れていた。

 山部王は、他戸部親王とは異母兄となる関係である。

 そもそも、実母が皇族でなければ、皇太子になる資格が無いとされていた時代

に、その出自の問題を抱えながらも、先の事件により皇位継承順位が山部王より

上位の者がいなくなる事態になった。

 その結果、不惑をとうに過ぎてから山部王は、公式に皇太子に決まる立太子に

なったのである。

 生を受けて以来、云われ無き差別的待遇の辛酸を舐めてきた経験から思慮深く

なった山部王は、様々な政界工作を弄して実父である光仁帝に、生前譲位を働き

かけた。

 にわかに策謀渦巻く清涼殿において、これまで仕切っていた藤原小黒麻呂が退

官したので、朝議は次の征東将軍を誰にするかについて紛糾していた。

 蝦夷の反乱が頻発している昨今、朝廷として、陸奥国府に責任者を置かない訳

にはいかない。

 主無き城など、国府として体を成さない。

 戦を仕掛けずとも、将軍を置くか否かでは、その抑止力としての牽制が効かな

くなってしまう恐れがあった。

 帝の威光が衰えていない事を内外に示すためにも、将軍職を空席にはできない。

 また、純潔主義の天皇家にあって山部王に帝を譲る事は、他民族の血で汚され

るという思いであった。

 喫緊の皇位継承問題を抱えて戦をする余裕など無い光仁帝は、山部王に対抗す

る後継者として早良親王の擁立を画策した。

 その早良親王と懇意にしていて、さし当たって蝦夷を刺激せずに休戦状態にで

きる人物を推した。

 春宮大夫従三位の役職を持つ、大伴家持その人であった。

 『海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 天皇の辺にこそ死なめ……』

 という大東亜戦争時の戦意高揚として利用された長歌と共に、

 『天皇の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 黄金咲く』

の歌で陸奥産金の喜びを表現して、穏健で内裏随一の万葉歌人として名を馳せた

風流人である。

 帝は、政治的にも外堀を埋めて置こうという目的で家持を担いだのだった。

 その温和な性格から、朝廷内においても敵を作る事も無く、任を全うできると

思われた。

 譲位させられた太政天皇と次期天皇とが、皇位争いに明け暮れる中、そのどち

らにつくかで自分の将来が決まると固唾を飲みながら様子見の参議達には、異存

などある筈も無かった。


 日高見川。

 梅雨が明け、長雨による川の増水も落ち着いた頃だった。

 一艘の川舟が、流れを下っていた。

 舟には、イサセコを頭にして数人が乗り組んでいた。

 イサセコは約束通り、アザマロを連れ出していた。

 アザマロが持って来た不思議な形をした剣については、イサセコは触れなかっ

た。

 元来、余計な詮索をする男ではなかったのである。

「これはツガル(東日流)から来て、先年亡くなった嫁の間にできた一粒種の小

倅だ。名をイカコ(伊加古)という」

 四歳くらいの利発そうな童が、父親のイサセコに紹介されてペコリとお辞儀を

した。

「こいつには、日高見以外の大きな世界を見せてやりたい」

 アザマロは、自分には無い視点をイサセコに感じた。

「子連れの商い人を装えば、ヤツラもそう警戒すまいて」

 イサセコは、笑い飛ばした。

 陽が沈み始める頃だった。

「ミヤコに着くまで怪しまれぬように、その鷹と共に舟底に潜っておれ。飯はこ

いつに届けさせる」

 と言って、イサセコは一人息子の頭を撫でた。

 揺れの動きが変わり、舟は沖に出たようだった。

 国府に新たな将軍が着任したようだったが、戦より懐柔政策をとっていたので、

道中は特に見咎められる事も無く順調であった。

 夜明けまで空に昇っている有明月に向かって、狼の遠吠えが真っ暗な海上に響

き渡った。

 イサセコの部下達は、震え上がり、言われるまでもなく近付いては来なかった。

 好奇心旺盛なイカコがそっと舟底を覗くと、ヒスイの勾玉が目に止まった。

 そこにはアザマロの姿は無く、代わりに勾玉を胸元に付けた裸の若い女が静か

に横になっていた。

 イカコは驚いた。

「ガルウウゥ」

 イカコの臭いに反応して低く唸る狼を、ナギがたしなめた。

 ナギは、右人差し指をイカコの唇に優しく当てながら左の小指をそっと差し出

した。

 黙っていてくれという約束の合図だった。

 イカコは、ピンと伸ばして小指を出した。

 狼が見詰める中、二人は指きりゲンマンをした。

 父しか知らないイカコは、母の面影をナギに見たのかもしれない。

 水平線は、どこまでも先に続いていた。

 舟底の小窓越しに、海から昇る朝陽をアザマロは生まれて初めて目にした。

 陽は山の間から昇り、反対側の山に暮れていくものだと思っていたからだ。

 海の向こうから連れて来られたというナギの話しを思い出した。

 日高見の狭隘な土地であがく自分が小さく感じた。

 イサセコの言う大きな世界という意味が分かるような気がした。

 潮風が当たる甲板で、イカコが舟の掃除をしていると、父親のイサセコが通り

かかった。

「何だ?」

 イカコの何か言いたげな目を見て、イサセコが聞いた。

「……」

 イカコは、言葉を飲み込んだ。

「人に言えぬ約束でもしたのか」

 イサセコは、言った。

「……」

 イカコは、黙ったままだった。

「ならば、父といえども決して話すな。人の信用を得るというのは、何よりも大

切な事だ」

 そう言い残して、イサセコは立ち去った。

 イサセコは、アザマロの事については深く聞こうとしない態度を貫いていた。

 阿吽の呼吸が合っていたとも言うべきだろうか、口に出さなくとも互いに通じ

合えるものがあった。

 この旅を通じて、信頼できる相手を選別できる眼力を養う事を、父親として息

子に伝えたいと考えていた。

 イサセコの舟は十日ほどかけて海を渡り、文月の終わり頃に、和泉に上陸した。

 月の終わりの三十日月から、月初めの新月になっていた。

 陸に上がっても、アザマロは夜になると決まって姿を消した。

 そんなアザマロの行動を不審に思う部下を、自分の仕事をしろとイサセコは一

喝した。

 糸のように細い繊月、そして三日月の頃には、陸伝いに河内を抜けた。

 大和に入った時には、上弦の月になっていた。


 羅城門。

 平城京の外郭の真南に位置し、目抜き通りである朱雀大路の南端に建った楼上

には鬼が棲むと噂される巨門である。

 実際は、北方守護のため兜跋毘沙門天が安置されていた。

 許可された者しか、羅城門をくぐる事はできなかった。

 この門の中こそが、帝の居城なのである。

 俘囚としての爵位を持ち、入京を許されていたイサセコは、吉弥候という賜姓

と共に国府の将軍の花押が記された通行許可証を門番に見せた。

 イサセコの下僕として付き従う形で、鷹を連れたアザマロも、特別に不審に思

われる事無く門をくぐった。

 まさか、陸奥のお尋ね者の国賊が京の町を徘徊するなどとは、誰も予想だにし

ていなかったからだ。

 アザマロは、絶句した。平城京の大きさと、人の多さに驚いた。

 整然と区画され、陸奥に据えられた多賀城の十倍以上の規模であった。

 屋根に青い瓦が葺かれ、白壁に朱塗りの柱が色鮮やかに際立っていた。

 花、水、木など、陸奥の自然の色しか触れなかった目には、その人工的な配色

に奇異を感じた。

 自然を制圧して人の手で管理された町並みを見て、アザマロは朝廷の人や自然

に対する傲慢な思想を嫌悪した。

 自然界の動物は、鵜の目鷹の目の連続であり、食うか食われるかだ。

 だが、動物は空腹時か敵に攻撃されない限り、必要以上の殺生はしない。

 エミシと蔑み、抗う者をオニと呼んで退治する強欲なミヤコの者共こそ、ヒト

の皮をかぶった魔物だ。

 ミヤコの人間は獣以下で、ここはオニの棲み家だ。

 こんなヤツラと戦っていたのか………上京する際に見た広大な海の広さ、そし

て異なる土地に住む身なりの違う人々の群れを見て、アザマロは自身の見識の小

ささを思い知った。

 平和的に自然の中で暮らす陸奥の人々が、正面から戦って勝てる相手ではない

事を見知った。

 真っ直ぐに延びた朱雀大路の先に、別の門が見えた。

 皇居と諸官省の区域である大内裏への出入口、朱雀門であった。

「月の満ち欠けからすると、今夜は十五夜だ。ここから先へは、都人とて用意に

は進めぬ。これ以上の手助けはできぬぞ」

 暦の知識があるイサセコが、アザマロに言った。

 アザマロは、右手を差し出して握手を求めた。

「命を無駄にするな」

 イサセコは、アザマロの手を強く握り返した。

 イカコが、アザマロに風呂敷の包みを手渡した。

 イカコの頭を撫でた後、アザマロが夕闇に紛れるように消えた。

 明日を逃せば、永遠にヒトに戻れなくなってしまう。

 夜空には、みごとな望月が昇っていた。

 橋の下で、ナギは河原に打ち捨てられた餓死者の衣服を纏い、風呂敷包みを咥

えた狼と共に乞食の振りをしながらじっとうずくまっていた。

 ナギにも、特別な夜である事が感じられた。

 その手には、ヒヒイロカネの剣が握られていて、追い剥ぎでも襲って来ようも

のならば、立ち向かう覚悟で一睡もしなかった。

 寅の刻を過ぎると、朝陽が昇り始めた。

 ナギが鷹に変わり、狼がアザマロに戻った。

 鷹は、居眠りを始めていた。

 昨夜のナギは寝ずの番をしてくれていた事が、アザマロにも分かった。

 鷹を起こさないように、しばらく橋の下で様子を窺った。

 陽が、真上に射しかかっていた。

 異変を察知したのか、熟睡していた鷹が、急に眼を覚ました。

 雲一つ無い真っ昼間だというのに陽光が陰ってきた。

 円い太陽は、まるで塗り潰されるように端から黒くなっていく。

 京の人々は、恐怖におののいた。

 暗黒の大王が、やってきたという流言蜚語が飛び交った。

 日が完全に月に蝕まれて、文字通り皆既日蝕となった。

 覆われた月の影を縁取って、木洩れ日のように日の光が漏れていた。

 昼か夜かも分からないような天候に、アザマロとナギが共に人間の姿に戻った。

 二人は、二年ぶりに再会を果たした。

 ナギは、大粒の涙を流しながら嬉しくて咽び泣いた。

 強く抱擁しながら互いの身体の温もりを確かめ合った。

 昼が夜になるという意味を、アザマロはこの時に解った。

 後は、術をかけた陰陽博士をこの世から消すだけだ。

 涙を拭いながらナギが、興味深そうにイカコがくれた風呂敷をしきりと見るの

で、アザマロは手渡した。

 開けてみると、包みには女物の着物と小さな函が入っていた。


 内裏。

 日蝕を凶事の前触れだと考えて、帝は身を震わせていた。

 紫宸殿の前では白装束の陰陽博士が、護摩壇の前で調伏を行なっている。

「心配召されるな。半刻もすれば、日の光は元に戻りまする」

 博士は、弟子の陰陽師達を従えながら帝に安心するように言った。


 朱雀門。

 スーッと、化粧をした艶やかな衣装姿のナギが現れて、母国にいる時に習い覚

えた妖艶な舞いを踊った。

 その着物と化粧道具は京への長い旅路にさえ、イカコが片時も手放さずに大切

に持っていた物だった。

 祭祀を司っていたという母の形見の晴れ着であった。

 満足な衣類を持たないナギを不憫に思い、アザマロに託したのである。

 その都度、必要な時以外は頑強に閉じられている門を警備している兵達が、呆

気に取られて舞いを眺めていた。

 騒ぎになって中に詰めた兵が押し寄せないようにと、注意を逸らせながらナギ

が近付いて来た時だった。

 ナギの背後から、ヒヒイロカネの剣が一閃した。

 賊の侵入を知らせる間もなく、門を守っていた兵達の胴体が、真っ二つになっ

て路上に転がった。

 アザマロを背にしたナギが、宙に浮き上がった。

 鷹の血が半分入っているナギは、まるで鳥が羽ばたくように軽やかに地を蹴っ

て門を飛び越えた。

 音も無く朱雀門の中に降り立つと、そこは中央官庁が集中する大内裏だった。

 日蝕に脅える役人達は、静かなる侵入者に気を配る余裕も無かった。

 アザマロは、鼻をヒクつかせた。

 半獣身である狼の習性を宿したその鼻は、陰陽師の体臭を覚えていて、その臭

いを嗅ぎ付けたのであった。

 その見えざる痕跡を追って、左右に建つ式部省と兵部省を見ながら中央の八省

院の左に並んだ民部省と太政官の間をすり抜け、中務省に吸い寄せられるように

臭いを辿った。

 北を背にして南面する玉座から向かって、正面出入口である内裏外郭門の建礼

門の前に、アザマロとナギは立った。

 帝の居る内裏の中心とは、目と鼻の距離だった。

 無用な争いをしたくないアザマロは、ナギに助けられながら必要最小限の力で、

宮中への潜入を果たした。

 アザマロは、ヒヒイロカネの剣を抜いたまま走りながら強く念じた。

 日蝕のせいで、昼なお暗い内裏に、光明のように一つだけ光点が映えた。

 剣に導かれるように、アザマロがナギを伴ってまっしぐらに駈け出した。

 ここまで来たら、正面突破だ。

 陰陽博士が、異変に気付いて調伏を中断した。

 すると、目映い光を発して最後の扉である承明門が吹き飛ばされた。

 紫宸殿の左右に飾ってある桜と橘の植木が、風圧で宙に舞った。

〝ヤツが来た〟

 待っていたとばかりに、あの陰陽師がアザマロに呼応するようにして、背後か

ら博士に呪をかけた。

「貴様、なにをする!」

 捕縛の術をかけられて動けなくなった博士が、陰陽師を睨んだ瞬間にアザマロ

が剣を振りかざした。

「お前は?」

 耳まで裂けた口から食み出して牙を剥く獣身に、自らが術をかけたアザマロだ

と博士が悟った刹那、その首が肩から離れて水平に飛んだ。

 博士の首は護摩壇に落下し、その焔で焼かれた。

「悪鬼じゃ」

 帝は、業火のように焔越しに揺れて鬼気迫るアザマロの姿に腰を抜かした。

 近習達は、我先にと後ずさって遁走した。

 アザマロが、帝に迫って行く。 

 コイツが、陸奥に攻める事を指示している張本人なのだ。

 コイツさえ討てば、戦は終わるかもしれない。

「アザマロか」

 騒ぎを聞き付けて、兵部省に出仕していた紀古佐美が楯となって帝を守った。

 右近と左近府それぞれの近衛兵達が、剣を携え矢を弓弦につがえた。

「■■■■■■」

 怪音波のような咆哮をしながら、アザマロが剣を輝かせた。

 ヒヒイロカネの霊力が、発動された瞬間だった。

 近衛兵達は、一瞬にして蒸発した。

 あれが、ヒヒイロカネの剣か? 

 人知を超えた尋常ならざるその魔剣に、紀古佐美は畏怖した。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」

 護身の呪が、陰陽師によって唱えられた。

 アザマロは、ナギを促して顔を上げた。

 日の光が、二人に降り注ぐように戻ってきた。

「悪霊退散!」

 陰陽師は、九字を切りながらアザマロとナギの前に立ちはだかるようにして天

空を指差した。

 鷹と狼の幻影が、二人の身体から抜け出ていく。

 陰と陽、月と日、月蝕に結ばれた妖術は、日蝕に解き放たれたのであった。

 かけられた禽獣の術が解け、アザマロとナギはヒトに戻った。

「目的は果たした筈。その剣を引いて、野に戻れ」

 陰陽師が、言った。

 手引きしてくれた陰陽師の目を見ながら、アザマロは剣を鞘に静かに収め、ナ

ギの手を取って内裏を後にした。


 天皇の即位式に必ず用意される日像幢が、紫宸殿の前に建てられた。

 黒塗りの三尺三寸余り(約1m)の柱に、九つの丸い輪を貫き、上に朱で三本

足の八咫烏を描いた金漆塗りの円板を付けた纏いのような形をした物である。

 この年の日蝕を境に、光仁帝は三種の神器の返納を強いられて、正式に帝位を

追われた。

 天応は二年で終わり、延略元年(782)と改元され、山部王は桓武という帝

の名で齢、四五にして玉座に就いていた。

 父亡き後の即位であれば、こうもすんなりとは継承は難しかったであろう。

 陰陽師を介しての呪殺や毒を用いた暗殺等、政治的謀略が天皇即位にはつきも

のの時代である。

 桓武帝は、機を見るに敏であった。

 後世の江戸時代における、将軍吉宗の場合を彷彿とさせる。


 五条大橋。

 平安京に新設した時、同名の橋で牛若丸と弁慶が戦って高名になる場所だ。

 十五夜の満月よりも出が遅い様子を月がためらっていると見立て、そのためら

うという意味のいざよふから命名された十六夜の月が出ていた。

 月を眺めながらアザマロもまた、ためらっていた。

 このまま陸奥の日高見に戻り、平穏に暮らす事ができるのだろうかと。

 京の町では、恐れ多くも帝を襲撃した二人に対する厳しい捜索が行われていた。

 戒厳令が敷かれた京を脱出するより、町に紛れる方が安全だと考えて、アザマ

ロとナギは橋の下に潜んだ。

 ナギは、化粧を拭って汚いボロ衣に着替えていた。

 アザマロは、ヒヒイロカネの剣を鈍く発熱させて、自分自身の顔に向けた。

「ッ?」

 驚くナギは、言葉を無くしていた。

 強い疲労感に、アザマロがさいなまれた。

 “マヨイガ”の仙人が言っていた、命を吸い取る剣という事を思い出した。

 ヒヒイロカネと呼ぶ剣は、ヒトを喰う事で存在し続けるのだろう。

 今更ながら、剣の威力に脅威を感じた。

 この剣を使って、ここを支配するミカドとやらを殺す事もできた。

 しかし、それで本当に陸奥と朝廷との戦が止められるのか?

 この剣は、安易にヒトが扱うモノでは無い。

 ヒトの世界そのモノを滅ぼしてしまう力を持つ。

 ミヤコとの共存の道を探る方法はないものか……酷い火傷を負って、アザマロ

の顔面が焼け爛れた。

 ナギは、衣を破り取って川の水を浸し、アザマロの顔を優しく冷やした。

 ナギを残して、アザマロは魔都の闇へと駆けて行った。

 囮となり、追っ手を引き付ける事でナギを逃がそうと考えたのだった。

 そして、自分は敵をもっとよく識るためにここで身分を偽り、しばらく京に残

る決意をしていた。

 その夜の内に、ナギはイカコを介してイサセコと落ち合った。


 即位した桓武帝は、自身が生き残っていくために、光仁天皇から玉座と共に陰

陽思想をも剥奪し、その陰陽道について並々ならぬ待遇をはかった。

 前帝の息がかかった者を、容赦無く中務省から解雇した。

 陰陽寮においては、殺された陰陽博士の後任に悪鬼を退散させた論功行賞とし

て、あの陰陽師がその地位に抜擢された。

 平城京を捨て、長岡への遷都も旧勢力からの呪縛を一掃すると共に呪いから逃

れ、かつ、怨嗟の亡霊となった祀ろわぬ者を清めて己れを護るためだったのであ

ろう。 

 時期帝候補の早良親王の片腕だった事情から帰京を遮られた大伴家持は、着任

先の陸奥で病にて不帰の客となる。

 そして、桓武帝の側近である藤原種継の暗殺事件の首謀者として、帝の弟の早

良親王が謀反の罪を着せられて憤死した。

 帝位を奪取した桓武帝は、良心の呵責からか病的なほどに呪詛の力を畏れてい

た。

 アザマロを利用して前任者を合法的に葬り去った事を契機に、影響力を増した

新任の陰陽博士は、陰で傀儡師のように帝を操ろうと虎視眈々と狙っていた。

 新しき政は、長岡京において開かれた。

 朝議では、次の陸奥按察使兼鎮守府将軍職に、紀古佐美の名が挙がった。

 将軍職だった父がアザマロに殺されて以来、副将軍としてずっと陸奥に常駐し

ていた実績を買われての登用だった。

 実際の所は、今まで陸奥に赴任した者は、ほとんどが散々な結果に終わってい

る事から鬼門とされ貧乏籤だという風評も立ち、その成り手がいなかったのであ

った。

 因縁の地である陸奥への下向を、アザマロの行方を追いたい一心から紀古佐美

は謹んで拝命した。

 心機一転をはかって新都の長岡に移るが、災いは止まらなかった。

 都の周辺では、天変地異による飢饉や疫病が蔓延し、宮廷においても帝の妃を

はじめ、身内の者が次々と亡くなるという異常事態が続出した。

 早良親王の崇りだと畏れた桓武帝は、その怨霊から逃れて永遠の平和を願うた

め長岡をも捨て去り、平安楽土としての平安京の建造を決意した。

 この京の建設を支える財源を得るため、陸奥の蝦夷征伐を強行し、朝廷と蝦夷

との長い泥沼の戦が幕を開ける事になる。


   十 臨月


 日高見。

 山に、緑の道がどこまでも続いていた。

 川に、雁が飛来していた。

 茜色に染まった空が暮れて、月明りに小さな白い花弁を咲かせた萩が咲いてい

た。

 京から江刺に戻ったイサセコは、長旅の疲労から風邪をこじらせ、そのまま眠

るように息を引き取った。

 遺されたイカコは、朝廷との戦の予感が漂う地を避けて、日高見より遠く離れ

た北の亡き母の実家であるニサタイ(爾薩体)に預けられた。


 独り、ナギは待ち続けていた。

 粉雪が降る季節になっても、アザマロは帰って来なかった。

 とても寒い東雲の刻限だった。

〝オギャー〟

 日高見の里で、ナギが一人の男児を産んだ。

 京での別れ際に、腹の胎児が動いた事をアザマロに告げた時だった。

 アザマロは、万一にも自分が捕まり敵に渡る事を恐れて、ヒヒイロカネの剣を

ナギに預けた。

 ナギは、その時の事を思い出したように剣を包んでいる布を抜き取った。

 一片の紙が入っていた。

 一言、記されていた。その名は、アテルイ(阿弖流為)と。

 この後、朝廷軍と長く壮絶な戦いをする勇者の胎動であった。


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