余孽之剣─日緋色金─

不来方久遠

ウクハウ譚

   壱  兜明神


 奈良時代末期まで、朝廷の支配は東北地方には及んでいなかった。

 鬼が棲むと思われ未開の地であった蝦夷地において、出羽の国だけは早くから

安倍比羅夫の征討によって、飛び地的に植民地化が進んでいた。

 出羽の国では、方々から様々な罪人や流人等を徴兵して、辺境の地の蝦夷討伐

に当てた。

 北国の厳しい自然と過酷な重労働に耐えかねて、脱走する輩も少なくなかった。


〝クザケェ〟

 そのエミシの邑は、そう呼ばれていた。 

 国境、クニザカイ、クザカエ、そして、クザケェ…土地の方言による訛りが語

尾変化して区界となったとも言われる。

 海側との境に位置していたのが由来らしい。

 狼などの野獣が徘徊する山々を、徒党を組んで落人達が命からがらに越境を敢

行した。

 北国の永い冬の雪解けを待つようにして出羽を逃れ、関所の無い方向に向った。

 国脱けをした時には三十を超える人数だったが、北の自然に阻まれて、ある者

は崖から転落し、ある者は熊に喉を引き裂かれた。

 これなら、兵役に服しているほうがマシだと後悔する頃には、半数が命を落し

ていた。

 追っ手が来られないであろう国境を越えた時には、七名を残すばかりであった。

 峠の小高い巖山を登り切った。

 長旅で憔悴し切った七名の落人達の眼下に、火を焚く煙が昇る集落が見えてき

た。

 助かった。

 これで、命拾いできる。

 武器を捨て、平和に暮らせる。

 新天地を得て、ホッと胸を撫で下ろした時だった。

 近くの竹林が揺れた。

 次々に、落人達が血を噴いて倒れた。

 獣の鋭い爪から頭を護るために兜をかぶった男は最期まで抵抗したが、無念の

内に息絶

えた。

 嶽の麓の平らな場所に、人知れず塚がひっそりと盛られた。

 複数ある盛り塚は、幾度となく掘り返された形跡が残っていた。

 クザケェの邑に変事が起きたのは、漏斗状に唇の形をしたスイカズラの花が散

った後だった。

 蚊が全く出なかったのだ。

 夏の間、冷たい風が邑に吹き降ろした。

 いくら北国とはいえ、寒い夏に邑の者達は不安がった。

「ヤマセ…」

 邑の長が、主だった者に説明した。

 十数年に一度、東北地方特有の冷害をもたらす天候だった。

 ヤマセの来る時は、農作物が育たず飢饉や疫病が蔓延する不吉な年になる。

 邑長は、弓状に曲って背骨が突起した年老いた巫女の家を訪れた。

〝殺す〟

〝生かしちゃおけねぇ〟

〝皆殺しだ〟

 何かに憑かれたように体を痙攣させた後で、恐ろしい形相をしながら老巫女が、

入れ替り立ち代り複数の男のような声色で答えた。

「…タタリ……」

 邑長は、一言呟いたきり黙りこくった。

 血のような茜色の夕空だった。死者の霊を迎える盆の迎え火の頃になり、家々

の前でオガラと呼ばれる麻皮を剥いだ茎が焚かれた。

 とっぷりと陽が暮れると、やがて星々が降るような夜空に、満月が晧々と光を

放ってい

た。

 風一つ無い、草木も眠る静かな晩だった。淡紅色の小花を咲かせたオジギ草が、

ゆらゆらと揺れていた。

 強い風や動物でも触れない限り、動く事のない草が葉の付け根から急激に垂れ

下がった。

 何かが通った証だった。

 その日を境に、夜更けの邑には、臼をつくような音や不気味な呻き声が聞える

ようになった。

 邑の女達が、川の水で洗濯をしながら土地の言葉で話していた。

「オラエノワラシャンドオッガナガッテナイデ、ネラレネデバ(私の家の子供達

が怖がって泣いて、眠る事ができない)」

 若い女が、言った。

「サムサドイイ、バンゲノタマゲダオドドイイ、ナジョスタベ(寒さといい、深

夜のびっくりするような音といい、どうしたものだろうか)」

 隣の家の女も困ったように話しを合わせた。

 夕飯時を過ぎても、山に狩りに出ていた男の一人が戻らなかった。

 その晩も怪しい音が、邑にこだました。

 翌日、行方不明の男が見つかった。

 身体をバラバラに切り刻まれて、川に流れていたのだった。

「ムゲモンダナス(惨いものだ)」

 昨日一緒に狩りに行っていた男が、変わり果てた仲間の姿に息を呑んだ。

「クマッコニデモカレダベガ(熊にでも食べられたのだろうか)」

 別の男が、言った。

 その日もまた、邑の男がいなくなった。

 不気味な音は、その夜も響いた。

 明くる日になると、樹にぶら下げられて、無惨にも目玉と内臓を鴉に啄ばまれ

た状態で発見された。

 兜を被ったモノが、山を徘徊しているという噂が流れた。

 四日目の夜更けに、例の音が聞えると、邑人達は皆一様に恐れおののいた。

 何がしか身に覚えのある者は、恐怖の余り発狂した。

 夜が明ける頃、何処からともなく得体の知れない男がふらりと現われて、盛り

塚を通り過ぎた。

 そして、クザケェの邑に向かって行った。

 音が止み、陽が昇って明るくなっても、誰も家の外に出ようとしなかった。

 次は、自分が殺される番ではないかとそれぞれ身構えていた。

 風で吹き飛ばされた手桶が、通りを転がっていく。

 夜の間やんでいたヤマセが、昼間は冷たい風を邑に送り込んだ。

 風の吹いてくる方角から、一人の男がやって来た。

 邑の者ではないのは、一目瞭然だった。

 肩まで伸びたざんばら髪が風になびいて、顔は見えなかった。

 不吉なモノを感じた邑人達は、一斉に家々の戸締りをした。格子の隙間越しに、

息を殺しながらその男を見据えた。

「カダナダ(刀だ))

 ざんばら髪の男が通り過ぎる時、家主が言った。

 柄から刀身にかけて刃と逆に反った不思議な形をした剣を、男が背負っていた

からだ。

 その時、ふわっと男の髪が風で吹き上げられて、一瞬その鋭い眼光が垣間見え

た。

「オヌダ(鬼だ)」

 ぼそりと、家主が呟いた。

 この邑に突然現われた、剣を背負った恐ろしげな目付きをしたモノに、山で怪

死が相次ぐ出来事を繋ぎ合わせて、家主がそう連想するのは無理もない事であっ

た。

 興味津々の子供達が、外を覗こうとした時だった。

「ミンナ(見るな)」

 家主が、怒鳴った。

 土間に座った家主の祖母が、ただならぬ雰囲気に北の方角に向かって手を合わ

せながら何事かを唱えていた。

 おのおのが、自分の家の前で鬼が立ち止まらないように祈り、じっと耐えるよ

うにして待っていた。

 ざんばら髪の男が、邑長の家に通りかかった時であった。

「ワスハキグマヅ。オメサンハ(ワシはキグマヅと言うが、お前さんは)?」

 邑を束ねる長には、不審な男を呼び止めて詰問する責務があった。

「宇屈波宇」

 ウクハウ、その年齢不詳の男は答えた。

「ドッガラキタベ(何処から来た)」

「ヒタカミの川沿いを上って来た」

「ナサキタノス(何しにやって来たのか)」

「この邑の妖気に誘われて」

「オラエサヘェレ(我が家に上がりなさい)」

 邑長は、ウクハウと名乗る通りすがりの異様な珍客を家に招き入れた。

 そして、ここ二、三日続いた邑人の変死についてウクハウが犯人であるのかを、

それとなく訊ねてみた。

「殺される理由があるのではないのか」

 ウクハウが、きっぱりと言った。

「……」

 邑長は、押し黙った。

「祀ろわぬ霊が通る場所と言われ、夜更けに聞いた事も無い音がすると、まもな

く邑に死人が出る」

 ウクハウは、自分を警戒している邑長を尻目に構わず喋った。

「デンデラ野」

 ウクハウが、続けて言った。

「デンデラノ…」

 邑長が、初めて聞く言霊を復唱した。

 デンデラ野は、一ヶ所ではない。鬼の棲むと言われる陸奥の地には、所々にそ

の異空間

が存在していた。

 夜な夜な響く怪音の事など訳知り顔のウクハウに対して、邑長の胸中にはます

ます疑念が沸いた。

 目の前のこの男が、邑の衆を殺したに違いない。

 何の目的か知らないが、このまま、この殺人鬼を放っては置けない。

「オメコロスタノスカ(お前が殺したのか)」

 邑長は、意を決するように聞いた。

「………」

 ウクハウは、沈黙した。

「モウヤメデケロ(もうやめて下さい)」

 嘆願するように、邑長が言った。

「俺ではない」

 ウクハウが、素っ気無く答えた。

「ンダバ、ダレダベ(ならば、誰が殺ったのだ)」

 半信半疑で、邑長は詰問した。

「鬼に取り込まれようとしている邪悪な魂だ」

 淡々と、ウクハウは説明した。

「ソノオニッコテェズスレバエエベガ(その鬼を退治すればいいのか)」

 邑長の問いに、ウクハウが頷いた。

「レエバスベシ。スケデケロ(お礼はする。助けて下さい)」

 邑長の頼みを、ウクハウはあっさりと承知した。


 盆も終わりに差しかかっていた。

 ウクハウは、日の高い内に竹槍を作った。

 そして、獣道にかかる樹の上で待っていた。

 日暮れになり、餌を求めて猪が下を通った。

 竹槍に体重を乗せたまま樹から落下するように、ウクハウが竹槍で猪の胴体を

串刺しにした。

 猪を火で炙り、その肉を食い漁った。

 これで、三日は空腹を凌げると思った。

 丑三つ時。あの世とこの世の境にある、デンデラ野の扉が開かれた。

 嶽の麓の盛り塚から手が出て、死霊が土中から這い出してきた。

 兜を被った落人の眼孔が抜け落ち、中から大量の蛆が涌いている。

 腐った体を引き摺るようにして地上に出て来たその数、七人。

 ウクハウは、殺された落人達と向き合った。

 落人達の思念が、ウクハウの脳裏に入ってきた。

 罪人とは言え、強制的に地方から集められて、不本意なエミシ狩りと過酷な使

役に従事させられていた不条理に、我慢できずに国脱けした経緯など……口々に、

落人達が艱難辛苦の長旅の末、邑人に無下に殺められた無念を述べた。

〝地獄だ〟

〝邑人にじわじわと恐怖を与えてやる〟

 一人、また一人と彼岸の頃に、邑人を異界に引き擦り込む気なのだった。

 落人達は、ウクハウの周りを取り囲むように浮遊していた。

 ウクハウが、背中の剣を振り下ろしながら抜刀した。

 落人達が、その剣に脅えるように後ずさった。

「お主らをこの剣で斬っても、怨みの情念は消えぬであろうな」

 ウクハウは、荒ぶる魂を抑えるかのように剣に念じた。

「鎮まりたもう」

 このままでは、落人の亡霊達はこの世に強い怨念を残し、兇悪な鬼と化す。

 三日三晩にわたってウクハウは悪霊と対峙した末に、邑人の悪行を糺すと約定

した。

 その晩から、夜通し邑に響いていた奇怪な音がぴたりと止んだ。


 祖先の霊や死者の魂をあの世に送るための送り火が燈されて、盆の終わりが告

げられた。

 翌早朝になると、山奥にある窯に火が入れられて、密かに鍛冶工が刀を精錬し

ていた。

 これまでの落人狩りによって、奪ったきた刀や槍が並んでいた。


 陽が昇ると、嶽からウクハウが下山して来た。

 盆に入ってから毎晩のように聞こえていた恐ろしい音を止めてくれたウクハウ

に対して、邑人達は太鼓とお囃子を交えた舞を踊りながら迎えた。

 凶作だというのに、ふんだんな量の食べ物や濁酒が用意された。

 祭事用の竪穴式の建物において、邑の主だった者達が集まってウクハウを歓待

した。

 邑の衆は、盛んにウクハウに酒を勧めた。

 ウクハウは、足元がふら付くほどに呑まされた。

 そして、そのまま眠り込んだ。邑長の合図の下、建物に火がかけられた。

 たちまち、轟々と音を立て、紅蓮の炎に包まれていった。

 あらかた焼け落ちても、邑人達は手に手に武器を持って回りを囲んでいた。

 この火焔の中で、生きているはずはないと誰もが思っていたが、万が一を考え

ての準備であった。

 邑の者が、焼け跡の遺された骸を探している時だった。

 土中から、剣が突き出てくる。

 あっと、邑の者が叫ぶ間もなく、血塗れの兜を被った男が這い出してきた。

「これでは、死んだ者は浮かばれまい」

 兜姿の男が、全身に付着した土埃を払いながら言った。

「アイヅダ。イギデダンダ(あいつだ。生きていたのだ)」

 邑の者が、言った。

 春先に闇討ちした際、最期まで頑強に抵抗を示して、殺しても兜を剥ぐ事が出

来なかった落人の頭だった。

「ブツコロセ」

「イギノネトメロ」

 武器を所持した邑人達は、兜の男を取り囲んだ。

 そこに、思慮深い邑長が割って入った。

 夜盗からこの邑をいいように乗っ取られるのを防ぐために、仕方なく落人狩り

をやって

いた。

 落人の身包みを剥ぎ、その所持品である刀や鎧兜を奪う事は、貧しい寒村にお

いて固い土を掘り起こして農耕したり、獣を捕ったりする上で金属製の道具が必

要だったからだ。

 満足な鉄器もない邑には、時折迷い込んで来る落人の持ち物は役に立った。

 と、邑長は訥々と兜の男に事情を語った。

「外の者を怖れるのは解かるが、流れ込む落人全てが悪い奴でもなかろう」

 兜の男が、言った。

「ヒトリユルサバアリノヨウニフエル。ムラノバショッコスラレレバウマグネェ

ノス(一人を許せば蟻のように増える。邑の場所を知られたらおしまいだ)」

 そう、邑長は答えながら邑の衆に目配せした。

 邑衆が、一斉に刀や槍を殺しそびれた兜男に向けた。

「言っても解からぬようだな」

 男は、兜を脱いだ。

 ウクハウだった。剣が抜かれた。

〝■■■■■■〟

 邑人の誰もが聞いた事もないような咆哮と共に、剣が輝き出した。

「怨みを遺して逝ったモノの思念は、鬼と化す」

 ウクハウが、言った。

 強い怨念により力をつけた鬼は、人の闇に巣食い、やがてあの世からこの世に

なだれ込む。

 陰と陽の調和が崩れ、人が鬼化する。そして、ヒトの皮を被った鬼同士が争う。

 行き着く先は、人も鬼も絶滅し、虚無の世となる。

 月と日、水と火、鬼と人、陰と陽、これらは微妙な調和の基に在る。

 その橋渡しとなるのが、魔剣の使い手。

 鬼子としての素養を持つ者だけが選ばれしなり。

 ウクハウは、悪霊となって彷徨っている殺された落人達の無念を晴らすという

約束通り、邑衆に宿業を悟らせた。

 邑人達は、霊験あらたかなその剣を前にして改心した。


 高原一面に、オニユリが黒い点のある赤黄色の咲かせていた。

 邑長は、男達に抱えられた足腰の弱った老巫女を伴なって嶽を登った。

 そして、いかなる殺生もしないと誓いながら落人の兜を頂上に祀った。

 すると、目映い光が天に昇り、嶽の頂が明神となって兜の形になった。

 邑の衆は、明神様の霊験だと噂し、兜明神嶽と呼んで代々にわたって崇めた。

 爾来、クザケェに繋がる峠道は、悪意を持った外部からの侵入者があると邑を

護るように必ず霧に包まれ、マヨイガ(迷い家)としてその存在を隠された。


   弐 鬼子


 『ムガァシムガシ、アッダヅモ(昔々より、  言い伝えし物語)』

  “かごめ かごめ

   かごの中の鳥は

   いついつ 出やる 

   夜明けの晩に

   鶴と亀が すべった ”

 幼い童達が、手を繋ぎながら輪になって踊っていた。

 まだ京からの支配が及ばず、鬼が棲む地とされた陸奥には、エミシと言われ無

き蔑称された純朴な人々が生きていた。

 デンデラ野。

 人里離れた寂しく小高い丘は、そう呼ばれていた。

 死者の霊が通る場所と言われ、夜更けに臼をつくような音や馬が通る音がする

と、まもなく邑に死人が出ると噂された。

 険しい山間の猫の額ほどの平らな原野に、ぽっかりと小さな集落が寄せ合うよ

うに連なっている。

 紅葉したナナカマドが赤い実をつけ、青紫色をしたリンドウの花が咲き乱れて

いた。

  “後ろの正面 だあれ ”

 薄暗くて人の顔もよく見えない、たそがれ時だった。

 歌がやんで、踊りの輪も止まった。

「サシ」

 しゃがみ込んだ鬼役の女児が、両手で目隠ししながら言った。

 〝どっどど どどうど どどうど どどう〟

 その時、一陣の風が吹いた。

 後ろの正面にいたのは、透き通るような白い肌に、着物姿で赤い帯を締めたお

かっぱ頭の見慣れぬ少女だった。

 周りは靄がかかったようになっていた。

 他の童達の姿も見えなかった。

「ンナ、ダレダ(お前は、誰だ)」

 邑の女児が不審げに聞くと、おかっぱ頭を揺らして少女はフッと、視界から消

えた。

 〝どっどど どどうど どどうど どどう〟

 再び風が吹くと、靄が晴れていた。

 雁の群れが、空に三角形の編隊を組んで飛んでいく。

 夜の帳が降りると、満天に眩しいほどの星々が輝き出した。

 暗くなっても帰宅しなかった子供の親が騒ぎ出したため、邑の主だった者が集

められた。

「オバンデガンス(今晩は)」

 邑の衆が、挨拶もそこそこに善後策を練っ

た。

 月見草が満月の明りに白く映える頃、路傍にたくさんの松明が燃やされた。

 男達によって、姿を消した女児の捜索が始まっていた。

「バンゲニイネグナッダモナヤ(日没後にいなくなったらしい)」

 年配の者が、オロオロと心配しながら呟いた。

「ヒトサラエダベガ(人さらいにあったか)」

「カミカクスガモスンネェ(神隠しかもしれない)」

 若者達は、口々に噂をした。

 〝かごめかごめ〟をしていた童達は皆一様に、ボーッと腑抜けのような状態で

家々に帰っていた。

 その中でも年長の童にようやく話しを聞くと、六人で遊んでいたのに日暮れか

ら一人増えて七人になっていたと、呆けたように上の空で答えた。

 風が吹いた後で気がつくと、見知らぬ少女とともに邑の女児もいなくなったと。

 月が西に傾く深夜になっても、女児は見付からなかった。

 “ウオォォォォォン”

 遠くの暗闇から、狼の声が不気味に響いていた。

「カレダベガ(食べられたのであろうか)……」

 口さがない若者が、無神経に言った。

「ソッダナゴド、イウモンデネェ(そのような事を、言うものではない)」

 年配者が、たしなめた。

 夜を徹して、カッパが馬を引き擦り込んだ淵やムジナが潜む崖の下など隈なく

捜索されたが、女児の行方は不明だった。

 昼過ぎだった。

 ひょっこりと、邑に肩まで伸びたさんばら髪をなびかせて、異能な雰囲気を醸

し出した年齢不詳の男が現れた。

 広場で遊んでいた童の一人が、そのよそ者に気が付いた。

 小さな集落には見かけない風体なので、注意を引いたのだった。

「オガシネノキタベ(おかしな奴が来たぞ)」

 真っ先に気づいた童が、叫んだ。

「ヤマガラキタナ(山から来たぞ)」

 年長の童が、言った。

「ヤマオドゴダジャ(山男に違いない)」

 賢そうな童が、誰とはなしに説明した。

「ンダ。ヤマオドゴダ」

 一番幼い童が、舌足らずの声で喋った。

「キヅネ、バゲデデハッテキタベガ(狐が、化けて出てきたのだろうか)」

 他の童が、言った。

「ンダ。キヅネダ」

 幼い童が、オウム返しに言った。

「カダナッコショッテラナ(刀を背負っているな)」

 男の後ろに回った賢い童が、背負っている不思議な形をした剣を見て、目敏い

観察眼を披露した。

「テングデネェノスカ(天狗ではないだろうか)」

 二番目に年かさの童が、どもるように呟いた。

「ンダンダ。テングダ」

「マネッコスナ(真似ばかりするな)」

「ウワアアアアアア~ン」

 年子の兄に小突かれた幼い童が、堰を切ったように泣き出した。

 隅っこのほうで、塞ぎ込むようにじっとしていた童が、正体不明の男に駆け寄

って抱き付いた。

「…ネッチャ、メッケデケロ(姉さんを、見つけて欲しい)……」

 一向に帰らぬ姉を心配した弟は、小さいながらも邑の者では頼りにならないと

分かり、目の前にいる男に何かを感じてすがり付いた。

 長く垂れた前髪の隙間から覗く男の鋭い眼光が、童のつぶらな瞳を見据えた。

 他の童達は、固唾を呑んで見ていた。

 男が怒り出して、背中の剣で斬りつけるかもしれないと思った。

「オラ、サシ。ナッコハ(オラは、サシ。お前の名は)?」

 サシという名の男の子が、男に向って聞いた。

「ウクハウ」

 ぶっきらぼうに、男が答えた。

「アベ(一緒に来て)」

 そう言いながらサシは、ウクハウと名乗る男の手を、歳の離れた兄のように慕

って引いた。

 ウクハウは、黙って付いて行った。

「カタリベノジッコニ、アッテケロ。マナグミエネドモ、モノシリダ(語り部の

爺さんに会って下さい。目が見えないけれども、物知りだから)」

 サシは、畳みかけるように話した。

 邑の外れにあるあばら家に、色々な伝承を暗誦している生き字引の翁が住んで

いた。

 サシが昼でも暗い一室に入ると、入れ違いに翁が外に突っ立っているウクハウ

の体を、犬のように匂いを嗅ぎ回った。

 そして、両手をかざして全体像を量り出した。

 ウクハウの背中にある剣の鞘の末端のこじりと呼ばれる部分に、指が触れた時

だった。

「ッ」

 翁は、強い妖気を感じて手を引っ込めた。

「ナサキタ(何しに来た)!」

 後ずさりながら翁が、畏れるように叫んだ。

「アンチャ、ネッチャサガス。ジッコ、スケデケロ(この兄さんは、僕の姉さん

を探してくれる。爺さん、どうか協力して下さい)」

 サシが、翁に切なく訴えた。

 翁は、自身の幼少の頃の事を話し出した。

 子供同士で遊んでいた時だった。

 陽が落ちて、気がつくと一人で野原にいた。

 風が吹いてきた。

 すると、何かが現れた。

 しかし、生まれつき視力を失っていたので、何も見えなかった。

 その何かは、そのまますぐに消え去った。

 その後、、強い霊感を帯びて、盲目の語り部として一生を捧げるようになった。

 翁が言うには、あれは鬼だったのだろう。

 盲人を哀れんで、向うに連れて行かなかったと…さらに、こんな昔語りを翁は

した。

 ある晩だった。

 どうした事か、お月様が隠れてしまった。

 それから、急に強い風が吹き、甘い匂いがした。

 すると、サムトという邑に住む年頃の娘が、梨の樹の下に草履を脱ぎ捨てたま

ま蒸発していた。

 以来、甘い匂いのする風が強く吹く日には、生きていれば老齢になっているサ

ムトの婆が寂しさの余り昔の姿で戻って来て、子供を向うの世界に連れて行くと

言う。

 その頃から、邑にカゴメ歌が流行り出した。

「ヨアケノバンゲニカゼフケバ、デンデラノヒラグ(夜明けの晩に風が吹くと、

デンデラ野の扉が開く)」

 翁は、呪文のように唱えた。

「カワムケェダ(川向うだ)」

 サシが、北の方角を指差した。

「デテコッ(出て来い)」

 その時、外から声がした。

 翁の家の周囲は、子供が不審者に連れ去られたという報せを聞き付けた邑の衆

が取り囲んでいた。

 皆、手に鋤や鍬を持ってウクハウと対峙した。

「オラ、ヨンダノス(オラが、ウクハウを呼んだんです)」

 サシが、ウクハウをかばって言った。

「デハレッ」

「デハッデゲ」

 出て行けと、口々に邑の衆が連呼した。

 多勢に無勢、邑人の誤解を解くのは無駄と知るウクハウは、サシの頭を一撫で

した。

 翁の家から出て来た、剣を背負った異様な風貌の男に怖気付いた邑の屈強な男

達は、取り囲んだ道を開けた。

 悠々と、その中をウクハウが進んで行った。

 山深い上流で、産卵のために遡上してきた秋鮭を、喉に三日月形の白い毛があ

る月の輪熊が器用に口に咥えていた。

 夕方頃、サシの言った川に、ウクハウは辿り着いた。

 〝ヨアケノバンゲ〟

 翁が語った夜明けの晩とは、一体いつの事なのか?

 ウクハウは、集めた枯れ草に火打ち石を打ちながら考えていた。

 わずかに熾した火種を元に、火を焚いた。

 焚き火の側にいれば、熊に襲われる事を回避できる。

 火を怖れる野獣避けだが、安心はできなかった。

 水辺を餌場にしているのは、熊ばかりではない。

 獰猛な山犬や狼だって、集まってくるのだ。

 捕まえた鮭を焼くと、獣のように急いで食べ、川の水で一気に胃袋に流し込ん

だ。

 食うか食われるかの自然の中では、油断は禁物だった。

 空腹を満たしたウクハウは、焚き火に水をかけて立ち上がった。

 デンデラ野と呼ばれる丘陵に着いたのは、夜も更けてからだった。

 草木も眠る丑三つ時だった。

 生温く、甘い匂いの風が吹き荒んだ。

  “かごめ かごめ

   かごの中の鳥は

   いついつ 出やる ”

 どこからか、歌声が聞えてきた。

 異界の中に封印されている禽の姿をした魔物は、いつ頃この世に舞い戻る。

 歌には、そんな意味が込められていた。

 空に上っていた月に、異変が起きていた。

  “夜明けの晩に ”

 少しずつではあるが確実に欠けていき、やがて、すっぽりと夜空に吸い込まれ

た。

 皆既月蝕であった。

  “鶴と亀が すべった ”

 鶴は千年、亀は万年と言われるように、永遠に続く時の流れが止まる時空が開

いていく。

  “後ろの正面 だあれ ”

 歌が終わり、ウクハウが振り向きざまに抜刀した。

 異界とこの世の扉が開かれた瞬間を、剣が映し出した。

〝ウナクルドコデネ(お前ごときが来る場所ではない)〟

 暗闇の奥底から、搾り出すようなしわがれた声が聞えてきた。

〝シャレ(立ち去れ)!〟

 人魂のように声が飛び回って、ウクハウの体を追い払うかのごとく這いずった。

 ウクハウは、念じるように剣を握り直した。

 声の主が、一瞬怯んだようだった。

「……」

 相手は、無言のままウクハウの様子を窺っているようだった。

「囚われ人を返してもらおう」

 毅然として、ウクハウが言った。

「ダバ、カダナッコオゲ(それならば、刀を置きなさい)」

 返答があった。

 人質を取られているので、無用にじたばたする気の無いウクハウは、静かに剣

を置きながら言う通りにした。

 飛んで火に入る夏の虫のごとく、一見ミイラ取りがミイラになったかのような

無謀な行動であった。

 虎穴に入らずんば虎児を得ず、捨て身の策ではあるが、火中の栗を拾う覚悟が

無ければ鬼とは相対できない。

 相手の懐に飛び込む事により、肉を斬らせて骨を絶つ作戦だった。

 ウクハウの手から剣が離れたのを確認すると、声の主が姿を現した。

 それは、見目麗しく透き通るような肌をした一人の若い娘だった。

 この出逢いは、後に勃発する陸奥と京との戦に大きな影響を与える宿命になっ

ていく事になる。

 永遠の美しさを保つ魅惑的なサムトの娘の妖艶さに、魂を抜かれるような心持

ちがした。

 風の中、ウクハウのざんばら髪と女の長い黒髪が絡み合う。

 すると、女がウクハウの衣服を乱暴に剥ぎ取り、逞しい男の体を貪るように求

めてきた。

 置かれた剣の刃紋に、全裸の男女が獣のように体を貪り合う姿態が映り込んで

いる。

 憑かれたようにウクハウが馬乗りになって、女の背後から体を重ねて激しくま

ぐあった。

 後ろから交尾しているウクハウは気づいていないが、刃紋に妖しく映っている

のは、牙を剥いて恍惚の表情を浮かべる変貌した恐ろしい鬼女の姿であった。

 情事が終わると、ウクハウは猛烈な睡魔に襲われた。

 女のほうは、満足したかのように笑みを浮かべながらウクハウを食べようと不

気味な触手を伸ばしてきた。

 異界にさらわれてきたサシの姉が、どこからか現れてウクハウを起こした。

「うッ」

 女が、触手を引っ込めた。

 ウクハウの右手には、しっかりと剣が握られていたのだ。

 その時、女の体に変化が起きた。

 下腹部が急速に膨らみ始めた。

 ウクハウとの出逢いにより、かつてのサムトの娘は身篭った。

 女の股ぐらを突き破るようにして、嬰児の両足が出てきた。

 逆子だった。

 女は、下半身から大量の血を流しながら一人の児を産み落した。

 ウクハウが、剣でへその緒を斬った。

〝■■■■■■〟

 ウクハウは、児を奪い取りサシの姉の手を引いて、呪文のような咆哮を上げな

がら剣で異界を斬り裂くように外界へと逃れた。

 激昂して本性をあらわにした女は、般若の形相になって我が児を取り戻そうと

迫って来る。

「児を盗られた親の気持ちが分かったであろう」

 ウクハウが、児を抱いて異界を脱出しながら言った。

 この世の世界に戻ると、月蝕が終わる寸前だった。

 鬼女が、児を取り戻そうと異界のわずかな隙間から触手を懸命に伸ばしてきた。

「お前のような浅ましき鬼として、この児を生きさせる気か!」

 半刻前には完全に欠けていた月が、元の満月の形になっていく。

「この児は、人の世で育てる。お前が悪さをやめて改心すれば、この児がこの世

での生涯を終えた時、共にあの世でお前と暮らせるであろう」

 ウクハウは、鬼女に因果を含めた。

「約束できぬのなら、未来永劫にわたって児は返さぬ」

 月の光が満ちていく。

 我が児を取り戻したい一心の鬼女は、この後邑から子供をさらうのをやめて穏

やかな表情になると、改心して鬼子母神となっていった。

 剣を鞘に収めると、ウクハウは倒れるよう

にしてその場に泥のような眠りに落ちた。

 鳥のさえずりでウクハウが目覚めたのは、陽が燦々と照る昼間だった。

 周囲を見たが、昨夜の修羅場の影も形も無かった。

 側には、むずがる赤子をあやして無邪気に笑っているサシの姉がいた。

 ウクハウは、行方不明だった娘を邑の親元に還すと、盲目の翁のあばら家を訪

ねた。

「サムトノババノオニッコ(サムトの婆が産んだ鬼子か)……」

 翁が、赤子の顔を触りながら言った。

 産まれて間もないのに、赤子の口中には牙のような犬歯が生えていた。

 鬼を呼び寄せる魔剣を持つ漂泊者たるウクハウは、翁にその赤子を託した。

「コッコノナッコハ(子の名は)?」

 翁が、ウクハウに聞いた。

「おのずと決まろう」

 そう、一言ウクハウが呟いた。

 翁は、掟を破って密かに契りを結び、村八分にされている夫婦の相談相手に陰

ながらなっていた。

 爪弾きにされた夫婦の間に生まれた乳飲み子は、流行り病で早世していた。

 鬼の子と知られれば殺されるので、子宝に恵まれなかった不憫な夫婦に、翁は

ウクハウの児を預けた。

 夫婦は、亡くなった子の生まれ変わりだと大層喜んだ。

 すっかりウクハウに懐いたサシが、翁の家に遊びにやって来た。

 興味本位でウクハウの刀に触ろうとした時だった。

「日緋色金に触るでない!」

 ウクハウが、怒声を発した。

「ヒヒイロカネ…」

 びっくりして手を引っ込めたサシは、その魔剣の名と独特な形を脳裏に刻み込

み、後にこの邑を束ねる長老になる。

 サシの邑を訪れたのも、神隠しにあった童を助けるために鬼と遭遇したのも、

ヒヒイロカネと呼ばれる不思議な剣が導いた業だったのであろう。

「コゴサイロ(ここにずっといて下さい)」

 サシが、懇願するように言った。

「ウクハウ…」

 呼びかけるサシの言葉を背中に受けながらウクハウは、深い森の中に姿を消し

て行った。

 この後、朝廷に従わぬ蝦夷、宇漢迷公宇屈波宇と名指しされた者であった。

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