三文オペラ
濡れ鼠
三文オペラ
アクセルを踏み込むと、バスの車体が懸垂をするように、ぐんと持ち上がる。やがて道路を覆うようにして立ち並ぶ木々が途絶え始め、間から青緑色の鏡がのぞく。僕は溜め息を堪えながら、白線に沿ってハンドルを手繰る。どうせバスの後部に疎らに座る乗客たちには聞こえやしないのに。
終点に辿り着き、パーキングブレーキをかけて、G-SHOCKに目をやる。間もなく、午前11時。三年前の今日この時間の僕は、その後始まる悲劇にまだ気付いていなかった。いや、悲劇はとうに始まっていたのだ。
「電話。警察から」
序曲を奏でたのは、当時の上官だった。迷彩柄の化粧で表情を消した彼の言葉は、状況に没入していた僕の喉を通過して、胃に落ちるまでに少々時間を要した。だが、小仏トンネルに続く坂に差し掛かかったときには、じわじわと進む車体に身を預けながら、自分の先月の給料がアルコールとなって母の身体に入り、内側から暴発させたという現実を反芻していた。
その日、母が会ったのは警察官と保健所職員、医師だけで、僕が母に会うことはなく幕間に入った。闘牛士の歌も、凱旋行進曲も、まだだった。
山は、上りの方が好きだ。山を下っているとどうも、夢から覚めるときのような、息苦しい感覚がまとわりついてくる。朝、携帯電話の画面に浮かんだ不在着信の数に、破綻が近付きつつあるのを悟る日々が脳裏を掠める。
カルメンにもアイーダにも残酷な結末が待っているが、僕はまだ生きている。母が駐屯地に現れたことによってクライマックスを迎えたと思っていたが、実際のところ物語のどの位置にいるのか、僕には分からない。
エンジンブレーキに切り替え、上体が見えざる手で前に引かれるのを感じながら、僕はミラー越しにここに至るまでの道のりを振り返る。僕の賞与を燃料として暴走した母は、営門で転覆事故を起こした。列車事故が起これば、誰かが責任を取って職を辞さなければならない。
バスを降り、中古のSUVに乗り換えて、巣に戻る。この辺りは道が広く、駐車場も広い。スーパーのビニール袋を揺らしながら、僕は階段を上った。視線の先に細長い影が落ちてきて、僕は瞳を少しずつ上に動かす。足が止まるより先に、網膜にステンレスが反射した日光が届く。アルコールの微かな香りが僕の鼻腔に届いたとき、僕はビニール袋を投げ出し、階段の下へと駆けていた。
三文オペラ 濡れ鼠 @brownrat
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