20

 王都は大勢の人々でにぎわっていた。それはミラーレの討伐前後でも変わることはない。

 以前と変わったことと言えば、観光客向けに売られる土産物に天使の絵が置かれるようになったり、劇の演目に天使譚が増えたりと、少しだけ天使という存在に目を向けられるようになったことだった。

 ルチアは往来を一人で歩いていた。フードを被り、誰にもぶつからずに歩くので、誰もそこに天使がいることに気づかない。

 人々の間をすり抜けて進み、『マルコの茶葉専門店』と書かれた金属製の釣り看板が見えてくると人の流れから外れた。

 扉を開けると鈴が鳴った。店内は茶葉を買いに来た人々で混雑していた。ルチアはあまりの人の多さにぎょっとした。天使が時たま現れる店として知られていたが、ミラーレ討伐後はますます繁盛しているらしかった。

 ルチアはなんとか人々の間をすり抜けて進み、サラを見つけると、接客が終わったのを見計らって声をかけた。

「久しぶり、サラ」

 サラは声を聞いてようやくルチアだと気づき、不思議そうにフードの中を覗き込んだ。

「あら? なんだか顔が……。あなた、ルチアよね。久しぶり」

 ルチアは天使居館から大事に抱えてきた籠を見せた。ベリーのトルテの香りがふわりと漂う。

「お菓子を持ってきたんだ、お茶を淹れてもらえないだろうか?」

 店の奥の試飲席へ移動した。店内には二人の共通の友人である革職人の娘のルーズと菓子職人見習いのスヴィンも居合わせていたので、一緒に誘って席についた。

 小さなテーブルにルチアが持ってきたトルテと、サラが淹れたお茶が並んだ。

 ルーズとスヴィンもルチアの顔が認識できず、しきりにフードの中を覗いてきたので、ルチアは一瞬だけフードを外して顔を見せた。

「ルチアったら急にいなくなったと思ったら急に現れるんだもの、本当に驚いたわ」

 サラがため息交じりに言って、ルチアにカップを渡した。

「噂だけはいいっぱい聞いてたよ」

 早速トルテを食べ始めたルーズが言った。

「護衛候補を追い返しまくってるとか、と思ったら神様をやっつけちゃったとか」

 ルチアは苦笑いを浮かべた。

「そういえばルチアを捕まえたっていう護衛は一緒じゃないのか?」

 スヴィンがきょろきょろと店内を見渡した。ルチアは乾いた笑いを零し、お茶を飲んだ。今日のお茶は薄い黄金色の香りの良いお茶だった。

「あ、ああ。彼はその、家にいるよ……」

 ルチアは歯切れ悪く言った。ノイアにはどこへ行くのかも告げずにこっそりと家を出てきていた。

 トルテは後でおやつに食べてねと言われていたもので、ルチアが三人分切り分けて、その残りを包んできたものだった。

 三人から胡乱な目を向けられ、ルチアは体を縮こまらせる。

「ここは王都だから心配ないって。いつも私は一人で好きにあちこち行ってたじゃないか。それに、荷造りの手伝いができなくて、暇で……」

「ルチア、その様子だと何も言わずに出てきたわね?」

「君はいつまでも君のままだね、ルチア。……それにしてもこのトルテ、美味しいな。マリアさんとマルタさんが持たせてくれたのか?」

 いや、とルチアはフォークをトルテに刺した。

「これは護衛の彼が焼いてくれた」

「へえ、とても美味しいよ」

「スヴィンが褒めるなんてすごい、確かにこれとっても美味しい!」

「ルチア、あなた何でもかんでもやってもらっているの?」

 サラが心配そうに言うので、ルチアはふくれっ面をした。しかし言い返しはしなかった。

「ルチアはこれからどうするの?」

 ルーズが尋ねた。他の二人も気になっていたようで、視線が送られてくる。

「王都を出るんだ」

「じゃあ旅に? 念願叶ってよかったね」

 ルーズはまるで自分事のように嬉しそうに言った。サラもスヴィンも同じように笑顔を作っていた。

「そういうルーズは?」

「私は近々結婚するの。前に話した婚約者とね」

 ルーズははにかむように微笑んで言った。

「ルチアは結婚式に来れないでしょうけど、二人には招待状を送るから参列してね」

「ぜひ参加させてもらうよ。俺はこれからも菓子職人を目指して修行するよ。いつかルチアが王都に帰ってきた時には自分で店を出しているはずだ」

 サラは珍しく恥ずかしそうにしていて、なかなか自分の今後のことを話し始めなかった。

「わ、私は、まだ悩んでいて……。父はこの店を弟に継がせたがっているんだけど、弟は勉強をして学者になりたいって反抗していて。かといって私もこの店を継ぎたいのか、自分でもまだわからないし、でもお茶は好きだし、みんなにこうしてお茶を飲んでもらうのも大好き。だから、もう少し手伝いながら考えるわ」

 それからしばらくは四人で他愛ない話に花を咲かせた。

 店内は常ににぎやかで、買い物に来る客足が途絶えることはない。扉の鈴は幾度も鳴り、客の出入りを知らせた。

 ルチアがトルテの最後の一口にフォークを刺した時、出て行く客と入れ違いに入ってくる人の気配があった。ルチアは振り向かなくともそれが誰か分かった。向かいに座るサラが、出入り口の方を見てあっという顔をした。

「ルチア、探したよ」

 背後に立ったノイアが言った。ルチアは顔を真上にのけぞらせた。ノイアが少し得意げな顔でこちらを見下ろしていた。かくれんぼであっても、彼に勝つことはできないようだ。

「そちらがルチアの護衛になった人?」

 ルーズが興味津々といった風に言った。

「ああ、そうだ。こちらノイア・オブシウス。私の護衛だ」

「初めまして、ノイアと申します。トルテも仲良く召し上がっていただいたようで何よりでございます」

 ノイアが柔らかな物腰で言うと、ルーズとスヴィンは感心したようにうなずいた。

「君が焼いてくれたトルテ、とっても美味しかったよ。家に人数分を残してきたが、君の分は食べたか?」

「いいや、食べてないよ」

「作った君が食べなくてどうするんだよ、ほら、最後の一口」

 ルチアはフォークに刺したトルテを持ち上げた。ノイアは腰をかがめ、ルチアの手ごとフォークを握ってトルテを口に運んだ。

「……うん、美味しい」

 一部始終を見ていた三人はやや困惑気味に視線を交わした。

「準備が終わったから呼びに来たんだ」

「そうか、では行くとしよう」

 ルチアは席を立ち、三人に手を振った。

「私はこれで失礼するよ。サラ、美味しいお茶をありがとう。それでは、みんなまたいつか会おう」

 サラ、ルーズ、スヴィンはとびきりの笑顔でルチアを送り出した。

 店を出ると、ノイアは言った。

「もっと彼らと話をしなくてよかったの?」

「ああ、心ゆくまで話ができたから後悔はないよ」

 ルチアの足取りはますます軽くなっていた。今ならどこへでも飛んでいける気がした。

「大司教様にも、マリアにもマルタにも、友だちにも挨拶はできた。もう王都で思い残すことはない」

「そう、ならよかった。旅の支度は全て済んだ。馬車の用意もしてある」

「何から何までありがとう」

 ノイアはようやく相好を崩した。やけに大人びているようで、どこか子どもっぽい、不思議な笑みだった。

 ルチアは何も無責任に全てを彼に任せるつもりは微塵もなかった。しかし、彼はどうにもルチアのために何かすることが好きらしいと気づいてから、その気持ちを無碍にできなくなっていた。ノイアは神々と戦うこと以外であれば何でもできた。

「ノイア、最後に聞いておきたい。君はこれでいいのか?」

 ノイアは首を傾げた。

「私と一緒に旅に出ることに、後悔はないか?」

 本当は、もっと早くに聞いておくべきことだった。しかし、ノイアが勝負に勝ってからミラーレ討伐までは時間に追われていて、すっかり頭から抜けてしまっていたのだ。

 共に旅に出るならば、魔術の研究を続けることは難しい。魔術世界をひっくり返した天才に、これから先に続いていたであろう輝かしい魔術の道を捨てさせることになる。

 ルチアの心の準備が終わる前に、

「ない」

 とノイアはごく短く答えた。石の如くに硬い意志を感じさせ、議論の余地など一切ないというふうに。

 ルチアはふーっと息を吐いて、迷いの全てを吐き出した。そして顔を上げて言う。

「そっか。わかった。その答えが聞けてよかった。これで本当に心置きなく旅に出られる」

「俺が魔術への未練を残していないか心配だったの?」

「そうさ。だって君ってば、私が王都に居ない間は引く手あまただったらしいじゃないか。途中で気が変わられては困る」

 ルチアはにっと笑った。

「私には君が必要だ」

 ノイアは一瞬ぽかんとしたが、すぐにはにかむように微笑んだ。

 珍しく照れている彼の微笑を、ルチアは心に焼き付けておこうと思った。

「ああ、今日も素晴らしく良い天気だ」

 ルチアは晴れやかな気持ちで空を見上げた。太陽は真上にあり、陽の光はまっすぐに地上へ届いていた。

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天使と黒曜石の魔術師 水底 眠 @suiteimin

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