終章 天使は旅の途中

19

 薔薇園に吹き抜ける風が、甘い香りをかき混ぜた。

 ルチアは風にあおられた髪をどけて、前を見据えた。淡い赤のドレスに身を包んだフローライトが道の先で待っていた。その眼つきはいつになく険しい。

「私が生きて戻ったのに、浮かない顔をしているな」

 ルチアが白々しい口調で言えば、フローライトは唇をつんと尖らせ、顔を背けてしまう。

「おかえりなさい、ルチア」

「ただいま。君に迫っていた危機は退けたよ」

「そう、ご苦労様。無事で何よりね」

「遠慮が必要な仲じゃないだろう。私のために死んでほしかったと言ったって怒らないよ」

 フローライトがはっと息を呑んだ。しかし、ルチアとは目を合わせなかった。

 ルチアは極力感情を排した声で続けた。

「洞窟内の魔術師の遺体はご家族の元へ帰した。亡くなった庭師の葬儀もこれからだと聞いた。フローライト、君は彼らの葬儀には必ず参列するんだ。それから、ご遺族には見舞金が支払われると聞いてる、君が手ずから渡すんだ。わかったな」

「どうしてあなたにそんなことを命令されなくちゃいけないのかしら?」

「……私に言わせたいのか?」

 それがせめてもの償いになると理解しているだろう、と言外に込めて言った。

 フローライトはかすかに肩を震わせ、わかったと頷いた。

 ルチアは胸のあたりがずっしりと重くなるのを感じた。だが、後悔はなかった。ここに戻ってくるまでに真剣に考えた末の言葉だった。

「君はこれからどうなるんだ?」

「どうにもならないわ、別邸で休養という名目で王宮から出される話も消えてしまったし。何も変わらないわ」

 投げやりにフローライトは言った。

「君に甘い陛下のことだ、今回の君がやったことはきっと表沙汰にはならないだろう。裁かれない罪を抱えて生きる辛さを、陛下はきっとご存じないから」

 フローライトが風に導かれるように顔を上げた。いたいけな暴君の表情は、初めて年相応なものに見えた。けれど、月光冠の瞳の奥にある闇は、いかなる光であっても照らせなかった。

 もしも私が人間だったら、想いに応えられたならば、その孤独を癒せたのだろうか。

 ありもしない仮定に、ルチアは一瞬だけ思いを巡らせた。

「……そういうあなたはどこへ行くの?」

「今度こそ王都を旅立つよ、私の力を必要とする人がいる場所へ行く。王都へ戻ることはないだろう」

 ルチアは微笑を浮かべた。それにはほんの少しだけ寂しさが滲む。

「お別れを言いに来たんだ。君が求めるものを何一つ持っていなかった私自身のことを、今でも心苦しく思っている」

「そうね、あなたが私の思いに応える日は永劫やってこないし、ささやかな災いで死ぬには頑丈過ぎたわ。……でも、御大層なものを与え合う必要はなかったわね。そういうものでしょう、友だちって」

 フローライトは赤く染まった頬を誤魔化すように続けた。

「聖剣ってどんなものなのか、最後に見せて下さらない? とても美しい剣だと聞いたわ」

 薔薇園に閃光が走り、一輪の赤い薔薇がルチアの手の中に落ちた。もう片方の手には聖剣が握られていた。

 あまりに眩しさにフローライトは目を瞬いていたが、ルチアが剣を持っていることに気づくと、ほうとため息を零した。

「月並みな言葉でしか言い表せないけれど、とても美しいわね、王宮にあるどんな宝剣よりも。まるで貴方みたい」

 最上級の誉め言葉に、ルチアははにかむように微笑んだ。

「さようなら、フローライト」

 ルチアはフローライトに薔薇を渡すと、踵を返して歩き出した。

 薔薇園を出ると、ノイアが待っていた。その背には金の糸で天使の紋章が刺繍されていて、太陽の光を受けてきらきらと光っていた。護衛の服も、天使の紋章も、いつしかすっかり彼に馴染んでいる。

「お待たせ、帰ろうか」

「うん。王女様とは仲直りできたみたいだね」

「ああ、おそらくは」

 ルチアはフードを被って顔を隠した。ミラーレを倒して王都へ戻ってからというもの、顔を出して歩けばどこでも人々に囲まれてお祝いや労いの言葉を貰うことになり、嬉しくはあるが、まるで身動きが取れなくなるのだ。

 王宮の外を目指して歩いている途中、庭園のアゲート王の像が目に入った。剣を掲げた勇壮な姿の像で、竜の頭を踏みつけにしていた。

 この国を一層の繁栄に導いた偉大なる伝説の王に敬意を表して作られたものだった。人々の知っている物語に出てくる姿そのもので、これから先もそれは変わることはないだろう。

「君はもっと怒るかと思っていた」

 ノイアもアゲート王の銅像を見ながら言った。ノイアには帰り道の最中で全てを話してあった。

 ルチアはぴたりと足を止めた。

「怒ってる、全然納得してない」

 ふくれっ面で言って、ふんと鼻を鳴らした。それを見てノイアがくすくす笑う。

「でも、納得できない気持ちがあっても、すべてを白日の下にさらすことはできない。彼が、真実を明かさないことを良しとしたのだから」

 王宮を出て、大聖堂を目指して歩く短い道中であっても、天使を讃える歌が聞こえてきた。王都はミラーレ討伐の報が届いてから連日お祭り騒ぎだった。他の町でも同様に天使の活躍に沸き立っていると聞く。

 斜陽の神々におびえる日々は終わりだと、暗黒の魔性を恐れる日々は終わりだと、誰もが希望を胸に喜びを歌っている。

 もう誰も、ルチアを役立たずの人形だとは思っていなかった。

  

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