18

 洞窟内に一歩踏み込んだ瞬間、空気が完全に変わったのを感じ取った。魔力をはらんでねっとりと肌に纏わりつく、嫌な空気だった。

 先へ進むにつれて入り口から差し込む光が遠ざかっていくと、それに反比例するように蝶が白い光を放ち始めた。

 洞窟内は石や岩が転がっているばかりで、その空気以外は取り立てて珍しいものもなかった。

 絶え間ない振動に重なるように、生臭い魔力を含んだ吐息の音と、時折り悲しげな呻き声が奥から響いてきた。それは奥へ進むにつれてはっきりと聞こえるようになっていく。

 分かれ道に差し掛かると、ルチアは足を止めた。

「本当にどっちに進んでも同じ場所に辿り着くのかな?」

 すぐそばを飛んでいる蝶に問うてみるが、蝶はわからないとでも言うように右へ左へ揺れた。

「蝶……。ちょうちょ、さん、君って生きているのか?」

 素朴な疑問を口にすると、蝶はルチアの頭の上に止まった。どことなく意思を感じる動きだった。

 ルチアは何となく左側の道を選んで進んだ。辺りの風景が全く変わらないが、空気の淀みだけはますますひどくなっていく。

「ああ、そろそろかの神がいる場所に着くだろうか……。ちょうちょさん、もしもノイアに私の言葉を伝えられるなら、私が死んだときにお願いできないだろうか」

 蝶は光量を抑えながらルチアの鼻に止まった。そして翅でぱたぱたとルチアの頬を叩いた。ちっとも痛くなかったが、怒りは伝わった。しかし、黙っている場合ではなかったのでルチアは話を続けた。

「もしも私が死んだら、洞窟内で亡くなったという二人の魔術師の遺体を回収して家族の元へ帰してほしい。それから、余力があれば私の分も頼む」

 ルチアが自分のことをついでに言うと、蝶はまたしても翅で頬をはたいてきた。今度は先ほどよりも強い力で、ルチアもさすがに少し痛みを覚えた。

「ごめん、ごめん。やっぱり君にも心があったんだな。でも、ノイアに面と向かっては言いづらかったんだよ。私は私自身の命を人の為に使ったとしても後悔はしないが、君のご主人はきっと悲しい顔をするだろうから」

 蝶は思案げに動きを止めたが、やがてひらりとルチアから離れ、顔の横近くで飛び始めた。承知してくれたのだと思うことにして、ルチアはさらに先を目指して進んだ。

 幾度かの分かれ道を進んで、時間の感覚が失せたころ、辺りの景色が急激に変貌し始めた。

「え……?」

 口から戸惑いの声が零れた。

 岩肌はどこまでも続くなだらかな丘の景色へと変わり、丘を駆ける風がルチアの元へ緑の匂いを運んでくる。

 脇を子どもが通り過ぎた瞬間、ルチアは思わず足を止めていた。一切の気配を感じなかったのに、楽しそうに笑い声を上げて走っていく二人の子どもの姿が確かに見えたのだ。振り返ると、すでにその姿はなくなっていた。

「これは……、神域、なのか?」

 それは神の持つ領地のことであり、天使の手記にもたびたび登場する単語だった。

 手記に曰く、力のある神が持つとされる領域は、さながら小さい一つの別世界だった、と。その世界では主たる神が全てを支配し、全てを創り上げる。ある者は、神域とは神の見る夢そのものである、と言った。

「結界と神域が融合しているのか……?」

 ルチアは手を伸ばして洞窟の岩肌があったはずの場所へと手を伸ばすが、そこには穏やかな風が吹き抜けるばかりだった。

 ルチアは蝶を手招きして肩に乗せると、再び奥を目指して歩き出した。

 周囲の景色はめまぐるしく変わっていく。急峻な山に挟まれた河や、風に揺れ黄金色に輝く小麦畑、荒涼とした赤茶けた岩場、金銀財宝が山と積まれた宝物庫。

 それらすべての景色の中に二人の少年の姿があった。一人は徐々に身長が伸びて立派に成長していくが、もう一人は全く変わらず子どもの体のままだった。

 景色はいつの間にか見覚えのあるものになっていた。何度も繰り返し同じ景色が周囲を流れていた。その中にいる子供たちの姿もまた同様で、一人は身長が伸びたり縮んだりしていた。

 まるで二人の冒険譚の中のもっとも輝かしい部分だけを繰り返し見ているかのようだった。繰り返されるたびに色は褪せて、二人の表情がぼやけて見えなくなる。

 全てが灰色へと変わったとき、急に開けた空間に出た。蝶が放つ光が、驚くほどに高い天井を辛うじて照らす。

 空間の中央には供物を置くと思しき祭壇があった。周囲を見回すと、この場所からはさらにいくつかの道へ繋がっていた。

 ずしん、とひときわ強い振動を感じ、ルチアは肩に止まっていた蝶をさっと懐に入れた。

 呼吸の回数を徐々に減らし、瞬きを繰り返して闇に目を慣らす。

 ルチアが完全に呼吸を止めた時、一つの道から赤い鱗の巨躯が現れた。それは王都で見た書物の中に描かれていた赤い竜そのものだった。

 頭の後ろには神の証である光背が浮かんでおり、鈍くくすんだ輝きを放っていた。

 竜は開けた空間に出ると、一度動きを止めた。次はどの道へ進むかを思案するように長い首を回す。足についた金属製の枷がじゃらじゃらと大きな音を立てる。

 赤い竜はマグノイアの説明よりも一回りも小さく見えた。

 ルチアは激しい心臓の動きを感じていた。強く激しく訴えかけられている。獲物が来たぞ、と内なる囁きが聞こえてくる。

 竜の薄く開いた口から厚みのある舌が覗き、蛇よろしくちろちろと舌を出し入れした。まるで空気を舐めるような動きだった。

 ミラーレが舌を出し入れする度に真っ黒なものがぼたぼたと垂れていた。それは唾液ではなく、壊れつつある神の体そのものだった。

 神の体は魔力が凝縮してできたものであるが、信仰を失った末期には体を構成する魔力を自らのものとし続けることができず、世界によってむしり取られるように還元されていくのだ。魔性に堕ちれば、その全身は黒い泥に覆われる。

 やがて竜はぴたりと動きを止め、大きな瞳をぎょろりと動かしルチアの方へ向けた。闇の中で目が合った。ミラーレの片方の瞼は閉ざされたままで、縦に走った古傷が塞いでいた。

「誰だ?」

 地響きのような声だった。明確な意志を感じる言葉だった。ルチアの中で急激に対話への期待が高まる。

「人間ではないな、貴様。この匂い……、そうだ、陽だまりの匂いだ」

 竜の尾が鞭のように振るわれ、地面を叩いた。呼吸が荒くなり、鱗色が毒々しい紫へと変じていく。

 ルチアは意を決して一歩踏み出し、両手を広げて武器を持っていないことを示した。

「不躾な訪問をお詫び申し上げる、ミラーレ神。私はルチア、天使だ。貴方にまだ心があるなら話をしたい」

 洞窟内に沈黙が降りた。ルチアは固唾を飲んで返事を待った。戦わずして戦意を喪失させられるのならそれに越したことはない。戦いは最後の手段であるべきだった。

「天使」

 ミラーレは口の中で転がすようにその名を呼んだ。虚ろな目は遠い記憶を探るようにぎょろぎょろ動いた。

「ああ、だから妙な匂いがするのか。久方ぶりにその名を聞いたな。天使、人の腹から生まれる人間擬き、救世主気取りの人形の名だ」

 ミラーレはくつくつと笑った。

 ルチアは嘲りにも微動だにしなかった。敵対者からの嘲りは想定内だった。

 眉一つ動かさないルチアに、ミラーレは鼻白んだ様子だった。

「話とは何だ、愚かな平和主義者よ。王族を殺すのをやめろと言うか? 王都を落とすのをやめろと言うか?」

「ええ、そのお願いに参りました。こうしてお話ができているのです、どうか私の願いを聞き入れてはいただけないでしょうか」

 交渉事に不慣れなルチアは、率直な願いをぶつけた。

 ミラーレの尾が激しく振るわれた。壁の一部ががらがらと音を立てて崩壊し、砂埃が陽炎のように揺らめく。

「下らない、下らない、下らない……!」

 ミラーレの声が洞窟内に響き渡り、砂埃さえもその吐息で吹き飛ばされた。

「話し合いなど時間の無駄だ。私の恨みはそんなものでは治まらない。あれは私との約束を破った……! やはりあの血族は許し難い、この世界に存在してはならない。あの血を根絶やしにしなければないない!」

 血走った目で叫ぶミラーレは、やはり正気には見えなかった。興奮すればするほどに気配は禍々しいものに染まっていく。

「何があなたをそうさせるのです、ミラーレ神よ」

 ルチアは最後の希望を託して呼び掛けた。だが、ミラーレにはまるで響かなかった。交渉は完全に失敗していた。

 ルチアは唇を噛み締め、こぶしを強く握った。それは悲しみや後悔による反応であり、全く相反する感情を抑えるためのものでもあった。

 ミラーレの虚ろな瞳は完全に現実を見ることを放棄し、口からは絶えず黒い魔力が流れ出していく。そして、不確かな足取りで一歩一歩とルチアに近づき始めた。

「結界が解け始めている、兆しが、兆しが見える。我が神の思し召しに違いない。おお、我らが太陽よ、私こそ地上を平らかにして貴方様の勝利への道を作るもの……。私は、貴様を殺して外に出るのだ」

 興奮しているミラーレの発言はほとんど支離滅裂だったが、ミラーレ自身はそれに気づく様子はなく、狂気に浸る恍惚に全身を震わせるばかりだった。

「そう易々と殺される気はない」

 先ほどまでと打って変わって、ミラーレの覚えている昂ぶりと全く別種の興奮の乗る声色で言うと、ミラーレは動きを止めた。

 隠し切れない殺気がルチアの全身からあふれ出ていた。戦わずにこの場を収められるならば、という思いは紛れもなく本物だったが、それをあっけなく上回るほどの衝動が今にも体を突き動かそうとする。相対する神よりも矮小で、しかし戦うために生まれた体は、心も理性も置き去りにしてひたすらに戦場を求め焦がれていた。

「復讐の神に羽虫の如くに殺され尽くした天使が何を言うか」

 罵倒されてもルチアは不敵に微笑んだ。心臓が、かつて剣の形をしていた鋼が、かつてないほどの激情を迸らせる。

「だが、私は此処にいる」

 体が黄金の光に包まれた。洞窟内は昼中のように明るく照らされ、驚いたミラーレがたたらを踏む。

 光は全てを圧倒した。音でさえもその光の前に傅き静謐が満ち満ちた。この世で最も貴い黄金は世界の中心にあり、それは地上のさやけき太陽だった。

 ルチアの体から放たれた光は心臓の真上に寄り集まり、黄金の光の円盤を形作った。そして、円盤の中央から黄金の剣の柄が出現した。

 ルチアは迷わず柄を掴んで引き抜いた。

 空を切り払うと、光の粒が零れ落ちて白銀の剣身が現れる。剣には傷一つなく、暗い洞窟にあって唯一光り輝く。

 ルチアは剣身に映りこんだ自らの顔を見た。戦いに臨む悦びに満ち溢れた顔をしていた。

 聖剣を見た瞬間、ミラーレはさらに一歩後ずさった。そして、長い首を振り、現実を拒む。

「忌まわしい死の天使……! ああ、眷属であるその身で神を殺す冒涜者め、地上からもっとも早く消えるべきはお前だったのに!」

 ミラーレの大声で洞窟が震え、天井からはぱらぱらと砂が落ちた。

「お褒めに預かり光栄だ」

 ルチアが自嘲気味に言ったとき、懐から蝶がひらりと抜け出した。蝶はルチアの髪を一つに結わえ、髪留めの代わりとなった。

「ありがとう」

 ルチアは小声で礼を言った。

 ミラーレはかっと口を開けた。喉の奥に炎が見えた瞬間、ルチアは地面を蹴って飛んでいた。吐き出された炎が地面へぶつかって、洞窟を赤く照らす。

 ルチアは空中で身をひねりながら、聖剣の声なき声を聞いていた。喩えるならばそれは澄み渡った空の色だった。

 剣はルチアを導こうとしていた。どう扱われたいのかを肌を通して伝えてくる。

 神核を狙え、と意思を感じ取ったと同時に、ルチアの目にもそれが朧げに映っていた。ミラーレの胴体の、その内側にある一層魔力の濃い場所が、はっきりと光って見える。

 神核、それは魔性との戦いでルチアが触れられなかった神の唯一の弱点にして全ての源だった。

 ルチアはミラーレの背後に着地し、再び地面を蹴って神核を目がけて飛んだ。ミラーレの尾が一瞬遅れてルチアをはたきおとそうとしたが、ルチアの方が速かった。赤い鱗に覆われた背中に剣が突き刺さり、ミラーレの絶叫が響いた、口からは黒い泥の唾液が飛ぶ。

 あまりの大音量にルチアの全身は強く打たれ、内臓が振動して名状しがたい気持ち悪さがこみ上げ、視界がぐらりと揺れる。

 ルチアはどうにか踏ん張り、剣を引き抜こうとする。だが、鱗の下の筋肉や肉の硬さのせいですぐには抜けなかった。手間取っている間に、痛みで暴れるミラーレの背中から落ちてしまった。ルチアはすぐに地面を転がって体勢を立て直すが、ミラーレは距離を取っていた。

 憎しみに燃え盛る瞳がルチアを睨みつける。痛みと憎しみは、ミラーレに少しばかりの正気へと引き戻したらしかった。

「痛い、痛い……! 殺してやるぞ天使、あの魔術師たちと同じように食い殺し、陽の光の決して届かぬ場所に捨ててやる」

 ミラーレが恨みがましく言ったが、ルチアはそれを話半分にしか聞いていなかった。剣が声もなく文句を言っているのに気を取られていたのだ。せっかくルチアの手に握られたというのに、すぐに離されて腹を立てているらしい。

「君にも心があったとは」

 妙な心地だった。心臓の代わりとなっていた剣は、生まれた時から片時も離れずにいたのに、そんなことは知らなかった。数多の手記にもそんなことは記録されていなかった。

 ルチアは口元から垂れた血を手の甲で拭い、弾かれるように駆け出した。じぐざぐと無軌道に進行方向を変え、時折りミラーレから投げつけられる火炎の玉を避けて、その巨躯の下へと滑り込む。

 ミラーレの腹のあたりの鱗はぼろぼろに擦り切れており、ひび割れた皮膚の間からは黒い体液が滲んで垂れていた。地上に縛り付けられていた長い年月がその体に刻まれ、神としての終焉が亀裂から覗いていた。

 ミラーレがたたらを踏み、体の下を覗き込んだ瞬間を見計らってルチアは転がり出た。そして体を宙に躍らせる。ミラーレの体に突き刺さったままの剣の柄を掴み、落下ざまに体重をかけて引き抜いた。剣が抜けた傷口からは血が噴き出し、またしてもミラーレの絶叫が響いた。

 ルチアは痛みに暴れるミラーレから距離を取り、剣を切り払って血を落とした。

 ミラーレは絶叫しているが、その傷は致命的ではない。剣は鱗に阻まれて核へは到達していなかった。

「許さない、絶対に……!」

 ミラーレはどこか子供じみた声で言って、全身で息をしながら翼をばっと広げた。右側の翼は骨が折れたままで歪な形をしており、半分ほどしか開かなかった。

 飛ぶか、とルチアは剣を構えた。

 翼が振り下ろされた瞬間に強烈な風が巻き起こった。風はうなりを上げて砂埃と共にルチアの元へ押し寄せた。ルチアは思わず目を塞いでしまった。あまりの強風に体は地面に押し付けられ、その場に留まるのもやっとだった。

 激しい風の音に紛れて何かが爆ぜる音がした。ルチアは直感的に風に逆らい、再び剣を構えていた。薄目を開けると、視界は真っ赤な火炎で埋め尽くされていた。

 恐怖を感じる前に、どう動くべきか考える前に、斬れ、と啓示が頭の中に響いていた。

 疑っている余裕はなかった。ルチアは地面を強く踏みしめた。大きく振りかぶり、一気に剣を振り下ろした。

 聖剣は迫りくる炎を真っ二つに切り裂いた。炎は背後の壁にぶつかって爆ぜ、熱風がルチアの背中を叩いた。しかし、ルチアはその程度ではびくともせず、顎を伝う汗をぬぐい、外套の前を開けた。

 熱風吹きすさぶ中で毅然と立つルチアを見て、ミラーレはひゅっと息を飲んだ。ルチアへ対する恐怖、すなわちは死の予感を覚えたのだ。そして、自らの力の限界に気づいた。先ほどの炎はミラーレの放てる最大火力であり、相打ち覚悟でふり絞った最後の力だった。

 ミラーレがじりじりと後退するのを見て、ルチアは吠えた。

「逃げるのか!」

 ミラーレはその巨躯をびくりと震わせた。後ろ足が壁にぶつかり、衝撃で落ちてきた石にさえも痛がる様子を見せる。

 火炎を放った反動によって、今やミラーレの体はあちこちがひび割れて黒い魔力の泥がにじみ出ている状態だった。赤い鱗はほとんど見えなくなり、光背はとうに光を失い崩れ去っていた。光背は神格の証左であり、それが失われたということは、神としてのおしまいの現れだった。

 辛うじて見える瞳だけは爛々としていて、ルチアをはっきりと見返している。だが、正気の光はない。

「そんな目で私を見るな!」

 つんざくような声が飛ぶ。ミラーレは黒い泥を吐き出しながら凄絶な顔で言った。その激しい憎悪と恐怖に歪む顔と巨躯には似つかわしくない、子どもの駄々めいた叫びだった。

「哀れむな、私はかわいそうなんかじゃない、私は気高い竜だ、わ、たし、私は」

 ミラーレはルチア目がけて突進してきた。冷静さを失った直線的な動きだった。

 ルチアは体を低くし、地面を蹴った。地面すれすれを飛んでミラーレの体の下に滑り込み、柔らかい腹に剣を突き立てた。先ほどとは比較にならないミラーレの絶叫が響いた。

 聖剣が核に届いたのがわかった。ルチアはぐっと力を込めて、走りぬきざまに一気に腹を裂いた。噴き出した血が地面に撒き散らされる。地面には一瞬にして黒い血の池が広がった。ルチアは寸でのところでミラーレの体の下から脱出しており、返り血の滝を浴びることはなかった。

 ミラーレは途切れ途切れの悲鳴を零しながらそのまま洞窟の壁に衝突し、激しい音を立ててくずおれた。噴き出した黒い血の池の中でぴくりとも動かなくなる。

 ルチアはすぐさま体勢を整え天上を見上げた。崩れないか心配になったが、壁に亀裂が入っただけだった。

 視線を戻して、ルチアはぎょっとした。ミラーレが喉を震わせ大粒の涙をこぼしていたのだ。その様子はあまりにも子供っぽく感じられた。

「幼児退行? いや、ひょっとして、本当に子どもなのか……?」

 ルチアは神域での幻の景色を思い起こしながら言った。

 砂埃の中でゆらゆらと揺れるその瞳は、ルチアを見ているようで見ていない。その瞳は過去の光を映している。

「ああ、アゲート……」

 ミラーレが呼んだのは、かつて竜を閉じ込めて玉座を手にした王子の名前だった。その声色には様々な感情が混ざっていたが、たしかに親しみがあった。

「そこにいたのか、我が王子。私を置いていくな、ここは暗くて、寂しいだけで何もないのだ。貴方を王にするとお約束したのに、どうして、私はもういらないのか。だから、こんなところに捨てたのか」

 ミラーレは地面を押し返すように立ち上がり、一歩進んで、よろめいて転んだ。どしん、と大きな音を立ててミラーレが倒れた。もう一度体を起こそうとするが、爪は地面を掻くだけだった。

「よせ、よせ、私を見るな。月の神さえ捨てて私を、信じると言った。私、私の友だち。どこに行った、あなたがいなくなってからあちこち痛いのだ、塞がった傷が痛いのだ、目も翼もおかしいまま……」

「ミラーレ?」

 ルチアは恐る恐るその名を呼んだ。一瞬だけミラーレはルチアを見た。そして、何かが決定的にミラーレの中で壊れた。堰を切ったようにその体から魔力が流れ出て、見る見るうちに竜の体はしぼんでいく。

「私を哀れむな、お前は、私を閉じ込めて王となったんだろう。知っているぞ、わかっていた、あの姫に聞くまでもなくわかっていたとも。私を、友だと思っていなかったことも、ずっと、ずっと……」

 声は途絶え、魔力の抜けた体が残された。それはすでに竜の形を保てなくなっていた。

 黒い血は地面がすっかり飲み込んでいて、どこにも痕跡はなくなっていた。ただ戦闘の跡を残した乾いた地面があるだけだった。

 ルチアはゆっくりとミラーレに近づいた。すぐそばまで近づいても、ミラーレは地面に倒れたまま動かなかった。

 止めだ、殺せ、と内側から囁きが聞こえたが、ルチアは無視した。怒れる蒼穹の音色がルチアを突き動かそうとして、手の中で聖剣が小刻みに震えた。

 ルチアは剣を手放した。剣はすぐに光そのものになって、ルチアの体に吸い込まれて消えた。

 洞窟内は再び闇に包まれ、内なる音色も途絶えた。

「神と人とは同じ形をしている……」

 ルチアは以前教わったことを口に出して反芻した。

 魔力が流れ出たミラーレは人間の体になっていた。頭の後ろに光背はない。ルチアよりも小柄で、未発達な腕や脚は子どものそれだった。胸や腹の傷から黒い血が流れ出し続けていて、ぼろのような服を染めていた。

 ミラーレはルチアを力なく見上げた。竜の形をしていたときと同様に片目は塞がっている。傷だらけの顔は蒼白だった。今は見る影もないが、幻の景色の中の少年と同じ相貌だった。

「殺さないのか、貴様」

 掠れた声だった。洞窟を震わすほどの声量は、その体からはもう出ないようだった。

「核は砕いた。神格の傷は決して治らない。だから、もう殺したようなものだ。遠からず貴方は世界を去る」

 ルチアはその場にしゃがみこんで、ミラーレと視線の高さを近づけた。ミラーレはびくりと体を震わせる。

「貴方が殺した魔術師はこの洞窟内に?」

「魔術師……?」

 ミラーレの目がさまよい、やがて焦点が現実に合う。

「殺したんだったか、そうか。……そうだ。もっと奥に、まとめて置いた。邪魔だったから」

 不貞腐れた口調でミラーレは言った。

 ルチアはじっとミラーレを見つめた。向こうもどこか不機嫌そうに見返してくる。

 命のやり取りをしたことで、二人の間には不可思議な絆ができていた。ルチアがこれまで築いてきた温かな関係性のどれとも似ていない。だが、放っておけないという思いが芽生えていた。

「貴方は悪の竜で、アゲート王が討ち取った邪悪な存在だと伝わっている。だが、貴方の話は私が聞いた話とはまるで違っているらしい。どうか聞かせてもらえないだろうか、貴方がなぜここに閉じ込められていたのかを」

 ミラーレは再び涙で瞳を揺らし、それを打ち消すように口元を歪ませた。

「ああ……、血を流して少しばかり冷静になったよ。あまり、思い出せないが、何か可笑しなことでも言ったらしいな。伝わっていることだけが真実で、アゲートは、どうせ素晴らしい王だったんだろう。それで全てだ。貴様に話して聞かせる話などない。わかったらさっさと消えろ、王都に帰って人間どもに誉めそやされるといいさ。悪しき、竜を、殺して平和を守った、天使様……」

 それきりミラーレは口を固く閉ざしてしまった。

「……貴方は魔性に身を落としてなお友を取るのか」

 ルチアはミラーレを抱き上げると、出口を目指して歩き出した。来た道は先ほどの戦闘のせいで崩れて塞がっていたため、適当な道を選んだ。帰ろうという意思だけが肝要で、それさえあれば洞窟は来た者を必ず帰してくれるという話を信じて進んだ。

 不意に髪が解けた。髪留めの代わりとなっていた蝶が離れたのだ。蝶の羽が耳を掠める。

 君は馬鹿だ、とノイアの声が聞こえる気がした。もちろん空耳だった。

 蝶はルチアの側を飛び始め、光を放った。洞窟内が再び明るくなる。

「ありがとう」

 礼を言うと、蝶はひらりと宙返りした。

「貴様、頭が湧いているのか?」

 ミラーレはぼそぼそ言った。怪訝な目をルチアに向けている。旧友へ向けるような遠慮のない視線だった。

「いいや、正気だ」

「なら、魔術師の死体を回収して帰るべきだろう」

「そちらも必ず連れて帰る。まずは王都の危機が去ったことを伝えなくてはならない」

「なんだ、神の遺体を証拠として持って行くと? 悪趣味ここに極まれりだな。だいたい、神は世界から去れば、体など残らない……」

 ミラーレは顔を歪めて言った。ルチアは首を振り、ミラーレの体を抱えなおした。流れ続ける血はルチアの服をまだらの黒に染めていた。

「貴方を誰に見せつける訳じゃない、洞窟の外にいるのは私の護衛だけだ。貴方を許すことはない、人を殺したのだから。だが、盲目的に貴方だけを悪と決めつけておしまいにする気にもなれない。ただ、私は、友を大事するその心に親近感のようなものを抱いただけだ」

 ルチアは口元に薄く笑みを浮かべた。その心に去来していたのはフローライトのことだった。

 ルチアはミラーレを抱えたまま歩き続けた。足取りは決して軽くはない。額の傷は塞がっていたが、他にも体のあちこちが痛みを訴えていたし、初めて使った聖剣に気力体力を持って行かれていた。

 洞窟は帰り道も果てが見えなかった。帰れると信じる心だけが、その足を止めずにいられた理由の全てだった。

 蝶がひときわ強く羽ばたいて、ルチアははっと顔を上げた。暗黒の先に微かに陽の光が見えていた。

 一歩一歩踏みしめるたびに光は強くなっていった。蝶は先に飛んでいき、光に包まれて見えなくなった。

「ルチア」

 向こうから名前を呼ばれて、ルチアは思わず目を細めていた。

 ノイアは洞窟の前で待っていた。逆光で表情はほとんど見えなかったが、嬉しそうな顔をしているのは声からわかっていた。

 ルチアは洞窟の出口の前でミラーレを地面に降ろすと、聖剣を抜き、先に洞窟を出た。剣を携えたルチアに、ノイアはぎょっとした。

「ルチア、何をしている?」

「ずっと支えてもらっていたのに悪いんだが、結界を破壊する」

 ルチアは剣を真横に薙ぎ払い、洞窟の両脇にある水晶を真っ二つに割った。聖剣に斬れないものはなかった。実体の有無さえ関係なく、それは全てを断つことができた。

 ごとりと音を立てて水晶の上半分が落ちてから、ノイアは目を見開いた。

「止めようとしていたか? 悪い、もう壊してしまった」

 剣を仕舞うと、壁にもたれかかっていたミラーレを抱き上げた。その体は空気のように軽く、魔力がほとんど残っていなかった。

「もう閉じ込めるべき神はいない」

 ルチアはミラーレを抱えたまま洞窟の外に出た。

 太陽は中天を過ぎた頃だった。空は抜けるように青く、雲一つない快晴だった。天使が居る場所は、いかなる地であれ、雲は退き快晴となる。

 ミラーレの睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が開いた。その瞳が蒼穹を映した。

 ルチアの腕の上からふっと重みが消えた。ミラーレの体は形を失い、黒い砂粒になってさらさらと消えていった。神に肉体はなく、死んでしまえば何一つ残らない。世界を穢す黒い血さえも、空気に濯がれるようにして消えた。

「さようなら、正義の赤い竜。どうか天上で安らかな眠りを」

 高い空の向こうにある蒼穹世界に思いを馳せながらルチアは言った。

 神と、先に世界を去った天使たちもいるはずの永遠の地。ミラーレがそこへ受け入れられることをひそやかに願った。

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