最終話 夜すら味方してくれない

 カラオケ店を出て、彼女が言ったように海を目指した。運転は当然俺だった。自転車で三十分も漕げば、海岸に着くはずだ。俺と如月は眠る町の空気を切り裂くように疾走した。体の線を撫でていく風が心地よかった。荷台に乗った如月はカラオケの気分を引きずっているのか、俺の知らない昭和のだろう歌を口ずさんでいた。


 完璧。


 俺の脳内に浮かんだ言葉はそれだった。キザな響きだが、素敵な夜だった。


 海岸までまっすぐの坂を下って、俺たちは砂浜に自転車を停めた。寄せては返す真っ黒な海の波間に、月の光が砕けて散っていた。如月は砂浜と接したコンクリートの道路に腰を下ろした。俺もその横に座った。


「もう四時じゃん」


 如月が驚いたように言う。咄嗟に自分も携帯で時間を確かめると、四時半を過ぎていた。そんなに遊んでいたのか。


「時間なんて忘れてた」


 俺がそう口にすると、如月は横から「それなー」と同意してきた。時間があることすら頭から抜け落ちていた。それほど今日は濃密だった。


 如月が髪を耳にかけたのが、暗闇に慣れてきた目で見えた。


「傷ついて、痛みを抱えて、誰にも相談できなくて、夜すら味方してくれないから、こうやって逃げ出してきた。そしたら、遊んで泣いて、見事、夜から、全部から逃げおおせた。今日は本当に楽しかった」


「俺も、だいぶ突然の誘いだったけど、楽しかったよ。話も聞いてもらって。あんな話、誰にも相談したことなかった」


「またさ、誘っていい?」


「良いよ。また逃げ出したい時に、いつでも」


「ふふ、ありがと」


 俺たちは沈黙した。それをお互いが求めていることが分かった。俺らを見放した夜もどこかへと行ってしまう。水平線の縁が、幽かに白み始めた。空も、海も、朝の光に白んだ。背後の町も、その全容を光の中に浮かび上がらせた。


「そろそろ帰らなくちゃね」


 如月が立ち上がったので、自分も立った。尻に付いた砂を簡単に払い停めた自転車に近づいた俺の背中に、如月は大きな声で言った。


「自転車、あたしに運転させてよ」


 俺が良いとも駄目とも答える前に、彼女は走って自転車へ飛ぶように乗った。そして親指を立てると腕を曲げ、荷台を指し示した。


「さ、ほら」


 俺は荷台に乗って、たぶんああなるだろうと考えた。そして走り出した自転車は、案の定、タイヤを数回転させたところで道路の凹みに引っかかり横転して、俺と如月は道路へと投げ出された。


「自転車すら味方してくれない」


 道路に仰向けになった如月は笑いながら言った。俺も笑った。二人でいつまでも笑っていた。こんなに気持ちの良い朝は、生まれて初めてだった。

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夜すら味方してくれない。 山口夏人(やまぐちなつひと) @Abovousqueadmala

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