風にならない

碧川

風にならない

 昨晩の雨はすっかり上がり、空は青く晴れ渡っている。西の空にはほんの少し低い雲の切れ端が残っているものの、これからしばらくは雨の心配もなさそうだ。

 周りの木々も緑も洗われ、ところどころに残した雫が日差しに煌めく中、セミたちも合唱を始めている。

 ──ここで、と約束をしたわけではないが、あいつは毎年欠かさず来てくれる。さすがに昨夜のような土砂降りが今朝まで続いていたら、そんな中足を運んでもらうのも申し訳ない。または、今年こそは会うことはないのかもしれなかったが。

 よっこらせ、と口には出さずにそばのベンチへ腰掛け、自分の考えたことながら「いや」と首を振った。

 大人になると人は変わると言うが、根本的な部分はどうだろう。出会った頃、まだ少年だった時分から、あいつは妙に義理堅かった気がする。

 例えば私が持っていた漫画を貸して、その後特に何か礼をしてくれと言ったこともないのに「貸してくれたから」と彼が持っているゲームを貸してくれたことがあった。子ども心にそんな風に対等であるのは、嬉しいものだった。

 視線を落とした先、足元の砂利の隙間はまだ濡れたまま色が濃い。

 だから、そう。昨夜の雨が続いていたとしても、ここに来たかもしれない。それならやはり、晴れてよかった。

 ふとそのとき、砂利を踏み締める音が聞こえて顔を上げた。見ると、今まさに思い出の中にいた姿が、こちらに向かって歩いてくる。見えないだろうと思いつつも、私は片手を大きく上げた。

 昨年よりも少し肥っただろうか、彼の両手にはそれぞれコーヒー店のロゴが入った蓋つきの紙コップを持っている。

「……よお」

 相変わらず無愛想に、彼は短いあいさつと共に、手にしていた紙コップをこちらに置いた。もうひとつは自分で口をつける。

 別に私はコンビニのコーヒーでも構わないのだが、こいつはまったく律儀にも、この店のコーヒーを買ってくるのだ。店舗は違うが、私たちがよく学校帰りにフラフラと寄っていたチェーン店のものだからだろう。

 そのうち、彼はいつもと同じようにマイペースに話し始めた。家族のこと、私の家族のこと、春先にあったという同窓会で、久しぶりに顔を合わせたクラスメイトたちの近況などなど……。

 一通り話し終わる頃には、彼の紙コップはほとんど空になっていた。

「本当はさ」

 すっかり軽くなった紙コップを手で弄びながら、ぽつんと、彼は言った。

「昔よく行ってた店で、お前にこうして話すのもいいかと思ったけど……空席相手に話してるなんて営業妨害になるよなって」

 そうして私の前──墓石の前に置いてくれた紙コップに手を伸ばす。

 さて、気分だけは私も十分にコーヒーを味わっていたのだが、当然ながら中身はたっぷり入ったままだ。

 再びふたつの紙コップを持った彼は、昔から無愛想で表情筋が死んでいるような顔に、珍しく微苦笑を浮かべた。

「……そういや『そこに私はいません』だったよな」

 彼が口にしたのは、一時期流行ったという曲の歌詞だ。彼と同じバイト先の有線で時折流れていたこともあって、歌い方をオーバーに真似をしたり、よくあるふざけ方をしては馬鹿みたいに笑っていた。

「確かにどうせ、いやしないんだろうけどさ」

 そう言って、彼はあの頃のようにくしゃっとした顔で笑った。



 それがいるんだな、これが。

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風にならない 碧川 @yu_midorikawa

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