第二話 晩春
それは肌寒い夜だった。
月明りが水面に映り、風が桜の花を散らした。
「はて、これからどうなるのでしょうか」
一人の女御が、月見をやめ御簾を下ろしていた。
「君上も、黙ってはおられないでしょうね」
夜の控えである女御は、暇を埋めるように御簾ごしに噂話をしていた。彼女らの声が聞こえるたびに、衣の擦れる音が回廊に響く。
「もしかしたら、争いになるやもしれません」
一人の女御が神妙な面持ちで、肩を詰めた。なにか思う所があるのか、立ったまましきりに扇子を閉じては開く。
「どうしてそうお思いになられるの?」
別の女御が書を片付けおえ、衣の袖を翻しながら座した。その声は、とても力強く扇子を持つ手が震え始めた。
「わたくしは、見てしまいました。君上のお怒りといったらそれはもう恐ろしいほどで……」
とうとう扇子で顔を隠して、女御は肩を震わせへたり込むように座った。
「そのようなこと、口にしてはいけませんよ」
不敬に当たるわと、女御は呆れたように言い返した。だが落ち着かないのか、扇子を持つ手は小刻みに震え、その目はまるで亡霊におびえるようだった。
「ですが、あれはまことに……」
言うことを恐れたのだろうか、手を口に当て、女御は扇子を握りしめてひどくうなだれた。それを見た別の女御は呆れたようにため息をつき、胸を張って答えた。
「君上は人ではないのです」
凛々しく、清々しい言葉であった。この女御は、君上が人ではないことに誇りを持っていた。
「わ、わかってはいるのです。ですが、ですが!」
だが、もう一人の女御も引きはしなかった。
「何が言いたいのです?」
凛々しい女御は、この話を終わりにしたいようだ。だが、震える女御はここで引き下がるわけにはいかなかった。なぜなら、これは彼女の長年の疑問だからだ。震える手でよろよろと、凛々しい同僚の袖をつかみ言った。
「君上は、紛れもない鬼でございます」
君上を慕う女御の眼には、もはや同僚としての情はなく、軽蔑しかなかった。
「これ以上は、まことに不敬にあたりま」
彼女が言葉を言いかけた時、春嵐と共に御簾が大きく揺れ、地に落ちていた花弁が御簾の揺れと共に部屋の中を舞い、容赦なく女御たちを襲った。
「い、いったい何が」
女御たちは先ほどの話も忘れ、一心不乱に御簾の揺れを止めようとしていた。
「は、春神(はるのかみ)がお怒りになったのだわ!」
先ほどまで怖気づいていた女御は扇子を合わせに差し、暴れる御簾に手を伸ばした。
「なにをばかげたことを」
風は強まり、女人では手に負えず風に押されるまま女御たちは膝をつき頭を抱えるしかなかった。
「何事だ!」
男の声と共に、警鐘があたり一面に響く。耳を劈く音がこだました。
先ほどまでの静けさとは違い、瞬く間に屋敷は人々の存在を詳らかになる。
「曲者だ!」
その時、見張りの兵が千年の眠りからたたき起こすように怒号を挙げた。
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時はさかのぼること、数刻前
「はぁはぁ……」
豪奢な寝台に体を預けて眠っていた青年が、胸を上下させ何度も息を吸い込んでいた。滝のような汗をかきながら驚いているのか、目まぐるしくあたりを見回している。
永く手入れの行き届いた艶やかな長髪が、汗をかいた顔に張り付いた。
ここはどこなのだろう。
青年は何度も、目を開けては閉じるのを繰り返し、ようやく額に張り付いた髪をどけた。瞬きを繰り返すうちに、心は徐々に落ち着き呼吸も軽くなっていく。
誘拐でもされたのだろうか。
寝台があるこの部屋は青年には見慣れぬ物ばかりだった。しきりに、あまりにも場違いだと感じ恥ずかしくなっていく。だからなのだろうか所々、身体が震え視界がゆがんだように錯覚した。
大きく深呼吸をしながら、意を決して体を起こす。だが予想に反して、体はあまりにも重く、足は枷がついているかのように思い通りに動かない。
青年はあたりをしっかりと見回すと、重厚感のある書棚にはぎっしりと巻物が詰め込まれておりこの部屋の持ち主が書物好きなことが伺えた。またこの部屋の奇妙な点は、寝台を囲むように美しい花びらが床に撒かれていることだ。それに加えて、御簾の代わりなのか、赤を基調とした薄手の長布が重なるように上から垂らし、どこから見ても美しい金字の刺繍がわかるよう、部屋一面に張り巡らされていた。よく見れば、今青年が寝ていた寝台の柱にも美しい彫りが刻まれており、布団にまで赤色の布と金字の刺繍があった。どこからどう見ても、高価なものであり縁起などを考えて刺繍が刻まれていることは、青年にはなんとなくわかってはいた。だが、なんの刺繍なのかその意味までは全くわかっていなかった。
知らない花とか鳥の刺繍だ……
彼の感想はそれだけだった。
部屋の中には他にも、美しい扇子が宝物のように飾られていた。それはそれは美しい花が咲き誇る様子が描かれた桃色の扇子だった。
「はぁ……」
これからどうすればいいんだろう……
青年は寝台から足を下ろすことに決めた。重い足に手を添えて、ようやく足が床と触れ合う。ひんやりと感じ、足を引っ込めた。だが、落ち着いていられず立ち上がるために重く垂れた布を退かす。すると、床に散らばる花弁がより視界を彩った。床に散らばる花弁はよく見ると実際の生花の花弁ではなく、銀字の刺繍が施されている造花の美しい花弁だった。よほど、ここの家主は金持ちなのだろう。なにせ無知な青年にもわかるほどの豪勢だった。
青年は寝台の柱に抱きつく形で、ようやく立ち上がった。髪が青年の呼吸と共に揺れ、散らばる。足を一歩一歩、前に出し始めると力の入らなかった足は徐々に馴染み、とたんに足取りが軽やかになった。だが、急に体が微かに震え始める。
「さ、寒い……」
底冷えだ。青年は、暖かくなるものがないかと、部屋をさまよい始めた。
ふと顔を上げるとそこには美しい衣がある。白地の衣ではあったが、内から輝かんばかりの光を放ち、刺繍は本物の花かと見紛うほどの腕前だった。
こんなにも美しい衣は見たことがない。さすがに、これは借りられない……
青年は咄嗟にそう思った。
衣は諦め、他に何かないだろうかと部屋の出口を探そうと考えた時、誰かの話し声が聞こえた。
「君上は……」
青年は慌てて身を隠した。
二つの女の声が青年の耳に入る。声は徐々に大きくなっていった。
「君上は、紛れもない鬼でございます」
一人の女御が大きい声で、そう言った。
鬼……
無知な青年でも鬼の存在は知っていた。ただ、悪党で己の欲のまま走りすべてを食らい、さらってしまうそういう印象であった。
確か、人を食べたり金銭を奪ったりする者たちのことなのだと聞いたことがあるような。
殺戮のさまを思い浮かべ、途端に美しかった部屋が殺風景に感じ始めた。髪がひと房、肩をかすめる。
怖い……何も知らないことが怖い……
この部屋には何かが、欠けていた。
全身が震え始め、鼓動が早くなる。落ち着かせるように、着物の合わせを力強く掴んだ。
だれか……
「たすけて………」
青年が声を発した時、春嵐が部屋を駆け巡った。寝台に垂れた布が大きく揺れ、地に落ちていた花弁が、置かれていた扇子の震える音共に部屋の中を舞い、青年に道を指し示した。
青年はようやく逃げ道がわかった。
「は、春神(はるのかみ)がお怒りになったのだわ!」
女の大きな声と共に、青年は勢いよく部屋から回廊に出た。先ほど、震えていた時とは大違いの力強い走りだった。
回廊を進み、青年は勢いに任せて庭に出た。月明かりが、青年の長い髪を照らす。
「今日の風は一段と強いな」
兵は高台から、屋敷を見下ろしていた。今日は平穏な夜になるはずだったのだ。
あの青年が目覚めてしまうまでは。
兵は耳がよく、そこが本人曰く唯一の自慢できることだった。だからこそ、女御たちがなにやら揉めかかっていることがすぐにわかったのだ。そして、女御たちの部屋の方に走る薄手の着物を着た男の姿が見えた。
「なんだあいつ?!」
兵は急いで、横にあった銅鑼を鳴らした。途端に、けたたましい音が屋敷中に響き渡る。
「なにごとだ!」
駆け付けた上官が、後ろから声を張り上げる。
「屋敷内に侵入者です!」
その声と共に、上官は千年の眠りからたたき起こすように怒号を挙げた。
「曲者だ!」
曲者って誰のことだろう……
青年は走っていた。どこに向かえばいいのかもわからないまま。だが、屋敷が途端に煩くなっていることがわかった。ただ事ではない雰囲気だ。
人が集まっているのだろうか。
人が集まっている場所に行けば助けてもらえるかもしれない、と。青年は考えた。走る先を定めようとしたとき、また大きな男の声が耳に入った。
「早く捕えろ!」
捕える?誰を?曲者?なぜ。
「あいつが曲者だ!」
声のしたほうに顔を向けると、怒りで顔が赤くなっている男が青年を指さしていた。
わたしを、みていたのか?
青年は思うがままに走り続ける。庭園には川なるものが流れ、そこには橋がかけられていた。
川だ。水面に誰か映っている。
庭園の中とは思えないほどの長い川だった。青年は走りながら、ちらりと水面に目をやった。
走っている。わたしが映っている。わたし……
髪が春嵐と共に空に舞う。袖は翻り、足は軽やかに上がっている。白い肌に、薄手の着物。履き物もなく、裸足のまま走っている。足は砂まみれだった。
わたしが曲者なのか!
青年は自分が曲者として、狙われていることに遅れて気づき、急いで屋敷とは反対方向にかかっている橋を越えた。
そのまま屋敷を背に走り続ける。雑木林が目の前に見えた。
逃げないと。
焦りからか、青年はうっ血しそうなほど手を握りしめている。人から隠れるように、勢いよく雑木林に突っ込んだ。
生い茂る葉が、青年を襲う。 葉が青年の行く手を阻み、思ったように走れなくなっていた。
「うわっ?!」
髪が枝に引っかかり、体が後ろに引っ張られしりもちをついた。
「痛たたた」
どこに行った、と口々に話す男たちの声が背中から聞こえた。青年は痛みを忘れ、もう一度立ち上がった。そこには、早く逃げなくてはという思いしかなかった。
青年は、躓きながらも懸命に足を進める。彼はまた、恐怖に駆られていた。
「はぁはぁ」
息が荒くなる。とてつもなく、広い屋敷であったことを青年は身をもって感じていた。
頼む、ここを抜けたら出口であって……
雑木林を抜けると、そこには青年の三倍はあるだろう高い塀が眼前に迫っていた。
うそだろう
青年は、塀の前まで行くと足をとめ壁に寄り掛かった。
捕まって殺されてしまうのだろうか。
恐怖からか、手は青白くなっていた。体から力が抜けるように、壁を背に青年はしゃがみこんだ。もはや、頭を抱えるしかなかぅた。
どうすれば……
気力も月欠け、その場に横たわる。
ここで死ぬのだろうか。
恐怖心からか、寒さからか、頭によぎるのはよくない想像ばかりだった。
寝返りを打つように雑木林に背を向け、壁を布団代わりにあたためようとした。その時だった。
顔に風が当たった。
風……これは、穴が開いている?!
青年は喜びに顔をほころばせながら穴をより大きくすべく堀続けた。数刻もかからないうちに、細見の青年が通れるくらいの穴ができていた。
よし!
身をよじりながら、穴に体を通していく。薄着だったことも幸いし、するりと穴から出ることができた。塀の向こうは、人気のない森だった。屋敷からはまだ曲者を探す声が聞こえる。
今のうちに逃げよう。
青年は服のほこりを落とし、頬を二回たいて森に足を向けようとした。
「曲者がそとにいるぞ!」
運悪くが良い兵士が、青年が起こした音を聞いてた。
に、逃げなきゃ……
青年はまた恐怖に駆られた。足が絡まり、葉が容赦なく青年に刃を向ける。彼は、衣を翻し走った。もはや、痛みは感じなかった。
飛花落葉 深世栗之介 @kuri-1029
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