第七章 ゆらの戸を
それから我が家に帰ってきた俺は、娘との会談で感じたやり場のない怒りを持て余し、母屋の中を落ち着きなくうろついていた。
今になってようやく正通の一件で娘が呟いていた言葉の意味が分かるようだった。
世の中には知らない方が良いこともあるでしょう?
それは知ったところでどうすることも出来ないだろうという他者への絶望の言葉ではなかったか。
事実、他人は何もしてやることが出来なかった。俺も、傍に仕えていた女房たちでさえ、あいつに取って代わってやることなど出来はしない。あの娘は自分の命を懸けて世の中の悪意と抗う以外道がなかった。十年と少しばかりを生きただけの、幼い娘が。
これで良いのか?
俺は自問した。答えは明白だった。
良いわけがない。
俺は猛然と文机に向かった。俺は歌人だ。歌を詠むことしか出来ない。だから、この憤りは歌で表現するしかない。寝ることも食うことも忘れて、ぶっ通しで紙に向き合い続けた。
そうして二日後、完成したものを持って順の屋敷を訪ねた。幸い順は在宅だった。
「お前から訪ねてくるなんて珍しいな」
驚く順に俺は単刀直入に問うた。
「お前はもうあの娘から謝礼を受け取ったのか?」
いきなりの問いに面食らった様子だったが、意味は伝わったらしい。
「いや、礼を言われるのも面映ゆくてまだうかがっていないが、それがどうした?」
「なら、受け取りに行く時で良い。これを渡してくれないか」
「別に構わんが……。何故自分で渡さない?」
「破門したんだ」
「何ぃ?」
順は呆れ顔になったが、間もなく受け取った紙の束に視線を移した。
「それでいて何を渡そうと言うんだ。……何だ、これは!」
順なら物の価値を分かってくれるという予想は正しかったらしい。
「先日、あの娘の御所を訪ねた時にふと思いついたんだ」
「いや、講釈は良い。少し読ませてくれ」
そう言って順は客の存在も忘れたように一心不乱に紙の束を読みふけっていた。やがて、深いため息を吐くと、感に堪えないといった表情で口を開いた。
「とんでもないものを考え付いたものだな。連作、というのとも少し違うか。春夏秋冬、恋に述懐とあらゆる題材の歌を詠みつくして、全体を一つの作品としているのか」
「全部で百首と切りが良い数字になったからな。百首歌とでも呼べば良いんじゃないか」
適当に名付けてみただけなのだが、順は感じ入った風に頷いた。
「なるほど、百首歌か。これは今までの歌の考え方を根底から覆すものだぞ。作者個人で世界そのものを表現出来るようになる。その上、一首一首の出来栄えもすごいじゃないか。この恋歌の、
ゆらの戸を渡る舟人かじを絶え行方も知らぬ恋の道かな
なんて、恋だけにとどまらない、先の見えない生の不安を描いて余すところがない。最後の手習い歌三十一字を冠した連作も、内容は悲惨な人生の嘆きばかりだが、それをあえて子供の手習い歌になぞらえているところに一流の皮肉が光っている」
「わざわざ褒めてくれなくても、出来が良いのは知ってるよ。それよりも、ちゃんと渡してくれるかどうかってところだ」
「ああ、分かった。受け合おう。だが……」
そこまで言って順は恐れるような、曰く言い難い表情になった。
「これが世に出回るのは危険かもしれんぞ。革新的な内容だけに余計にな。一人で世界を表現出来るということは、これまで歌を詠む上で不可欠だった場が必要なくなるということでもある。極論すれば、宮中での歌合を完全に否定する作品とも受け止められる。ますます世に受け入れられなくなるかもしれんぞ」
「別に良いさ」
俺は本心からそう言えた。
「それで怖気づくような根性なしに認めてもらう必要はない。もっと伝えなけりゃならない肝心なことがある」
「まさか……」
順は何かに気付いた様子で息を呑んだ。
「これは全て昌子様のために? 昌子様の将来を言祝ぐために詠んだのか」
そんな大それたことは考えていなかった。ただ、このくそったれな世界を大人以上に知り抜いているあの娘に、笑い飛ばせと伝えたかった。
そのための戯れ歌だった。
「じゃあ、頼んだぞ」
後のことは順に任せて、俺は屋敷を出た。心地よい疲労感が身体を包む。
あの百首を娘がどう受け止めるかは分からない。けれど、また可笑しなことを考えたのねと笑う様子が目に浮かぶようであった。
これで良いことにしといてやる。
俺は口の中でだけそう呟いた。
ゆらの戸を 柴原逸 @itu-sibahara
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