第六章 昌子 2
何事が起ったのかと唖然としていると、娘が御簾の傍までにじり寄ってきたのが風に乗る香の匂いで分かった。
「人払いをさせてもらったわ。緊張して見るからに話しづらそうにしてたから、危うく吹き出しそうになっちゃったじゃない」
別に笑わそうというつもりはなかった。ただ、娘の口調がいつもの飾らない調子に戻ったおかげでほっとしたのも事実だった。
「何だって尋ねてくれて良いわよ。今ここには知った顔しかいないんだから」
いや、知らない女房が一人残っているんだが。そんなことを考えて御簾に目を凝らしていると、その女房も居たたまれなくなったのか、身をよじった。
「やめろ、御簾越しだからってじろじろ見るな」
ああ、すまないと謝りそうになって、ふとその声に聞き覚えがあることに気が付いた。
「ちょっと待て。お前、もしかして、おもと丸か?」
それを受けて、娘が可笑しそうに笑った。
「やっぱり気付いてなかったのね」
「いや、何でお前、女の恰好なんてしてるんだ」
「何でも何も、そもそも彼女は女の子よ。男の従者が足りなかったから、男勝りの彼女に男装してもらっていただけ。ちなみにおもと丸は男装の時の通称で、女房名は和泉式部って言うの」
説明をしているようで何の説明にもなっていない。けれど、娘はそれで話を切り上げて、俺を促して言った。
「それはそれとして、何か訊きたいことがあるのでしょう? あまり長い時間かかると不審がられるから、早く本題に入った方が良いわ」
まだおもと丸の一件の衝撃は簡単に飲み下せそうにもなかったが、確かに誘拐事件のあったばかりだ。まともな女房なら、神経をとがらせていて当然だ。娘の言う通り、ここは早急に済ませた方が良い。そう判断して、居住まいを正し、咳払いをした。
「なら、単刀直入に問おう。……お前は自分が誘拐されることを知っていたんじゃないのか」
「なっ……」
言葉を失うおもと丸に対して、娘は身動ぎ一つしなかった。むしろ、どこか楽しそうに、
「どうしてそう思ったの?」
と返してきた。
否定もせず、どうして、ときたか。
はぐらかすつもりではなさそうだが……。
俺は何から話すべきかを少し考えて、言葉を続けた。
「お前が捕まっていた夜、俺は賊の一人に見つかりかけた。その男は明らかに俺が見えていたはずなのに、気付かぬ様子で通り過ぎていった。男の手首には特徴的な刀傷があった。俺をここまで案内してくれた門衛も同じ箇所にそっくりな傷を持っていた」
「なるほどね」
「さらに言えば、つらね歌の暗号な。あれは正直出来すぎだ。誘拐されて自分の命も危ういような状況で当意即妙にあんな連作を詠みあげるなんて、俺でも出来るか怪しい。その上、お前が自分の連れ去られた位置を正確に把握しているというのも妙だ。そう考えると、お前と知り合ってからずっと不審だった点も氷解する。お前は最初仁和寺に行くつもりで道を間違えたと言ったな。だが、仁和寺と俺の屋敷は真反対だ。それよりもこの御所から河原院の辰巳に向かう途上だったという方が筋が通る。つまり、お前は初めから自分のさらわれる場所を知っていて、その下見に行こうとしていたんだ」
「どういうことだ……? どういうことなんですか、姫!」
すっかり混乱しているおもと丸の様子からして、こいつは何も知らされてはいなかったのだろう。俺は娘の反応を待った。
娘は悪びれもせず、手をたたいた。
「流石ね。感謝されてお礼の品まで見せられれば誤魔化されてくれるかと思っていたけれど、決して騙されてはくれないのね」
「全部が狂言、というわけじゃないんだろう。それにしては賊たちの態度が粗暴にすぎた。どこまでのことをお前は把握していたんだ?」
尋ねると、娘は冷静に答える。そこにはいつもの無邪気な幼さは影も形もなかった。というよりも、こちらが本来の娘なのだろうか。
「最初はね、本当に仁和寺に行こうとしていたのよ。お父様が亡くなる間際に見せたいとおっしゃっていた紅葉を見ておきたくて。それで屋敷を一人で抜け出した時に、外から屋敷の内側をのぞいている男を見つけた。明らかに不審な様子だったから、声をかけてみたの。しらばっくれようとしていたけれど、人を呼ぶと言ったら白状した。内親王、つまり私をさらう隙がないか探っていたって。誰かに雇われている様子だった。だから、反対に持ちかけたの。雇い主以上の報酬を約束するから、代わりに相手方の情報を流してくれないかって。それが今の門衛の彼。そうして教えてもらった内容を元に誘拐場所の下見に行ったのが好忠と出会った日だった。まさかその日も変な男たちに絡まれるとは思わなかったけどね」
「どうしてそんな危険なことを!」
おもと丸が憤りの声を上げた。それも当然だ。主人が独りでそんな危ない橋を渡っていたと聞かされて、悲憤に駆られないはずがない。
「ごめんなさいね。だけど、他にどうしようもなかったから。あなたや乳母に言えば、すぐ検非違使に通報してくれたかもしれないけれど、それでは駄目だった。知っている? あの賊の大半が武門の源氏で、検非違使にも配下を忍ばせていたのよ。将門の息子なんて嘘を流して捜査の目をそらすことさえ考えていた。もし通報してしまえば、事前に計画がばれたと知って、すぐに証拠を消して身を隠してしまったでしょう。根本から解決するためには私が実際に誘拐されて、その現場を押さえてもらうことが必要だった」
「だが、どうしてお前が狙われたんだ?」
内親王とは言っても、身代金要求にもすぐには応じられないほどの資金力だ。もっと狙い目の貴族の子女はいくらでもいるだろう。そんな思いが声に表れていたからか、娘は小さく笑った。
「身代金は私が文にそう書いただけ。彼らの目的は私を出家させることだった」
「出家、だと?」
そう言えば、あの夜、賊たちはしきりに娘を寺に送ろうとしていた。しかし、まだ裳着もしていないような幼い娘を出家させることに一体何の意味がある?
「私が叔父様の意向で、皇太子殿下が即位された暁にはその中宮となるように仰せつかっているからよ。殿下に自分の娘を入内させて外戚となることを目論んでいる藤原諸家からすれば目障りでしょうね」
何? ということは今回の事件の背景には、藤原氏が控えていたのか?
言葉を失う俺とおもと丸に対して、娘は安心させるように朗らかに言った。
「藤原氏が直接噛んでいるとは思わないわ。邪魔だと思ってはいても、後ろ盾もない私を藤原氏が脅威と見なすはずがないから。それよりも私に危害を加えて叔父様の不興を買う方が損だと考えるでしょうね」
でも、と娘は言葉を続けた。
「そうした思惑を見透かす者もいる。私を出家させて排除したことを手土産に、藤原氏に取り入ろうと考える人間もね。今回捕まった者たちの他にも似たような考えの者は大勢いるでしょう。それらの動きを牽制するためにも、今回の一件は首謀者を確実に捕らえる必要があったの」
自分の危うい立場さえも、盤上の駒でも見るように淡々と語ってみせる。それは暗にこれまで娘が経験してきた処世の難しさを物語っているようで、俺はやり場のない憤りを感じた。
「……俺の家に入り浸るようになったのも、元々計画に巻き込むつもりだったからなんだな」
そう尋ねても、娘は感情の動きを見せなかった。
「まぁね。見ず知らずの私を最初から助けてくれるお人好しだったし、順さんや恵慶さんのような、宮中に顔の利く知り合いもいた。実際、著名な順さんからの訴えじゃなければ、検非違使は人員を割いてはくれなかったでしょう」
俺を利用したことに関しては、今さらとやかく言うつもりはなかった。娘も命懸けだったのだ。それは良い。ただ、言うべきことが一つだけ残っていた。
「まぁ……破門だな」
この言葉に関してだけは、娘の肩がびくりと震えるのが分かった。
「……弟子なんかじゃないっていつも言っていた癖に」
「茶化すな」
俺は真剣に続けた。
「こんな使い方をさせるために、俺は歌を教えたつもりはねぇんだよ」
「……そうね。そうかもしれないわね」
娘は脱力したように呟いた。
「なら、これまでね。短い間だったけど、見るもの聞くもの新鮮で面白かったわ。ありがとう、好忠」
それが、俺が昌子内親王と話した最後の言葉となった。
その後、戻ってきた女房たちからやはり受け取ってくれと絹を差し出されたものの、固辞して御所を後にした。
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