第六章 昌子 1
かくしてお縄についた俺であったが、検非違使庁で待っていた順の取り成しで、どうにか釈放されることが出来た。おもと丸はちゃんと俺が言った通り、順を頼っていたらしい。許されて庁舎を後にする際、順は物思わし気な表情で俺を見た。
「……今晩、洛中に平将門の男子が侵入するという噂が流れていたそうだ」
俺は驚いて顔を上げた。
平将門と言えば、今からおよそ二十年前に承平の乱をおこし、都人の心胆を寒からしめた希代の悪党だ。その名前は未だに人々の心に悪夢のように刻まれている。そんな男の息子が再来するとなれば、騒ぎになることは必至だ。
俺の顔色を読んだのであろう、順は頷き、言葉を続けた。
「勅命が出されて、厳戒態勢がしかれた。検非違使は元より、承平の乱で功績のあった武門も動員されたらしい。実際、私がおもと丸の知らせを受けて検非違使庁を訪ねた時にはもぬけの殻のような有り様だった。別当の朝忠殿と親しくなかったならば、お前たちの方へ人員を割いてはもらえなかっただろう」
それはつまり……どういうことだ?
話が上手く飲み込めず、俺は順を見返した。順は周囲をはばかるように声を潜めた。
「そんな噂が立った最中に、皇女様の誘拐事件が起こった。これは偶然とするには出来すぎではないだろうか」
俺には分からなかった。
ただでさえ、あの娘が内親王であったという事実も消化しきれていないというのに、それ以上の情報を伝えられても頭の整理が追い付かない。
困惑する俺を順は気の毒そうに見つめて、話をまとめた。
「要するに、これ以上この一件には深入りしない方が身のためかもしれん。お互いにな」
そうして順は手に持った傘を俺に押し付けると、自分は大学寮に戻ると言って、降りしきる雨を袖で防ぎながら小走りに駆けていった。俺もとぼとぼと家に帰り、雨と泥とで重たくなった衣服を着替えると、前後不覚で眠った。
それから三日は熱で寝込んだ。普段滅多に風邪などひかない俺ではあったが、流石に長時間雨に打たれて、身体の芯まで冷え切ったのが堪えたのだろう。
のどが腫れて水を飲むのも苦しく、高熱による夢とも幻覚ともつかぬものに始終悩まされた。娘の姿や白刃の閃く光、賊と検非違使との争い、がなり合う声などが蘇ってはまた遠くへと消えていった。
四日目の朝には熱が下がって、頭の中の靄が晴れたように、けろりとして目が覚めた。まだ若干の違和感はのどに残っていたが、それ以外はすっかり復調したのが感じられた。
久しぶりに格子を上げて簀の子に出てみると、野分もとうに過ぎ去って、眩しいくらいの日の光が注いでいた。庭の草木は激しい風雨にさらされて荒れていたが、今は穏やかな日を受けて葉に溜まった水滴が玉のように光っている。
寝殿の周りを一周してその他屋敷に壊れた箇所などがないか確認していると、門の隙間に正式な書状らしい、格式ばった立て文が差し込んであるのに気が付いた。いつの間にそんな使者がやってきたのかとんと記憶にないが、手に取ってみたところ、若干湿ってはいるものの雨に降られた形跡はない。それほど前の書状ではなさそうだった。
中を開けてみると、丁寧な筆跡で、先日の誘拐事件解決へ尽力してくれたことへの感謝と、その礼がしたいから屋敷を訪ねてきてほしいとの内容が、昌子内親王名義でつづられていた。筆跡が娘当人のものと異なっているのは、身分の差に鑑みて、お付きの女房が代筆でもしたのだろう。未だにあの娘が皇女だったなどということは飲み込めていないのだが、こうして文字として表されてみると認めざるを得なくなってくる。
そして、病みついていたのだから仕方のないこととはいえ、内親王からの文を受け取りもせず、使いを手ぶらで返したのだという事実が胸に迫ってきた。一応宮廷に籍を置いている身だ。それがどれほど無礼な行いかということは承知している。その上、これまであの娘に対して吐いてきた暴言を思い返せば、それを逐一報告されたとすると流罪で済むかも怪しいくらいの不敬を働いていたことになる。このろくでもない現世にとどまることをいたずらに望む身の上でもないが、死ななくていいのなら死にたくない。今さら取り返しがつく問題かは分からないものの、迅速に顔を出して、非礼を詫びておくのにしくはない。
俺は慌てて母屋に駆けこんで、長櫃に仕舞い込んでいた直衣を取り出した。丹後掾に任命された折に着て以来だから、袖を通すのは二、三年ぶりということになる。虫に食われて穴が開いていないかどうかを一応確認したうえで着替えると、足早に家を出発した。
文に記されていた在所は一条京極とあった。内裏からそう距離があるわけでもないが、やはり中心市街とは言い難い。その御所の在り処は、あの娘の政治的に微妙な立ち位置をそのまま物語っているようでもあった。
昌子内親王のことは噂には聞き及んでいた。朱雀院とその女御煕子女王(きしじょうおう)の間に生まれるも、母煕子女王は内親王を生んだ同日に崩御、父朱雀院も今から八年前に身まかられた。祖父の保明親王もすでに他界していたため、外戚からの支援も期待できない。
そんな状況でこれまで無事に成長してこられたのは、叔父である村上天皇が目をかけ、手厚く庇護してきたからだという話だった。
考えてみれば確かにあの娘が語っていた身の上話と符合するところは多々あった。しかし、誰が想像出来ようか。座敷を抜け出してはほっつき歩いているような娘の正体が、よりによってそんな秘蔵の皇女様なのだとは。
娘の文にあった御所は、他に周囲にそれらしい建物もないのですぐに分かった。当然のことなのだが、外から見ただけでも広さといい、造作といい、我が家とは雲泥の差があった。こんな御所に住んでいながら、何を好き好んでぼろ屋を訪ねてきたりしていたのやら。それほどまでに乳母や乳母夫との関係が良くないということなのだろうか。
案内を乞うと、門衛に詰めていた侍が戸を開けてくれた。手首に大きな刀傷のある、厳めしい男であった。事情を話し、文を見せると、男はその場で待つよう手で示して、奥へと引っ込んでいく。
しばらくして男が再び顔をのぞかせ、
「姫がお会いになる。ついてこい」
と言う。その後に続いて邸内に足を踏み入れた俺は、男の案内で中庭を通り、南面の簀の子に通された。流石内親王の住まいだけあって、庭には由ある草花がとりどりに植えられており、東の対との間に遣り水が走っていて、行きつく先で大きな池を形作っていた。けれど、ところどころ手入れが行き届いていない箇所が見受けられるのは、男手が足りていないせいだろうか。俺は庭を眺めながら、考えるともなく考えていた。
ややあって、御簾の奥で衣擦れの音が聞こえたと思うと、廂の間の奥に人影が現れ、手前にも幾人かの女房が座るのが分かった。
「本日はよくぞお越しくださいました。姫がどうしても直接お会いしてお礼が言いたいと申しますので、わざわざお呼び立てしてすみませぬ」
取り次ぎらしい年嵩の女房がそう言った。
これが直接か。今まで几帳の隔てさえなく言葉を交わしていただけに途方もない距離を感じる。これがあの娘との間に本来あった身分の差ということなのだろう。しかし、まさかそのようなことを言うわけにもいかず、かといって黙っているのも非礼に当たると思ったので、慌てて、
「どうも、こちらこそ……」
とだけ答えた。それで場慣れしていないのが見透かされたのだろう。何人かの女房がくすくすと笑うのが聞こえる。冷汗が湧いてくる。それをとりなすように取り次ぎの女房は咳払いをした。
「これ、姫の命の恩人を笑う者がありますか。すみませぬ、礼儀を知らない者たちばかりで」
「どうも、こちらこそ……」
流石にこれでは埒が明かないとその女房も思ったのかもしれない。露骨に話題を変えられた。
「……ところでお越しいただいた時のためにお礼の品を用意していたのです。物に代えられるご恩ではございませんが、どうかお納めくださいまし」
そう言って、御簾の隙間から差し出された盆の上には、絹らしいつやのある反物が乗っていた。
おそらくこれを受け取れば、今日の会談は終わる。さっさともらうだけもらって帰らせてもらおう。そんな考えが頭をよぎった。慣れぬ格式ばった会話をこれ以上続けてもお互いに苦痛なだけだろう。
しかし、先ほど庭を眺めている間に、一つ思いついてしまったことがあった。それを尋ねる機会は、今日を逃せば二度とは巡ってこないだろう。
深入りするなと順は言った。それは真剣な忠告であった。今のままなら娘も助かって、俺も恩賞がもらえて万々歳という形で終われる。しかし、俺にはそれで良いのだとはどうしても思うことが出来なかった。
反物に伸ばしかけた手を止めて、俺は口を開いた。
「申し訳ないが、この反物はお返しします。その代わり、内親王様に一つお尋ねさせていただきたい」
予想外の反応だったのだろう。女房たちは目に見えて狼狽え、あちこちで対応を相談している様子がうかがえる。要するにいかに恩人とはいえ、下賤の俺の言葉を姫に取り次いで良いものか分からないというところか。空気を読まずに厄介なことを口走ってしまったのが申し訳なくなってきて、やっぱり冗談でしたと言おうかと思ったその時だった。
奥の方で娘が何かを言った。
人質になっていた時と同様に静かな落ち着いた声だったので言葉の内容までは聞き取れなかった。しかし、年嵩の女房までが狼狽した様子で主人の元に寄る。それに対しても娘は冷たい声で何かを命じた。すると、何人も控えていた女房たちがぞろぞろと場所を外していく。ややあって御簾の一番近くに座っていた女房以外誰もいなくなってしまった。
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