9
第10話
なんでだろう?
気が付けば、ため息ばかりついている。
作業にも集中できなくて、切らなくていいところを切断してしまったり、接着剤をドロドロに出しすぎて固めてしまったりと、失敗が続いている。
さっきまでぼんやりしていたかと思うと自己嫌悪で悲しくなったり、仁と一緒に見た星空やLEDのイルミネーションを思い出してはにやにやしたり。このところ、凜は感情の起伏が激しい。
こんなことは、今までに一度もなかった。
あの夜、あれからまたしばらくLEDのイルミネーションを見ながら散歩して、そのあと仁に送ってもらった。
今度は山の中の湖に星を見に行こうと約束した。そういえばまだ、仁おすすめの韓国料理店には行けてない。凜の家のウッドデッキでの、映画鑑賞会もまだだ。
一緒に行きたいところや、やってみたいことが目白押し!
仁の影響はとても大きい。会ってまだひと月半くらいなのに、凜の心の中には仁の存在感がかなり大きくなっていて、どこからどう見ても無視できないほどになっている。
あの男は誰なの、いつどこで知り合ったの、騙されてるんじゃないでしょうね? と、加奈からの質問メッセージが頻繁に送られてくる。
既読スルーしていたらここ数日はメッセージが来なくなったので、今頃は凜が悪い男に騙されて付き合いが悪くなった、心配だなんて彼女は言いふらしているかもしれない。
でももう、自分のいないところでなにをどう噂されようともどうでもいいと思う(もともと、気にしていないけれど)。
余計なお世話だわ、と思う。彼女は凜の人生に必要不可欠の、本当に付き合っていきたい人ではないから。
凜を思いやるふりをしてバカにするあの視線を向けて優越感を感じている様子は、正直言ってもう見たくない。彼女は凜に気づかれずにやっていると思っているが、そんなことはない。
彼女はとても失礼な人だ。でも、もしかすると凜がバカにさせても何も言わず不快感を態度にあらわさないから、彼女は失礼なままなのかもしれない。
「大人なんだから、嫌な奴とおとなしく一緒にいないで、かわすなり避けるなり絶交するなりすればいい」
何でもないように仁は口をへの字に曲げて、肩をすくめて当然のように言う。
ぼろぼろと、凜の目から常識やら遠慮やらのうろこが剥がれ落ちてゆく。
そうか、そうなんだ、それでいいのか。凜の心が軽くなる。がんじがらめにしていた固定観念が崩れて落ちて、ゆっくりと、確実に軽くなってゆく。
ピンポン、ときぬさんちの玄関ブザーが鳴る。
「こんちわー」
聞き覚えのある声に、お茶におよばれに来ていた凜は玄関へ向かう。
「マサオさん」
凜が微笑むと、近所のおじいさん、マサオさんが、シワの中から小さな灰色の目をぱちぱちしばたたかせて凜を見上げた。
「ほえー、隣の凜ちゃんか。あれまぁ、なんだか、見違えたなぁ」
「ええ?」
「あんた、最近なんかこう、きれいになったなぁ」
「何言ってるのマサオさん、二週間くらい前に会ったでしょ」
「そうだったっけ? ふーん。ま、いいか。凜ちゃんや、きぬさんはいるのかい?」
「はいはい、いるよー」
マサオさんは耳が遠いので声が大きい。彼の声を聞きつけて、きぬさんが茶の間から出てくる。
「おう、マサ。どうした?」
少し年上のきぬさんが
「うん、これな」
マサオさんは右手に握り締めていた赤い首輪をきぬさんの目の前に差し出した。ちりり、とそれにぶら下がった小さな鈴がくぐもった音をかすかに立てる。凜はあっと小さく叫ぶ。
「それ! ミケオの!」
凜の叫びにマサオさんは苦笑する。
「うーん、やっぱりそうだよなぁ。ここに住所が書いてあるし」
「マサ、これどこで?」
眉をしかめたきぬさんの質問にマサオさんは頷いて答える。
「うん、この前さ、散歩で川沿いの遊歩道を歩いてたんだよ。富士見橋のあたりを歩いていたら、でっかい猫が草むらにちらっと見えてなぁ。そいつはさ、眠っていたわけじゃない、死んでたんだよ。この首輪しててな。でかさからして、ねえさんとこの珍しい三毛猫だとおもってな。そのぉ、ところどころ、骨が見えていてな。もうかなり時間が経ってるみたいだったから、首輪だけ証拠に持っていこうと思って外して、ネコはその場に埋めて来たんだよ」
「……」
凜ときぬさんはマサオさんが手にしている赤い首輪を呆然と見つめる。
「きぬさん! いるか? 栗が入ったきんつば食うか?」
がらりと玄関が開いて、出迎えが来ないうちに仁がのっそりと茶の間に顔を出す。
傾きかけた秋の夕日の翳りの中、きぬさんは縁側から仁を振り返った。その手には、古びた赤い首輪が握られていて、ちりり、と小さな鈴がかすかな音を立てた。
「仁か。お前はいつも元気だね」
「きぬさんはなんか元気がないな。どうした? またバカ孫か?」
「いや、違うよ。ミケオがね。死んだんだ」
「あー、あのでかい猫か。そうか。それは気の毒だったな」
「まぁ、生きているものはいづれはあの世に行くんだよ。私もそのうちミケオに会える」
「なんだよ、まだまだしぶとく生きておけよ」
仁はきぬさんの隣に座り、そのひざ元に茶色の紙袋を置いた。
「廸子さんは?」
「いま、お使いに行ってもらってるよ。それよりもあんた」
きぬさんは悲し気に仁を見上げた。
「凜ちゃんがえらく落ち込んでるんだよ。このところ朝夕毎日のようにミケオを探していてくれたんだ。私ゃ、いなくなったときに何となく予感があったから、そんなでもないけどね。あの子は小学生の時からずっとかわいがっていたからね。ショックだろうね。めそめそしているかもしれないから、元気づけてきてやってよ」
「そうか。それは心配だな。じゃぁ、見てくるわ。これな。廸子さんと食べてくれ。きぬさんも元気出せよ」
茶色の紙袋をわたし、仁は立ち上がる。袋を受け取るときぬさんは優しく微笑んだ。
「ありがとうね。あんたも、本当にいい子だ」
「やめてくれよ、照れるから」
はは、と薄く笑って仁は玄関へ向かう。
玄関のドアがノックされて、のろのろと向って扉を開けると、そこには仕事帰りの作業着にタオルをかぶった仁が立っていた。ほんの数時間前の凜だったら、うれしくてふにゃりと笑顔になったかもしれない。でも今は、途方もない喪失感でぼんやりとしていた。
魂が抜けたような凜を見て、仁は小さくため息をついた。
「ミケオのことは、聞いたよ」
凜は足元を見たままこくりと頷いた。
日が傾いて、琥珀色に染まる作業場兼居間は陰影が濃くなっている。
三人掛けのソファに座り、奥のキッチンでコーヒーを淹れているぼんやりした表情の凜をそっと観察して、仁はひそかに再びため息をつく。そしてコーヒーのカップをトレイに乗せてきた凜に、文庫本くらいの大きさの箱を差し出した。
「なに?」
凜が首を傾げる。
「今日、現場で施主にもらったんだ。日本酒入りのチョコレートだってさ。凜さんにやるよ」
「日本酒入り? これ、超高級なやつ……」
「うん、俺がよっぽどの酒好きに見えたのかな。日本酒は飲めても一合が限度だけど」
はは、と仁は笑う。凜は受け取ったチョコレートの箱を見て淡く苦笑する。
「でも仁さん、私だって……」
「いや、この前、飲むと泣きだすって言ってたから。弔いにはやっぱ、酒だろう?」
凜ははっと目を見開いて仁を見上げた。そしてチョコレートの箱に視線を落とす。
「ありがとう……」
やっとのことで言葉を絞り出す。
つまり、このチョコレートを食べて泣き出してもいいよってこと。酔っても、酔わなくても、食べたら泣いていいよってこと。
「小学一年くらいの頃、子犬を拾ってきてこっそりアパートで飼ってたことがあったんだ」
おもむろに仁が話し出す。
「どうせ母親は何日も帰ってこないし、そのころは俺も小さすぎて寂しかったから、最高の友達だと思ってたんだ。それがある日、学校から帰ったら段ボールが玄関に置かれていてさ、のぞいたらそいつがぐったりして、目を開けなかった。奥からすごい形相の母親と、その後ろに知らない男が出てきてさ、アパートでそんなもの飼ってるの見つかったら追い出されるだろうって、怒鳴りつけられた。そのあと母親にえらい殴られて、本当にお前は厄介者だ、お前さえいなければあたしは自由なのにって、いつものように八つ当たりされてさ。お前が勝手に生んだんだろうって中学の時は言い返すようになったけど、そのころはまだ非力な子供でごめんなさいごめんなさいって泣くしかできなかったな。さんざん俺のこと殴って蹴って、犬は捨てて来いって段ボールを指して怒鳴り散らして、男と一緒に出て行った」
凜は眉根を寄せて仁を見上げる。凜の不安げな表情に仁は肩をすくめて笑う。
「ひどい女だろう? 俺の父親に捨てられて堕ろすこともできない無知なガキのまま俺を産んで、それで自分の親に縁切られて、自分が自由に幸せに生きられないのをすべて俺のせいにして、ちょっと優しくしてきた男に簡単にすがって。飽きて捨てられるとまたすぐ俺に八つ当たり。そんな女が母親なんて、地獄だよな。だから俺にとっては、その犬が大切な存在だったのに、母親が連れて来た男が蹴り殺したんだ」
凜は息をのむ。
「一人になって、段ボール抱えて外に出て。ちょうど今頃の季節だったかな。どうしていいかわかんなくて英介んちに行ったら、あいつとエリカが一緒に子犬を埋めて、葬式をしてくれた。俺の顔に殴られた跡があるのを見た廸子さんが俺の好物を作ってくれて、その日は英介んちでメシを食って泊まったっけ。あ、ちょっと、凜さん?」
凜の涙腺が最大限に緩み、彼女の頬をぼろぼろと涙が伝い落ち、仁は焦る。
「まだ酒チョコ食ってないのに、おい!」
仁はおろおろと首を左右に動かし、ソファの前のコーヒーが置かれたテーブルの下にティッシュの箱を見つけて凜に差し出した。
「だ、だからさ、それ以来犬とか猫とかを飼ったことはないんだけどさ、人間じゃなくても、そういう……大事にしていた存在がいきなりいなくなるのって、悲しいよな。あ、ちょっと!」
仁はどうしていいかわからずにソファから立ち上がる。凜がソファのそばにぺたりと座ったまま、床に額を押し付けて声を立てずに泣いている。ダンゴムシのような体勢の凜を見下ろして、仁はますますおろおろとする。きぬさんに凜を元気づけてやるように言われたのに、逆に泣かしてしまっている。廸子さんに見られたら、一時間くらい説教されるかもしれない。
「ひどい……私の母親も最低だけど……仁さんのお母さんもひどい……」
「ああ、うん……自分の小さいころのことも思い出しちゃったか。ごめんな」
凜が泣き伏す原因がわかり、仁は安堵してそっと座りなおした。そして手を伸ばし、凜の背をやさしく撫でた。
「その犬も……かわいそう」
「そうだな。かわいそうなことをしたな」
「でも……でも、この前も思ったんだけど」
「うん?」
「仁さんが、子供のころのこと、話してくれた時……」
凜は両頬に涙の筋がついた顔をがばっと上げて仁を見上げた。
「私がおじいちゃんとおばあちゃんに引き取られて、ようやく幸せな毎日を送れるようになったころに、小さい仁さんがそんなひどい目に遭っていたなんて、何もしてあげられなかったのが悔しくて悔しくて……ほんとうに、生きていてくれて、よかった」
「えっ?」
仁は驚きで目を見開いた。それから、涙でぐしゃぐしゃの、とても大人の女とは思えない泣き顔の凜を見下ろして破顔した。お腹を抱えて屈みこんで声を殺して笑っている仁を床から見上げて、凜はぽかんと口を開けている。
仁はティッシュペーパーを二枚ほど箱から引き抜いて、笑いをこらえながら凜の顔をポンポンと軽くぬぐってやる。普段は涼し気な切れ長のその目があまりにも優しくて、凜は一瞬息が止まる。
「凜さん、あんたは、めちゃかわいい人だな」
「!」
凜はまだ涙があふれる目を丸く見開いて驚く。そんな優しいまなざしで彼女を見つめたのは、亡くなった祖父母ときぬさんくらいだ。
「俺だって、もしも子供のころの凜さんを知ってたら、助けに行ってあげたかったよ」
ぷっ、と凜は小さく噴き出して肩を揺らした。
「きっとそのころは……仁さんは私より小さいおちびさんだったね」
「だろうな。でも少なくとも、真冬にドアの外に締め出された小さな女の子のそばに一緒にいてあげるくらいは……できたと思うよ」
濡れたタオルを思い切り搾り上げたように胸が締め付けられて苦しくなって、凜は困ったように微笑んだ。そしてティッシュペーパーを持つ仁の手にそっと触れる。うつむいた凜のまつ毛の間から、そこに引っかかって留まっていた涙がほろりと落下した。
「ありがとう……なんか、すごく感動しちゃった」
「俺だってびっくりするくらい感動した。生きててくれてよかったなんて、誰かに言われたの、初めてだから」
仁は手を下ろすと、自分の手に触れていた凜の小さな手をそっと取り、自分の手のひらに乗せてもう一方の手を覆いかぶせて包んで笑んだ。
「いつの間にやら、あんたは俺の大事な人だ」
凜は再び大きく目を見開いて仁を見上げる。そして嬉しそうに笑み返した。
「仁さんも、私には大事な人だよ」
「そうか」
「そうだよ」
ソファに座った仁が、前の床に座り込んでいる凜の上に屈みこんで大きな手でその頬を包み、親指で目じりの涙をぬぐった。そして自分の額を凜の額にこつんとつけて、目を閉じてため息をついてからまた目を開け、じっと凜の目を見つめた。そのまっずぐな視線に射抜かれて、凜は心臓が止まりそうになる。
「俺さ、今日はきぬさんにきんつば渡して凜さんに酒チョコ渡したらすぐ帰るつもりでいたんだ。一日中働いたまんまで結構汚れてるし、本来なら人んちに上がれる格好じゃないんだ。いったん帰って着替えてくるから、この前言ってた韓国料理の店にメシ食いに行こうか?」
「行く」
「よし、じゃぁ、決まり、な」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます