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第7話
その店は黒を基調としていて、天井からは長さの違う丸型ガラスシェードのランプがちぐはぐに釣り下がっていて、落ち着いた雰囲気だった。
どうぞどうぞ、と英介とエリカの夫婦に促されて、一番奥のボックス型の席に座る。隣のテーブルとは黒い衝立で区切られているので個室状態だ。そこをアコーディオンカーテンのようにたためば、十人席になってちょっとした宴会もできるようだ。イスは木製のベンチチェアで、凜の向かいにはエリカが、彼女の隣には夫の英介が座る。
「いらっしゃーい」
ミルクティ色のツーブロックがよく似合う美形で細身の店員が、白いTシャツに黒のギャルソンエプロン、黒のパンツ姿でにこやかにやってくる。
「凜さん、こいつショウタ。俺と仁の中学の時からのトモダチ。この店のオーナーです」
英介が右手の親指を立てて示した。
「どうも、こんばんは。初顔だね。エリカの友達?」
「いや、仁の……」と、英介が言いかけた時、テーブルの前に立つショウタを押しのけて、ネイビーのマウンテンパーカー、グレーの厚手のTシャツにジーンズ姿の仁が慌てた様子で現れた。
「なんだよ、お前ら!」
にやり、とエリカが仁を見上げて口元だけで笑う。英介はうれしそうに目を見開く。
「お、来たか」
仁は英介とエリカをキッと睨んでごく小さな舌打をした。そして彼らの向かいでぽかんとこちらを見上げる凜を見た。
「凜さん、こいつらに何も失礼なことはされなかったか?」
仁の質問にえ、と凜は首を傾げる。
「なんでだよ?」
英介が憮然として眉を
「おい、どうでもいいけどまずは座れや、仁。注文しろ、注文」
ギャルソンのようなショウタがひょいと右足を上げて、背後から仁のジーンズの尻めがけて膝蹴りを入れる。仁はおとなしく凜の隣に座る。
「今日は昼まで現場だったろう? お前、ちゃんと風呂入ってきたか?」
英介が目を細める。仁はふんと鼻で笑う。
「当たり前だ。車洗って風呂から出た時にお前から連絡あってきたんだ」
「びっくりした? あたしたちだけでもよかったんだけど、あとですねられると面倒だから、あんたも呼んであげたんだよ」
エリカが頬づえをついてくすりと笑いながら言った。
「なんだよお前、さっきからにやにやして。キモイな」
仁はエリカを睨んで忌々しそうに舌打ちする。
「とりあえず生二つ。ノンアルのカシオレ一つ。凜さんは何がいいです?」
黒い表紙のメニューブックを差しだしながら、英介が凜に微笑む。凜はメニューを受け取ってドリンクのページを見てノンアルコールのモヒートを頼む。
「なに? 酒飲めないの?」
仁が横から凜の顔を伺う。凜は気の抜けた炭酸のように苦笑して首を横に振る。
「飲めないわけではなくて、飲むと泣きだすらしいから外では飲まないようにしているというか……」
ぶは、っと英介が噴き出す。その左腕をエリカがぴしゃりと叩く。
ふと口の端を上げて、ショウタがドリンクの注文を通しに行く。
「まさか、家で飲んで泣いてるとか?」
仁が
「作業を始めると全く飲まないし、飲むときはワイン一杯くらいだから、泣くことはないよ」
「じゃあ、あの日も飲んでなかったんだ?」
「そう、あの日もウーロン茶だった」
「何、あの日って?」
仁と凜の会話にエリカが訊ねた。
「あれだ、
エリカと英介は「ああー!」と目を大きく見開いて首をこくこくと縦に振った。
「初めて会ったって時ね!」
仁は二人に凜とのなれそめを話していたらしい。
「それで次に会ったのが、母ちゃんも偶然に一緒の時だったんだろう?」
「びっくりだよな。廸子さんの派遣先のばあちゃんをたまたま拾ったら、緊急連絡先が凜さんだった」
はい、お待ちどうさまと、ショウタが四つのドリンクを運んできた。凜は首を傾げる。ショウタは生ビールのジョッキを英介とエリカの前に置く。そしてノンアルコールのカシスオレンジを仁の前に置いた。
凜の視線に気づき、その言いたいことを悟ったショウタはくすりと笑う。
「仁はほとんど飲めないんだよね」
「そうなの? すごい酒豪に見えるけど、見えるだけ?」
凜の言葉に英介が天井を仰いであははと爆笑する。
「ちなみに、カシオレはシャレで、こいつは普段は茶ばっか飲んでますよ」
「この中で一番の酒豪はエリカだもんな。今は子持ちだからあんま飲まないけど、昔はすごかったよなぁ。酒豪伝説!」
ショウタが肩をすくめる。
凜は四人のやり取りをにこにこして聞いている。彼らは本当に気の置けない幼馴染だという。二十年前に保育園で仁と英介が出会い、二人は小学校でエリカに出会う。
三人は小学四年生の時に転校してきたショウタと親しくなり、以来十五年の腐れ縁だという。仁と英介は建築関係に、エリカは保育士に、ショウタは大学に行って税理士の資格を取ったが転職してホストになり、稼いだ金でこの店を開いたという。
英介が適当に持ってこいと言い、テーブルの上にはたくさんの料理が並ぶ。凜が気後れしないように、仁はいろいろな料理の皿を引き寄せて要るかどうか訊いてくる。
時々ショウタがドリンクを運んだり皿を下げたりする
「それならさ、もしかしたら凜さんに出会ったのはオレだったかもしれないよねー」
ショウタが持ってきたサービスのベイクドチョコレートチーズケーキを食べながら、その流し目を受けて凜はうろたえる。いじられ慣れていないので、どんな反応が正しいのかわからない。しかも相手は元ホストだ。経験値は雲泥の差だ。
「やだ、こいつ
エリカがショウタに非難の目を向ける。
「はっ、ついクセが……」
ショウタは目を見開いて大げさに驚いてみせた。凜は内心ほっと安堵してくすっと笑う。
「あの時お前は、メニューを写メるのに忙しかったからそれはありえないだろ」
仁が横やりを入れて肩をすくめる。ぶはっと英介とエリカが噴き出す。
誘ったのは俺たちなんでと言い、その夜は英介が全員ぶんをおごってくれた。
「俺ら代行呼ぶから、凜さんのことは仁が送って行って」
英介の言葉に凜は電車で帰れますからと遠慮したが、仁はまかせておけと英介に言った。
土曜の夜の繁華街は、結構にぎわっている。まだそんなに遅い時間帯ではないが、一人で駅まで歩いたりしないほうがいいので遠慮せずに遅らせましょうと、英介は凜にウインクした。
店の外でショウタに見送られ、代行業者が来てアルファードのキーを渡した英介は、エリカとともに帰って行った。
「俺の車、この近くのコインパーキングなんだ」
そういうことで、凜はそこまで仁と歩く。
「あいつらすごい飲むだろう?」
凜の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら仁が苦笑した。
「うんうん、何杯飲んでも顔色変わらないのがすごいと思う」
「ショウタが言ってたとおり、エリカは昔はもっとすごかったよ。確かに最近はセーブしてるみたいだな」
「廸子さんから聞いていたイメージ通りだったわ」
「あいつも嫁というよりはかなり昔から娘もどきだったからな。嫁姑の確執とかないみたいだし、かわいがられてるんじゃないかな」
「仲良さそうだね。本気でケンカもするって廸子さんも言ってたし……あっ!」
凜は驚愕の表情で小さく叫ぶと、とっさに誰かを避けるように仁の反対側に回り込んで身を隠した。
「えっ? なに?」
仁も驚いて自分の陰に身を隠した凜を見下ろす。週末の人でにぎわう夜の通り。仁の横をすれ違って言った一組の男女を、凜はおそるおそる見送ってほっと安堵のため息をついた。そしてすまなそうに仁を見上げて苦笑する。
「ごめんなさい、見つかったら、面倒くさいことになりそうだと思って」
「うん?」
首を傾げる仁を見上げて凜はさっきすれ違った男女をこっそり指し示す。
「あの子、この前私が居酒屋で一緒にいた、もと後輩」
「ああ!」
仁は大きく頷いた。
「隣にいたのは、二年前まで私が働いていた会社の……営業部長」
凜は加奈と、その隣のかつての上司の遠ざかる背中を生あたたかく見送る。高木がほかの女子社員と結婚して外国へ行ってしまうので、加奈は今度は営業部長に鞍替えしたようだ。
「でもあの部長は……既婚」
「なるほど。たしかに会ったら面倒くさそうだな」
仁は苦笑した。
一ブロックほど歩いて、二人はコインパーキングに着いた。
「え?」
凜は首を傾げる。仁がジーンズのポケットから取り出したワイヤレスキーに反応したのは、黒い軽トラックではなかった。
「この前のじゃ……?」
「なんでだよ? あれ、会社の。こっちは自分の。どうぞ」
仁は苦笑して助手席の扉を凜のために開けた。
黒のジープ、レネゲード。黒のレザーシートに座り、凜は呆然とする。
「新車の匂いがする……」
「ほんの一か月前に納車されたばっかりだからな」
「こんな新車、コインパーキングにとめちゃダメでしょ」
「この時間帯で二、三時間ならば大丈夫だよ」
パーキングを出て、仁のレネゲードは夜の街の明かりの中を滑るように走り出す。
「今夜は洗車した後に、遠出して星を見に行こうと思ってたんだ。でも英介からライン来たから」
「そうなの?」
凜は眉尻を下げた。すまなそうな彼女の声色に仁は慌てる。
「いや、べつに大した予定じゃなかったし。あいつはいつも急に呼び出すから。俺は明日は休みだから、ただこいつを走らせたかっただけだし」
「星が見たかった、わけじゃなく?」
「走らせたかった、だな。行先は街中じゃなくて星が見えるところ。星を見て、また帰ってくる」
ああ、と小さく呟いて凜はそっと笑んだ。
「走らせて向かうところが、星が見えるところってことね。居酒屋ではなく、コインパーキングでもなく」
「そうそう」
二人は笑う。車は繁華街を抜け、住宅地へ向かう。凜の家まではニ十分ほど。
「海に行くつもりだった? 山へ行くつもりだった?」
「うーん。海かな」
「いいね、今夜は星がたくさん出てるからきれいだよ、きっと」
ちょうど信号で停まり、仁はナビの時計表示を見た。
「凜さん、まだそんなに遅くないから、今から海に行こうか?」
凜は口から心臓が飛び出るかと思ったけれど、できるだけ平静を装った。
正直言って、このまま送り届けてもらうのが少し残念だと思っていたからだ。自分でもよくわからないけれど、まだもう少し仁と一緒にいたかった。
だからいつもならば躊躇して即決できないような誘いだったにもかかわらず、自分でも驚くほどすんなりと素直に答えていた。
「行く! 行きたい!」
凜が即答したことに仁は少し面食らったけれど、くすっと笑って進路を変更した。
「よし、じゃあ行こうか」
凜の心はうれしさでいっぱいになった。
チョコレートボックスから、いくつものチョコレートボンボンを鷲掴みして取り出した気分。
チョコレートを食べすぎた時の多幸感に似ているかもしれない。ふわふわ、落ち着かない。
生まれて初めて感じる甘い苦しさに、凜は仁に気づかれないようにそっと深く息をついた。
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