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第9話

ビルの地下駐車場に車をとめて、仁は凜をアジアの料理が多国籍に楽しめる食堂に連れて行った。


無数のガラスのランタンに照らされた落ち着いた店内は、どこかのリゾート地のような雰囲気。


普段は幼馴染たちとぐらいしか外食しないという仁は、家に帰ってからエリカに連絡してめぼしい店を訊いた(大至急調べさせたともいう)らしい。


簡単にネタバレしてしまう仁に、同じくあまり外食はしないので新しい店に全く詳しくない凜は、調べてくれた(調べさせたともいう)ことに感謝はすれど、それに対してネガティブな感情はない。




 お礼をしたつもりでそれを喜んでもらえたまでは良かったが、またさらにお礼のお礼は予想外だったのでかえって申し訳なく思ってしまう。


 こんな時に加奈のような社交的で世慣れた、しかし誠実で親しい友人の一人でもいたならば、「ばかね、凜。お礼のお礼なんて建前で、彼はあなたとご飯を食べに行きたいだけなのよ」とでも教えてくれるだろうが、残念ながらそんなことを話せるような親しい友はいない。




「何でも好きなものを頼めよ」という仁に、メニューを見た凜は生春巻きとパッタイが食べたいと言った。オーケーと仁は言って、そのほかにもエビチリやらユーリンチーやら小籠包やら、いつやら凜が近所のトラットリアでしたように、テーブルいっぱいの料理を頼んだ。


 ホットのジャスミン茶で乾杯して、いただきますと言って食べ始める。


「凜さんはさ」


 仁は凜の食べる様子を見て口の端を上げる。


「好き嫌いがないんだな」


 凜は熱々の小籠包をレンゲから半分を口に入れてはふはふと空気を入れて冷ましながら飲みこんでから、口元を押さえて頷く。


「ないわ。好き嫌いをすると、人生の半分は損をするよって、おじいちゃんに言われていたからかな。仁さんもないじゃない?」


 最近、何度か一緒にご飯を食べる機会があったから、お互い観察していた。


「食べられないっていうか、苦手なものはあるよ。でも、食べるけど」




 二人は笑う。


「好物は、わかったわ。豆大福でしょ?」


「凜さんは、チョコレートだろう?」


 ふと、凜は驚く。箸を持ったまま固まる凜を見て仁はうん? と首を傾げるが、凜はすぐに我に返ってへらりと笑い、生春巻きに手を伸ばした。


 誰かが凜の好物を知っているなんて、亡くなった祖父母、きぬさん、廸子さん以来だった。彼女たちは身内とか世話を焼いてくれる人たちなので不思議はないかもしれないが、それ以外の誰かには、初めて言われたと気づいた。


 凜が何が好物かなんて、気にする人はいなかった。好物は誰にも知らせずに家でひそかに、しんみりと食べるから。


 なんだか、気恥ずかしくなる。


 自己主張しないでひっそりと無難に生きて来たのに、何かいきなり自分の存在価値が一気にすごく高い所に押し上げられたような、くすぐったい気分。


 それに、誰かの好物を知ることも。理由はよくわからないけれど、すごく、有意義なことに思える。


 意外に思ったことは、仁とは一緒にいても全く居心地が悪くないことだ。いや、むしろその逆。


 誰かといるとき、凜はいつも聞き役に徹していた。自己主張したり自分について饒舌に語ることはないし、相手が言ったことに対して相槌は打つが意見したことはない。


 たとえ「うわ、何言ってるの、このひと……」と思っても、うんうんと聞き流す。それでいいし、それ以上の反応を望まれてもいないだろうとも思うからだ。



 でも、仁は他の人たちとは違う。


 いつの間にか凜の感情を引き出して、笑わせたり、驚かせたり、悔しがらせたりするのだ。


 たぶん仁はウラオモテのない人で、思ったことは率直に何でも口にする、けれど失礼ではない。きっと、誰かに何を言われても気にしない。


 凜よりあとにこの世に生まれたのに、まるで何十年も前に生まれていた人生の先輩みたいだ。




 せめて半分は出すという凜の申し出は、あっさりと却下された。お礼のお礼だからな、と仁は軽く凜をあしらったのだ。


 たくさん食べすぎて苦しいので、地下駐車場まで直接行かずにしばらく散歩することにした。秋の終わりの夜が降り始めた街中は、会社帰りの人々であふれている。人ごみの大通りは、クリスマスのイルミネーションがきらめいている。


 街路樹が纏ったLEDの幾千の青白い光を見上げ、二人は人ごみの間をそぞろ歩く。仁が通りがけのカフェでホットのモカチーノを買ってくれた。甘くあたたかなチョコレートコーヒーをちびちびと啜りながら、少しも寒さを感じずに光の中を仁と並んで歩いていると、凜は自分の足が五センチくらい宙に浮いているかもしれないと感じる。


 両側のきらきらの光あふれる街路樹を見上げて感嘆する凜を見下ろして、仁はあはは、と笑う。



「口、ずっと開いてるよ。すげぇ間抜けなカオしてる」


 でも凛は、宝物を見つけた子供みたいに大きな目をキラキラさせている。


「これを、この風景を、箱庭にしてみたい……」


 言われなければあまり気にならない、ごく緩やかな勾配の石畳の舗道を下る。百メートルほど先に見える広場の、巨大な円錐型の光のクリスマスツリーを見て凜が子供のような笑顔になる。


「仁さん、あれ! あれを中心にして、あの広場からこの並木の道まで入れて箱庭を作るとすてきじゃない?」


 興奮してぴょんと跳ねる凜を見て、仁は笑いをこらえる。あんまり笑うと凜がバカにされていると勘違いするかもしれない。だからひそかに見守ることにする。


 広場までたどり着く。


 円形の石畳の広場の中心には高さ五メートルくらいの円錐コーン形の大きなクリスマスツリーが置かれ、LEDや金銀、色とりどりのオーナメントで装飾されている。ツリーを中心に半径三メートルほどの周囲には、黒い御影石でできた高さ六十センチほどの円柱の車止めポラードがぐるりと取り囲んでいる。


 口を開けっぱなしでツリーを見上げている凜を観察することを楽しんでいた仁は、マウンテンパーカーのポケットからスマホを取り出す。


「あー、凜さん、ちょっといいかな。仕事の電話みたいだ」


「どうぞ、出て」


 凜はご機嫌でにっこり笑って頷いた。どう見ても自分より年上には見えないその無邪気な笑顔を見て、仁は思わず口元を緩ませる。円柱の車止めの一つに腰掛けて、彼は自分の足元を指さした。


「ここにいるからな。迷子になるなよ」


「なるわけないじゃない! 失礼しちゃう!」


 凜はくすっと笑って頷いた。仁が電話に出たのを見届けて、凜は車止めに沿ってツリーを見上げながらゆっくりとその周りを一めぐりすることにした。




 小さなころは、祖父母と三人で温室前のウッドデッキにツリーを飾った。ささやかな三人だけのクリスマス。いつも二人は、てっぺんの星は凜に飾り付けさせてくれた。


 大人になってからはクリスマスのイルミネーションを見に出かけたことなんてなくて、テレビで見たことがあるくらいだった。


 二年も付き合っていた高木とも、イルミネーションを一緒に見に行ったことはなかった。クリスマスなんて、高木にとっては忙しい月末でしかなかった。だからと言って凜が彼に不満があったわけではない。そういうものだと思っていた。クリスマスに特別な思い入れはなにもないし。



 ぐるりと回りこんでくると、巨大なLEDのツリーを前に車止めポラードに座って電話で話している仁が見えてきた。


 長い両足を前に投げ出して、ツリーを見上げながらスマホを耳に宛てて低い声で話している。端正な横顔にはLEDの青白い光で陰影を浮かべ、切れ長の瞳にはキラキラと輝く大きなクリスマスツリーのオーナメントの光が反射している。


 なんか、すごくかっこいいなぁと、凜はしばし見惚みとれてしまう。すると仁が凜の視線に気づき、まだ話が終わらなそうなことを左手を顔の前にあげて、「すまない」というしぐさをして苦笑して謝ってみせる。


 鼻の上にしわが寄る。


 凜はなんだか胸がいっぱいになる。笑顔で頷いてゆっくりと仁の背後に回り込み、そのすぐ後ろでツリーを見上げる。



「あら! 凜さん!」


 聞きなれた声が聞こえ、凜はぎくりと身をすくませて一瞬目をつぶる。そして観念して声の聞こえた斜め後ろを肩越しに振り返る。


 地獄に仏、の反対。なんて言うのだろう、天国に悪魔?


「珍しいじゃない、こんなところで会うなんて! ひとり?」


 白いウールのコート。ヒールの高い黒のロングブーツをはいたすらりと背の高い加奈が、目を丸くして凜を見ている。そしてその隣にはダークスーツにベージュのステンカラーコートの高木が、凜を見て驚いた顔で立っていた。どうやら加奈は、まだ人の婚約者にちょっかいを出し続けているらしい。


「加奈さん、高木さん、こんばんは」


 凜は律義にぺこりとお辞儀をした。


「……ひさしぶりだね。すごく元気そうで、なにより」


 高木は少し戸惑いながらも愛想笑いをうっすらと浮かべてそう言った。



 なんとなく思い出していたら本人に会ったので、凜は少し面食らっていた。彼はクリスマスのイルミネーションの、そんな華やかな場所で凜を見たから驚いているのかもしれない。


 地味な雰囲気の彼女には場違いだと思っているのかも? 凜をイルミネーションに連れ出してくれたことは一回もないが、たぶんほかの誰かとはこうして出かけていたのかもしれないな、と加奈と高木を見て凜はふと思う。今となっては、どうでもいいことだけれども。


「凜さんたら、こんなところで小さな子供みたいにツリーに見惚みとれちゃって。買い物か何かの帰りなの? 私たち、これから用事があるんだけど、三十分くらいならお茶とかどうかしら? ね、高木さん」


 加奈は相変わらず凜のことをすこし小ばかにしたように薄く赤い唇をゆがませて笑むと、ちらと高木を横目で見た。


「ああ、うん」


 高木は何の感情も読み取れないぼんやりした感じで頷いた。


「決まりね。じゃ、行きましょ!」


 加奈が凜の右の手首を取る。凜は焦って首を横に振る。


「い、いや、あの、困……」


 凜は狼狽して加奈に摑まれている自分の手首を見つめる。一度深く息を吸い込んで覚悟を決めて、断りの言葉を発しようとする。



 ふいに、凜の背後から大きな手がにゅっと出てきて、加奈に摑まれた襟なしのショート丈の黒いキルティングジャケットの凜の手首をつかみ、加奈の手をほどいた。


「!」


 加奈は驚いて凜の背後を見上げる。彼女が目を見開いて……そこには少し脅えた色が見えたので、凜も首をひねって背後を振り返った。


 冷ややかな差すような鋭い目つきで加奈を見据え、仁は唇の端を吊り上げている。


「おい、凜さんはまだ返事してないのに拉致る気か?」


「なっ、拉致って!」


 加奈は一瞬怒りをあらわにしたが、仁に気おされてそれ以上は強く出られない。


 振りほどかれたままの形で手を宙で静止させて、口をぱくぱくと動かしている。

 凜は背後からなかば包まれるように腕をつかまれている。仁の左手は凜のウエストを引き寄せているので、彼女は呼吸の仕方も忘れるくらい混乱している。



「この人、今日は俺のツレなんで。勝手に連れて行かないでほしいんだけど?」


「うそ! 絶対にありえない!」


「なんでだよ?」


 首を横に振る顔をひきつらせた加奈に、仁は片眉を吊り上げてちっ、と舌打をする。


「あ、あの、加奈さん! ほんとだから。だから、一緒に行けないから」


 仁の重みと温かさを背中に感じて、凜は自分がゆでだこのように真っ赤になっているだろうなと思うが、なかばやけくそで加奈に言い放った。加奈は初めて凜から強い物言いを受けて、驚いた目をさらに見開いて気おされる。


 それまで加奈の背後で事の成り行きを静観していた高木は、大きなため息をついて歩み寄ると加奈の肩を持って体の向きを変えさせて、仁にゆっくりと頭を下げた。


「失礼。キミもたいがい強引だな。こんな時間にこんなところに一人でいるわけないだろう? じゃあ、中山さん、会えてよかった」


 最初の一言は仁に、次は加奈に、そして最後は凜に無難な感じで言って、高木は加奈の両肩を押しながらその場を去った。


「あんだ、あれ」


「……」


 いつの間にか、仁の顔が凜の右肩の上に乗っている。右の手首とウエスト、そして右肩の重み、背中のあたたかさに凜はうろたえる。固まる凜の心の中の混乱を知らない仁は、のんきに腕を解き、車止めの上に腰掛けなおす。


「凜さん」


「……はい」


「ああいう、人の話を聞かない奴にははっきり言わないと」


「……」


 はぁ、と深いため息をついて仁は凜の両肘を取り、凜の向きを自分のほうに変えさせた。車止めポラードに座る仁は背を丸めて屈みこみ、小柄な凜を見上げて苦笑する。



「きぬさんの孫には、なり振りかまわずに向かって行って跳ね飛ばされたくせに、ああいうのは断れないのか?」


 自分がなさすぎるやつだと、きっと呆れられただろう。とたんに凜の気持ちは急降下する。地面にめり込みそうなほど沈み、自己嫌悪にどっぷりとまみれる。しかし仁は、凜の予想を裏切って楽しそうに笑った。


「まったく、誰に遠慮して生きてるんだよ。嫌なら嫌って言うことも大切だ」


 凜は少し驚いて顔を上げる。仁のまっすぐな強い瞳と視線が合う。凜はまたうなだれた。


「そうだよね……」


 仁はそっと、うなだれる凜の両手を取った。


「なぁ、凜さんはミニチュア作って、会ったこともない誰かのことを幸せな気持ちにしているだろう? 喜んでくれる人がたくさんいるだろう? 俺だって今日、生まれて初めて手作りのプレゼントってやつをもらって、めちゃテンション上がったよ」


「えっ? 生まれて、初めて?」


 凜は目を見開いて仁を見た。仁は目を細めてうれし気に頷いた。


「そうだよ。今ここで、高速スキップしてツリーのまわりを十周したいくらいにうれしいんだよ」


 凜はぷっと噴き出した。


「何それ……」


「そんぐらいうれしいって、たとえだよ!」


 仁はふいと横を向いた。ツリーのLEDの青白い光のせいでよくわからないけれど、すこし目元が赤いかもしれないと凜はぼんやり思う。


「うん……そうだね。あの二人と話しても何も楽しくないし、興味もないなら……最初にはっきりと断らないと、私の態度も失礼だよね」


 凜は眉尻を下げた。仁ははっと目を見ひらいて凜に向き直ると、目を左右に泳がせた。


「あ、いや、その、責めたわけじゃない。俺がすぐ後ろにいたんだから、仁助けろって言えばいいんだよ、ああいうときは」


「えっ?」


「頼れって、そういうことだよ」


 少しすねたように凜を見上げる仁を見て、凜はあっけにとられる。そして笑ってしまう。


「うん、わかった」


 仁はほっとしたような表情でやわらかく笑んだ。

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