A Box of Chocolates

しえる

人生はチョコレートの箱

第1話

亡くなったおじいちゃんとおばあちゃんは、私をとてもかわいがってくれた。


 心に傷を負ってぼろぼろになって、壊れかけていた幼い私を二人は温かく包んで、いつくしんでくれた。




 学校に行けず、人と会うことさえもできなくなっていた私を、時間をかけてゆっくりと忍耐強く少しずつすこしずつ、優しさで満たしていってくれた。


 小学生の時のほとんどの時間を、三人で温室で過ごした。



 中庭に作られた白木の枠にはめ込まれたガラスの温室は、二十畳くらいの大きさで、居間からウッドデッキでつながっていた。かつて若いころに、おじいちゃんがおばあちゃんのために作った、小さな楽園。


 一人息子だった私のお父さんが交通事故で死んでしまったときに、悲しみに暮れるおばあちゃんの心が癒された場所。そこで幼い私の心も癒された。



 夜はよく三人で、ソファに並んで座ってそこで映画を見た。電気を消せば、月や星が映画館の常備灯代わり。


 ふたりは赤ワイン、私はぶどうジュース。チーズやクラッカー、乾燥白イチジクや干し貴腐葡萄。あるいは、箱いっぱいのチョコレート。


 それぞれがお気に入りの作品を所望することも多く、セリフを覚えるくらい繰り返し見ている作品も少なくはなかった。




『フォレスト・ガンプ』もその中の一つ。何度見ても、見るたびに私とおばあちゃんは泣いてしまったものだ。



”Life is like a box of chocolates. You never know what you are gonna get.”



 私の大好きなセリフ。



『人生はチョコレートの詰まった箱のようなものよ。中身を取るまで、何を手にするかわからないのよ』




 おじいちゃんは、フォレストのお母さんが言っていたセリフをフォレストが言うシーンになると、よく一緒に呟いていた。


 日本で言えば、大きな缶の中に入ったいろいろな種類の詰め合わせのチョコレートかしら? 苦いチョコ、甘いチョコ、レーズンやオレンジピール、お酒の入ったチョコ。


プラリネ、トリュフ、ミントにヌガー入り。中身を見ないで手を入れて、触れたものを取り上げる。何が取れるかは、見た時のお楽しみ。



『人生って、生きるって、そういうことなんだよ、りん。何度かは、びっくりするほどまずいチョコレートを引き当ててしまうこともあるんだ。でも、そんなまずいチョコだけが、箱の中に入っているわけじゃない』




 おじいちゃんは、そう言ってニコニコと笑い、私の頭を撫でてくれた。


 私は幼いうちにまずいチョコばかり連続して引き当ててしまったけれど。


 まずいものを先にたくさん取ったら、おいしいものがたくさん残っていることになるわね、とおばあちゃんは私の頭をなでながら優しく言ったものだ。



 

 それぞれに人には、それぞれのチョコレートの箱がひとつ。


 どんなチョコレートを引き当てるのかは、その時の運次第。


 私にとっては、おじいちゃんとおばあちゃんが、人生最高のチョコレートだった。


 二人が私を愛してくれたから、私はチョコレートの箱を途中で捨ててしまうことはしなかったの。


 それだけでもすごいことだ。


 これから先、私の箱の中に飛び切りのチョコレートが入っていなかったとしても、私は悲しくない。


 ふたりが、いてくれたから。


 だいじょうぶだよ、と言ってくれたから。


 私は大丈夫。





 仕切られたダイニング系居酒屋の一個室で、凜は居心地悪そうにもじもじと座っている。


 彼女の向かいには、二年前まで一緒に働いていた元同僚、三つ年下の加奈が華やかな微笑を凜に向けている。


「お久しぶりね凜さん、相変わらずっぽいわ」


 二人はグラスをかちんと合わせた。凜はウーロン茶、加奈はカシスソーダ。



 加奈の笑みには、どことなく凜に対する蔑みが含まれている。凜もそれは感じ取っている。だから加奈に呼び出されても、ほんとうは来たくなかった。一緒に働いているときから彼女はいつも少し強引で、凜に断らせる隙を与えなかった。


「加奈さんも相変わらず元気そうね。仕事は順調?」


 べつに、知りたいわけではない。でも、一応は訊く。社交辞令だから。


「ええ。最近は大きな企画も任されるようになって、何とかいい感じね。凜さんは、いまは何の仕事をしているの?」


「私は……ちょくちょく短期のバイトとかして……まだ、家でのんびりしてるわ」


 うそだ。


 ほんとうは、ミニチュア作家として結構忙しい。二年前に会社を辞めたのも、趣味で作っていたミニチュアをインスタにのせていたら注文が殺到して、忙しくなってきたからだった。でも会社には、退職の理由は一身上の都合として詳細は伏せた。


 二年前も加奈は執拗に退職理由を探ってきたけれど、体調を崩したからしばらく働くことを止めると言ってごまかした。今も彼女に本当のことを話す気はない。


「そう……今日誘ったのは、ちょっと、お知らせしておこうと思って」


 相変わらず意地の悪そうな笑みを口の端に浮かべて、加奈は少しあごを持ち上げてすましてそう言った。


「なにかしら?」


 凜は首を傾げた。シンプルな白のオクスフォードシャツにジーンズ。赤いラインのスタンスミス。ネックレスもピアスも指輪も、装飾品は一切身に着けていない。肩までの髪はねじりこんで後ろで緩やかにくくっている。メイクもアイメイクくらいのシンプルなかんじ。唇にはほとんど透明に近い赤のグロスをうすくつけている程度。実年齢に見られたことはなく、加奈と一緒にいても、凜のほうが年下に見える。色白できめの細かい肌、色素の薄い髪と目。美人というよりも愛らしい感じ。


 自分をアピールする気がなくてあいかわらず女子力が低いわねと、加奈は三つ上の元先輩を見て心の中でふんと鼻で笑う。


「来月、高木さんがシンガポール支社に異動になるの」


 ベージュのシフォンブラウスに紺ストライプのペンシルラインのスカート、黒のミュウミュウのパンプス。長い茶髪をゴージャスに巻いて、隙のないフルメイクはこの秋の最新流行色。トリー・バーチのバングル型腕時計、大ぶりの金のピアス。相変わらず、雑誌から抜け出してきたみたいな恰好ね、と加奈のファッションに凜は内心で苦笑する。


「そう」


 凜は穏やかに頷く。すると、加奈は片眉を上げる。


「なに、それだけ? なんとも思わないの?」


 何を言われているのかわからないと言ったように凜が首を傾げると、加奈は明らかに少しいらだった。


「二年前、凜さんが断ったから、高木さんはもうすぐまりあと結婚して一緒にシンガポールに行くのよ」


「そう……それは、よかったね」


「よくないわ!」


 加奈は唇をへの字に曲げる。垂直に上がったまつ毛の下の目がきっ、ときつくなる。


「高木さんが誰と結婚しても、私には関係のないことよ」


 凜が苦笑すると、加奈はじろりと凜を見る。


「どうしてよりによって、まりあなのかしら? 凜さんとはまったくタイプが違うわ」


 凜はさらに苦笑する。加奈はまりあを嫌っているから、面白くないらしい。


 はっきり言って、凜にはもうどうでもいいことだった。


 それを知らせるために、久しぶりに会いたいと言ってきたのかな? 凜は心の中でため息をつく。加奈は相変わらずだ。




 大学を卒業して就職した大手の建築デザインの会社で、高木は三年先輩の社員だった。人当たりがよくて女子受けもよい。社長にも気に入られていて、社交的で同僚からも頼りにされている。


 凜は二十六で退職するまで二年間、高木と付き合っていた。


 退職の少し前にプロポーズされたが、断った。周囲はみんな驚いた。


 凜のようなおとなしめの女が、高木のような好条件の男を振るなんてと、女子社員たちは面白おかしく騒ぎ立てた。



「私、相手のかたのこと、あまり記憶になくて」


 困ったように凜が笑うと、加奈はきっと凜を睨んだ。


「私のいっこ下よ、凜さん。営業の白井さんや宇津木さんにも色目を使ってたのよ、彼女」


「そう……」


 そういうあなたは、私がいるときに高木さんとこっそり付き合っていたよね、と凜は思う。


 加奈はいかにまりあが嫌な女かを語り始める。そんな話ならばわざわざ凜を呼び出すまでもなく、会社の女子たちとすればいいのに、と凜は憂鬱になる。


 二年前に凜が加奈にされていたことと、加奈がまりあにされていることはあまり違いがないように思う。


 ああ、注文がたくさん入っているのにこうしている時間がもったいない、と焦りだし、上の空になる。体調が悪くなったと言って、もうすぐ帰りたいと言おうと考える。



「ちょっとお手洗いに……」


 誰であっても、誰かの悪口をずっと聞かされるのはしんどい。凜はしゃべり続ける加奈に愛想笑いをして席を立つ。


 トイレに入り、ふう、とため息をつく。そして二年前、偶然聞いてしまった高木と加奈の会話を思い出して気分が鉛のように落ち込む。





「どうして凜さんみたいな地味な人がいいの?」


 加奈が挑発的な口調で疑問をぶつける。二年前、会社の休憩室。高木を探していた凜は、偶然、二人の会話を聞いてしまった。


「結婚するには、ああいうタイプが一番手ごろなんだよね。おとなしい、金遣いは荒くない、何もねだらない、見栄えはそこそこ、身持ちは固い。まさに妻むき」



 ぐさり、と槍で心臓を突き刺された気がした。


 熱烈に愛されているわけではないと気づいていたけれど、そんなふうに思われていたとも思わなかった。しかも二人はさらに、週末の旅行のことについて話し合っている。


 凜はその時、ショックを受けたわけではなかった。高木が何人かの女子社員に手を出していることには気づいていたし、加奈が凜になつくふりをして、陰では高木を奪ったつもりでバカにしていることにも気づいていた。



 なによりも凜が衝撃を受けたのは、そんな会話を聞いても腹も立てず、傷つきもしない客観的な自分自身についてだった。


 悲しいとか悔しいとか、みじんも感じない自分自身。


 高木からプロポーズされたとき、うれしいとも、幸せだとも感じなかった。きたか、と心の中で呟いた。愛されていると、すこしも感じられなかった。


 だからその会話を偶然耳にした時、ああ、よかったとしか思いつかなかった。



 よかった。



 食べる前に、「はずれ」だってわかって本当によかった。


 そして凜は、高木のプロポーズを断った。





 トイレは狭い通路の突き当りにあった。


 あの愚痴を聞き続けるのは精神的によくない。もう帰るとちゃんと伝えようと、ぼんやりと考え事をしながらトイレから出てくると、うつむきがちに歩いていたために頭が何かにどんとぶつかってしまった。


 正確には何か、ではなく誰か、にぶつかったのだ。


「あっ! すみま……」


 ぶつかった相手のほうが数段、ガタイがよかったらしい。小柄な凜ははじかれてしまった。しかし反動で壁にぶつかる前に腕をそっとつかまれて抑えられたため、背中への衝撃は起こらなかった。



 はっと顔を上げる。


 切れ長の涼しい目が、凜を見下ろす。


 日に焼けた背の高い男が、彼女の両方の上腕を支えている。白い長そでシャツ、カーキ色のニッカポッカ。白いアディダスのスニーカー。


「す、すみません」


 凜は焦ったままぺこぺこと頭を下げた。凜の両腕を離すと、男は薄い唇の端をふっと吊り上げて笑った。



「気を付けなよ、おねーさん小柄なんだから、弾き飛ばされるぞ?」


 低い声が頭の上から降ってくる。見上げると、凜の頭は男の肩より少し低い。


「は、はい、失礼しました」


 凜の必要以上にびくびくと脅えた態度に、男は苦笑する。


「そんなにびくびくしなくても、取って食いやしねぇよ」


「えっ? そ、そういうわけじゃ……」


 凜は目を見開く。男は全く怒ってはいないようだった。むしろ、冗談を言ったようだった。彼は再び口元を上げて通路の奥に去って行った。


「……」




 なんだろう?


 凜は首を傾げた。


 知らない人なのに、なんだか、すごく懐かしい感じ。


 同じくらいの年齢だろうか。


 大人っぽい気もするけれど、少年ぽい気もする。


 口の端を上げる、あの笑い方。




 ぶつかったのは凜だったのに。


 へんな誤解させて嫌な思いさせてしまったかな?


 久しぶりに、誰かの目をまっすぐに見つめた。


 何だろう、この気持ち。


 苦いココアパウダーをまぶした、甘い生チョコレートみたい。


 なぜか、そう思った。




 その後、席に戻った凜は、いとこから泊まりに来るという連絡が入ったから、と加奈に詫びを入れ、まだ愚痴り足りなさそうな彼女に別れを告げて帰宅することに成功した。



 本当はいとこなんて、凜にはいなかったけれど。

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