第6話 さようなら。これからよろしくね。

 二週間ほどで退院となった。

 予想よりはるかに短かった。


 幻覚が僕に悪影響を及ぼさず、むしろ好ましい影響を与えていたことに、主治医は首を傾げていた。


 僕はどんどん「よく」なっていた。


 頓服薬は週に一回しか飲まなくてよくなった。

 玄関の扉の鍵は、一回の確認で大丈夫。

 スマホ、PCを恐る恐る、多少不安でも使える。


 ちゃんと人の助けを借りて、一人前に生活できる。


 僕は普通の人間に近づいていた。


 それはなぜかのおかげだった。

 僕を苦しめる心の病が、なぜか僕を救い、立ち直らせた。


                 *


 新しい春が来た。

 僕は無事に試験に合格し、大学に進学した。


 入学式の数日後、僕はキャンパスの入口で人を待っていた。

 本物のしず姉を待っていた。

 大学の先輩である彼女が、キャンパスを案内してくれる約束だ。


 彼女には事情は打ち上けた。

 距離を取られるかと恐れたけど、逆に近づいてくれた。


 それだけじゃなくて、大学生活をサポートするから、と張り切っていた。

 外見は派手になっていたけど、優しい所は昔のままだ。


 静音は僕を弟のように思って、世話を焼いてくれるのだろうか。

 でも彼女の僕に対する熱意は、幼馴染の範疇はんちゅうを超えてるような気がする。


 彼女も僕を?


 でも僕が想っていたのはじゃなくて。

 でも彼女に現在まで彼氏は居なかったらしいし、とはまだ少しの時間しか過ごしていないけど、好ましく感じ始めていて。

 

 だったら僕は、


                  *


 突然、後ろから抱きしめられた感覚があった。

 

 無視を決め込んでいた幻覚の仕業だ。

 最近はずっとおとなしく、側にただずんでいたから油断した。


 人肌の温かさと優しい匂い。


 でもそれは偽物だ。

 僕は無視する。


「私はもう消えます」


 僕は無視しようとしたけど、体がびくんと震えるのを阻止できなかった。


「最後に少しだけ、エールを送らせてください」


 僕は無視したい。


                 *


 やりたくなければ、やらなくてよかった。

 逃げ出したければ、逃げればよかった。


「でも君はそうしませんでした」


 本当に強い人。

 本当は強い人。


「よく、頑張りましたね」


 僕は無視、したくない。


                *


「今日も生きていてくれてありがとう」


 ああ。


「明日も、明後日も」


 これは呪いだ。


「一週間後も二週間後も」


 僕を束縛する生の鎖。


「一か月後も二か月後も」


 僕は望んで生にとらわれた。


「半年後も一年後も」


 きっとこれから僕は人生の道のりで、何度も何度もくじけることになる。

 でも選んだのだ。


「五年後も十年後も」


 一番過酷で辛くて厳しい、楽しくて嬉しい正しい生き方を。


「死ぬまで、」


 選び取る力を、生きる力を育ててくれたのは、君だ。



「死ぬまで生きてくれて、ありがとう!!」



 彼女は幻なのだ。

 病気なのだ。

 無視しないといけない。


 それでも僕を助けてくれた。

 僕を強くしてくれた。

 脳のまやかしだとしても、彼女は僕を救ってくれた。


 だから一言だけ、自分に許すことにする。

 

「さようなら、司くん。さようなら」


 それが最後の彼女の言葉となった。

 慣れ親しんだ温もりと匂いがなくなった。


「さよなら、しず姉」


 一言だけ呟いて、一言だけ胸に浮かべて、僕は決して振り向かなかった。

 

 その代わり笑顔で、とびっきりの人生一の笑顔を顔面に張り付けて、晴れ晴れとした感情で、彼女に別れを告げた。


 さようなら空想のヒロイン。

 今まで本当にありがとう。


 その後、彼女の声を聞くことは、姿を見ることはなかった。


               *


「司くん、お待たせ」

「うん」


 が来てくれた。


「これから大変だろうけど、私が全力でフォローするから、一緒に頑張ろう」


 静音は応援の拳を振り上げて、僕を元気づけようとしてくれる。


「これからよろしくね」

「よろしく、しず姉」


 よろしく現実のヒロイン。


 叶うならば、君が僕のメインヒロインになって欲しい。

 そう心の底から想っていると、彼女の顔を見て確信する。


 君の隣に立ちたい。

 その資格を得るための努力は惜しまない。


 できる限り早く、僕は秘めた気持ちを打ち明けたい。


『君が好きだ。ずっと一緒にいたい』


 僕は君を幸せにする。


 僕をここまで手を繋いで、一緒に歩いて、連れてきてくれたのためにも、僕は幸せになる。


 僕は死ぬまで生きていく。



(完)

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手を繋いで歩いてくれた君に、笑顔でさよならを 雨宮 隅 @kaooruu32

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