盛唐の斜陽、東征の風

kanegon

盛唐の斜陽、東征の風

 李林甫は暗い夜道をたった一人で西へ向かって歩いていた。大唐帝国の宰相として権勢を極めた李林甫が、共の者も護衛の兵士も連れずに、である。

 ここはどこだろうか。絢爛の都である長安のどの場所にも、周囲に何も無い暗いだけの道など存在しないはずだ。年齢のせいか病床に伏せることの多くなった己の弱さが生み出した不安を、夢の中で見ているのか。

 病がちになってから、自らの権勢に翳りが見え始めていることを自覚せずにはいられなかった。楊貴妃の又従兄弟である楊国忠に、皇帝の信頼が移りつつある。権力者こそが法であり正義である。ならば、権力者が変われば、それに伴って当然法も正義も変わるということだ。

 不意に、李林甫の目の前に一匹の黒い毛並みの犬が出現した。子牛くらいの大きさがあるのも普通ではないが、額に一本の立派な角が生えているので、通常の犬などではない。李林甫はその犬に見覚えがあった。

「お前は、獬豸 (かいち) だな。法と正義を司る一角の幻獣」

 以前に獬豸の絵を描いたことがあるため、李林甫は一角獣の名を知っていた。李林甫は大唐帝国の位人臣を極めた宰相であるのみならず、画家としても一流の技量であり、特に山水画を得意としていた。

「李林甫よ。そなたは今まで、多くの者を蹴落として自らの栄達のために踏み台としてきたな」

  獬豸が重々しい声で李林甫に語りかけてきた。

「その通りだ。仕方がなかったのだ。そうするより他に無かった。そうしなければ自分が蹴落とされて、下手をすれば命まで奪われてしまう。自分と家族を守るためには、それ以外に道が無かったのだ。私以外の権力者とて、同様の手段は使っているはずだ」

「かつて、その手法を自分の息子に諌められていたではないか」

 獬豸の二つの目が闇の中で赤く輝くのが禍々しい。

 李林甫の息子の一人である李岫は、将作監という地位にあったが、父に似ず気弱で繊細な性格だった。

「父上は久しく宰相の地位に就いていて、天下には父上に怨みを抱き、父上を仇と狙っている者が満ち満ちています。こんなことを続けていては良くないのではありませんか」

「私が宰相の地位に登り詰めたのは、成り行き上、こうなってしまっただけなのだ。岫よ、私はどうすれば良いだろうか」

 専横により富と権力を一手に握った李林甫であっても、否、宰相だからこそ、どうにもできないことがあるのだ。

「何でもできる権力者だからこそ、敵ばかりが増えて味方を増やすことはできない。その孤独と恐怖は、余人には理解し得ぬものであろう。だが、権力者の悩みや迷いなど、獬豸の裁きには関係無いのであろうな」

「李林甫よ。そなたは、悪いことをした、という自覚はある、ということだな」

「他者が私のことを『口に蜜あり、腹に剣あり』などと批判していることは承知しておる。そもそも獬豸よ、私などを裁いてどうするのだ。どうせ絵以外は人に嫌われるような悪いことばかりをしてきた。自覚はある。その結論だけで十分だろう」

「待て、李林甫よ。そなたにも僧の件で良い行いが……」

 獬豸の言葉を待たず、李林甫の姿は消滅した。後は一角獣が残るだけだ。

 何も無い真っ暗な闇の中で、獬豸は西から東へ向かってため息をついた。

「そう生き急がなくとも、話くらいは最後まで聞けば良いのに」

 その後。

 李林甫は病床で目を覚ました。やはり自分は夢を見ていたのだ。よりによって獬豸に裁かれる夢を見てしまった。

 もう己の命も長くないということだろう。

 ほどなく、李林甫は死去した。

 その数年後には、繁栄を謳歌していた大唐帝国は、内部からの腐敗が限界に達し、安史の乱の勃発により、一転して滅亡寸前の憂き目を見ることとなった。

 李林甫は、国が栄えていた盛唐時代を衰退へと転落させた佞臣として史書にその名を残すこととなった。


▼▼▼▼


 獬豸の吐いたため息は、やがて海に至ると、強烈な季節風として吹き荒れ、波間に浮かぶ四隻の舟を翻弄した。

 風は、高僧鑑真の乗った船を日本へと導くこととなった。

 昔日、戒律を学ぶために、唐国から高僧を招請しようと、栄叡、普照ら日本僧が遣唐使として海を渡った。

 しかし唐の官憲の厳しい取り調べを受けて活動に支障を来たし難儀していた。その時、兄の李林宗を通じて弟の宰相李林甫が日本僧たちのために諸々便宜を図ってくれた。

 その甲斐もあって、長い年月と多大な苦難と栄叡の無念の客死を経てではあるが、出会った高僧鑑真を日本へ招来することができた。

 絵の名手李林甫の筆は、歴史の狭間で運命の彩を描き出していたのだ。

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