第4話 開演ブザー

 件のホテルに明石が向かうことは無かった。


 管理人の親切心を無碍にしたようで、彼が遣る瀬無い気持ちになった事は否定できない。


 広い雪の街路を進み、やがて正面に一際大きな建造物が現れた。赤いレンガ造りで、イギリスの首都圏でみられるような洋風建築。日本寄りに言えば、大正モダン・デザインと言ったところか。


 東京駅。


 あれこそが今夜の目的地だ。


 宮殿じみた造りの改札を通り、洞窟みたいに天井の低い迷路のような通路をくぐって、明石は京葉線ホームへと辿り着いた。当然のことながらこの時間帯は、首都近郊の駅のホームよりも人気は多かったが、それでも東京駅にしてはまだ少ない方だった。


 もう少し待てば、人が増えてくる。


 そんな確信には理由があった。


 東京の某テーマパークからの帰宅ラッシュ。特に今夜のクリスマスイヴ――付け加えて土曜日である事には、利用人口が数倍に跳ね上がっている事だろうと思われた。


 それこそが明石の狙い目だった。


 階段付近にベンチを見つけた明石は、京葉線ホームの白いモザイクタイルの上を歩いて、誰も座っていない手近なそれへと腰を落ち着ける。僅かに強張っていた体の緊張がほぐれ、肺の奥底から自然と白い息が吐き出た。


 冬の空気で冷え切られた東京駅内は冷蔵庫のように寒かった。棚の奥で順番待ちをしている具材の気持ちが、今なら分かる。


 ふと誕生日プレゼントで貰った缶珈琲の暖かさに気が付いた明石は、それをコートのポケットから取り出した。小気味の良い音を立てて缶のステイオンタブを引き起こし、舐めるように中身を飲む。舌の上を甘ったるい珈琲がじっくりと滑って落ちていった。


 図書館の会話からも分かる通り、明石は甘い珈琲が苦手なのだが、驚いたことに甘い珈琲を飲んだ時にやってくるあの頭痛の気配はなかった。ほんのりと胸の内側から温められていくようで、気持ちが良かった。……そうか、冷めていない珈琲とはこんなにも美味しかったのか……明石は人知れず、その珈琲の味わいに感嘆した。中途半端な甘さではない、ただ一重に思いやりが籠められた優しすぎる甘さ。


 彼女らしいな、そう思った。


 ◇


 風に吹かれた夕刊が1枚、ヒラヒラと飛んできて明石の脚に引っかかった。新聞紙の大見出し記事には……有名企業倒産で社長が投身自殺……とられている。その企業のビルディングの写真ばかりが大きく掲載され、社長の名前である《練尾頼広ねりおよりひろ》という文字は、それっぽい事を言いたがりな関係者の追悼に交じって目立たない。


(……粗末な最期だ)


 数本の電車を見送りながら、ゆっくりと珈琲を味わっていた時だった。控えめな靴の音が階段を緩やかな歩調で降りてくるのが聞こえた。そうして、顔を向けた先にいた意外な人物の姿に、明石は目を丸くした。


 櫻井だ。


 彼女の恰好は仕事中のような欲情を煽る衣装ではなかった。暖かそうな黒のタートルネックと、茶色のストール、本人の足の長さを美しく強調した細いデニムパンツ。そして上品な黒のミドルヒール。


 ただでさえ歩きにくいヒールなのに櫻井の足取りは軽快なもので、一度も体勢を崩すことなく彼女は階段を下りきったようだった。そうして、モザイクタイルをカツリと踏み鳴らした時に、櫻井はようやく明石の姿を捉えたらしく、小さく手を振っては、当たり前のように彼の傍へと歩み寄ってきた。一度だけ明石の頬にキスを落とすと、彼女もまた落ち着いた態度で隣に座った。


「あげる。さっき買ったの」


 そう言って彼女はトマトフレーバーの栄養調整食品が入った菓子袋を寄越した。この感触だと2ブロックは詰まっているはずだ。明石はそれを有り難く頂戴して、やはりポケットの中に仕舞うのだった。


 図書館の管理人と櫻井には共通点がある。


 2人とも少なからず明石に好意を持って接してくれているという事だ。


 これまで明石なりの親愛を込めて彼女らと付き合えてきたのは、2人によるそれが大きく関わっていた。ただ、そう、あえて言及するのなら彼女らの違い・・・・・・とはそこにあった。


 図書館の管理人の好意を喩えるなら、それは無償の愛・・・・。彼女は紛れもない慈善活動家だ。困った人の為ならば分け隔て無く助けの手を差し伸べるだろう。いつでも利他的な行動を重きに置いて生きる彼女は、明石の知る中で、最も敬意に値する人間と言えた。


 対して、櫻井の持つ好意は有償の愛・・・・――いや、有限の愛・・・・とでも言うべきか。櫻井が明石以外の人間に興味を示すことはなかった。……私の愛情は貴方のためだけにあるのよ、他人には一片もくれてやるつもりなんてないわ……いつもの調子で櫻井がそのようにのたまうのは想像に難くない。


 一体いつ、僕が彼女のために何かしてやれただろうか。そんなに愛情を独占できるような理由があっただろうか。明石はそれが不思議で堪らない。これも捉えようによっては無償の愛・・・・と言えるのかもしれないが。


 そう、これが2人の共通点だった。


 誰にでも与えられる無償の愛。


 ただ個人に注がれる無償の愛。


「分からないな」


 思わず口を突いて出た言葉に、櫻井が反応した。明石自身も驚いた。だから、何となく誤魔化そうとして、彼は前々から気になっていた事を1つだけ尋ねてみる事にした。


「君は利口な女性だ。頭が良く、物分かりも良い。いくら表面上ではそう取り繕っていても、愛だの恋だので身を滅ぼすようなタイプじゃない。そんな君が何故、僕なんかと同じ界隈かいわいで足並みを揃えているのかが不思議でならないんだ」


 あの櫻井が隣で少し縮こまったような気がした。


 いつかは聞いてみたいと思っていた。プライベートな事情を無闇やたらと詮索するのは御法度だと承知していても、明石は、自分以外の人生がどんなものなのか、こんな時くらい知っておきたかったのだ。


「……子供の時に、親と喧嘩しちゃって……家出して、気が付いたらこんな所にいたの」


 そう語る櫻井は、遠ざかった在りし日に想いを馳せているようだった。


「喧嘩の原因もとを窺っても?」

「進路方針の違い」


 櫻井が少しこちら側に寄って来るのを感じた。


 彼女はぽつりぽつりと語り出す。


「ママとパパは田舎の農業を継げって言ってた。けれど、私は別の進路を望んでいたの。勉強もして、貯金もして、高校に進む準備はできていたのに。なんでだろうね、あっさりと受験に落ちた。……訳が分からなくなっちゃったんだ。夢も何も見えなくなって、それを追う理由さえも時々忘れそうになる」


 櫻井は続けた。


「本当はね。医者になりたかったの私。別にちっちゃな頃に医者に命を救われたとか、そんな大層な理由はなくて。たぶん、人を笑顔にできる姿に憧れたんだと思う」


 意外だった。


 彼女は少し前まで、他人を幸せにするために努力できる人間だったらしい。その在り方は彼女の対極にいる、別の女性の在り方を彷彿とさせた。……櫻井の内側を閉ざしていた殻のようなものが、今少しだけ剥がれ落ちたような気がする。


「人を笑顔に」明石は反芻はんすうした。

「そう。誰かの命を救えて、それでお金も貰えるなんて素敵でしょう?」


 明石には無い価値観だ。


 いくら高い給金を貰えるのだとしても、他人を笑顔にする事が前提なんてあまりにも回りくどい。そんな面倒な事は誰かに任せておけば良いのに。そんな顔をした明石を横から覗き込んで、桜井は小さく微笑んだ。


「僕には、きっといつまでも理解できない事だろうな」明石は苦々しく笑みを返した。

「できるわよ、私が惚れた男の子だもの」

「3歳も年下の奴に? 君は大人びた男性がタイプだと思っていたけど。一体いつからそんな事になったんだか」


 会話が湿っぽくなってきたのを感じたので、いつものように下らない冗談を言って流そうかと明石は思った。そうやって薄く笑いながら櫻井の方を向くと、彼女もまたこちらを見ていて、彼は思わず口を噤んだ。


 櫻井のシャンパン・ブルースの色味を秘める瞳と、明石の死人のような忌まわしい黒い瞳が見る世界が、一瞬の間だけ溶けて混じり合ったような気がした。


「最初からよ」櫻井は言った。短く。強い言葉で。


 明石は今度こそ何も言えなくなってしまった。


 そんな彼を尻目に櫻井はクスリと笑って立ち上がり、下りてきた階段の方へと踵を返す。帰り際にはいつもの調子で明るく笑いながらこう言った。


「今度はトマトジュースなんかじゃなくて、本物のブラッディマリーを頂戴。じゃあ、また逢いましょう」


 それから櫻井は一度視線を宙に泳がせて、忘れかけていた大切な用事を思いだしたように、再び明石の方に目をやって続けた。


「ああ、それと。――メリークリスマス、明石」


 階段を上っていく彼女の背中が、見えなくなるまで眺めていた。


(……そういえば何故、櫻井はここへと訪れたのだろう……何の為に来たのだろう……何故、あんな後ろ姿で……)そんな淡い疑問は、程なくして明石の中から失われた。


 電光掲示板に《22:03 蘇我行き》の文字が表示された。


 森閑しんかんとしていた京葉線のホームは、今や人混みで溢れていた。件のテーマパークの閉園時間は22時。丁度、次の電車を利用する時間帯がピークだ。


 電車が通るアナウンスがホームに流れる。


 空になった珈琲缶をベンチの上に置いて、ホームの雑踏に明石は割り込んでいく。そんな時、背丈が高くて良かったなと彼はそう思うのだ。183センチの体躯は人々へと無意識的な威圧感を与え、大海を割る様に道ができていく。


 何やら後ろで誰かが騒いでいるような声が聞こえていたが、明石は気にすることもなくただ前へと足を進めた。


 大きな轟音を連れて、赤い線が2本走った電車がやってくる。


 真っ暗闇から、煌々と光る前照灯ランプが迫りくる様子を目にした時、彼の体は急速に強張り出した。全身の血管に細い針金が通ったみたいに動かない。生命としての本能が最期の抵抗を見せていた。――しかし、どんなに決断が困難な事でも、ただの数センチだけ前に進めば良いだけの事を明石は知っていた。耳たぶにピアスの穴を開ける時と同じだ。ああだこうだと考える必要なんて本当は無くて、ただ何も考えずにピアッサーを閉じればいいだけ。


 5秒前の覚悟を信じるだけで良い。


 今の自分は、僕に従うだけの僕なのだ。


 目の前を電車が通り過ぎようとしていた時、明石は身を投げ出した。


 電車と接触する少しの間、明石にはホームに並んだ人々の様子が見えた。大勢の人々が目の前で起ころうとしている出来事に理解が及ばず、間の抜けた表情で彼を見つめていた。明石が電車の利用者の数に執着した理由はこれだ。


 数秒後には彼等全員の脳裏に、八神明石の無残な死に様が永久的に刻み込まれ、決して忘れることのできない悪夢のような形で残り続ける事になる。


 ふと朝のニュース番組で人身事故のネタが取り上げられていた時、歴史の授業で偉人の死に触れた時、あるいは高級レストランでハンバーグをトレーに乗せたウェイターが横切る時。そんな時、彼を思い出す。


 その事実が、明石にたまらない満足感を与えた。


 僕はここで死ぬ。


 それでも、この数百人の記憶の中には生き続けるのだ。


 左半身に僅かな衝撃を感じた瞬間、20年間続かれた記憶のフィルムは、警笛ブザーの音を最後に取り上げられた。


 ――ああ、開演カーテンコール

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陽と歓喜の輪にいざなわれて 八柳 心傍 @yatsunagikoyori

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