第3話 独白

 灯りが際立つ夜だった。


 イルミネーションやネオンのきらめきが、そこかしこに跳ねて回って万華鏡のように煌びやかだ。ぽつぽつと水玉模様に咲いた光の花々は、アスファルトやコンクリートから雪花石膏アラバスタへと生まれ変わった街並みを気ままに彩ってみせた。


 サンタの恰好をした売り子が店の前で宣伝をしていたり、小さなベンチの前で若いカップルが恥じらっているのが見えるし、くたびれた会社員が電話機に向かって誰かに嬉しそうに話しかけているのが聞こえた。


 街の雰囲気は普段と比べものにならないくらい幸福に満ちているような気がする。


 普段は煩わしいネオン街が、一種の芸術に見えてしまう程には気分良く盲目的になれる。いっそ薬物のような物だとすら言っていい。しかし、その実、道を往来する人々の表情の明暗はくっきりと分かれていた。


 幸せな者がいれば、不幸な者がいる。ただ周囲のムードに巻き込まれて、ちょっとだけ目立たなくなっているだけで。


 ふと明石はこう思った。今、自分はどんな顔をしているのだろうと。幸せそうに見えるか、不幸そうに見えるか。きっとどちらとも違う。櫻井に感想を求めれば彼女はきっとこう言うだろう。


 つまらなそうな顔をしている。


 ――We Wish You a Merry Christmas.


 クリスマスキャロルの歌声だ。


 明石は静かな足取りで目的地へと向かっていたが、その曲に黙って耳を澄ませているうちに何とも言い難い感情が湧き上がってきた。いや、その表現はニュアンスが少し異なるのかもしれない。それは、ずっと昔から彼と歩幅を揃えてそこにあったのだ。


 その虫とも獣ともつかない不細工な存在が、今まさに四肢を軋ませる音が聞こえた。


 その音は人の声色によく似ている。


「ああ、浅ましい」


 ◇


 明石の父、八神立明ねりがみたつあきは性根から腐った人間ではなかった。


 幼い明石が娯楽を求めれば同じように遊んでやったし、空腹を訴えれば美味しい料理を作ってやり、病気に罹れば仕事より優先して看病もした。


 容姿も優れ、能力に富んでいた父は一見して素晴らしい為人ひととなりであった。


 そう、愛情深い男でもあったのだ。


 極度の女好き。父の深刻な欠点はその一点。 


 彼は長期的な出張を繰り返しては、毎度違う女性を連れてくるのが常だった。そのうちの1人が明石の母である。名前はもう記憶から掠れて消えてしまっていた。というのも、明石の中でそれはあまり価値のない情報だったからだ。


 ――しかし、彼は1つだけ覚えている。忘れられないでいる。


 目と鼻の先でぼうっとしている醜い女の顔を。


 子供ながらに物心ついた瞬間から脳裏へとしつこく焼き付いたその場面が、彼をずいぶんと長いこと苦しめ続けていた。


 艶のない黒髪と、亡者のごとき黒瞳はその母から遺伝したものだ。


 鏡で自分の虚像と視線が合う度に、明石は向こう側の自分を何故刺し殺してやれないのかと何度も苦悩した事もあった。そして、震えたナイフの切っ先が自分の喉元を撫でながら地面へと落下する度に、彼は己の弱さと浅ましさに絶望するのだ。


 父は、髪も瞳も明るい赤色をしていた。


 容姿が父寄りであることが唯一の救いである。


 高身長、筋肉質、端正な顔立ちというのは仕事上で何かと便利な物だった。しかし、そう認めざる負えないことを彼は業腹に思っているようだが。


 厳しい環境で育った彼の背格好はまるで紳士を思わせる。


 若い年齢を感じさせない鋭い目元、きつく横一文字に閉じられた口、それら全てが恐ろしく硬派な雰囲気を感じさせて止まない。


 ある時、父は明石に笑顔を向けて言ったことがある。


「――ちゃんは、子供が5人もいるんだってさ」

「ふうん」と明石は返した。父に目もくれず背中を向けたまま、彼はそう返事をした。


 向こう側の壁を穴が開くほどに凝視していた彼の瞳は、確かに怨嗟の炎が渦巻いていたに違いない。本来、真黒な色であるはずの瞳が、血のような赤色に見えてしまう程に。


「息子1人愛せない親が、ガキ5人も愛せるものか」


 明石は心の中でわらった。


 果たして、嗤われることになったのは彼の方だった。


 家を出た父は、二度と帰ることはなかったのだから。


 世間から汎用的に与えられる「望まれずに産まれてくる子などいない」という美辞麗句が、明石にとって絶対的な保障でないと思い知らされた瞬間だった。だが、それは序の口に過ぎなかった。


 7歳の朝、突然、家が差し押さえに遭ったことが全ての始まりである。


 流れ作業の内に明石は住む場所を失った。身分証も何もなかった。


 わけも分からず、市役所の者が自分を孤児院に放り込もうとする手から必死に逃がれ、東京都の人通りの少ない裏路地に辿り着いた。そこで明石は柄の悪い大人達に拾われたのだ。


 ……外国では割とメジャーな手口だが、日本ではそうそう無い手口。


 簡単に言えば、明石は生活を保障される代わりに、薬物を運搬する道具となった。


 例えば人通りの多い東京の路傍。可愛らしい服装で、胸元に人気なマスコットでもあしらわれていると良いだろう。顔も体も綺麗に磨かれて、不潔な吹き出物が1つもない。そんな育ちの良さそうな子供が大人を連れてにっこりと笑っていても、まず薬物取引をしているだなんて思われやしない。


 殴られてサンドバッグにされれば氷で痣を隠されたし、まだ幼くて可愛げのあった12歳の頃には男娼として売られたこともあった。それでも餌を貰えるのなら彼は喜んでやった。しかし、いつしか心の底で沸々と煮えくり返っていたものが明石を変えたのだ。


」という言葉が――虫が、卵からかえった日があった。


 ロクに本を読んだわけでもなし、映画を嗜む余裕もなかったのに、彼は心の中でぽつぽつと浮かんでいた感情を繋ぎ合わせるだけで、子供が正常に迎えるべき人格の形成を終えてしまったのだ。


 それから、思い付く限りのあらゆる非道に手を伸ばした。


 雇われていた薬物売買グループに紐づく組織のリストを密かに複製することから始まり、生きる金と幸福を得る為だけにグループの内部を貪っては、後始末と言わんばかりに警察による摘発を促した。だから、もう天国に行ける望みが無い事くらいは十分に承知していたのだが、どういう訳なのか、雨の中で力尽きていたところを例の図書館の管理人に救われた事が転機となった。


 明石は「警察に通報してくれてもいい」と言ったが、彼女がそうする事はなかった。


 人の温かさに触れた。


 あの冷たい雨の中で、抱きかかえられた時の暖かさを彼が忘れる事は無いだろう。だが、彼の本質は今でも変わらない。


 多くの不完全な感情の未熟児が互いを求め合い、フランケンシュタインの怪物のごとく世に生まれ落ちたのが八神明石という男だった。


 さて、ウォルトンは物語の顛末を聞き届けた。


 息絶えた博士の元に現れた怪物は「復讐は遂げられた。最期に、私はこの身を焼いてこの世から去るつもりだ」と言い残して立ち去るのだ。


 これは道すがら、聖なるクリスマスの前夜の出来事だ。

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