第2話 私を食べて、私を飲んで

 一通りの処理を済ませた明石は、カーディガンに染みた煙草の臭いを落とし、軽く身なりを整えてから予定の場所におもむいた。


 白を基調としたインテリアの高級感には厭味いやみが無く、生成きなり色な唐草模様のカーペットはそれらの雰囲気に溶け込んでいた。1951年、昭和26年に開店した老舗ながら、それは確固たる現実味と実感をもって、今この瞬間、彼らにふるき日本の何たるかを象徴しているようだった。


 縦長窓から差す陽光を追えば、東京駅前の午前10時の姿を目にする事ができるだろう。


 眼下では丸野駅前広場の大規模整備が淡々と進まれている。それを取り囲む樹脂製プラスチックフェンスの外縁で冬服を着込んだ人々が往来していた。蜂のように群がったタクシーは一向に減る様子が無い。だが、それにしたって店内は驚くほどの静閑せいかんさに満ちていた。


「ねえ、明石」


 相席のがフレンチを食べる手を止めて明石を見た。


 その目は、まるでパルスオキシメーターが映し出す脈拍から微かな異変サインを察知した看護師のようだった。なので、やはり、その明石の妙な機微について訊ねていかないわけがなかったのだ。


「ぼうっとしてる。何か考え事でも?」

「別に」明石は素っ気なく返した。


 冬特有の澄んだ空気が、明石は好きだった。


 春は優しい淡色、夏は明るい水色、秋は大人びた枯葉色、冬は清純な白、日本人にとって大凡おおよそ季節の印象といったらそんな程度だろうか。例を挙げたらキリがないし、季節に対する印象は人によって千差万別だが、とりわけ彼にとって冬とは透明・・・・・であった。


 そして透明とは、まさに彼女の色であった。


 櫻井さくらい


 それが彼女の名であり、昼間、違法カジノの看板ポールダンサーとして素晴らしいパフォーマンスを披露した女性の人である。


「良いショーだった。客は皆、君にゾッコンだったと思う」


 肌は白くあでやかに、緻密に手入れをされた肢体には吹き出物の1つすら見られない。背丈は183センチの明石より一回り小柄なくらいで、都会の雑踏で風を切って歩く姿は撮影中の女優のように凛としていた。しかし、ここで如何いかに櫻井の整った容姿について語るよりかは、ず彼女の青い瞳・・・について触れるほうが肝要であるかもしれない。


 しばしば芸術家たちは人間の瞳を宝石や空模様にたとえたがるが、もしも櫻井という人物を目の当たりにした時、彼らの心からは、己の表現力の何もかもがとろけ落ちてしまうに違いなかった。それは妙に完成され尽くされていて、とても言葉には出来なかったからだ。


 あの瞳に正面から射抜かれると、明石自身が知り得ない別の自分を暴き出されているかのような錯覚に陥いることが稀にある。彼はその感覚が嫌いではなかった。


 櫻井の顔だちは明らかにアジア人のモンゴロイドを模していたが、ふと彼女の横顔を見た時、実は何処か遠い国の生まれなのではないかと思うことがある。


 以前から、櫻井は、その目を単なる隔世遺伝だと語っていた。


 そうなのだろう、彼女がそう言うのなら。


「貴方はどうなの。惚れたかしら、私に」


 これが櫻井という女だ。


 3つも年上の彼女は、仕事中でなければ四六時中で明石を口説き回した。


 この口説き癖は出会った当時から何一つさえ変わらない。とはいえ耳障りな猫撫で声を発するわけでもなく、男に媚びへつらうような真似をするわけでもなく、そういった自らの品を貶めるような所作は櫻井のする事ではなかった。


 何気ない言葉の節々に甘い罠を張り、ふとした拍子に心の距離を詰めてくるのが彼女だ。


 赤く焼けたセミロングの一房が耳に掛けられる。


 露わになった綺麗な顎のラインへと目は当たり前のように吸い込まれて、どうにもそれを指先でなぞりたい衝動に駆られた。


 くいっと傾いたカクテルグラスの酒は、見覚えのあるフラミンゴ色。冷えたグラスに唇が押し当てられて形が変わるのを、それが見えないように彼は視線を静かに外して言った。


「トマトジュースの味はお気に召したかな」

「――あら、またいつの間に。さっきのウェイターの子にもお手付きしたの?」彼女は面白がるようにくすりと笑った。


「止めても聞かないから。今から君に酒を飲ますと映画のチケットも何もかもオジャンだ」

「昼からホテルデートってのも乙だと思うけど」

「毎度の話なのに乙も何も無いな」


 明石の指先がトントンとテーブルを叩く。


 その音は心臓の鼓動のようで、彼も知らぬ間にそれは早鐘をくみたく早まっていた。


「何か急いでるみたい」そう櫻井が言うと、明石の指の動きがぴたりと止まって、その緩やかな拍動は彼の胸元へと取り戻されていった。


「いや何も。腕時計を忘れたから落ち着かないのかもしれない。今日は色々とスケジュールを詰め込み過ぎた」


 会計を済ませる時、他人のスマートフォンを提示するのは意外にも晴々した気分だった。


 言葉にするのも憚られるような悪行を働いた男の金、何人もの少女の苦痛に満たされた不幸の紙幣、それを懲悪ちょうあくの末に湯水の如く使うのが快かった。胸のすく思いだった。しかし、悪人が悪人を懲らしめたところで結局、共食いのような見苦しさだけが世に残るだけだった。からすのような百足むかでのような、きたならしさだけが世に残るだけだった。


 エレベーターの中、二人きりの短い一時。


 櫻井がぽつりと一言。


「さっきの質問だけど……」


 それを言い終える前に、櫻井はシットリした唇を明石に近付けた。不意を突いて襲い掛かってきたキスに、明石は反応できず無力に唇を奪われた。獲物を捕まえたとばかりに一旦唇を遠ざけて熱い吐息を漏らすと、一転、ゆったりとした静かなキスに切り替えて、互いの唇が柔らかく触れ合う感触を脳髄に深くふかく焼き付けるようにした。けれども、それでいて非常に上品なキスだったので、燻るようなモドカシサが募っていく。


 エレベーターの鉄箱が上から下に堕ちていく浮遊感。


 異なる体温と鼓動。


「どんな味だと思う?」と櫻井。


 明石は腹立たしそうに櫻井を見た。


「憎たらしい奴だ。ずっとこれを言わせたくて堪らなかったんだろ」そう言って彼女の胸元に手を添えて距離を取る。「僕が女嫌いだと知ってて口説き続ける不屈の精神には感心するよ。この受難を世界中のオーディエンスに分かち合えたらゴールデンラズベリー賞間違い無しだ」


「アハ。やけに饒舌じゃない。照れてるの?」

「店員がオーダーミスしたとは考えにくいけど」

「カクテル一杯で酔うほど弱くないし」


 エレベーターが1階に到着する。分厚い鋼の引戸が開かれて、吹き込んでくる冬の乾いた風。暖かな血が血管を通って体を循環するように、冷たい空気が喉を通じて肺に届く感覚が、今を生きているのだというたしかな実感を晒し上げた。


 そこでふと、櫻井が使っている香水の匂いに気が付いた。


 ジャスミンとさくらんぼの薄い香水だ。


「へえ。面白い香水だなあ」

「ええ、今更? ずっと前からこの香水使ってるんだけど」

「おっと、全然気付かなかった」

「サイテー」

「素敵な香りじゃないか」

「機嫌取ろうとしてもダメでーす」

「あらら、参ったな」


 ◇


 背に当たる書架の硬い感触に気が付いて、明石は徐々に目を覚ました。慣れ親しんだ埃の匂い。古びた図書の甘い香り。此処は都内にある規模の小さな図書館だ。本の詰まった大きな書架がいくつもあるのに利用者が滅多にいないので、こうして本棚に挟まれるように寝ていても人目にすら付かなかった。立地の問題なのだろうが、管理人は気にしていないらしい。


 15歳の頃から明石の寝床はずっとここだった。


 壁時計は午後8時24分を指している。


 体に重たく染み込んだ倦怠感が、今日という一日の充実感を物語っていた。


「お目覚めですか」


 誰の声かはすぐに分かった。


 軋むような体の痛みに顔を顰めながらその人物のほうを向くと、そこにはやはり彼女が立っていた。件の管理人だ。櫻井とは対照的な、これと言って特徴のない女性だった。そして、彼の保護者のような存在でもあった。


 かれこれ3年間も、行く宛てのない明石に居場所を貸し与えてくれている。


 徐々に意識がはっきりとしてくると、体に掛けられている暖かなカーディガンに気が付くだろう。管理人は人が好さそうな笑顔でにっこりと笑うのだ。


 正面の壁には大きなスタンドミラーがあって、明石は夜寝る前から次起きるまでに自分をこの鏡に映し続ける事になる。今も、彼の姿は鏡に映っている。


 シャツから覗いた浅黒い肌の腕は、長年の力仕事の影響で筋肉質になっていた。太い血管がドクドクと脈打っているのが微かに感じられ、今この瞬間にも自分は生きさらばえているのだという事実を実感する。


 鏡越しの虚像と目が合った。


 マッシュ風の無造作な黒髪の隙間から、鋭い眼光を秘めた目が明石を見つめる。――真黒な瞳だ。母譲りの瞳孔の開いた死人のような瞳。


 明石はこの目が心底嫌いだった。その忌まわしい視線から逃れるように、彼は立ち上がって管理人へと向き直った。


「おはようございます。明石さん」

「もう夜中ですよ。こんばんは、管理人のお姉さん」


 和やかな雰囲気が心地良い。


 平和、心の安寧、帰るべき場所。


 この図書館は明石にとってそういう空間だった。しかし、それらは甘美な響きを持つ単語である一方、彼の原理を大いに揺さぶるような危険な代物であった。


 管理人は何かを思い出したような表情を浮かべてから困ったように言った。


「数分前に大柄な男性が明石さんを訪ねてきたのですが、怖い人かなと思ってお引き取り願いました」

「起こしてくれれば良かったのに。何事もありませんでしたか。怖かったでしょう」

「いいえ、何とも。缶珈琲を握らせて早々に追い出しましたから。もちろんブラックですが」


 本当に何事もなかったのだろう。


 普段と何ら変わらない、子供のように無邪気な笑顔で応えた。


 いつも笑顔ばかり振り撒いている彼女だが、今夜はいつにも増して機嫌が良さそうに見られた。


「今夜はクリスマスイヴですね」

「ええ、そうですね」


 簡潔にそう返すと、彼女は一転して不貞腐れた表情になった。何をどう言葉の選び方を誤ってしまったのか分からずに彼は困惑したが、その理由はすぐに彼女の口から明かされる事になる。


「覚えていませんか。貴方の誕生日ですよ」


 2016年12月24日土曜日。


 クリスマスイヴの今夜は、明石が18歳を迎える記念日だ。


 呆気に取られた彼を見て、管理人はまた少し笑いを零す。彼女は一歩前に踏み出て明石の事を見上げると、1つの缶珈琲を差し出した。


「ハッピーバースデー」


 咄嗟の事で言葉が上手く紡げない。


 受け取ったそれはまだ少し暖かかった。


「心配されなくても砂糖入りですよ。甘々です」

「前に言いませんでしたっけ。僕はブラック派なんですよ」

「あら、てっきりそっちの方が好みかと」


 明石には珈琲を飲まずに冷ましてしまう癖があった。


 冷めた砂糖入り珈琲というのは中々に不味いもので、どうせ冷えてしまうのなら黒珈琲の方が都合が良いと考えた彼は、それを飲んでいるうちにコーヒーシュガーの入ったものは飲めなくなってしまったのだ。


 あの中途半端な甘さは、脳髄に直接ヤスリをかけているようで耐え難い。しかし、この人物のプレゼントというのであれば明石は受け取らずにはいられなかった。


「では、次の機会には、悪魔のように熱い黒珈琲を差し上げますね」と彼女は言った。

「構いませんよ。その珈琲なら冷めることはないでしょうから」

「それは、またどうしてでしょう」


 本当に何も分かっていないような不思議そうな顔でこちらを見つめるものだから、明石はおかしくて少し笑ってしまった。彼は、この女性のこういうところが好きだ。


「誕生日プレゼントをありがとう。今夜はきっと良い事がある」そう言ってはぐらかす。


 クリスマスイヴの寒空の下を歩いても平気でいられるようにカーディガンを羽織る。そして、貰った缶珈琲をポケットの深いところへと突っ込んだ。


 心配性な彼女は当たり前のように今夜寝泊まりする場所について触れたが、明石は適当に近場のホテルだと答えた。


 出口まで見送られてようやく一人きりになった彼は、目的の場所へと向かうべく淡々と都会の通りに足を運んだ。

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