陽と歓喜の輪にいざなわれて

八柳 心傍

プロローグ

第1話 スプモーニの悪魔

 彼がそうしたから始まった。


 お手元の小説を紐解かれる前に、上記12文字をあらかじめご承知おきください。この言葉を覚えているか否かによって、これより明かされる本筋ストーリーの全貌は、全く異なった表情を見せる事でしょう。さながら19世紀イギリスに生まれたエドワード・モードレイクの都市伝説のように。 


 そして、筆者である私から、もう1つだけがございます。今、貴方が手にしている物を、余す事なく楽しむために必要な事です。きっと、この小説をお読みくださる貴方は、空想小説ファンタジーを読むにあたり、かなり目が肥えた御方に違いありません。しかし、誠に恐縮なのですが、今までに培ってきた空想小説ファンタジーにおける予定調和テンプレート、用語、生物の学術的名称は、一旦、脳ミソの中からシャットアウトしてください。


 市販の石鹸を泡立てて、ぬるま湯に浸しながら、優しく脳ミソを揉み洗いしてください。ほら、段々とピンク色の唐草からくさ模様が見えてきて、貴方は、これから知る事になる「空想小説ファンタジー」をありのままに受け止める準備が出来るはずです。


 ――2016年12月24日土曜日。


 50年代後半のクラシック・ジャズの序奏が、スネアドラムから弾き出される。遅れて登場したトランペットの、恋人の指に絡まるような演奏が、客同士の会話、あるいは煽情的なポールダンサーのバッググラウンドを飾る。


 シガレットと安酒の混ざった独特な甘い香り。


 店内はおおよそ男性ばかりであり、飲酒コーナーや、きわどいパフォーマンス鑑賞、賭博などに各々が入り浸っている。


 表向きは公序良俗に則したキャバレーとされているが、東京都の足裏にヒッソリと営まれた此処は、紛う事なき違法カジノであった。ギャンブル依存症のクズと、とりわけアルコール依存症の中でもクズの部類と、それ以外の何者かが、まるで自分を正常なのだと勘違いできる場所。此処は安寧の地。そうでない者が常識人のガワを被り、常識人を劣等人種ウンターメンシュのように差別する場所である。


 潜在せんざい的、顕在けんざい的な悪人どもが、ワラワラと群れを成し、自分がタールで薄汚れたカラスである事を知り抜きながらも、私は高等なフラミンゴであると素面シラフで主張する。しかし彼だけは、自分がそうである事を承知した上で、それを否定することが無かった。


 壁沿いに埋まったバーの客席に、カジュアルな風貌の男性がいる。


 灰色のシャツと、濡羽ぬれば色のカーディガンを羽織ったその姿は、彼を、凝然ジッと獲物を待ち伏せるカラスのように見せた。これで何度目か、彼は黒デニムに付着したくずを払いながら、ブーツの泥ねを神経質そうにチェックしている。羽繕いでもしているように。


「よう、明石あかし。元気にしてた?」店側のワインセラーから顔を覗かせたバーテンダーの女が、客席の彼をそう呼んだ。


 八神明石ねりがみあかし。それが男の本名だった。


 彼がその名前を嫌うのにはいくつか理由あるが、例えば、「何故、貴方は自分の名を嫌うのか」といった質問を問い掛けるとしよう。そんな時、彼はやはり表情を崩さず、定型文テンプレートをなぞって読むように答えるのだ。


「信仰と救済が順接的な結びつきを持っているのなら、僕はこれまでの人生で何度、神に救われてやる機会を与えたのだろう。その失望の数こそが、この世に神などいないという確固たる証明になるのではないだろうか。しかしながら、人間が神を信じ愛そうとも、僕だけは神の御尊顔に唾を吐き捨てることだろう。神は僕に愛される機会を失ったのだ」


 約50年前にポーランドのゲルダ・ヴァイスマン・クライン氏が著した『All but my life』から文章を引用すると『もし神がいるのなら、私に許しを乞わねばならぬ』という言葉がある。八神明石の人柄を一言で表せという問題があるのなら、まさにこの引用こそが最適解だった。


「スプモーニ」何気ない調子で彼がそう言うと、女は冗談めかしてそれを咎めた。

「『未成年だからアルコールはよせ』って言ったの君でしょう」

「日をまたげば20歳。1日、2日程度対して変わりないでしょう?」

「ダメです」

「髪型変えたんですね。そっちの方が僕は好きだなあ」

おだててもダーメ」カラカラと女が笑うので明石も同調するように笑ったけれど、コツンと冷えた物音がそれを中断した。彼が置いた小さな瓶を見るなり、女の表情にピリッと緊張が走った。その変わり様は、まるで通りすがりの公衆電話から、出し抜けに不気味なメロディが流れるのを耳にしたようだった。


 小瓶の中は無色透明で、少し振ってみると中身がトロリと揺蕩たゆたう。一頻ひとしきりその液体を見つめた彼女は、明石の方に視線を戻してこのように訊ねた。


、どっちが狙いなの」

「飢えてるように見えた?」


 そう訊き返した彼の言葉は、不貞腐れたように不満げにした。心外とでも言いたげな表情をしている。テーブルの上を指先でいじくる明石は、トントンとを叩いて示した。


「六割じゃなきゃ……」


 彼女は即座に言い返そうとしたけれども、しかし、その拍子に明石の黒い目の球がギョロリと動くのが見えて、直ぐに口ごもってしまった。それは妙に気味が悪く感じられた。そして、今まで視線を絡めていた彼女には――いくらか付き合いのある彼女には、その眼球の動きが意味するところに覚えがあったので、苦い笑みを浮かべつつ何かをひた隠しにするように顔を背けた。


「その襟の内側、かなり汚れてるよね。君が湯浴ゆあみを欠かさない事を、僕は、君の彼氏よりも知ってる。その調子だと、週三のバイト以外に休日まで詰めたんだろう。……マニキュアを塗ってるから目立たないけれど、人差指ひとさしゆびの爪だけ不自然な形をしてるように見える。他の爪なんか少し割れてるみたい。……ああ、という事はつまりアッチの処理も出来てないわけだ」


 彼女はまた少し見悶えた。


「にしては、どうも、君の歩く時の歩幅から推察するに男の数は足りてるようじゃないか。それは君の――リップクリームを塗りたくっているにしても――酷いくらいにカサカサにささくれた唇と関係があるんだろうね。前にも言わなかったっけ。ソープで働くなら30代後半の会社勤めが通うところを狙えってさ。若い奴のセックスなんて大抵は過信か独り善がりなんだから。……さて、本当ならここいらでウィットに富んだセリフでも言えれば上出来なんだけれど、ありきたりな言葉選びをさせてもらうよ。……彼氏ンのポストに写真をぶち込まれたくなかったら条件を呑め」


 スーッと彼が指を差した。それが自分の背後うしろを示している事を知ったのと、ワインセラーの隙間に1枚の写真が挟まっている事を視認したのは同時だった。


「いつの間に……」彼女は愕然とした。

「ごめん。今日はちょっと遊ぶからさ」

「……ああ、そっか。例の彼女・・・・?」

「別に。ただの仕事仲間だよ」そう、ぶっきらぼうに吐き捨てた。


 カジノの内装はお世辞にも高級感があるとは言えなかった。如何いかにもなネオン管や、モダンな雰囲気を醸し出したそうな暖色ライト、1920年代アメリカのクールな泥臭さを伝えるインテリア。カジノというよりは、パブという言葉の方が似つかわしい。洋画で見るようなラスベガス・カジノを期待して入店すれば、その誰かは想像と現実のギャップによって殺されるのだろう。可愛く着飾った女をナンパした晩に、いざ妄想を膨らませてフルーツを剥いてみれば、鶏の脳ミソほどもない果肉がこぼれ出てくるようなものだ。


 なら彼女・・はどうだろうか。


 櫻井・・という女なら。


 あの中央のポールに肉体を這わせて、蠱惑的に男どもを魅了するあのポールダンサーは、他とは違う。彼女の辞書に、期待外れの文字は存在し得ない。裏表の有無に関わらず、彼女は裏の表情を隠そうとはしなかったからだ。そういう点で、あの女性は八神明石とよく似た性質を持っているのかもしれない。


「綺麗だ」彼の目は、少し眠たそうにまぶたが降りていた。


 クラシック・ジャズに適したスロウテンポなパフォーマンスが、あの女性の鱗粉を観客全体に振り撒くようだった。切れ目スリットの入った黒いドレスから時々覗くあの引き締まった肢体は、そうあるべきとされた人体の理想像のように美しい。ポールを握った腕にはだらしない贅肉が1つも見当たらず、むしろ力強ささえ感じさせる。


 そんな彼の陶酔の一時ひとときは、耳元で弾けたリップ音のせいで邪魔をされてしまった。


「これで1割分もらいって事で。スプモーニ、ご注文承りました」

「うん。頼むよ」


 バーテンダーが準備に取り掛かるのを愛想良く見送ってから、耳たぶをゴシゴシと鬱陶しそうに揉んだ。それは苦虫を噛み潰したような表情だった。


 目当ての客が来店したのは、それから1分と経たぬ頃だった。場違いにもビジネススーツで入店した中年の男は、ソロソロと怯えたように客と客の間を縫い、待ち合わせ場所のカウンター席までやって来た。視線が右往左往と迷いながらもようやく明石の柔和な笑顔を見つけた彼は、心底安堵あんどしたようだった。


「初めまして。先日、商品を注文させて頂いた――と申します」男が社会人らしい振る舞いで腰を折ってお辞儀する。


「電話で担当した水瀬・・と申します。本日は当サービスのご利用、誠にありがとうございます」


 そう言葉を述べながら、彼をどん臭い男だと思った。


 握手を求める意志表示に気が付かなかったのだろう。男はパチクリと目をしばたたかせて明石の手を見つめ、はっとしたようにそれを握り返す。アルコール依存症のせいか、彼の手は小刻みに震えていた。


 薬指にはダイヤモンドのあしらわれた結婚指輪が嵌められている。しかし、その爪には白斑が浮いており、酷い凹凸がよく見て取れる。


 畜生腹の肥満体形の割には、バランスの良い栄養管理が行き届いていないらしい。


 それに加えて、乱れたネクタイの裏側ではシャツのボタンが1つ千切れかかっているし、スーツのアイロン掛けも十分では無いようだ。これらの事から、夫婦仲は円満ではないと推察できる。きっと下半身の事情もレスに違いない。


 バーテンダーが戻って来た。


 手始めに数個の氷をグラスに落とし、メジャー・カップで測った赤い酒カンパリを優雅に注がれ、続いてグレープジュースの酸味を絡めた。ガーネットの色から徐々に優しいフラミンゴの色へと変貌していく。仕上げにスプーンで軽くかき混ぜれば、彼女は「ご注文の品です」と言ってそれを差し出した。


「スプモーニを召し上がられた経験は?」明石が訊ねた。

「いえ、一度も」

「カンパリは薬草アマロ系のリキュールなので苦味が強いのですが、一度ハマったら癖になりますよ。きっとお気に召すかと思います」


 グラスに触れるか触れないかという寸前で男は手を止めた。


 戸惑ったような、こちらの顔色を窺うような表情を向ける。


 アルコール依存症の彼にとって、他人の金で奢られた酒を我慢する苦痛といったらどの程度のものなのだろうか。女がブラジャーのホックを外す数秒間とでも言うべきか。しかし、意外にも男の理性が利口に働いた事が分かって、明石は驚いたようだった。


「緊張してるんですか?」揶揄うように男に言った。

「いえ、そんなことは……」

「それなら」グラスを取り上げた明石は、躊躇ためらうことなくスプモーニに口を付けて、その数ミリを彼に披露するように飲んで見せた。毒なんて入っていない。映画でありがちな展開というか、それが返って男に心の余裕を与えたのか。ともかく、彼の目からは警戒の色が薄れていた。


「貴方は何か飲まれないのですか?」

「よろしいので?」明石が目を丸くして聞き返した。

「ええ、私は構いませんが」

「そうですか。すみません、僕はブラッディマリーを。目が覚めるようなやつが良い」


 そう言うや否や、カジノの中央で歓声が湧いた。

 例のポールダンサーが煽情的に足を曝け出したためだ。

 露出が低く、体のラインだけが浮き出て男の情欲を裏側からくすぐるようなセクシーな衣装から、突然露わになった白肌で肉付きの良い生足が客の視線を釘付けにした。それは明石の隣にいた男も例外ではない。夫婦間の夜のコミュニケーションが滞っている彼の目線を奪うのは容易だった。

 ポケットから手早く小瓶を取り出した明石は、器用にも片手でコルク栓を抜き、その液体を静かにスプモーニへと注ぐ。

 彼から目配せを貰ったバーテンダーは、スプーンをグラスへと差し込み、慣れた手付きで1度だけ回す。その間、実に5秒と掛からず、透明な悪魔はスプモーニの海へと姿をくらませた。


「大丈夫ですか?」男の顔を覗き込む。


 はたと我に返った男は、慌てて「失礼しました」と答え、妻以外の女に見惚れていた事を取り繕うように、スプモーニを勢いよくあおった。脇のバーテンダーから、小さく感心の声が漏れ出るのが聞こえる。


「良い飲みっぷりですね」思わず拍手した明石に男は少し照れたようだった。


「新人時代から上司の酒の席に付き合っていたんです。今は付き合わせる側ですが」

「それは結構。スプモーニのお味は如何でしたか?」

「話に聞いていた通りでした。とても苦味が強くて、風味も眩暈がしそうなくらい強烈です。ですが、驚くほど複雑な味わいでもあります。苦いだけでなく酸味もあり、どこか特別な甘さもある」


 男は詩人のようなクサい口調でスプモーニについて語った。そして、彼の口にする言葉が一方向を示さなくなったのもこの時からだった。男はやけに饒舌になり始め、段々と頬に赤みが差すのが見られた。

 しかし、興味もない話題を自らリードして掘り下げてゆく事ほど退屈な事はない。話が佳境に入った事を感じ取った明石は、話題の示す方向をアルコールから、足元にあるに移した。

 喉から手が出るほど欲しかった品物が、まさか足元で息を潜めているなどとは誰だって考えもしない。テーブルの裏側に沈殿したかげから、幽霊みたいに這い出してきたそれを見た男は、驚愕のあまりに声も無くおののいた。


「念のために確認させてほしい事が1つ」指を一本立てて、明石がじっくりと男の瞳を覗き込む。


「ご注文のサイズはスモール、ミディアム、ラージ?」


 一瞬答えに詰まったが、男はきっぱりと答えた。


「3グラムを5袋」

「そう、注文はつまびらかに。映画館シネマでポップコーンを頼むのとはワケが違うんだから」


 グラスを磨いて傍観していたバーテンダーからでも、明石のたたずまいに変化が表れた事を確かに感じ取れていた。

 その違和感がいつから生じたものかは、誰にも見当が付かなかったが。カーディガンのしわを直し、首を気持ち良さそうに回し、粒揃いの歯の隙間をチロリと舐めるその仕草を見て、彼女が得体の知れない気味の悪さを感じたのもまた事実だった。

 人間ではなく、まるで獣を見ているようだったのだ。

 彼は目を細めて言った。


「お支払いは?」

「銀行から振り込みます」


 スマートフォンを取り出して、待ち受け画面で暗証番号を開錠し、顔認証まで済ませた。金額を打ち込んでいると、唐突に明石が口を開いたのだった。


「ネットバンクで本当に助かった。実はちょっと心配だったんですよ。現金だとかさ張っちゃうので」


 バーテンダーの女性からブラッディマリーが差し出される。ついさっきまで人の体内を通っていたような赤色をしていて、グラスが人肌みたく冷たい汗を垂らした。


「それに外食の会計がワンタッチで済む」

「申し訳ない。貴方の言っている事が――」


 そこで言葉が途切れた。

 男の身体がぐらりと揺らぎ、椅子からずり落ちそうになる。

 明石は素早く男を抱き寄せて、内緒話をするみたいにシーッと指を唇に添えた。

 朦朧とした視線が自分に向くのを見て、彼は片方の口角をギチギチと歪め、白い歯を獰猛に剥き出しにした。それから、男の額に指先を突きつけ、先程まで紳士的な言葉遣いをしていた明石からは想像もできない、喉仏がフックで吊り上げられているような悦楽に満ちた声で喋りだしたのだ。


「デートレイプドラッグって言うんだけど」


 口角から涎を溢れさせながら、その言葉に男は瞳を揺らした。

 もはや言葉にすらならない嗄声させいには、ハッキリと怯えの色が感じ取れる。


「分かるよ、その気持ち。僕だって本当はオトコ相手にこんなクスリを盛るのは気が引けたんだ。ぶっちゃけ、キモいだろ?」


 カーディガンの内側の闇にジワジワと呑み込まれていくような、……鮮明な悪夢に沈んでいくような生々しい錯覚。囁くように頭から降り注がれるゆったりとした言葉は、夕暮れの深いの林の中で、顔のない怪物が発する甘い子守唄のようだった。


「別に責めるつもりはないよ。真っ当な社会人ぶってる癖に、裏じゃあ未成年ポルノをハメ撮りしてるクズ野郎でも、今度はちょっと趣向を変えてキメセクに挑戦しようとか同業者に意気込んでたりしててもさ」


 一体、いつから自分は目を付けられていたのか。


「良かったらビデオの参考にして。タイトルは……『自作ポルノを全身に貼り付けて出頭』なんて面白いと思うんだ。……ああ、ところで」


 ラストを遂げた50年代後半クラシックジャズの円盤から針がブツリと取り上げられる。

 その音を皮切りに重たい沈黙が流れ込むのと、男が意識を手放すのはほとんど同時だったが、それでも彼の頭にギリギリ残された一言は、人間が一生忘れることのできないおぞましさを孕んでいた。


 スプモーニのお味はいかが。

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