最終話 苦しいほどに冷たい
一時間ほどがあれから経過しただろうか。待っている間にいろいろと奇怪なことが起こった。居間とキッチンの間には磨りガラスの嵌められた扉があって、キッチンのその先に玄関があった。磨りガラス越しに少女等の影が忙しなく泳ぐのが見えたのだったが、ときおり玄関の開く音がして、次に少女等の、ありがとうございます、という言葉を聞いた。その一連の流れが幾度かあり、少女等が感謝の言葉を口にしたあと、キッチンで、置いていないはずの調理器具の音、それはミキサーの音であったりした、が耳に入ってくるのだった。生まれてこのかた嗅いだことのない甘く誘われるような香りまでしてくるではないか。
キッチンに入ってしまおうかとも思ったが、なぜだか、それを留める感情があった。入ってきてはいけないと、言われたわけではないけれど、自分はさきほどから頭の中に、鶴の恩返しの話があった。人外のものが、視覚的に隔たりがある場所で儀式的な行為を行っている間は、人間が侵入して遮ることは、許されないのだという認識が自分にはあった。だから、自分は少女等に呼ばれるまで居間にいることにした。
少し経って、少女等の声がした。くぐもってはいたが、入っても良いとのことらしい。今では部屋のどこにいても甘い匂いがするほどだった。把手に手をかけて引いた。
「おいっ、君たち大丈夫なのかっ」
目を疑った。そこには、腰から下や、肩から先を欠損している少女等がいた。キッチンの上にはイチゴのお菓子が見えた。少女等は自分の四肢を用いて、イチゴのお菓子を作ったのだ。どこから持ってきたのか、背の高い椅子に二人とも座っていた。
「君たちこれは、」
「見ての通りです。私たちの身体を使って料理しました。これなら食べてもらえるだろうと思って。さあ、早く食べてください」玄関側の少女が言った。
食べる。それが少女たち由来のものでなければ、朝からなにも食べていない食欲も手伝って、喜び食しただろう。しかし、目にした後では、少女たちのグロテスクな映像が虹彩から拭えない。
食べるか、食べまいか。長く悩んでいた。
「なにしてるんですか。早く食べて、急いでっ」手前側の少女の言葉は、ほとんど叫びに近かった。
少女等がなぜここまでして自分たちを食べて貰いたがっているのかは、幾ら考えても考え及ばなかった。だけれども、少女等の差し迫った雰囲気を汲んで、自分は少女等を食べることを渋々に決めた。
「分かった、分かったよ。食べるよ」
用意してあるフォークを握り、自分はタルトに腕を伸ばしたのだった。
少女等の四肢は不思議に、料理すると体積が減るようだった。少女の腕と足が、元の体積のままだったならば、半分もいかず胃の許容量を超過したのだろうが、自分はキッチンに置かれているお菓子を難なく食べ切れてしまった。一口目を飲み込むまで自分の胸中に蟠っていた拒絶感は、鼻腔を満たしたイチゴの香りと、舌に溶ける甘さに、所在を晦ましてしまった。
「美味しかった。ごちそうさま」
自分がそう言うと、玄関側に座っている少女がおもむろに数枚の重なった紙を取り出した。
「次のメニューを決めています。ですが私たちはこの通り腕や足を多く使いましたから、もう料理することが出来ません。そこで、ダチョウでも上手に作れるような分かり易いメニューをまとめておきましたので、あなたが作ってください」
少女は残っている腕を懸命に伸ばしてメニューを渡してきた。力んだ様子に、手前側の少女が手伝ってやれば良いのではないかと思ったが、手前側の少女を具に眺めて気が付いた。少女は両腕が残っていたが、左右の指が全て無くなっていたのだ。
「ちょっと待ってくれ、」
「あなたに待つ時間などありません」
手前の少女が自分の言葉を遮った。
「しかしその、つまりだな、僕が作るとなると、君たちを包丁で切り刻む必要が出てくるだろう。僕には出来ない。僕に殺人を犯せというのか」
「殺人なんかじゃありません。私たちはイチゴです。イチゴを食べることは罪にはあたらない」手前の少女が言う。
「理屈じゃ分かるが、理屈でこの世のすべてが割り切れるわけではないだろ」
少しの沈黙があった。少女は二人とも項垂れていた。
「私たちにもわからないんだっ」
いきなり、今まで冷静な態度を保っていた玄関側の少女が絶叫した。
「私たちにも、何がなんだかわからない。本来なら、あなたは通常の人間と同様に私たちがただの二粒のイチゴに見えるはずだった。だけどバグが生じた。そのバグがあなたを統制する回路のどの場所から生じているのかは私たちには一切分からない。私たちの担当ではないから」
少女は一度ここで言葉を区切った。しかしまだ言葉は続く様子で、それは彼女の細やかな肩の上下と、悲哀に歪んだ呼吸の拍から感じ取られた。手前側の少女は俯いたままであったが、両目は見開かれ、床を睨みつけていた。
「私たちはこのままだと消される。確実に。魂から抹消されてしまう。死より恐ろしい。消えたくない。消えたくないんだ…。だから、だからお願い。私たちを食べて。お願い。もう時間が迫っている」
言い切ると、少女たち二人は指のまるきり無くなった腕を絡ませ、片耳の失われた頭を凭れ合わせて泣いた。
少女たちの泣き声は、自分を意識の深い地点から責め立てた。少女等はこのままだと、死より恐ろしい、消滅という末路を辿る。思うに、少女等をここで切り刻んで調理しなくては、一生抱えることになる罪悪を心中に固めるだろう。少女たちを料理する必要性、行動に移す材料は惜しみなく揃っている。彼女らがそれを許可し求めているのだから。だが自分は、人間の社会に産まれ、常識を長い時間学んだ、普通の人間なのだ。少女等を殺すというのは、これまでの自分を否定するのと同義だった。鼓膜の奥、人の声を借りて自分を糾弾する社会常識の鳴りが、激しさを増した。自分の身体に縋りついて、一線を越えることを阻止する、人間としての自身の確立された自己が、暗い影となって見える気がした。たまらなく謝りたい気持ちが沸き起こった。すまない…。すまないっ。すまない…。
「お願いです。私たちを食べてください。ただ食べるだけで良いんです。私たちを救ってください」
「私のために」奥の少女が言った。
「私のために」手前の少女が言った。
いきなり、玄関の扉が強い力で叩かれた。
「食べろーっ。早くうぅっ。早く食べろーっ」
市川さんだ。市川さんが突き破るような勢いで扉を叩いているのだ。
「一体なんだっていうんだ。僕が何をしたっていうんだっ。もう許してくれっ。消えてくれっ。消滅でも何でもいいから、どこかに行ってくれっ」
自分は耳を塞ぎその場にしゃがみ込んだ。塞がれた耳の裏で、少女等の慟哭が反響し増幅した。目の前の現実が、昨日それ以前と変わらない、自分にとっての普通へ戻って欲しいと、強く冀った。少女等の声は、やがて自身の鼓動に徐々に掻き消されていった。鼓動の音は酷く不規則で、不快だった。自分はゆっくりと目を開けた。
少女等の姿が、無い。少女等が座っていた背の高い椅子も、キッチンの上の調理器具も、お菓子が盛られていた皿も、何もかもが忽然と姿を消していた。
玄関へと近づく。嵐が過ぎて、ぬかるむ荒野を歩いているように足元が覚束なかった。扉の覗き穴から外を確かめると、マンションのコンクリート塀が見えた。扉を強く叩いていた市川さんもいなくなっている。恐る恐る扉から出て、廊下を見渡した。廊下は昼間だというのに、不気味なほど静まり返っていた。
「市川さーん。いますかー。市川さーん」
扉に手を掛けて、周りを見渡しているとき、市川さんの部屋の違和感が目についた。扉の横に、表札が無いのだ。昨日まで掲げられていた市川の文字が、そこには無かった。
「わからない…」
風が吹いた。自分の部屋から、紙の巻き上がる音が聞こえた。それは、少女の一人から受け取ったメニューの紙だった。紙は風に運ばれて自分の足元へと落ち着いた。紙を拾う。そこには、私たちを救ってくれてありがとう、そう書いてあった。
「違う、違う、違うっ。僕は何もできなかった…」
また風が吹いた。背中を撫ぜた風は、苦しいほどに冷たいのだった。
少女等 山口夏人(やまぐちなつひと) @Abovousqueadmala
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