最終話

 ただ、今、鋭利なフォークの影が真っ直ぐに私に向かって突き立てられている。私はその影の真ん中を踏みながら、かろうじて、しかし確実に前へ足を進めているのに、アホである私は、自分の手に抱えてしまった、独りのアホの汗でつい持っていたペットボトルを滑らせそうになる。

 スマホを取り出して、いまここがどこなのかを地図で確認する。聞いたことのないビルの名前、通りの名前、店の名前が窮屈そうに並んでいる。左上には、真夏の外濠のような緑色のアイコン。彼氏をどこかへ置いてきたことを思い出す。心が急く。その指は私じゃないみたいに動く。

『ついたよ。いまどこ?』

『もうきてるの?』

『大丈夫?』

『事故とかじゃないよね?』

『遅れたこと、怒ってるの?』

『ほんとに大丈夫?』

『嫌いになっちゃったかな』

『ごめんなさい』

 もう一時間も前の言葉に、私は必死にすがりつく。

『まだ会える?』

 返事はない。五分待っても、十分待っても、それでも返事はない。何度も、何度も、何度も、アイコンの笑顔あふれる彼氏を強く叩く。

 街の流れを止める私の側に、もう一人おなじような生き物がいた。

 何かを強くねだったのだろうか、すぐそばでごねたのだろうか、あるいは言いつけを守らなかったのだろうか。両親は少女を突き放すかのように、少女も両親にはついてはいかずに、両親の小さくなる身体を、涙ながらに見つめている。

 おかあさん、おとうさん。

 黒い簾の睫毛の下の、青い青い瞳。そこからあふれる、涙。

「おとうさん、おかあさん、いなくなっちゃったの?」

 少女に触れる。その愛情の受け皿は一体どこへいったのだろう。

 私は少女の両手を、自分の両手で掴み、「みせて」と言う。

 少女は、私の手を必死にほどいて、おとうさんとおかあさんの元へ向かおうとする。その小さな力を確かに感じた。確かに、そこへ行くことが、正しい。しかし、その行為を許すことができない。

「大丈夫だよ、大丈夫」

 私はその身体を目いっぱいに抑え込んだ。柔らかな体温は、日向のにおい、砂場のにおい、つくりたての夕ご飯のにおい。

 少女の泣き声は勢いを増し、いよいよ悲鳴に変わった。行き交う人々の視線は、私に辛くあたる。

 私は少女の手を引き、人混みを縫う。私はどこか苛立ちをおぼえている。この手の先の、生ぬるさが、はっきりと悲鳴を伝えているからだ。この感覚を、私は知っている。私はこの少女だった。いつか自分が体験していた感覚に、ひどく酔ってしまっていくのを感じる。このまま歩みを続けることが、とても怠く思えてしまう。強くこの手を振り切って、このぬるさを放り投げることに成功できれば、私は絶対に生まれ変わることができるのに。

 おかあさぁぁぁん。

 思ったよりも、力強い少女の抵抗があった。少女のほうから、手を離されてしまった。宙を彷徨う私の手は、自分の腕しか掴めないでいる。

 少女は、私に対しては何も言うことなく、空に向かって叫び続ける。

 ただ叫び続ける。

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明日、蛾が蝶になる 西村たとえ @nishimura_tatoe

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