第5話

 遅い。秋葉原で正午に会う約束をした彼は、十五分経ってもこず、様子を確認するために送ったメッセージにも反応はない。何度か似た後姿を確認するも、みな背丈が彼にはとおく及ばない。興味本位で受け取ってみたメイド喫茶のチラシをみるのにも飽きた。北から南へ、南から北へ向かう人々の往来をどんよりと眺めていた。普段、生活をしている市ヶ谷や飯田橋、また故郷とも異なる顔をした人、人、人。街を変えると、こうも街の景色が変わる。私はいくつかの国々の国境にまたがっていて、いつでも、どこにでも行くことができる放浪者のようにも思えた。そんなときに、横断歩道の中に、彼の姿をみた。

 センセ!

 多くの顔、顔、顔の中からたやすくポップアウトしてきた。おや、隣には見知らぬ女性がいる。歳や格好はセンセと同じくらいだ。女性のほうは、触れるとも触れない距離感で、しかしなにやら親しげな様子である。きっと、センセの奥さんなのだろう。これは知らなかった。新しい情報である。きっと、センセは歳の離れた熟れた女性あるいは幼気な少女には見向きもせず、ただ学年が同じだった、たまたまそこにいた女性と、なるべくして恋におち、純に愛をはぐくみ学生結婚でもしたのだろう。

 二人は往来する人々を上手に避けながら、南へ南へとぐんと進んでいる。打ち付けられたコンパスのように、二人を見送ろうとするが、限界まで達してしまい、ついにはつま先を南へ向けた。二人の後姿は、時折揺れて、そのたびに奥さんはセンセの肩をぽんと叩いている。センセは短くて収まりきらない青いシャツをちまちまとズボンに突っ込んでいる。二人の隙間は、人一人程度は入りそうで、そこにこの身をねじ込みたくなる。その衝動を抑えて、赤信号で立ち止まる二人と適当な距離を置きつつ、私はそのあたりをうろうろした。

 なぜ私はセンセに惹かれるのだろう。いつしか、その大きな腕に巻かれたいと思うようになっていた。私の華奢な身体がその腕にうまく収まりそうだからか? その先のてのひらが私の頭に丁度よく乗っかりそうだからか? あるいは、どの将来を目指すにしても背中を押してもらえそうだからか?

 あまりにも信号が長く、どうしてもいられなかったので、かばんから例の教科書を取り出した。てのひらの汗が分泌される毎に柔らかな紙はそれを吸収する。読むつもりもないのに、適当なページを開く。それを繰り返す。どのページのどの言葉も役立ちそうにはない。

 ようやく二人が前に進み、さっきと同じように適当な距離を開けて、後をつけていく。この二人は今朝方から一緒でこのまま夜まで一緒にいるのだろうか。あるいは、センセの仕事の都合でそろそろ解散なのだろうか。いや、もしかすると今あったばかりで、これから二人は目的地へ向かうのか。そうなると、二人はどこへ向かうのか。私の倍以上を生きた大人の男女はどこで休日を消化するのか。

 ひたすら南下していた二人は、急に進路を変えて、右の角に消えた。私も角を曲がると、白色のビルのコンビニの前に二人は立ち止まっていて、ファストフードをくわえて出てきた美少女に奥さんは小さく手招きをした。今時、三つ編みをつくった顔かたちは決して生真面目だけというわけではなく、気品というものが有しているようにもみえた。その美少女の、目、鼻、口、顎、そのどれを切りとっても、奥さんの顔のお面みたいで、その顔が私のほうにちらりと向くか、向かないかぐらいのところで、私は咄嗟に日陰へ逃げた。

 確か、私はあの顔をみたことがある。

 三人は細い路地を抜け、大通りに出て、三越を過ぎ、日本橋を過ぎ、東京駅、銀座へと抜けていく。きっとどこかに予約してあるのであろうレストラン、或いは洋服の仕立屋、それか何か知らないが、私にはわからない世界の、そのどこかで、とにかく、三人がなんでもないような今日を過ごすのを想像する。

 その居場所。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る