第4話
大学図書館は試験期間が近づくといよいよ人があふれてきて、まるでこの学校の光景とは思えない異質な時間が流れている。例の教科書を、ぱらぱらとめくり、おおよそ知っている概念だらけになってしまったので、もはや専門科目は勉強しなくたってよいだろう。
しかし、私はページの隅にコラムを見つけ、いつか読んだ記憶はあるものの、記憶はその記憶でしかなく、その内容といったら全く覚えていなかった。
まだセンセに訊いていないところがあった!
ここは、ここには、確実に不明瞭な点がある。これは、絶対に質問しなければわからない。文章が非常に難解であり、意味が全くわからない。再び読み込んでみる。んん、なんのことやらやっぱりわからない。この厄介な概念は、次回の試験で必ず出題されるであろう。理由には十分足りえる。
そう思い立ち、外濠のにおいを感じながら、専攻のフロアまでのぼり、再びセンセの部屋を尋ねた。二日連続だが、大丈夫だろうか。そんなことを気にしながら、半ドアを叩く。返事はなく、そっと部屋の中を覗く。センセは深く突っ伏してテーブルにくの字になっていた。
センセを起こさないように、慎重に音を殺し、しかし心は生かしたまま、扉を内側から閉じた。部屋の侵入に、成功した。
私はちょうど先生の正面にくるように座った。はじめてみる、センセの閉じた姿。私はセンセの、長く太い眉毛をそっとなぞっていく。
いつか触れた、綿毛のような感触がする。あの綿毛のように、わずかな刺激で、簡単にとれてしまうだろうか。
私は小さく力を入れて、その綿毛を引き抜いてしまった。ふわふわと、空調で揺れている。息をふきかけたら、どこかへきっと飛んでいく。それをしてみたい、けれどしたくはない。
私はその綿毛でセンセの皺をなぞってみる。綿毛は容易くしおれて、何の肌の感触もなく終わる。私はついに人差し指を見つめて、それをセンセの肌に打ち付けた。反応はない。そこで、指を滑らせる。思った以上に引っかかっては砕ける。センセの顔を見つめる。ずっと閉じたままなのではないかと思う。この時間は永遠めいていると思う。
自宅へ戻ると、彼が既に待っていた。
彼は柔らかくベッドに倒れこみ、両手をお腹で組んだ。ベッドから、なみなみとした、滞留していた男性の気持ちがあふれ出てくる。その液体は私の足首からまとわりついていき、足首、腰、と侵食していく。
この部屋はいつも内側のようで、赤褐色の壁が脈をうっている。その優しいリズムを激しく聴くことで、こころは同期する。そのバランスが、急激に偏る時間がある。一度それが漏れ出すと、決壊したみたいにあふれ出して、止まらなくなる。そのたび、私はどうしていいのかわからなくなる。自分の身体じゃ塞ぎ切れないし、受け止めることもできない。小さくなった肩をさすりながら、そんなことを考える。
「ね」
ベッドの上の彼に手招きをされる。行かないと、と私は感じる。身を持ち上げて、彼の隣に倒れこむ。ずどん、という音がする。やっぱり、ちょっと今日は本当に眠いかも、と隣で呟く彼に少し安堵する。
彼の身体に埋まるようにくっついた。ここは暖かい。ここからどこへも行きたくはない。自分の身体が丸になってく、角が消えてく。私のコーヒーがテーブルの上で湯気をたてたままだ。起きるころには冷めてしまっているだろう。でもそのコーヒーは無駄じゃない。大学ロゴ入りのマグカップと、そうじゃないマグカップが、まるで私たちみたいに顔を合わせている。
しばらくすると、彼の寝息が聞こえてきた。いつも、すうすうと眠る彼の身体。実験続きで疲れているのだろう。半分かかっていた毛布を全て彼に預けて、私は丸くなって眠った。さっきよりもずっと暖かかった。
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