第3話

 わからないことがある。この理屈がわからなくて仕様がない。私は教科書を片手に、市ヶ谷のキャンパスに息を潜めるラウンジで、天井の高さを、ただ見つめていた。腕でくすんでいる時計をちらりと見る。

 まだ夕方、そう遅い時間ではない。センセはまだいるだろうな。

 そう思うと、つま先はくるりと真反対を向いて、しかし、伸びすぎた前髪が気になり、トイレの扉に手をかけた。季節は夏の終わり、それでも私の肌は白く、たとえ焼けようとも、すぐにその垢は剥がれて、真皮のきめ細やかさをあらわにする。右手で頬を擦りながら、この滑りの価値を、自らで消費してしまう。

 左手で鼻先に垂れた前髪を耳に丁寧にかける。生えた髪の潮流は、眉毛を通って、曲線を描き、私の横顔へ向かう。瞳に光がさして、いつもよりいっそう茶色い瞳になる。気がつけば、鏡の中の眼は、私のすべての資源を凝縮していた。簾の睫毛に護られて、高まる高揚感を、内に秘めている、その瞳。瞬きをいくつかして、もう一度みる。まだ、きちんと光がさしている。

 専攻のフロアは十階よりも上だというのに、夏の外濠の悪臭が、きちんと漂ってきて困り果てているのが、ここの教職員と学生の常である。

 ところが私は、そのにおいを嫌いになったことは一度もなく、むしろその夏の青さを感じてやまない。

 夏になるといっそう緑色になる外濠の面が固まった絵具になっているのと、においが併せてやってくる日には、なるほど今年の夏の天辺であると、毎年のように思う。もう、今年のにおいは、だんだんと感じられなくなっているのだが。

 外濠の側では、いつも通り学生や元学生らが集会をしており、何でもない学生や警備員がそれをちらりと見つめる、という朝から始まる希薄な関係が今日もまた終わろうとしている。今は彼らの、ヘルメットの黄色が丸、丸、丸が点在している。そのヘルメットが、夕日を浴びて特になんでもないものなっているのが僅かに確認できる。

 中指で、空いている木製のドアを強く叩いて、センセの様子を伺う。まだテレビを見ながら、サンドイッチを頬張っている。咀嚼音が控えめながらも部屋に響いていて、私はそのリズムにあわせて足を一歩一歩踏み込んだ。

「センセ」

 センセからは返事はない。まだ、画面をじっと見ている。

「あの、センセ」

「ああ、君か」

 ようやく私に気づき、食べかけのサンドイッチをビニル袋の上に置いた。「君か」の、「き」が高く上がっていて、センセの声だと内心ほっとする。センセは小さく手招きをして、そこへ、と指さして、私は応接用の椅子に腰かけた。センセはサンドイッチをもう一度齧ると、後はビニール袋へしまった。

「今日はなんやろう」

 笑顔とは決して認識できないが、全く迷惑そうではない表情に、心を許されているようで、私は両腕を前に突き出して手を組み、しばらく間をおいた。いくつか秒を数えて、センセ、と話をはじめる。

「127ページのコラムんとこの、これです、この内容がわかりません」

「みせてみ」

 センセはそういって、私の専攻の教科書を触り始める。開いているページは、センセが書いた文章がのびのびと広がっている。しかし、何やら難しく文体で書かれていて、私にとってはやや難しい。

 正直なところ、読み込むことはできるが、敢えて知らないままにここにきた。それを理解した上で、それを隠し通す自信は、生憎持ち合わせていない。

「これはね、……」

「はい」

 センセが内容を説明している。私一人のために、そういうことをしているのだ。

「これは前の授業で学んだやろう」

 教えた、と言わないセンセの、髪の白髪の数をかぞえる。

 きちんと、根元から白い。

「はい」

 センセ、こっちをみて、とセンセの頭皮をみながら、念じて、そしてまた念じる。

「こっちは――」

 センセの皺が、少しだけ、ほんの少しだけ、深くなる。私はうんと小さくなって、その隙間でぐうぐうと眠りたい。誰にも、この表情を変えさせないように、そこで守り飾られていたい。

 その後、教科書のまた別のコラムや、あとがきの部分に事細かに訊ね、センセの表情が変わるかどうかを、確認していく。しかし、一切顔は動かず、センセは彫られたままの姿で、私にきちんと対応をしていた。

「ありがとうございました。失礼します」

 言葉がかたいな、と思う。もちろん私の方の。

 理想でいえば、もっと自由に、言葉を豊かにして、話してみたい。それでも、今さっきの時間はぼんやりと私のこころを満たす。

 スマホがヴッと震えて、私は彼氏だとすぐにわかった。

『今日はどこにする?』

 彼の、その指先が、メッセージを素早く操作するのをイメージする。大学を中途退学してまで東京にやってきたその男の子は、いま芸能の活動をしていると言っていた。本当かどうかはわからない。確かにスタイルがよく、顔立ちも地元では群を抜いていた。しかし、彼のもつ空気は、「おかえり」と「ただいま」が持つような愛の土台で、恋の骨組みでない。

『飯田橋の、新しくできたオムライス屋とか』

 彼の、素早く打つ手をイメージして、食べたいものを素直に注文した。

 まもなく、彼から返事がきた。

『いいよ』

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