第2話

 アルバイト収入だけで生計をたて、授業料を払うというのは、結局無謀だった。入学前に立てていた学資計画は悉く潰されて、私はいま学生課の前でぼうっとしている。

 不幸中の幸いという奴だろうか、たまたまこんな中途の時期に奨学金の知らせが入り、私はこれしかないと決断した。奨学金と言っても、半分はローンのようなものだから、返す必要がある。まぁ、これを未来への投資だと考えて、いっそう勉学に励むしかない。

 ところが、とある若い事務員に話をきくと、奨学金を受け取るには、親族の所得情報が必要だという。

 しかし、私にはそんなものはいない。いないものはいない。

 そう告げると、ではそれを証明してください、とのことだった。どうやってそれを証明しろというのだろう。その黒い感情を、そのまま伝えた。それでは戸籍謄本を市役所で発行してきてください、それで事足りますから。事務員は、そう言って、はい次の方と、後ろの学生を呼んだ。

 しょうがない。お金を得るには、結局、労が必要と言うことだ。ここでいう労とは、肉体的な負担の類いだけではない。みぞおちあたりからこみあげてくる、漠然とした不安である。

 その翌日、かつて志望していた国立大学によく似た市役所のその造りをぐるりと眺めた後、ようやく私は市民課へ向かい、窓口の年配の女性に、戸籍謄本を請求した。すると、そこの用紙に必要事項を記入してくださいね、と愛想のない態を示された。指示されるがまま、私は私のことを細やかな情報を紙切れに記入していく。自分の字面を眺めて、繊細にもみえるし、乱雑にもみえるな、と思う。

 それを先ほどの女性に受け渡し、しばらく天井をみていた。例の国立大学も、このように天井が高いから、照明が十分にいきわたらず、辺りは暗かったな、と受験の時のことを思い出す。

 紙面の中に、大層な名前の父親の名前を見つけ、その直後にはひどく悶えた。父の名前の直下に、知らぬ青年の名前が記されており、苗字は父と、さらには私と同じなのだ。しかも、年齢は私よりも二つ上とある。

 一体どういうことだろう。父は私のもとを離れる前に子供をこさえていたというのか。なんてことだ。どこぞで幸せに暮らしていると思っていたが、自分よりも年上の子どもとは、特別な事情を感じずにはいられない。こんなことを市役所で知ることになるとは。私が父について握っているのは、関西で数度一番になるほどの料理人だということくらいだ。私のそんなちっぽけな情報なんか、情報でしかなく、彼女はその肌で、きめの細やかな時代から荒くなってくる現在までを、その体温で、父親に寄り添っていたというのか。

 そんなことを、帰り道にまで引きずり、結局は激しく後悔した。顔もよく知らない父へ、何も思い悩む必要なんてない。あっちは幸せになっているのだろうから、こっちも勝手に幸せになればいい。もはやどうでもいいのだ。実際、私は恋人で十分に満たされている。

 たかが大学生といえど、このような理由で私はときどきつらい。学資の準備のため、サークルやら飲み会やらを他の学生が耽っているあいだにも、私は眠い目をこすりながら水割りをつくり、もともと不愛想な顔に精一杯愛想をつくって客の相手をしなければならないのだから。

 帰路につく。たまには誰かの腕に巻かれたいと思う。大丈夫、よく頑張っている、大丈夫、などと囁かれながら、頭を撫でられたい。たとえそれが、太く逞しい腕であっても、一切問題はない。

 思い起こすのは、いつもあの匂い。乾いたヒノキ、くたびれたバナナの皮、古本市で見つけた古書の渇き。

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