明日、蛾が蝶になる

西村たとえ

第1話

 この熱はもう二年目になる。

 センセは、ゼミが終了したのにもかかわらず、昨日の学会の写真とやらを、学生にみせるためだけに、パソコンのフォルダの中を未だに探している。

 もう夏の暮れにもなるから、外はすでに暗闇で、ゼミ室にはぼんやりとスクリーンが写っている。スクリーンといっても、今は無機質な青が全面に揺れているだけで、見るべきところは、センセの影、その少しばかり肥えた姿が、影になっているところくらいだ。

 他の学生たちは、机の上のかばんを両手で抱えながら、隙あれば今にも教室を飛び出してしまいそうな体勢で機会をうかがっている。皆、サークルやらアルバイトやらで、もう時間が迫っているようだった。やがて彼らはそれぞれお隣と話はじめて、私の隣の奴もくだらないことばっかり話しかけてきて、しょうもないな、と一応相槌を打っては、私はセンセを盗み見している。

 暫くすると、その青が色彩豊かな写真に変わった。映し出されたそれは、人の後頭部ばかりで、それでもセンセは誇らしげに、カタカナの有名らしい名前を、何度も可愛がるように連呼している。

 どうやらセンセの昔に受け持っていた学生らしく、センセは自らの教え子のことをこれでもかというほどに、愛溢れた口調で賞賛している。

 その口角が上がるたびに、いくつかの痘痕の影が色濃くなる。その影がいくつあるか、見る角度によって、どのように変化するのかということさえ、感情の起伏を、時間の流れを狂わせる。

 はじめてセンセを見たとき、歳はいくつなんだろう、どこで生まれたんだろうと、それを知らなければいけないことのように、私は突き動かされた。妊娠のために産休に入った専攻の概論にあたる授業を担当していた助教授の代わりに、センセはのっそりとその身体を講義室にねじ込んで、自らの名前を名乗ることなく、教科書の朗読をはじめた。

 文章を読むのを聞かされるだけの講義に値打ちはない。そう思っていた。だが違った。

 センセをつくるのは、近くからみると木目のような肌。茶色と黒が決して交互にではなく、ずれながらも重なり、交差し、いくつもの根っこを、確かに大きくはっている。その大地のなかに、埋まるように、幹の亀裂が横に入っている。そんな口から出てくる関西弁はぶつけられるわけでもないのに、心を侵すほどの支配性を有していて、私は惹きつけられ、引き寄せられ、ほんとうに近くで、その声を、きいているような気がした。

 センセの名前を検索すると、センセの名前がずんと並ぶ。いくつもの情報から手繰り寄せた名前をクリックする。たやすくセンセのホームページは見つかり、思わず喉を鳴らす。

 1970年、関西の生まれ。さらに、私と二十以上、歳が離れていることがわかった。具体的な出生は京都生まれの私と随分近い。もはや同郷と呼んでいいだろう。

 想いをめぐらす頭の上で、蛍光灯の光が照り、気が付けば学生はまばら。センセは黒で埋め尽くされたホワイトボードを消し、スクリーンを収めるべきところに収め、帰り支度をはじめている。

 気をひきたくて仕方がない。何に触れて話をすれば、センセはさっきのような表情になるのだろうか。どうすれば、痘痕なんて気にもしない笑みを、私にみせてくれるのだろうか。

 ゼミ室はセンセと私の二人だけになっている。センセは、照明のスイッチに手をあてながら、ひんやりとこちらを見ていた。

「あ」

 なにを考えていても、なにも言葉にならない。なにを考えてみても、不可能なことばかり思いつく。

「あ、もう、かえります」

 ろくにまとまっていない自分の荷物を、乱雑に鞄に投げ込んで、それが終わるタイミングと同時に席から飛び上がった。

 ゼミ室から出る前に、照明は消え、私は何もひっかけるところもないところで躓き、鼻から床にぶつかった。立ち上がると、鼻だけでなく口からも血がでていた。そんな私の横を、のっそりと抜けていった、「ソ」みたいな後ろ姿。

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