深淵の血族

 ふと、弓鶴くんの姿が頭に浮かび、気づけばわたしは言葉をこぼしていた。


「彼は今、どうしていますか?」


 少し不安げな声が自分でも驚いたけれど、気にしているのは確かだった。ずっと気丈に振る舞おうとしていたけれど、どうしても彼のことが心に引っかかってしまう。


「心配しなくても大丈夫だ。身体に別状はないし、今は部屋で眠っている」


 その言葉を聞いて、わたしは自然と身を乗り出してしまう。胸が少しだけ軽くなったような気がした。


「部屋……ということは、ここは?」


「ここは私の屋敷だ。たがら安全は保証できるし、君も安心していいよ」


 虎洞寺さんの自信に満ちた言葉が、少しだけわたしの心を落ち着かせた。どんな場所に連れてこられたのか不安だったけれど、弓鶴くんの叔父さんの家ならば少しは安心できる。


 けれど、それでもどうしてこんなことになったのか、わたしにはまったく理解できていなかった。胸の奥に押し込んでいた不安が、じわりじわりと広がっていく。


「これから、わたしはどうなるんでしょう……?」


 その不安が、つい口をついて出た。声がかすかに震えていた。


 虎洞寺さんは、一瞬真剣な表情を浮かべ、深く頷いた。そして、静かに口を開いた。


「今から言うことは、君にとって少しショッキングかもしれない。どうか落ち着いて聞いてくれたまえ」


「は、はい……」


 重い空気が辺りを包む。胸の鼓動が、どんどん速くなるのを感じた。いったい何を言われるのかと、わたしは固唾をのんで、その言葉を待った。


「……君は今、とても危険な状況にある。それは“命の危険”と言ってもいい……」


 突如として、冷たいものが背筋を走った。


「どうして……」


 声が自然と漏れていた。心の中に渦巻く混乱と恐怖、それが言葉になって出てきたのだ。何もかもがわからない。この状況で「命が危ない」と言われても、どうしていいのか考える余裕はなかった。


「どうして、わたしがそんな目にあわなきゃいけないんですか……?」


 消え入りそうな声で訊ねた。視線は自然と下に向き、現実から目を逸らしたかった。


 虎洞寺さんは深く息をつき、慎重に言葉を選びながら話し続けた。


「君は『深淵』という、ある組織の問題に関わってしまった」


 深淵。またその名前だ。何度も耳にしていたけれど、それがどうして私に関係するのか、まだ全然わからない。


「深淵って、いったい何なんですか?それが、どうして私の命に関係しているんですか?」


 私は問い詰めるように訊いた。虎洞寺さんは一瞬、考え込むように視線を落とし、それから静かに答えた。


「深淵というのは、世間一般には知られていない暗殺を生業とする組織だ。そして、私もその一員だし、弓鶴もそうだ……」


 衝撃的な言葉に、私は言葉を失った。暗殺……?そんなことがこの世に存在するの?弓鶴くんも、その一員だったなんて……。胸の中が急に冷たく、重く沈んでいくのを感じた。


「そうだったんですか……」


 声が震えていた。頭の奥には、あの時、殺意を剥き出しにした弓鶴くんの鋭い声が反響していて、その瞬間の恐怖が、再び心を締めつけた。


 すると、虎洞寺さんが少し慌てた様子で口を開いた。


「説明が足りなかったようだ。一員と言っても、私や弓鶴は暗殺を生業とする者ではない。私たちは、深淵の血族の因子を受け継ぎながらも、“力を持たない側”の者だ。そして、それらで構成される外郭組織に属している」


 「外郭組織……?」と繰り返してみたが、その意味はよく理解できなかった。それでも、少しだけほっとする自分がいた。今の説明が正しいなら、少なくとも弓鶴くんが人を殺して生きているわけではない、と。


 だけど、やっぱりすべてが納得できたわけではなかった。あの光景――鳴海沢が繰り出した、まるで異世界のもののような光の繭。その不思議な光景が、頭の中をかすめた。わたしは顔を上げ、ぽつりと訊ねた。


「力……って、あの不思議な繭に包まれたボールみたいなもののことですか?」


 その瞬間、虎洞寺さんの表情が一変した。彼の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかる。驚きというよりは、警戒心のようなものが漂っていた。その変化に気づいたわたしは、何かまずいことを言ってしまったのかと、急に不安になった。


 「……それが、君には見えていたのか?」と、虎洞寺さんが低い声で訊ねてきた。


 その声には、鋭い緊張が込められていて、わたしは思わず口をつぐんだ。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がした。でも、事実を隠してしまうことは、もっと危険だと思った。


「はい……あの時、鳴海沢が……それを使って、何かを……」


 言葉が途中で途切れてしまう。何を説明すればいいのか、自分でもわからなかった。ただ、虎洞寺さんの反応が、普通ではないことは明らかだった。


場裏じょうりが見えた……か……」


 虎洞寺さんのため息は、何か重たい現実を前にしたような響きを帯びていた。その口ぶりが、これからわたしに降りかかる事実の深刻さを示しているようで、思わず身を固くしてしまう。


「場裏……」


 その言葉を口にすると、ぞくりとした感覚が胸の中を駆け抜けた。まるでその言葉自体が、何か異質で不穏な力を持っているかのように感じられて、息苦しくなる。何か、大きなことに巻き込まれている――それを否応なく感じていた。


「それが見えたということは、君は私たちと同じ、【深淵の血族】である可能性が高いな……」


 その一言が、わたしの世界を一瞬で変えてしまった。


「……わたしが、深淵の……血族?」


「ああ、場裏というは、深淵の血族の因子を持つ者にしか認識できない」


 その言葉が響くたびに、現実が揺らいでいくようだった。


 わたしは普通の高校生で、普通の生活を送ってきたはずだ。鳴海沢や弓鶴くんのような特別な存在と自分が、同じ血を分け合っているなんて、到底信じられない。しかし、その「血族」という響きが、わたしの心の奥底に不気味に引っかかって離れない。


 壊れそうだった。突然現実が崩れ落ち、まったく無関係だったはずの運命に巻き込まれる――その圧倒的な感覚に、私は立っていることすら難しくなってきた。否定したい、すべてが夢であればいいのに、そう強く願った。


「そんな、わたしは……」


 震える左手を見つめた。ずっと普通の生活をしていたはずだ。なぜ、こんな現実が私に迫ってくるのか理解できない。


「わたしは普通の家に生まれて、両親だって普通に働いていて深淵なんて言葉は一度も聞いたことがないです」


 どうしても抵抗せずにはいられなかった。わたしの普通の人生が壊れるのが怖かったのだ。虎洞寺さんはわたしの言葉を静かに聞き、少しだけ眉をひそめたが、その冷静さは揺らがないまま、わたしの混乱をじっと見つめていた。


「たしかに、これまで君は普通の生活を送っきたのかもしれない。しかし、【血】というものは隠れたところで脈打っている。君が気づかなくても、君の中に【深淵の血】が流れているのだとしたら、避けられない現実がある。場裏が見えるのは、血族の人間だけなのだから」


 虎洞寺さんの言葉は容赦ない現実を示していた。冷たいわけではないが、温かくもない。ただ真実を語っているだけだ。それが、あまりにも重く、わたしの心に圧し掛かってきた。


「……避けられない、現実……?」


 わたしは反射的に声に出してしまった。その言葉が、どこか遠くの他人事ではなく、自分自身に向けられたものだということが、まだ信じられなかった。


 虎洞寺さんは静かに頷いた。


「そうだ。君に場裏が見えたということは、君の血が呼応した証拠だ。そして、これから君が向き合うのは、君の中にある血族の宿命だ」


 宿命――その言葉は、逃れられない鎖のように感じられた。わたしはその言葉から逃げ出したかった。自分の未来を、自分で決めたいのに。それなのに、虎洞寺さんの目が真剣であることに気づいた瞬間、逃げ道なんて存在しないんだと悟った。


 どうすればいいのか、わからない。自分の中で答えが見つからず、ただ頭を抱えた。これから何が起こるのか、何を信じればいいのか――そのすべてが、わたしの手の中からこぼれ落ちていくような気がした。


 身体が勝手に震えていた。突然降って湧いた衝撃の事実に、私はただ恐怖するしかなかった。


 それを見てか、虎洞寺さんは優しく声を掛けてくれた。


「事態が呑み込めないのは仕方がない。だが、君が深淵の血族であるという可能性が高まったお陰で、身の安全は確保できそうだ」


「えっ?」


 それは意外すぎた。このままで命が危険だと言われたから、どうしようかと不安だったけれど、何かの光が差したような気がした。


「深淵の術者には、その存在を決して人に知られてはならないという、絶対の掟が存在する。目撃者はすべからく口封じのために処理する。これが彼らのやり方だ。それゆえに、君の立場はとても危険状態にあった。だが、君が血族であるならば、その掟には該当しない。よって、君の身の安全は確保できる」


 その言葉に、わたしは少しだけ息をついた。今の虎洞寺さんの言葉で、わずかながらも光が差し込んだような気がした。


「……本当に、わたしは大丈夫なんですか?」


 震える声で問いかけた。まだ頭の中は混乱していて、心の底から安心できているわけではない。


 虎洞寺さんは静かに頷き、わたしの不安に寄り添うように言葉を続けた。


「もちろんだ。今は混乱しているかもしれないが、君が血族であることは、逆に君を守る盾にもなる。深淵の掟は厳格だが、その分、血族として認められた者にはその掟のルールが与えられる。今の君は、その範囲内にいる」


 彼の声は落ち着いていて、まるで混乱したわたしを導いてくれるような響きがあった。それでも、頭の中ではまだ、混乱した思考がぐるぐると巡っていた。自分が「深淵の血族」だなんて――信じられない。それは現実からあまりにもかけ離れていて、受け入れるには時間がかかりそうだった。


「……でも、どうして……わたしなんですか? わたしが、そんな特別な力を持ってるなんて、今まで一度も感じたことなんて……」


 わたしの問いに、虎洞寺さんは一瞬目を細めたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「それは安心したまえ、血族であっても力を使えない者は多くいる。この私のようにね。ただ、それゆえにこうして外の世界で生きているわけだが」


 虎洞寺さんの言葉に、少しほっとした。彼もまた、血族の一員でありながら力を使えないということは、私だけが特別ではないということを意味していた。


 私は疑問を抱きつつ尋ねた。混乱した心の中で、少しずつ虎洞寺さんの言葉の意味を掘り下げていく。


「でも、外の世界で生きるって、どういうことですか?」


「うん……血族の因子を受け継いだ者は、大体第二次性徴を迎える頃に、その力を現すことが多い。だから、“ある場所”で裁定を受けるんだ。まあ、身体検査のようなものだよ。そこで力を持つ者と持たない者が選別されて、力が無いとされた者は、外郭組織、私が長を務めている【郭外】に属することになる。一般社会で暮らし、仕事をして、普通に生きている。ただし、組織への上納金を収めなければならないというルールはあるがね」


 私は虎洞寺さんの説明を受けて、さらに疑問が湧いてきた。


「外郭組織に属するって、つまり普通の生活ができるってことですよね。でも、なぜ上納金なんて払わないといけないんですか?」


 虎洞寺さんは少し考え込むように目を細めた後、穏やかな声で答えた。


「それは、深淵の組織が血族の因子を持つ者を監視し、管理するための仕組みだからだ。彼らにとって、外郭組織にいる人々は、組織を支える財源の一つであり、またリスクでもある。上納金は、彼らにとっての「みかじめ料」みたいなものさ。」


「みかじめ料……」


 その言葉が私の心に重く響いた。


「わたしがもし力を持っていたら、どんなことになるんでしょうか?」


「力を持つ者は、深淵の組織の一員として、上に立つ特別な権利と役割を与えられる。それはすなわち、“人を殺める”仕事にも繋がるのだがね……」


 背筋に寒気が襲ってきた。


「人を……ころす……」


「だが、君にはそんな必要はない。力なき者として、こちら側に属する限りはね。ただ、我々は彼らから搾取され、虐げられる存在だ。逆らえば消されてしまう。まあ、私はそんな体制をどうにかしたいと考えているのだが」


 私にとっては別世界のような話で、あまりに深刻で、情報が多すぎて、理解がまるで追いつかない。

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深淵の黒鶴~わたしたちはふたつでひとつのツバサなのだから ひさちぃ @ppfdc98972

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