弓鶴くんの瞳に映る過去

 やっぱり脳裏に浮かんでくるのは、弓鶴くんの姿だった。誰もが見惚れてしまうような美しい顔立ちなのに、あの瞳の奥には深い寂しさが見え隠れしていた。


 最初に会った時、ひどいことを言われたけれど、わたしはそれがどうしても心に引っかかっていた。


 公園の展望台で毎日のように夕日を眺めるという彼。その後ろ姿は孤独そのもので、何を思い悩んでいるのか、想像するたびに胸がぎゅっと締めつけられた。


 そういえば、あの鳴海沢という人が、彼に向かって何かを話していた。詳しい内容はよく理解できなかったけれど、彼の過去にはきっと何か大変なことがあったのだろうと感じた。言葉の一つ一つが、わたしの心のどこかに小さな棘のように刺さっていて、どうしても放っておけないって気持ちになる。


 わたしは目の前に座る虎洞寺さんに、ぶつけてみることにした。


「あの、少しお訊ねしたいんですけれど……」


「ん、何かね?」


 彼の穏やかな声に少しだけ安心しながら、わたしは一つ大きく息を吸い込んでから言う。


「虎洞寺さんは、その……彼、弓鶴くんとはどういったご関係なんですか?」


 わたしの言葉に、虎洞寺さんは一瞬まばたきをしてから、柔らかい笑みを崩さずに答える。


「私は彼は叔父にあたる。実は彼は両親を八年前に亡くしていてね、それで、私が引き取ることになったんだ」


「……そうだったんですか……」


 その答えに、心の奥で何かがずしんと重く響いた。彼が抱えてきたものが、ほんの少しだけ見えたような気がした。でも、それと同時に、もっと知りたい気持ちが芽生えていた。


 まだ、わたしの中に引っかかっている疑問があって、聞くべきか迷ったけれど、思わず口を開いてしまう。


「彼にはお姉さんがいると聞きましたけど……」


 その瞬間、虎洞寺さんは明らかに驚いた顔をした。目を見開いて、わたしの言葉に対して予想外の反応を見せたのだ。どうして? 何か言ってはいけないことを口にしてしまったのだろうか。彼の表情に、わたしの心は一気にざわつき始めた。


 彼は少し間を置いて、ゆっくりと言った。


「君はそれを誰に聞いたんだい?彼に、姉がいることを」


 その問いに、わたしはしどろもどろになりながら答える。


「あの場所に居た、鳴海沢って人が、そう言ってました……」


「そうか……」


 虎洞寺さんの顔が、ふっと険しくなった。その顔がとても辛そうに見えて、何かとてつもなく重い過去を背負っているのだと察した。けれど、その過去が何なのか、わたしには知る術がなかった。ただ、その表情が言葉以上に多くを語っているようで、わたしは言ってはいけないことを訊ねてしまったことを、深く後悔した。


 重い沈黙が室内を支配し、空気が一層冷たく感じられる。わたしの心は重く沈み、息が詰まるような圧迫感を覚え、無意識に視線を床に落とす。だが、その静寂を破るように、虎洞寺さんが静かに口を開く。


「八年前、彼ら二人は住んでいた家を襲撃され、両親を殺されてしまった。幸いなことに彼らは難を逃れ、私の元に身を寄せた」


 その言葉はまるで氷の刃のように、胸を深く突き刺した。心臓が凍りつくような感覚に、思わず手のひらが汗ばむ。弓鶴くんが抱えていた辛さ、それがどれほどのものか、わたしには想像もつかなかった。


「どうして……どうしてそんなことが……?」


 声が震えていたのは、わたし自身驚いた。そんなに恐ろしい過去が、彼の中に隠されていたなんて――。


 わたしの問いに、虎洞寺さんは眉間に深いシワを刻み、口元に苦しさを漂わせていた。


「その理由も含めて、犯人の目星はついている」


「犯人、それは誰ですか……?」


「深淵の……上帳の仕業だ」


 その名前が耳に入った瞬間、冷たい波が背筋を伝って走るのを感じた。鳴海沢が語っていた「深淵」と「上帳」という存在。それが、すべての始まりだったのだ。だから、だから弓鶴くんは……。


「それで、あの鳴海沢という人を……弓鶴くんは憎んでいたんですね……」


 言葉を紡ぐたびに、胸の奥が締め付けられるようだった。虎洞寺さんは静かにうなずき、遠い目をして答えた。


「だろうね。鳴海沢といえば、上帳でも有力なポジションを占める有力者だ。彼は両親を奪った深淵、そして彼らが持っている異能の力に対して、強い嫌悪と憎悪を抱いている」


 その瞬間、弓鶴くんが鳴海沢に向けていた冷たい視線と怒りが、鮮明に脳裏に浮かんだ。あの険しい目の裏には、こんなにも深い傷が隠されていたなんて……。


「それで……お姉さんは今、どうしてるんですか? 鳴海沢は行方不明だって言ってましたけど……」


 わたしは、絞り出すように尋ねた。心の中に広がる恐怖と不安を抑えきれずに。


 虎洞寺さんは一瞬、深い考えに沈んだようだった。額に皺を寄せながら、苦しそうに目を伏せた後、ゆっくりと答えた。


「……彼女の行方は、今だ杳として知れない」


「そう、だったんですか……」


 わたしは、何か大切なものが失われていく感覚を覚えながら、視線を下げた。追求するのが怖くて、これ以上聞いてはいけないと本能的に感じた。でも、虎洞寺さんの沈黙は続かなかった。彼の声が再び、静かに部屋を満たした。


「両親を失った二人を、私は匿うことにした。そうしなければ、彼らの命も危ういと感じたからだ。だが……上帳はどちらかを柚羽家の後継者として差し出せと要求してきた」


「それは、どうして……?」


 わたしの心に一瞬、鋭い痛みが走る。その痛みを抑え込むように、唇を噛んだ。どうして、そんな非情な要求をされたのか――わからなかった。虎洞寺さんはしばしの間、言葉を選ぶようにしてから、静かに答えた。


「柚羽という家系は、深淵にとって特別な意味を持つ……彼らにとって、柚羽の血は、特別なんだ」


「特別……?」


 わたしの声は、かすかに震えていた。柚羽の血……その響きに、何か不吉なものが絡みついているように感じた。


「墓守……墓場の管理人のような役割だと思えばいい」


「墓守……」


 その言葉の意味するところはわからなかったけれど、わたしの胸に強く響き、頭の中で何度も反芻された。弓鶴くんが狙われたその理由が、少しずつ形を成していく。そして――それは同時に、彼が背負わされていた運命の重さを思い知らされることでもあった。


「それで弓鶴くんとお姉さんは……?」


 わたしは、自分の中で何度も反芻していた言葉を、ようやく口に出した。虎洞寺さんは静かにうなずき、その目には深い悲しみと後悔が滲んでいた。


「私は……残酷な選択を強いられた。どちらかを守り、どちらかを手放すという選択を」


「……そんな……」


 言葉が、喉に引っかかって出てこなかった。想像を絶する選択だった。わたしはただ、呆然とするしかなかった。


「じゃあ、お姉さんはその時……」


「そうだ。彼女は、自らの意志でその身を差し出した。弓鶴を守りたいがためにね……」


 虎洞寺さんの声には、深い悔恨が込められていた。その瞬間に彼が感じた無力さ、それが今も彼の中に深く残り続けているのがわかった。


 わたしは、恐る恐る問いを投げかけてみる。答えを聞くのが怖い――でも、知らずにはいられなかったから。


「弓鶴くんは……そのことを知っているんですか?」


 わたしの声は震えていた。喉が乾き、心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚が押し寄せる。弓鶴くんがあの冷たい瞳の奥に、こんなにも重く、苦しい過去を抱えているなんて――。


 虎洞寺さんは、しばらく黙ったままわたしを見つめていた。その眼差しには、言い知れぬ苦悩と悲しみが揺れていた。わたしはその視線に耐え切れず、思わず目を逸らした。答えが返ってくるのが、怖かった。


「……知っている。彼は今もそれを自分のせいだと悔やんでいる」


 虎洞寺さんの言葉は、冷たく鋭い刃のように胸に突き刺さった。わたしの呼吸が一瞬止まったような気がした。――弓鶴くんが、自分を責めている?


 「どうして……」と、かすれた声でわたしは尋ねた。喉の奥が詰まったようで、うまく言葉が出ない。彼があの時どんな思いでいたのか、どれだけ自分を責め続けてきたのか、そのことが頭の中を駆け巡る。


 虎洞寺さんはゆっくりと頷き、苦々しい表情を浮かべた。


「彼は、自分が弱かったから、こんな結末になったのだと思い詰めているようだ……」


 その言葉に、わたしの胸は締め付けられた。あの鋭くも冷たい眼差し、その奥に秘めた痛みと罪悪感――それを、わたしはずっと知らずにいた。


 わたしは、ふっと目を伏せ、震える手を自分の胸に押し当てた。


「彼は……そんな辛い気持ちを抱え込んでいたんですね……」


 自分でも驚くほど静かな声で、わたしは問いかけた。その答えが、わたしの心にどんな影響を及ぼすか、わかっていたからこそ、怖かった。でも、聞かずにはいられなかった。


 虎洞寺さんは、ふっと微笑んだ。しかしその笑みには、どこか悲哀が漂っていた。


「そうだ。彼は今も一人で戦い続けている……いろいろな意味でね」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸の奥で何かが切れるような感覚がした。――弓鶴くんは、ずっと孤独だったんだ。自分を責めながら、誰にも頼れず、ただ痛みを抱えたまま……。


 わたしはどうしていいかわからなかった。そして、心の中である気持ちが渦巻いていた。なんでもいいから、彼を助けたてあげたい、救ってあげたい――そんな気持ち。


 自分が今どんな状況に置かれているのか、不安はあったけれども、そんなことよりも、わたしは彼のことで頭がいっぱいになっていた。でも、どうやって彼の心に触れればいいのか、わたしにはわからない。

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