第二章

沈黙の書架に囲まれて


 わたしは、どこだかわからない場所に座っている。目の前には、深い紺色のソファの感触があるけれど、それが今のわたしにとって心地よいかどうかすら、よくわからない。ふと指先をソファの縁に這わせると、滑らかな布の質感が冷たく感じられて、何だか現実感が薄いような気がした。


 視線を上げると、両側の壁には天井まで届く本棚がびっしりと詰まっていて、その一冊一冊がわたしに向かって押し寄せてくるような気がする。古びた革装丁の本や、金の文字が浮かび上がる重そうな書物たちが、静かにわたしを見下ろしているようで、なんだか息が詰まりそうだった。


 ソファの向こうには、重々しいデスクがひとつ。木の光沢が暗く輝いていて、なんだか冷たい感じがする。机の上には、きちんと整頓された書類やペン立てが置かれているけれど、その完璧さがかえってわたしを不安にさせた。


 ここに座る人は、どんな人なんだろう。とても偉い人?それとも、厳格で怖い人?何も知らないくせに、ただこの場所の空気がわたしにそう感じさせる。校長室みたいだけど、それよりもずっと息苦しい——まるでわたしの存在をここに許さないと言わんばかりに。


 どうしてわたしはここにいるんだろう。誰もわたしに何も説明してくれなかったし、今この瞬間、扉の向こうで何かが待っているのかもしれないという想像だけが、どんどんわたしの胸の中に不安を積み重ねていく。軽く握った手のひらが少し湿っていて、気がつくと自分の指先が震えている。深呼吸しようとしても、胸の奥が苦しくて、うまく息が吸えない。


 この部屋にいると、まるで自分が小さな子供に戻ったような感覚がする。周りのすべてが大きすぎて、わたし一人だけがこの場にふさわしくない気がしてならない。まるで、この空間に閉じ込められているようで、どこか逃げ場がないように感じたとまう。それでも、ここに座っている以外に何もできなくて、ただ静かに、待ち続けるしかない。


 どうしてこんなに不安なんだろう。


 意識のない弓鶴くんの体は驚くほど軽く、けれど彼の温かさが伝わってきて、わたしはどうにかその重みを支え続けていた。


 藤堂さんや無表情の戦闘服の男たちに囲まれながら、ただ無言で彼らの指示に従うしかなかった。誰も理由を教えてくれなかったし、わたしも質問する勇気が出なかった。


 車に乗せられると、目隠しをするように言われた。正直、怖かった。目隠しなんて、まるでわたしが囚人のような扱いで、どうしてこんなことをされなければならないのか、頭がぐるぐる回り始めた。でも、断れる雰囲気ではなかった。何かを拒めば、もっと状況が悪化するかもしれないと感じたから。だから私は、心の中で小さな不安が積み重なるのを感じながら、黙って彼らの言葉に従うことにした。


 車は不規則に揺れながら進んでいった。二十分くらいが経ったころ、車はやっと停まったけれど、その間ずっとわたしは視界を奪われたままだった。


 目隠しの中で暗闇が広がると、他の感覚がどんどん鋭くなっていく。エンジンの音、タイヤが踏む地面の音、そして風が遠くから木々を揺らす音が、やけに大きく聞こえた。冷たい空気が車内に少し入ってきて、その冷たさに触れた瞬間、わたしは少しだけほっとした。森の香りが、今まで感じていた緊張を少し和らげたのだ。寒いけれど、その風はわたしを落ち着かせてくれた。


 車を降りると、何人かに手を引かれて、また建物の中へと連れ込まれた。まだ目隠しは外されていないままだったけれど、足元の床の感触や音が、車外の世界とは全く違って、無機質でひんやりしているのがわかった。冷たい床に、わたしの足音だけが響いていた。


 そして、ふいに「目隠しを外してもいい」と声がかかった。恐る恐る布を外すと、目の前に広がったのは、この部屋だった。


 どうしてこんな場所に連れてこられたんだろう? ふと、わたしは自分の胸の奥に広がる不安に気づいた。弓鶴くんのことも、この部屋のことも、そして自分が今どうなっているのかも、何一つわからないままで——それが怖かった。


 待っている間、時間が妙に遅く感じられて、わたしの心はどんどん重く沈んでいった。この先、何が起こるのか、わたしは何をされるのか。考えれば考えるほど、不安は際限なく膨らんでいく。


 弓鶴くんは今どこにいるんだろう。彼の顔を思い出して、胸がぎゅっと締め付けられる。助けを求めたい気持ちはあるけれど、誰に、どの言葉を口に出せばいいのかわからない。ここにいる自分が、とても小さく、無力に感じられる。


 しばらくして、重厚なドアが音を立てて開く音が響いた。その瞬間、まるで心臓が止まったかのように、わたしの体が凍りついた。音が大きく、やけに現実感を持って心に突き刺さり、わたしは思わず背筋を伸ばし、息を詰めたまま、ドアの方を振り向いた。


 そこに立っていたのは、背が高く、整然としたスーツ姿の男性だった。年齢はおそらく五十代。細身で背がとても高く、短くまとめられた髪と、角ばったメガネが知的な雰囲気を醸し出している。端正な顔立ちは確かに綺麗だが、何よりもその鋭い目つきがわたしの胸をさらに強く締め付けた。彼の姿は、無言のうちに「厳格さ」を放っていて、言葉を発するまでもなく威圧感が伝わってくる。


 わたしは息をするのも忘れて、その男性をじっと見つめていた。心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。彼は一体誰なんだろう。何か話しかけられるのではないかと思って、口の中が乾いていくのを感じた。弓鶴くんのことを知っているのか、それとも、まさか——彼のお父さん?そう思うと、ますます言葉が出てこなくなった。


 彼の一挙一動が、わたしの全神経を緊張の糸で引き締めていく。この人が、これから何を話すのか、その一言一言が、わたしの運命を左右するのではないかという不安が募る。


 その男性が突然、柔らかく微笑んだ瞬間、わたしは完全に不意を突かれてしまった。彼の厳格そうな外見とはまるで違う表情に、胸の中に張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れるように感じた。驚きと戸惑いで、身体が勝手に反応し、気がつけば立ち上がっていた。


「あ、あの……」


 挨拶をしようと口を開いたものの、喉がうまく動かず、声が詰まってしまった。頭の中は混乱していて、何を言えばいいのか、どうすればこの状況を理解できるのか、全く分からない。ただ、必死に言葉を探していた。


 すると、その男性はさらに柔らかな笑みを浮かべながら言った。


「驚かせてしまったかな」


 その一言が、わたしの胸の中に少しだけ安心感をもたらした。穏やかな口調に、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。それでも、心の中にはまだ不安の残り火がちらついていた。彼は誰で、ここで何が起きているのかは、依然としてわからないままだ。


「私の名前は、虎洞寺こどうじ。虎洞寺 まさるという。はじめまして、お嬢さん」


 虎洞寺健。その名前を聞いて、どこかで耳にしたような気がしたけれど、今はそれを思い出す余裕もなかった。ただ、その落ち着いた声が、部屋に少しの温かさをもたらしているように感じた。


「あの……わたし、加茂野 茉凜かものまりんといいます。た、助けて頂きありがとうございます」


 慌てて自己紹介したものの、声は予想以上に上ずってしまった。どうしてこんなに緊張してしまうのだろう。自分がこんな風に無力で、しかも頼るしかない状況にいることが、急に恥ずかしく思えて、わたしは目を伏せた。


 虎洞寺さんはわたしの様子をじっと観察していたのかもしれない。彼の微笑みには、わたしの不安を静かに包み込むような温かさが感じられた。そして、彼はゆっくりと一歩近づき、柔らかな声で言った。


「よろしくね、加茂野くん」


 その言葉が、わたしの心にそっと響いた。気取らない、けれども優しさに満ちた声だった。彼が差し出した手を見つめると、細くて繊細な指が目に映った。骨ばったその手には、年輪を感じさせる皺が刻まれていて、それがかえって彼の経験や人柄を物語っているように見えた。


 躊躇いながらも、わたしはその手に応えようと自分の手を差し出した。心臓の鼓動が少し速くなり、手が少し震えているのが自分でもわかった。けれど、虎洞寺さんの手がわたしの手をしっかりと包み込んだ瞬間、まるでその不安が一瞬で溶けるような感覚がした。


 彼の手の感触は意外なほど柔らかく、けれどその握りはしっかりとしていて、そこに何とも言えない温もりがあった。それが、わたしに不思議な安心感を与えてくれた。この人は、わたしを助けてくれるのかもしれない――そんな小さな希望が、心の奥底に芽生えた。


 「これからどうなるんだろう?」という漠然とした不安は、まだ完全に消えたわけではなかったけれど、少なくとも今、目の前のこの人は敵ではないように感じられた。その手の温もりに、自然と少しだけ呼吸が楽になった。


「大変な目にあったそうだね。君には本当に申し訳ないことをした」


 虎洞寺さんの声が、再びわたしの心をそっと撫でるように響いた。しかし、その言葉に返事をしたとき、胸の奥に重たく沈んでいた不安が、かすかに疼くのを感じた。


「はい……」


 短く答えながらも、わたしは自然とつい先ほどの出来事が頭に浮かんできた。突然の目隠し、見知らぬ場所、そして石御台公園での出来事と弓鶴くんの無意識の姿――あまりにも混乱していて、何がどうしてこんな事態になったのか、全くわからない。知りたい、でも聞いてもいいのか、不安と疑問が入り混じり、胸が苦しくなった。


「まずはそこにかけてくれたまえ」


 虎洞寺さんに促され、わたしは再び紺色のソファに腰を下ろした。ふかふかとしたクッションが体を包み込む感覚が、わずかに安らぎを与えてくれるが、頭の中は相変わらず混乱したままだ。


「そうだ、何か飲み物でもどうかね?」


 その問いに、わたしは一瞬戸惑った。どう答えればいいのだろう?飲み物なんて今、そんな気分じゃない。でも――


「いえ、お気になさらず……」


 そう言いつつも、実際は喉が乾いていた。緊張と不安で口の中がカラカラだったけれど、遠慮してしまった。それでも、虎洞寺さんの優しさを断るのは少し申し訳なく感じる。


「遠慮することはない。何でも言ってくれたまえ。たいていのものは用意できるからね」


 彼は、わたしが少しでも落ち着けるように気を遣っているのだろう。彼の厚意を無下にするのは良くない気がした。少しでもこの緊張をほぐすためにも、ここは素直に甘えるべきかもしれない。


「それじゃ、温かい紅茶をお願いします」


 本当は普段、紅茶なんてあまり飲まない。でも、ここで「ソイラテがいいです」なんて言えない気がした。何となく場違いな感じがして、恥ずかしかった。紅茶なら無難だし、大人っぽく見えるかな、なんて少しだけ思った。


 虎洞寺さんはわたしの答えに満足そうにうなずき、スマホを手に何かを指示していた。その姿を見ながら、わたしは自分が今、どこにいて、何をしようとしているのか、再びぼんやりと思い巡らせていた。

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