わたしたちのツバサの物語の始まり
その瞬間、心の奥底にある光が一瞬だけ輝いた。それは、あの不思議な声が教えてくれたことを思い出させた。わたしにできることがあるなら、それを全力でやるしかない。たとえその結果がどうであれ、わたしは自分の意志で前に踏み出すことを決めたのだから。
躊躇せずに彼の身体を背後から強く抱きしめ、必死に彼に伝わるように祈りながら、耳元で囁き続けた。
「わたしのこと、救けてくれてありがとう……。あなたの過去に何があったのか、わたしにはわからない。どうしてあの人を憎んでいるのかも知らない。でも、もういいの。やめよう……」
その言葉は心からのものだった。彼を決して離したくないという気持ちが込められていた。
「弓鶴くん、お願い」
瞳が涙であふれかえっていることさえ、自分でも自覚していなかった。涙が頬を伝い、感情が溢れていた。彼の冷たい身体を抱きしめるその手が、震えていた。
背中に広がる黒い何かは依然として不気味に蠢いていたけれど、わたしは怖れを振り払って、命を預けるような思いで心から彼を呼び続けた。
その瞬間、彼の身体がびくりと震えたのを感じた。わたしの願いが少しずつ彼の心に届いているのか、殺意に満ちた言葉が途切れた。その一瞬に希望を見出し、さらに彼の名を呼び続けた。
「お願い、弓鶴くん、戻ってきて!」
「うっ、ううっ……」
彼の口から小さなうめき声が漏れ、心が震えるような感覚が広がった。肩から力が抜けるのを感じたその時、背中の黒い何かが音もなく消え失せ、彼は力なく崩れ落ちた。
「あっ、わっ、わっ」
慌てて右腕を回して彼を抱き止める。その身体は意外にも軽く感じられ、彼の体重を支えながら、心の中でほっと一息ついた。彼の呼吸が少しずつ整っていくのを感じ、わたしは安堵に包まれる。
気づけば周囲を遮断していた障壁が消え去り、そよぐ海風が優しく頬を撫で、遠くから海鳥の鳴き声が届いていた。まるで、わたしの心に新たな息吹を与えるかのように。
「もう大丈夫だよ、弓鶴くん」
心臓はまだドキドキと早鐘のように打ち続けていたが、彼が無事であることを確信し、思わずほっとした安堵のため息を漏らした。恐怖や不安が少しずつ解けていくのを感じた。
そして、心の中で湧き上がる想いに浸りながら思った。
「よかった……。わたしの声が届いたかどうかはわからないけれど、弓鶴くんは戻ってきてくれた……」
彼の顔を見ると、先ほどまでの狂気と苦悶に満ちた姿が嘘のように、今はとても穏やかで美しいものに包まれていた。その様子に心が温かくなり、思わず微笑んでしまう。
「弓鶴くん、あなたってどんな人なの?もっとよく知りたいな……」
彼の寝顔はまるで無防備に眠る子供のようで、その愛らしさに心が溶けてしまいそうだった。触れた指先に彼の温もりを感じ、そっと髪を撫でた。その瞬間、彼の息遣いが優しく、まるで平和な夢の中にいるようだった。
「弓鶴くん……」
彼の名前を再び囁き、わたしはそのまま彼を見守り続けた。海風が包み込み、遠くの海鳥の鳴き声が響く中、わたしの心は静かに落ち着きを取り戻していく。彼がここにいるということが、わたしにとってどれほど大きな安心だったのかを思い知った。
その瞬間、何かがわたしの脳裏を過った。
それは何度も見た夢の情景のリフレインだった。長い黒髪の少女の姿と、背中越しに聴こえてくるすすり泣く声……。
まるでその存在が今、わたしのすぐ近くにあるような錯覚がした。
「それはないよね、どう見たって彼は男の子だし。なに考えんだろわたし」
夢の中で佇んでいた人物とは、性別も容姿もまったく一致しない。当然といえば当然だ。でも、何かが心の奥で共鳴している気がした。
でも、やっと見つけたのかも……。
一度死んでしまった自分が、新しい自分に生まれ変わるきっかけ。それがわたしの探し求めていたものだった。今はまだ漠然としている何かを、彼に対して感じ取っていたのかもしれない。
それにしても……どうしてこんなことになっちゃったんだろう。もしかして、わたしって大変なことに巻き込まれてしまったんじゃ? ああ、心が重い……。
そんなふうに、心の中でぶつくさ言うわたしだった。
ふと、耳に微かな囁きが届いた。気のせいかと思ったが、耳を澄ませてみると、確かに彼の唇が微かに動いていた。
「ん?なあに?」
微笑みながら彼の手を優しく握り、わたしはこの時の静かな安心感を大切にした。彼の心が少しずつ近づいていくのを感じていた。
まだこの時、わたしは自身に待ち受けている数奇な運命について知る由もなかった。この出会いはその最初の一歩に過ぎず、紡がれる物語は、まだ始まったばかりだった。
それは、わたしたち、ふたつでひとつのツバサの物語。
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