触れる心

 そこでさらに奇妙なことが起こった。


 えっ? どうして?


 進もうとするわたしの足がスローモーションのように感じられ、身体が鉛のように重く感じられる。焦りが募る中、小さな白い球体がぽつぽつと浮かび上がり、周囲に現れた。


 もしかして、これって、さっき藤堂さんたちが言っていた見えないもの!?


 それが自分に見えるとは思わなかったけれど、直感的に危険な対象だと感じた。球体がゆっくりと近づいてくるのを感じながら、身体が思うように動かず、時間の流れが遅く感じられる。


「見える……」


 異常な世界の中で冷静に観察しながら、迫ってくる球体を一つかわし、次の球体に注意を向けたその瞬間、背後で音が弾け、猛烈な風が叩きつけてきた。


 風に煽られ、バランスを崩しそうになるが、バイクトライアルで培ったバランス修正でなんとか堪えた。汗が額から滴り落ち、心臓が激しく打ち鳴るのがわかる。息が荒くなりながらも、わたしは次々と彼の防衛機構をかわしていった。そして───


「やっと追いついたよ、弓鶴くん」


 わたしが彼の手に右手を伸ばしたその瞬間……。


「!?」


 繋いだ手を通して、何かが流れ込んでくる錯覚に襲われた。底なしの暗い色のイメージがわたしの心に映り、気持ち悪い肌触りが感じられる。まるで自分の存在そのものが侵食されていくような感覚に襲われた。


「ううっ……」


 反射的に全身に悪寒が走り、吐き気がこみ上げてきた。視界がぐるぐると歪み、耳鳴りがひどくなり、頭が重くて苦しい。何かがわたしの中に入り込み、心をじわじわと蝕んでいく。必死にその感覚を振り払おうとするが、それはますます強くなっていくばかりだった。


(弓鶴くん……もしかして、これが君の心なの? 憎しみ? 悲しみ? 泣いているの?)


 心の奥底に浮かび上がったのは、彼が抱えている深い闇だった。それは彼の痛み、恐怖、孤独、そして絶望が交錯しているようで、わたしの心はその重さに耐えきれず、涙が勝手に溢れ出してきた。涙が頬をつたう感触に、自分でも驚いていた。


「やっぱり、止めてあげなきゃ……


 震える手で彼の手をさらに強く握りしめる。彼の闇の底に沈む心を感じながら、どうにかして救い出したいという気持ちでいっぱいだった。手のひらから伝わる彼の冷たさに、心が締め付けられるような感覚に襲われる。


「弓鶴くん、もういい! やめて!」


 涙を滲ませながらも、心からの叫びを込めて彼の手を離さなかった。彼の理性がまだ少しでも残っていることを信じて、願い全てを込めて必死に訴え続けた。


「……ころしてやる……」


 それでも彼は、うわ言のように殺意の言葉を繰り返し続けた。その声は遠く、わたしの訴えにはまるで反応を示さないことに、心の中で小さな絶望が広がっていくのを感じた。彼の冷たさが一層身に沁み、どうしようもない無力感が押し寄せてきた。


 その時だった。


「わっ!?」


 邪魔だと言わんばかりに、彼の背中にあった黒い何かが音も無く蠢き、わたしの身体にまとわりついてきた。底知れない闇に包まれて、わたしは声を殺して瞼を閉じ、恐怖に震えた。けれど、奇妙なことに何の感触もしなかった。その黒い何かには物体としての性質がなかったのだ。これはただの幻。もしかすると彼の内に潜む全ての負の感情の投影なのかもしれない。


「負けられない、こんなものに」

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