待機中にて
霙座
7月のこと
警察署の落としもの係の前で、七十歳くらいのご婦人と拾得物担当の警察官の攻防が繰り広げられていました。
「私が落とした灰色の小銭入れが届いているはずよ」
「どんな財布なのかとか、中に何が入っていたかとか……」
「灰色よ。小さいの。千円くらいだと思うけど、お札が入っていたかわからないわ。でも、
見ればわかるから!」
おおう。
私はちょっと諦めモードで待機ベンチに座りました。
私のターンは、来るでしょうか。
どうやらご婦人はご近所で小銭入れを落としたそうで、落とした小銭入れはご近所の方が警察に届けたと聞いてやって来た。だから警察署に自分の小銭入れがあるはずだ、と言っておられます。
小銭入れに詐取なんてないだろうし、嘘はついてないんだろうけど、財布に記名もなく、身分証明も入っておらず、なおかつ財布の特徴も説明できないようでは、自分のものだと証明するのは難しいだろうなあ、と考えながら待っていました。
一週間くらい前の落としものだそうです。
警察官は、「一週間くらい前に灰色の小銭入れの届けはないですよ」と言いながら……なんか手元の引き出しを開けたらしいのです。
「それよ、それ!」
カウンターに乗り出して、引き出しの中身を見るのはいいのだろうか。警察署内のことなので、何かあればほかの警察官が対応するのでしょう。
びっくりしたのですが、特に誰も飛んでくることなく、引き出しを開けた担当警察官は、少々困り顔で、「このオレンジ色の財布ですか……?」と言いました。
灰色じゃないんかい。
内心ツッこんだのですが、その後本当に自分のものだというご婦人の主張が通ったようでした。見つかってよかったね、これで私のターンだ、と思いました。
しかし、落としものを引き取るのにも、手順があるのです。
警察官にひとつずつ説明されながら受け取りの書面を書いていたご婦人が、連絡先を書く段になって「あら、携帯電話の番号を書かなくちゃ」と言いました。
まあ、なんというか、案の定、自分の番号を覚えておられなくて、じゃあ携帯電話を見ながら書けばいいわ、と気付かれたのは正解なんですが、そうです。
携帯電話を、どこかに置き忘れてこられたそうなのです。
待合をひととおり探して、なく、車に戻って探してくる、とご婦人はカウンターを離れました。
落としものとか、ない方がいいよね、と思いました。
ところでどうして私が警察署で待ちぼうけしているのかというと、私も落としもの係に用事があったのです。
お金を拾ったんです。一万円札。現生で。
金曜日、スライムを散歩させようと(※DQウォーク)夜の八時くらいに近所をもたもた歩いていたところ、側溝の上にひらり、と紙が。
何となく近付いてみると、いちまんえんさつ……うおぉ。
しばらく待ちました。ちょっと離れたところで、誰か早く拾いに戻ってくればいいのにと思いながら。しかし落とし主どころかひとっこひとり通りゃしません。田舎ですのでこんな時間車も通りません。下がり切らない夏の生ぬるい風に吹かれながら、一万円札が飛ばされませんようにと思いながら見守りました。
しかし、そんなに長い時間待つこともできません。暑いし。ギガモンスターの討伐も終わってしまいました。もうレイドに参加できるギガルーラポイントがありません。もっとやりこんどけばよかった。
諦めました。
拾うことにしました。
明日交番に届けよう。
夜中寝るようになって、ふと気が付きました。なんで持って帰ってきたんだろう。あのまま交番に届ければよかったのに。
この時間、落とし主があわあわしながら交番に駆け込んでいたらどうしよう。週末おつかれなまと家でビールを一杯ひっかけてから、ちょっと外に飲みに行ってくるわ、とポケットに現生入れてちどりあしで居酒屋に向かったお父さんが、飲むだけ飲んだくれてママにもう今日は終わりだからと追い出されるときに、あれ、お金ないなとやっと気づくのですよ。ママに明日払いに来るからと酔いもさめる勢いで平謝りしていたら、かわいそう。
でももうすっぴんパジャマで布団の中です。ごめんね、明日届けるよ……。
翌日、土曜日、朝から太陽が照り付ける暑い日でした。なんとなく、めっちゃ早起きしました。
というか毎日暑いです。暑くて起きるのです。日傘を差して交番に行きました。
パトカーがありませんが、カラカラカラと戸を引いて、お出迎えしてくれたのは、カウンターの電話機です。クリーム色の会社にある平べったいやつ。
駐在さんの姿はありません。
電話の横には、丁寧に「ごめんね、不在にしてるけど、落としものはちゃんと届けてもらえると助かるから、この受話器を上げてね」みたいなことが書かれていました。
受話器を上げてみる。
「はい、T警察署です」
直通でした。そうだよね、考える前に受話器を上げてはいけません。
心の準備ができていなかったのでしどろもどろです。お金を拾ったんです。今じゃなくて昨日なんですけど。何で駐在さんいないんですか。
「今日イベントに駆り出されていてね。あー、じゃあ、最寄りの交番に行くことできますか?」
市の西の端っこなので、最寄りの交番は東の地区の一件しか思いつきません。
当然ながら「あー、そこもイベントで不在です」よね。
警察官は電話の向こうで行ったことのない地区の交番の名前を挙げました。知らん土地にびくびくしながら行くよりは、と月曜日に所轄の警察署に届けることにしました。電話の向こうで「月曜でも全然いいですよ!」と元気に言うから。職場から一キロないくらいなので、まだ行動範囲圏内にあります。
はい、じゃ、失礼しますと受話器を置いて。
人様の一万円札とあと二晩も過ごさなくてはならないことに絶望にも似た思い。
とりあえず家に帰ってすぐ通勤かばんの奥底に仕舞いました。
もっと詳細にどのあたりで拾った一万円だよって伝えておけばよかったかもしれない。そしたら持ち主が警察署に問合せした時にピンとくるかもしれなかった。
でも、もし届けてもらえる予定の一万円札が、私に不測の事態が発生して届けることができなかったら……防犯カメラとかから身元を特定されて窃盗で捕まることになるのかもしれない。「あんた、なんで人様のお金を持ってんの!」「違う、本当は届けようと思ってたのに!」「そんな子に育てた覚えはありません!」「何で信じてくれないのよ!」……みたいな。
そんなこんなで不安になってしまっていたので、月曜日、仕事の昼休み、正午になった瞬間に私は席を立ちました。
早く届けなければ……!
なのに、もう、おばちゃん、ケータイどこにやったのよ。
このままだと私、昼休みの間に職場に戻れないよ。
勝手なもので、十二時四十分、あんなに不安だったくせにこの時私の気持ちは他人様の現金よりも、十三時までに職場に戻れるかという心配、更には昼ご飯を食べられるだろうかという心配に傾きかけていました。
「お待たせしてすみません。どうされましたか?」
ご婦人が携帯電話を探しにカウンターを離れた瞬間でした。落としもの係の警察官が話しかけてくれました。全方位見えている人だ、良かった、助かった、私は落としものを届けに来たんです。
かばんの底からジッパー付きのナイロン袋を取り出します。
「ええと、ドラえもんの袋にお金が?」「いいえ、ドラえもんの袋は私のもので、拾ったのが一万円札だったので、無くさないようにドラえもんの袋に入れて」いい年して警察署でドラえもん連呼。何で柄付きの袋に入れてきたよ。
そこからはスムーズでした。譜面は読めませんが住宅地図を読むのは得意です。番地も特定して拾った届を書きました。
十二時五十分、手続き説明を受けてミッションは終わりました。
入れ違いに戻ってきた小銭入れ受取希望のご婦人は、手ぶらでした。携帯電話が見つからなかったようです。無事に落としものを受け取れますように。
そんでもって昼休み時間内に職場には戻れましたが、昼ご飯は食べ損ねました。
拾いものもしない方がいいよね、と思いました。
(おわり)
待機中にて 霙座 @mizoreza
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