桜にて、猫の首輪

糸永幸湖

桜にて、猫の首輪

「もう、小説を書かないでください」

 その宣告は余りに唐突で、淡白で、そして残酷だった。白い診察室の中で、かちりかちりと時計の音だけが響く。医師の可笑しいくらいに丸みを帯びた二つの目が、私を真直ぐに見ていた。こういう時に、人は総じて冷静過ぎるものだと思う。私の脳は、少しずつ現実を理解して、ああ、そうか、もうそろそろ、終わりなのか、そんな冷め切った思考で満ちていた。

 私は目の前の医師にただ、はあ、と間の抜けた返事をしただけで、後ろに続く医師の説明なんて毛ほども聞かず、ただただ次に書く小説のプロットを組み上げていた。どうせ削る為の命だ、投げ売って損はない。この目の前の医師の持ち合わせる倫理観に則れば、私は無条件に生きなければならないし、つまり、無条件に小説の執筆という行為を棄てなければならない。それは、私の倫理観には十二分に反する事であって、何が正解だとか、そういった議論に持ち込むには主観が過ぎる。だから私は、私の決定を覆すつもりは無い。

 本当に聞いているんですか、なんて叱責を受けて、はいはい、聞いてますよ、とまた適当に返事をする。深い溜息が聞こえたけれども、聞こえない振りをした。どうせ、既に知っていることだ。ちゃんと聞く必要はない。知らなかった所で、特段問題も見当たらない。或いは、一層、誰も経験したことの無いような境地に達する事すら出来るのではないだろうか、なんて妄想に浸って、私は真っ白な部屋を過ごした。

 受付の、お大事になさって下さい、などという定型文テンプレートを聞き流して、一通の処方箋を受け取った。そこに書かれた薬の名前を、どこかで聞いたことがある気がする。確か、精神安定剤の一種だったような。曖昧な知識を撫で回しつつ、どうやらおれは、気狂いらしい、と、頭の中に書き留めた。

 左手に収まった処方箋は随分と軽くて、私の命を削る原稿用紙には足りそうに無い。一枚の紙切れを弄びながら、院内に併設された薬局へと向かう。大きめの病院に併設されていることもあってか、待ち時間はほぼなく、私の順番がやってきた。この処方箋の取り立てる金額で、一体全体何枚の原稿用紙を埋め尽くせるのか。そんな損得勘定に指折る間に、受付の青年が処方箋を回収していった。

 しばらくしてからもう一度名前を呼ばれて、薬の説明を一通り受けた。薬はやはり精神安定剤の一種のようで、脳の過剰な活動を抑制するのだとか。病因治療にはなりませんが、と言われて、そうですか、と一言返す。完璧な程の丸みを帯びた純白の錠剤が、アルミニウムとプラスチックに挟まれて整列していた。それがこちらをじっと見ているようで、なんとも気味が悪い。

 薬の代金を支払って、紙袋に入れられた薬を受け取る。これは、おれを殺す毒薬だ。そんな言葉を、頭の端っこに書き散らして、手に提げた紙袋を意味もなく揺らした。

 病院を一歩出ると、十一月半ばの乾いた風が、肌に容赦なく吹き付けた。紙袋ががさがさと鳴って、目の水分を攫っていく。もうそろそろ北風が強くなる頃だろう。防寒具を出さないとな、なんて思考を巡らせて、私は帰路に着いた。

 小説を書き始めて、八年になる。正確にはもう少し、ちらほらと書いてきた時期はあったけれど、高校で文藝部に入ってからを初年とすると、八年。半ば巫山戯て付けた筆名ペンネームは、いつしか贖罪になり、今でも済し崩しに使っている。長ったらしい名前だけれど、どうにも気に入っていて、それでいて、「君」と関わった唯一の証明だった。

 でもそれも、そろそろ終わるらしい。

 病名はない。なぜならそれが、病気であることも、原因も、何もかもわからないから。あるのは精々仮説程度で、創作物に命を吹き込みすぎた、だなんていう、御伽的メルヘンチック極まりないものだという。治療法は、ない。創作をやめるか、生をやめるか。究極の二択を迫られたところで、多くは一択を取るのだけれども。

 帰りの電車は単調で、車輪の音が鼓膜に響く。折れたカッターナイフの刃のような、軽い思考を弄んだ。電車が短いトンネルの中に入って、窓硝子が鈍く唸る。天井を叩く轟音に、ふと君の事を思い出した。脳裏に、青い組紐が過る。ちりんという金色の鈴の音を残して、その幻想は薄れていった。窓の外は夕刻で、夕陽の手前には青色の、どんよりとした雲がかかっている。私は小さくため息を吐いて、鞄から本を取り出した。


 ──*──


 久しぶりの学校は、相も変わらず寒くて、けれども学ランという防寒具が僅かながらも冷気を防いでいた。昨日の深夜まで話していた君を遠目に認めて、後ろから駆け寄って声を掛ける。おはよ、の一言に、無防備だった君は、小さく肩を跳ね上げた。びっくりした、と小さく呟いてから、君はおはよ、と返す。その一言に満足して、私は昇降口に向かった。

 何をするにも「受験生」の肩書が付く今日此の頃、そろそろ義務教育の終わりを肌に感じていた。大量の課題を消化し終えて、もう後は過去問題を解くのみ、と言えれば万々歳であるのだが、どうにも、私の手際の悪さも相まって、中々に受験勉強は難航していた。小さな不安と焦りが、着々と肥大化していく。丸々と太った懐疑心は、いつしか私を殺しそうなほどで。

 教室に入ると、二学期までの雰囲気とは打って変わって、受験まであと二ヶ月と余日、という空気が漂っていた。二学期終わりの自分の席を思い出して、机にリュックを置く。勉強用具の詰まったそれが、どさりと鈍い音を立てた。

 君は少し後から入ってきて、同じように席を探していた。確か斜め前だったような気がして、軽く目配せる。それに気付いたのか分からないけれど、君はすぐに思い出してリュックを置いた。

 時計が七時半を打って、始業の鐘がなった。すぐ隣が小学校であることもあって、この中学校の鐘は少し変わった旋律を奏でる。これを聞けるのは、あと何回なんだろう、なんて憂愁心理サンティマンタリズムにとらわれた。そう執着するものではないと分かっていても、どうやらこの哀愁感は振り切れない。

 始業式は、体育館で淡々と執り行われた。冬の乾いた空気が、あたりを漂う。その中で繰り返される「卒業」の二文字が、一つの呪いのように私にこびり付いた。いつか私は、誰かの記憶に生きているのだろうか。そんな小さな疑問が、思考をねずみ算式に満たしていった。人は二度死ぬ、なんて言うけれど、その「二度目の死」を「一度目の死」として経験することが限りなく恐ろしいのだ。人は独りでは生きていけない。なぜなら生きるにはが必要だから。人は、誰かに覚えられていなければ易々と死んでしまうのだ。生きながらにして死んでしまうとは、なんと恐ろしい事であろうか。という存在は、何度死ねば気が済むのだろうか。

 そんな思考を巡らす内に、気が付けば始業式は終わっていた。校長先生の有り難いお話を、勿論覚えている筈もなく。終始思惟に徹した私は、ある種の満足感と、心地良い倦怠感を覚えていた。

 教室に戻って、担任から後の予定を伝えられた。明日からの二日間は実力考査があるから気を抜かないように、なんて注意を受けて、そこそこの返事を返す。起立、気をつけ、礼。三年間で洗練された挨拶が、教室に響いた。それを皮切りに、廊下の空気が弛緩する。それでは頑張れよ、受験生、と軽口を叩きながら、担任は教室を後にした。

 各々自分のリュックを持って、教室を出る。少しずつ騒がしくなる廊下に、漸く学校に居る実感。そろそろ帰ろうか、なんて考えて、私はリュックに手をかけた。

 ねえ、一緒に帰らない、と声が聞こえて、振り返った。相変わらずの少し怪しい笑顔で、立っている君。うん、いいよ、と答えて、私達は教室を出た。

 君と仲良くなったのは、精々数ヶ月前。さして社交的でない私と、随分と親しくなったものだ。君との帰り道に少しばかりの寄り道をするのは、いつもの事になっていた。

 中学校の学区が東西へ広く伸びていることもあって、学校のある反対側、つまり東側に住んでいる人は少ない。その中でも特に、近年まで工場地帯であった北東部に家のあった私たちは、元より帰り道が同じだった。小学校区分の影響で、私達が出会ったのは今年度の頭。最初は気にも留めなかったクラスメイトも、今では数少ない友人になっていた。

 学区を大きく東西に分ける高速道路の高架下、ここが私達の通学路の分かれ目だった。排気ガスに埋もれた小さな公園に、一歩足を踏み入れる。頭上に響く、重いタイヤの転がる音。その騒音が、時間の流れに取り残されたこの場所に、降った。時間の止まるような、或いは、ゆったりと進むような。そんな感覚に染められる。私は、この時間が好きだった。

「ねぇ──」

 君が、口を動かした。その口から出た言葉は、薄く広がって、不思議な残響と共に耳に届く。私は少しばかり君に目を向けて、次の言葉を待った。

「私さ、君が好きかも知れない」


 ──*──


 鍵穴に鍵をさして、くるりと捻る。微かな抵抗感と共に、心地良い音を立てながら鍵が開いた。スニーカーを乱雑に脱ぎ捨てて、樟脳臭い部屋へと分け入る。片付けの出来ない怠惰な性分が、私の足を絡め取った。そんな惰性を蹴り飛ばして、構わずに足を進める。惰性がぐしゃりと、音を立てて潰れた。

 部屋の中央に鎮座した卓袱台に腰を下ろして、最早備え付けと化したノートパソコンを立ち上げる。記憶装置の回る音が、小さなノイズとして響いた。ぼんやりと浮かび上がる起動画面を、ただただ眺める。少しずつ明瞭になる意識が、小さく頭を叩いた。

 慣れた手付きでパスコードを入力して、エンターキーを打つ。簡素なホーム画面が開いて、次いでコマンドラインが開いた。普段からキーボードを多用することもあって、私はほぼ全ての作業をマウスを用いずに行っていた。一度でもキーボードから手を話すと、思考が途切れてしまう気がして。

 キーボードを叩いて、メモ帳を開く。真っ白な画面が、私の思考を迎え入れた。頭の中に詰まったプロットを、どろりと白へと垂れ流す。指先に踊る打鍵感が、私の思考を加速させた。飽和した情報達が少しずつ、指を通して解れていく。黒い明朝が左から、津波のように溢れ出した。積み重なっていく情報の山は、少し、少しずつ形を成して、世界と時間を生み出していく。文字と文字とが絡まり合って、一つの生き物のようにうねり始めた。

 言葉を粘土のように転がして、人の形を作っていく。その過去から時間を取り出して、一つ一つと丁寧に、繊維を作って繋げていく。画面の向こうに見える人影に、更なる造形を刻み込んだ。幾星霜の形造った、こころの形を書き出して、一つの泥人形を作っていく。まだ、動かない。けれども確かに画面の奥に、一人の人物は居た。心臓が動いていないこと以外、それは確かに人だった。

 小さく息を吐いて、キーボードから手を離す。画面から目を離して初めて、目が乾燥していることに気が付いた。軽く、伸びをする。立ち上がって足を伸ばすと、足先を痺れがくすぐった。

 もう一度画面の中に目をやると、相変わらず、息をひそめたそれが居た。私の生き写し、と言うにはいささか歪さが勝るけれど、部分的に取り出してみれば、完全に私と一致している。それは私ではないけれど、同時に私でもあった。私自身、私を作ろうとしてそれを作ったわけではないけれど、どうにも願望というものは、理想を生み出す天才らしい。数多の条件分岐の先に、居たはずの私。に書くには、ぴったりかもしれない。

 台所へ向かって水を汲んで、喉を潤した。乾いた体に、徐々に水が染み込んでいく。シンクに残ったまん丸い水滴が、嫌な銀色に輝いていた。こびり付いた水垢が、白く残っている。

 先刻の医師の言葉をふと思い出して、けれども、それを振り払うようにコップを洗った。物語に命を与えて死ねるなら、それは本望だろう。そう自分に言い聞かせて、手元の硝子を布巾で拭いた。きゅっという心地の良い音が、耳をくすぐる。コップを棚に並べて置いて、それから鞄からあの錠剤を取り出した。うん、毒薬なんて、要らない。そう言い聞かせて、その毒薬を塵芥ごみ箱に棄てた。


 ──*──


 段ボールを開いたら、中から日焼けをまだ知らない、真新しい本が顔を出した。それを一束ずつ取り出して、注文表と照らし合わせる。どうやら間違いは無かったようで、注文表のチェック欄は全部埋まった。

 取り出した束を解いて、本ごとに本棚へと差し込んでいく。本屋のバイトを始めて早四年、仕入れの仕事も速くなった。だんだんと、よく見る作家やそうでない作家、あとは久し振りに見る作家。そういった見分けも付くようになってきていた。今解いている一際大きなこの束は、確か三年前の夏にデビューした、新人作家だったように思う。この束で、五作品目だった気がする。中々の執筆速度じゃないだろうか。

 こんなバイトをしてる分には、私も小説が好きで、書いてた時期ももちろんあった。けれども精々数千文字で力尽きてしまうから、気付けば今は書いていない。

 彼のことが思い浮かんで、そして消えた。私の書いた散文を、真正面から褒めてくれた数少ない人。自分の拘りが評価されるというのはなんとも嬉しいもので、その点彼は、私が拘った点をすぐに見抜いてきた。それがあってから、よく書くようになった気がする。それが今では、この手元の小説だ。ただ純粋に、凄い。折角思い出したんだ、今度少しばかり会いに行ってみようかな。そんなことを思いながら、本を店頭に積み上げた。

 彼と初めて会ったのは、高校一年目の冬。インターネットで知り合った、と言ったら聞こえは悪いけれど、信用の置ける知人の繋がりであったので、彼と話した数ヶ月は、信用するに至るに十分だった。

 互いに家が近しかったこともあって、何度か彼とは会う機会があった。同時に、彼の小説を読むことも。あの頃となんら変わらない文体が、書店に回ってきた時は酷く驚いて彼に連絡を取った。少し恥ずかしそうに、通ったよ、の一言。私のことではないのにそれが酷く嬉しくて、その夜中々寝付けない中彼の小説を読んだことを今でも覚えている。

 それからも、彼の文体は変わらなかった。彼の文体は、出会ったあの頃に既に完成されていたんだと思う。やっぱ、すごいな。そんな言葉を宙に投げて、私は業務に戻った。

 冬の風が、店の扉を叩く。帰りは寒そうだな、と思いながらレジの奥に座った。平日の昼下がり、今までこの時間帯にお客さんが来たのは、精々数える程度。けれどもそれでお金を貰えるのだから、楽な仕事だ。足元のパイプ椅子が、小さな悲鳴を上げる。店内には、小さな空調の音だけが響いていた。

 足元に積んでいた、(これは私の私物である)イルカの学術書を開く。何度も読み返したせいで、紙の端はぼろぼろに黒ずんでいた。その色が、私の努力の証だと思うと、少し誇らしくもある。私だって、進んでるよ。そんな言葉が誰に届くでもなく、頭の中を巡った。

 ちりんと扉の鈴が鳴って、誰かの入店が知らされた。ちらりと入口を見遣ると、大体私と同じくらいの年齢の、女性客が入って来た所だった。手元の学術書を畳んで、通常業務へと移行する。とは言っても、彼女がレジに来るまでは暇なのだけれど。

 やることもなしにそのお客さんを目で追うと、入口近くで立ち止まって、新刊を一周。本にはあまり気を留めていないようで、本を手に取ったりはしなかった。それからもとの場所に戻ると、迷わず一冊を手に取って、そのままこちらへ歩いてきた。彼女が差し出した本の、題名が目に入る。彼の本だった。ブックカバーお付けしますか、いらないです、わかりました、五六〇円です。少しばかり嬉しくなって、そう告げる声が跳ねた。一冊、売れたよ。彼女はそのまま本を受け取って、店を後にした。

 その日の業務を終えて私は、彼の新刊を買って帰った。帰りの電車の中で開こうとしたれけど、なんだかそれが嫌で、結局、イルカの学術書を開く。そろそろ卒業論文を書き上げないと、とふと思い出して、陰鬱な気分が私を支配した。

 いや、これもイルカのため、鯨類のため。そう言い聞かせて読み進む。卒業論文という体裁が苦手なだけ。それ以外、何物でもない。論文の内容としては確定しているというのに、諸々まとまらない。もう少しちゃんと授業を聞いておけば良かったな、なんてどうしようもない後悔の中に、小さくため息を吐いた。

 スマホを開いて気付けば、彼の連絡先を開いていた。


 ──*──


 あいつの新刊が出たらしくって、買った。たった一冊を買うためだけに本屋に入るのも忍びなくて、少しばかり他の新刊も見たけれど、特に気になるものも無かった。あいつの本を買う時、書店の店員がやけににこやかだったような気がしたけれど、同志だったんだろうか。そんなどうしようもない妄想を転がして、帰りの電車に乗った。

 ぱらぱらとページを開いて、流し読もうとする。そんなものは愚行だと言わんばかりに、最初の一文字が私の視線を絡め取った。半ば強制的に、読書のリズムが作られる。一つの文字、一つの単語の繋がりが、時間の流れとなって頭の中に流れ込んだ。

 そこにあったのは、高校時代からほんの少し洗練されたあいつの世界だった。ほんとに僅かな変化。けれども、一つの壁を超える変化。そんな小さな変化が、散りばめられて。きらきらしたような、けれども、どこか暗いような、そんな世界。あいつの見てる世界は、こんなんなのか。そんな事を考えているうちに、私は一人の主人公になっていた。


 友人が、人を殺した。復讐心に依るものだった。私はその現場に居合わせて、その秘密を共有することになった。

 彼女は、自首するつもりはないようだった。というのも、これはまだ始まりなのだ、と。彼女の、友人。それが殺された、酷い辱めを受けて殺された、その復讐なのだと言っていた。それを聞いて私は、どうすることも出来ない。ただ、見守ることしか出来なかった。

 それから私は、観測者になった。彼女が何かをする時、その後ろに着いていった。彼女が人を殺す時だけは、私は喫茶店で珈琲を啜っていたけれど。そしたら彼女が喫茶店にやってきて、少しばかり悲しそうな顔をしながら、珈琲を注文した。けれどもそこに、後悔はない。ただその友人を思い出して、懐かしんでいるだけだった。

 そんなことを、二度繰り返した。彼女を突き動かしていたのは、その友人の無惨な最後だった。けれども記憶は薄れる。そして彼女は苛まれる。けれども、幾人もを手に掛けた彼女に、正常な思考は残されていなかった。ただただ、過去を思考して思考して、その行為に意味を見出そうと。

 それから、


 扉の開く音にふと目を上げると、家の最寄駅に着いたところだった。急いで鞄を掴んで、走って降車する。心臓が、おかしいほどに鳴っていた。許容量を優に超えそうな程の血液が、毛細血管の奥まで押し込まれる。上がった息が、喉を焼いた。けれどもこれは、驚きだとか、走ったからだとか、それ以前に。遅れてやってきた疲労感が、心に重くのしかかる。

 やっぱりあいつは、相変わらずだ。読者を登場人物にねじ込んで、蛸殴りにするのが趣味なんじゃないだろうか。そんなことを思うほどには、あいつの文章はいかれていた。ある種の侮蔑と尊敬の入り混じった評価が、心の中に渦巻く。削られた心の欠片が、ぽろぽろと崩れて、それをどうにかしようと押し止めた。けれどもそれを嘲るように、あいつは脳に、回想することを強要する。なんとも酷い。腹のそこからうずうずと、どうしようもない笑いが込み上げてきた。久し振りに摂取したあいつの文章に、口角が釣り上がる。私は深く、息を吸って、それから吐いた。

 帰りの道はなんだか、少し軽やかな足心地。毎日の倦怠感という友人は、今日は息を顰めていた。久しく感じてこなかった、文藝部の頃の満足感。あの頃ありふれていた感覚は、今では化石になってしまっていたけれど。その一角が、丁度光に当てられたように姿を見せる、そんな心持ち。壊れないように、壊さないように、そっと仕舞っておこうか。鞄の中にある一冊の本が、こうも私を変えるとは、それが例え一時としても。私は物語の上では、決して私ではないのだから。


『屑で在ることは変わりないけれどもね』


 ふと、そんな自虐が脳裏を過ぎる。青空は、どこまでも高かった。


 ──*──


 君は、私が初めて愛した人になった。今思い返してみれば、酷く盲目的な粘着質の感情を、どうにか恋と名付けていただけの、継ぎ接ぎだらけの関係。けれどもあの頃の私たちは、それを恋だと、愛だと信じて疑わなかった。でも、だからこそ、あれは明確な愛だったのだ。そう思える。

 こんなことを思い出すのは、君の命日が近いからだろうか。ふとカレンダーを見てみると、その日付けは三週間後だった。君が死んでから、七年程。こびり付いた罪悪感だけが、いつまでも消えない。君を切り捨てたのは、私だから。どうして君が死んだのか、自ら、命を絶ったのか。知っているけど、知らない。知りたくなくて、まだ放置していた。

 部屋の隅に備え付けられた箪笥に目を向ける。その、一番下。開けるのが酷く億劫で、いつまで経っても片付けられない君の残り香。今の私を知ったら、君は驚くだろうか、呆れるだろうか。それとも、怒るだろうか。そんなことはないんだろうな、なんて頭では理解していても、私がそれを許さない。なぜなら、私は償わなければならないから。ただ、それだけの理由。君が気に病むことじゃない。そんな君の声が聞こえた気がしたけれど、頭の中には書き留められずに溢れ落ちる。

 視線を戻すと卓袱台の上のパソコンが、ちかちかとカーソルを点滅させていた。キーボードに手を乗せて、それから暫く思考する。そうだ、考えろ。ただただ物語に、命を削り落とせばいい。それが唯一、おれに出来る贖罪なのだろう。そうではないか、否定など、できないのだろう。そう言って、おれが私を責め立てる。少し呼吸を置いて、私は指を動かした。

 どれほどか時間の経った頃、一通のメールがスマホを鳴らした。この生活を始めてから、私の連絡先を知る者はめっきり減った。連絡手段を唯一メールに絞ったのだから、当たり前ではあるけれど。両親ですら、本当に必要な時にしか連絡を寄越さない。常日頃から連絡を取っているのは担当編集者の荒木さんと、それから二人の顔が脳裏に浮かぶ。あいつらも、随分物好きなものだ。

 荒木さんかと勘繰って、メールの受信画面を開いた。そういえば診断の件を、荒木さんに知らせないとな、なんて思っていると、どうやらそうではなく。七浦しちうら海音うみね、の文字列が、差出人欄に表示される。そういえば、近頃会っていなかったっけ。そんなことを思い出して、メールを開いた。

 水族館に行こう。メールの内容を要約すると、そういうことだった。それから、新刊を読んだこと、最近あったこと。そういったことを散りばめた文章の全容が、これだけだとは、彼女らしい。しかも彼女のことだ、海豚いるか水槽の前から動くつもりもないのだろう。

 了承の旨を返信して、それからカレンダーに予定を入れる。少しだけ、楽しみにしている私がいた。少しばかりにポインタを持て余して、もう一度メールを開く。荒木さんに、連絡しないと。気が付けば、宣告を受けてからもう二週間。街中もクリスマス一色に染まってきている。流石に、放置し過ぎただろうか。大きく溜息をついて、メールを打った。

 病気については、何も書かなかった。ただ、諸事情によりこれが最後の小説になるだろうということを、それだけ。つまびらかに書いても、さして意味はない。私も一人、歴史の中に埋没していくのだろうから。そしていつか、忘れられていく。有象無象の、一つになる。現代が古典になった頃、恐らく私はそこに居ない。そこには村上春樹とか、東野圭吾とか、そういうものが居るのだろう。

 気が付けばとうに日は落ちて、天井の薄暗い輪っかだけが光っていた。少し、お腹が空いている気もする。立ち上がって、台所に向かった。冷蔵庫の扉を開けると、ぶぅんと鈍い音。白い光に照らされた庫内は、その全貌を曝け出していた。真っ白な底が、私の無能さを示している。どうやら、買い物をしなければならないらしい。溜息を吐いて、私は鍵を手に取った。


 ──*──


 君が死んだと聞かされたのは、昨日の夜だった。

 翌日の始業式の準備をしていたところに、スマホのバイブ音が鳴り響いた。そろそろ使い始めて九ヶ月になるスマホには、小さなひびがいくつも走っている。普段使いする分には不便ないけれど、どうにも見栄えが悪い。少なくともあと二年と少し、高校生活ではお世話になるんだ。そんなことを思いながら、歪な画面に明かりを点けて、パスワードを解除した。

 普段から多用しているメッセージアプリを開いて、連なる文字列を追う。今日一日を丸々放置してしまっていたからか、未読通知が二桁後半は溜まっていた。どうにもこういうものには目を通さなければ極まりが悪くて、読むのに時間がかかってしまう。

 あるグループでの一連の会話の流れの中に、その一言は突如として現れた。


──ねぇ、桜田が死んだって……。


 何のことだか分からなくて、文字の上を視線が転がる。二転、三転してようやく、言葉が少し、少しずつ、脳に浸み込んできた。どうして、君の名前と、死という言葉。その二つの文字が、同時に現れるのか。解らない、わからない。背骨の上を、氷が滑るような寒気が伝う。耳鳴りが、視界が、どうにもぐちゃぐちゃと、脳に刺激を送り続けた。どうして君は私の知らないどこかで死んでいるのか。どうして君は死んだのか。何一つ分からなくて視界がブレる。

 メッセージの続きを確認しようとして、指が震えた。どうして死んだのか、それを知ることがたまらなく恐ろしい。もし、あの時。そんな言葉を今から私が並べ立てて、君の死をどうにか撤回しようと足掻かなければ、到底救われない、そんなどん底に堕とされてしまうのではなかろうかなんて、妄想が脳裏を支配する。

 スマホを指でスクロールすると、その先には混沌が綴られていた。みんな、君の事を知っていたから。君の事を心配する、優しい人達だったから。驚愕する者、言葉を失う者、それからどうにも受け止められない者。そんな中、君が死んだことを伝えた一人が少しずつ、親から聞いたという情報を零して行った。

 朝、君が部屋から出てこなかったこと。お昼になっても起きてこなくて、母親が部屋を覗いたこと。そこはもぬけの殻で、すぐに警察を呼んだこと。それと大体同じ時刻に、近くの河から死体が上がったこと。

 頭が、真っ白になった。どうして死んだのかなんて、解り切ったような。君の死そのものが、答え合わせだった。或いは、決して逃げられはしない、重い宣告の一言だった。


──桜田優花は、


 その一生涯に渡る罪状が、私に突き付けられた瞬間だった。心に深く、焼き印を押されたような、鈍い痛みが走る。私は君を殺した。そう頭の中で繰り返して、私をそれが飲み込んでいく。現実も曖昧も交錯して、私の意識はどこか冷たい場所へと投げ出されていた。

 手元からスマホが滑り落ちて、足元で鈍い音を立てる。拾い上げると、画面には大きく、一筋。少しばかり液晶が乱れて、所々文字が読めなくなってしまっていた。辺りには小さな破片がいくつか、無残に散りばめられている。それを指先で摘まむと、ちくりと痛みが走った。赤黒い液体が、指先から音もなく溢れる。それをどこか遠くに見ながら、私はどうにか破片を拾い集めた。


 それから寝て、覚めた。体がやけに重い。少しずつ意識が覚醒するに連れて、昨晩の訃報が脳裏にちらついた。最初は悪夢か何かだろう、なんて認識していた私の頭は、徐々にそれが明確な、現実だったことに気付き始めているようで。

 スマホを開くと一月六日の日付が、歪な発色で描かれていた。どうやら昨日落とした衝撃で、画面に不都合が生じたらしい。画面に走る亀裂の周りが、どうにも赤、青、緑といった色合いにちかちかしていた。

 昨日の後に、どうやら葬儀が今晩中に執り行われるらしい、ということが知らされていた。葬儀、という言葉が、私の日常の中に入り込んでいることが、どうにも現実味を帯びない。いや、まだ認めたくない自分が居るのだろう。でなければ、君の葬儀に行きたくないなんて、そんなことを考えるはずがない。そんな意味を持たない自己分析を持ち出して、愚鈍な思考に時間を溶かした。

 それからふと思い立って、生徒手帳を開いた。君は親族なんかじゃないから、忌引きは適応されないよね、なんて当たり前を独り言つ。欠席の理由として、学校は想定していないから。そう自分に言い聞かせて、私は学校へ行く準備をした。

 その日は、酷く静かな一日だった。いや、静かと言うには少し違う。私一人が、静けさの中に身を置いていた。辺りの喧騒も、北風の吹く音も。何もかもが私に届く頃には、小さな囁きよりも小さかった。やたらと時計がゆっくりと進んで、秒針が一つ進むごとに五回の瞬きをする。冬の寒さはどこかへ行って、頭の中は真っ白な生ぬるさを保っていた。

 始業式が校内放送で執り行われて、その後に実力考査を受験する。その間、心ここに在らずと言うべきか、どうにもふわふわとした心持だった。どうにか少しずつ現実を認識し始めたのは、その日の考査の終わりを告げる、鐘の音を聞いた時だった。

 まだ少しばかり浮ついた思考を、風船みたいに繋ぎ留める。机の上に転がるシャープペンシルを、かしゃりと音を立てて持ち上げた。重みが指に、引っ掛かる。筆箱の中にじゃらじゃらと入った、文房具に紛れ込ませた。

 帰りの支度を整えて、リュックを背負う。ふと一人のクラスメイトと目が合った。何事もなかったかのように視線は外れて、私は独り教室を出る。考査の解答を擦り合わせる声、自分の解答に一喜一憂する叫び声。廊下にこだまするそれがどうにも不快に感じて、私は早足で昇降口へと向かった。

 帰りの電車を、逆方向に乗った。多分、君の面影が残る街から逃げたかったんだと思う。どこかで君の面影に、ふとした拍子に出会うんじゃないか。それが嫌で、私は逃げた。

 何駅か乗った後、乗り換えの案内が放送された。どうやら比較的大きな駅のようで、周りの乗客が次々と、自分の荷物を持って立ち上がっていく。形成された人波に、立ち上がる程の気力もなかった。空っぽになった車両に揺られて、私はどんどん、知らない街へと運ばれていった。

 何の気なしに降りたのは、聞いたこともない小さな駅だった。乗る人も、降りる人も居ない。一月の冷気が、辺りを漂っていた。一面の住宅街の奥の方に、微かに海が見える。海が見えるというよりは、海辺のポートタワーの先端が、微かに顔を出しているのだけれども。

 どれだけ時間が経っただろうか。ふと思い立って時刻表を見てみると、次の電車は三十分の後だった。どうやら一本を逃してしまったらしい。電車に気が付かないなんて、と思ったけれど、逃げるという目的は十分に達しているようにも思えた。

 ホームは島式で、幅は約二メートル半。狭いホームの真ん中には色の禿げたベンチが三つ、誰にも座られることなく佇んでいた。申し訳程度のトタン屋根に、電光掲示板がぶら下がっている。数分ごとに通過電車が、目の前を掠めて行った。

 五分程を無為にベンチで過ごした時、家の反対方面行き、つまりさっきまで私が乗っていた方面だけれど、その電車がホームに滑り込んだ。扉の開く音が聞こえて、腰の曲がったおばあちゃんが後ろの車両から出てくるのが見えた。何となく、その後姿を目で追う。もし君が生きていたら。そんな仮定がふと浮かんだ。

 何やってんの、と唐突に、後ろから声が飛んできた。予想外の出来事に、一瞬たじろぐ。声のした方向を見遣ると、さっき目の合ったクラスメイトがそこには立っていた。

 私は彼女の事を良く知っていた。その名前は芥川乙癸いつきという。同じ文藝部で文字を書く仲間、というのが適切だろうか。好敵手という表現も在り得るだろうか。少なくとも私は、少々彼女の書く文章が羨ましくもあった。

 先程の彼女の問いに、ぼーっとしてた、と答えると、ふうん、と小さく彼女は言って、それから私の隣に座った。無言が、私と彼女の隙間を埋める。一羽の鳥が、頭の上を向こう側へと飛んで行った。なんとなくそれを目で追いながら、そう言えば、彼女の家はこっちの方面だったっけ、と思考を巡らす。

 君はなんでここに居るの、と尋ねると、彼女はしばらく考えてから、目が合ったから、と零した。それから何かを思い出したように、私の家、三駅先だし、と付け加える。どうにも不自然な言葉の流れがおかしくって、笑った。

「大丈夫?」

 そう、彼女が聞いた。暫く考えてから、ああ、そうか、目が合ったから、彼女はここに居たんだった、と思い至る。それから私は口を開いて、閉じた。言葉にしようにも、それを口に出すのが怖かった。いや、これは嫌悪かもしれない。孰れにせよ、私はどうにも口を閉ざしたままだった。

 それからまた、沈黙が流れた。砂時計の砂が落ちるみたいに、さらさらと。結局電車が来るまで私は、一言も発さなかった。扉が閉まる時になってようやく、じゃあね、と彼女に声を掛けた。また明日、と彼女が答えて、冷たい鉄の扉は静かに私たちを仕切った。


 ──*──


 一月二日の午前九時、港の風は穏やかで、うっすらと潮の香り。帰省のついでであろう一団がぞろぞろと、水族館前には並んでいた。彼とは受付の前で別れて、私一人で待機列に並ぶ。目当ては三が日の期間中、毎日先着二百名に配布される卓上カレンダー。去年は開館時間に到着してしまったため、入館した時には既に、在庫が無くなってしまっていたのだ。

 本来ならば受付で入館チケットを買うけれど、私は年間パスポートを持ってるお蔭で待機列に直行できる。彼には自事前に前売り券を買わせておけば良かったな、と少しだけ後悔した。開館時間は三十分後、間に合いそうな気もするけれど。

 開館時間は、思ったよりも早くに訪れた。順番に入館していく人の列が、じわじわと進む。年間パスポートを係員に見せて、私も列に倣って入館した。久し振りの、水族館の独特の匂い。実に一か月振りだった。先月は卒論の提出に追われ、中々来れなかったのだから仕方がない。とは言っても、再提出を求められているところなのだが。

 入館して左手に、目当てのブースは設置されていた。コインロッカー前のスペースに、長机が二台程、横並びにして置かれている。その上には紙袋が積まれていて、どうやら着物を着た二人のお姉さま方が対応しているようだった。

 SNSをフォローしてお並びください、と案内をする係員の横を通り、列整理のテープに沿って歩く。フォロー画面を彼女に見せて、紙袋を一つ受け取った。少し中を覗くと、カレンダーと紅白餅。去年と変わらないらしいラインナップに、胸を撫で下ろす。

 数分した頃、彼が入館してきたのが見えた。軽く手を振ると彼も気付いたようで、こちらへ駆け寄って来る。彼は私の手元を見ると、良かったじゃん、と言って笑った。まだ残ってるよ、と伝えると、ありがと、っと言って列に加わる。なんだかそのやり取りが懐かしくって、口の綻ぶ私が居た。

 彼と最初に知り合ったのは、高校生の頃だった。インターネット上の創作者のコミュニティで始まった私たちの関係は、いつしか随分と親しい間柄へと変わっていった。創作者として、友人として、それから……。いや、これはやめておこう。彼が受験生になってからは、交流はめっきり減ってしまったけれど、今でも連絡自体はよく取る仲だった。

 今日誘ったのは、本当にただの気紛きまぐれだった。ただ、誰かを誘おうとした時に、彼の事が真っ先に脳裏に浮かんだから。それだけの理由。本当に、それだけ。自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。

 暫くして戻って来た彼は、嬉しそうに一枚の紙袋を抱えていた。その顔を見ただけで、彼を誘って良かったなと思える。どこ行こうか、と尋ねると、どうせイルカの前から動く気なんてないんでしょ、と彼が言った。ばれてたか。

 彼の言葉に甘えて私は、じゃあ行こう、と言って歩き出した。少し離れて後ろから、彼が付いて来る。ほんの一瞬、寂しいなと思ってしまったのは、どうしようもない私の我儘だ。時の流れという圧力を、押し留めるだけの厚い硝子。私と彼との間には、見えないけれども確かにあった。

 入口から向かって右手。大きな硝子の向こうには、青い世界が広がっていた。灰色の巨体がするすると、水の中を飛ぶ。きらきらと光る水面からは、光の線が差し込んでいた。奥の方でひっくり返った彼らは、ゆっくりとこちらへ近付いて、それからいきなり上昇。それに歓喜した子供たちが、きゃっきゃっと声を上げた。

 水槽の前に近付くと、一頭のイルカがこちらへ寄って来た。頭のてっぺんの白い傷の下、二つの黒い丸がこちらを覗く。すかさず私はカメラを構えて、シャッターを押し込んだ。ぱちりぱちりと、軽やかな音が時間を切り取る。浮上する彼女に手を振って、それからもう一枚。

 後ろを振り向くと彼が、楽しそうだね、と零した。そりゃ、楽しいよ。そう返すと、それもそうか、と彼が言った。それから彼は、今のどの子だっけ、と一言。反射的に名前を答えて、それから見分けのコツも説明しておいた。

 それから結局三時間くらい、私たちはイルカ水槽の前に居た。彼も六頭程の識別を覚えたようで、さっきから名前を呼んでは手を振っている。彼を連れて来て良かった。今度こそ、そう思った。

 暫くしたころ、一枚のポスターを彼が見付けた。彼に着いて案内されるとそのポスターには、先月の学会で発表したもの、と注釈。その内容は、イルカの集団行動性とホイッスルについて。脳裏にふと、卒業論文の内容が過る。参考文献の不足分。今回の卒論で足りなかった、最後のピースを拾った気がした。

 内容を読み進めると、研究の方向性は異なるものの、転用出来そうなデータがちらほらと。思わぬ発掘に、心を躍らせる。論文の公開情報をメモに取って、その場を立ち上がった。ふと隣を見ると、柔らかに笑う彼。時間取ってごめんね、と声を掛けると、大丈夫、と彼は答えた。

 思い立ってタイムテーブルを確認すると、三十分後からはシャチの公開トレーニング。見に行かない、と尋ねると、どうせなら行こう、と彼は言った。二階へ上がるエスカレータが、私たちを上に運ぶ。日の光が、眩しかった。

 お昼時だったので、売店でフライドポテトと唐揚げを買った。彼と二人で同じものを分けて食べるとか、そういうことは初めてのような気がする。まあ、消去法でこれしか食べるものが無かっただけなのだけれども。

 観覧席へ出て見ると、どうやら既にぽつぽつと、何人かの人は席に着いているようだった。シャチの公開トレーニングでは終盤、シャチが水槽手前の中央にあるメインステージに上がって来るパフォーマンスがある。それをカメラに収められる座席を探してみると、前列の丁度真ん中に空席を見付けられた。今日は良い事ばかりだな、なんて楽観が、私の脳をちりちりと痺れさせる。丸々と太った鳩が、私の頭上を横切って行った。

 席に座ると、どうやら丁度良かったようで、目の前にはメインステージが広がっていた。微かに吹く風に、潮が溶けている。緩やかに流れる時が、暖かな日差しを受けていた。大プールの水面に、きらきらと光りが踊る。どこかで鳥が、高く鳴いた。

「私ね、もしも死ぬならこのプールで溺れたいんだ」

 フライドポテトを摘まみながら言う事では決してないけれど、私はそう口走った。言い終わると同時に、フライドポテトを奥歯で磨り潰す。すると彼は笑って、それから視線をどこか、遠くに投げて言った。

「君はやっぱり、イルカが大好きなんだね」

「そりゃそうだよ。あの子たちになら、殺されたって文句は言えないくらいには、好きだから」

 すかさずそう応えると、彼はもう一度笑った。それからフライドポテトを三つ摘まんで、口の中へと運ぶ。一つ零れたフライドポテトを、さっきの鳩がついばみに来た。しっしと手を振ったけれども、意に介さずに、鳩は順調にその丸みを増長させる。こうして君は太っていくんだな。鳩は満足そうに、くるくると鳴いた。

 また小説書いてるの、と彼に聞いた。小さな興味だった。うん、書いてるよ、と彼が答える。君って、暗い小説が好きなの、なんて尋ねると、好きではないかな、ただ、そうなちゃうんだ、と彼は言った。それがなんだか寂しそうで、ふと彼を見る。けれどもそこには、いつも通りの君が居た。

 私が多分、そういう人間なんだよ。そう付け足した彼の言葉が、やっぱりどこか悲観的で、心の奥がちりちりと焦げる。君は優しいんだから、そんな事言わないでよ。心の中で、そう呟いた。

 高校生の頃さ、君が見せてくれた小説。ほら、才能のやつ。あれ、結構好きなんだ。そう言うと彼は、そっか、と零した。君には、優しく在って欲しいんだよ。君には優しさを、誰かに配れる力があるじゃない。だからどうせなら、ハッピーエンドが良いじゃんか。そう言おうとしたけれど、開演のブザーが鳴り響いた。届かなかったこの言葉は、口の中にいつまでも、ほろ苦い痺れを残していった。


 ──*──


 結局、七浦には何も伝えなかった。死んだら恨まれそうだな、なんて、ほんの少し思う。けれども、彼女は前を向いていたから。彼女には、私のようになってほしくなかったから。

 昨日のことを思い返しながら、ふとカレンダーを見る。君の命日が、三日後だった。君の顔を、声を、思い出そうとしてみたけれど、どうにも思い出せない。君が最後に言った、ちゃんと私を責めてよ、の一言だけが、ただただ私の心に刺さっていた。

 私は自分勝手な生き物だ。私は自分勝手で、自分が可愛いんだ。だから私は、君を責められない。君に何も言わなかったのも、君に期待できなくなったから。君には私を助けられない。そう分かった上で、君の好きにさせていた。君からしたら、酷い話じゃないだろうか。

 私の心が壊れかけたのは君の所為だ、どうにもならないとこまで追い詰められたのは君の所為だ。面と向かってそんなことを言う気力もなかったし、そんなことをしたくないのは、私の我儘だった。

 私が被害者面をできていたら、私はそれで十分だった。けれども同時に、君を加害者にもしたくなかった。中途半端だよな、と語りかける。自分にか、それとも君にか。嘗て私が優しさと呼んだそれは、どうにも歪で、思い返してみれば、これが到底そんなものではないことが良くわかる。

 私は、君を殺したんだ。君の感情を、いともたやすく粉々に。私は言葉を、君にぶつけた。それが何を引き起こすかなんて、考えもせずに。けれどもそれが、直接君を殺したかどうかは分からなかった。

 私はゆっくりと立ち上がって、一つの箪笥へと向かった。そこには、随分と長い事放置していた、君の最後の言葉がある。君は死んだとき、遺書を遺さなかった。けれども一通、私への手紙を遺していたと、後から聞いたっけ。君の両親は私の事を恨んでいただろうから、どうせ遺書として警察の厄介になっているのだろう、と思っていたけれど、それは未開封の状態で私の元へやってきた。けれどもどうしても読むのが怖くて、ずっとしまい込んだ末、今でも封はされたまま。

 一番下の引き出しを開けて、茶色い封筒を取り出す。表には簡潔に、私の名前が記されていた。封を切ると、あの頃よく嗅いだ、君の香りがふわり、と。中には一枚の便箋が、三つに折り畳まれて入っていた。

 開くとそこには、随分と懐かしい、君の丸い字があった。


  ***


 君がこの手紙を読んでいるのは、私が死んでからどれだけ経った頃ですか? 少なくとも、君の手に渡ってから数日、などという日数ではないでしょう。君が臆病なことは知っているし、嫌なことがあったら逃げ出すことも知っています。それから何かを思い込んで、勝手に暴走することも知っています。

 単刀直入に言いましょう。私は君を恨んでいます。けれどもそれは、私の死に直接は関係ありません。逆に、君が私を支えてくれたからこそ今まで生きて来れた、というのが正解です。その支えが無くなってから半年、どうやら私にはこれしか道が残されてはいないようでした。

 私は、世間からズレた人間でした。そのことは君もよく知っていると思います。そんな小さなズレが溜まりに溜まって、今ではどうしようもない程に肥大化してしまったのです。何をしても悪くなる一方で、足掻けば足掻くほど深く沈みこんでいく泥沼のような日々でした。

 けれども私が死んでしまっては、君の立つ瀬がないような気がして、どうにか踏み止まっていたのです。けれども逆に、私が死んでしまえば私は君を恨む理由もなくなるとも思いました。君が私から逃げたように、私は世界から逃げることを決めました。君が私に何も言わなかったあの時のように、私の事は私だけで決めてしまいます。そうすれば、あの君との日々に生じた歪は解消できるように思うのです。

 長々と書きましたが、君は私の事を考える必要はありません。とっとと忘れてしまえ、というのが本音です。(もちろん私の存在を忘れろという意味ではないけどね)君と出会えたことを、私は嬉しく思います。ありがとう。


                    ──桜田優花


追伸 猫の首輪(覚えてる?)を持ったまま死ぬのは君を責めてしまいそうなので、ここに同封しておきます。


  ***


 封筒の底を覗くと、青い組紐が一本、その中央に鈴をつけて入っていた。取り出すと小さく、ちりん。確か君が、受験のお守りに、と言ってくれたものだっけ。腕に巻きつけていると、ちりんちりんとよく鳴って、まるで猫の首輪だね、なんて言って笑い合った。

 君と私でお揃いで、出かけるときには必ず着けていたっけ。私の分は、随分と前に失くしてしまった。ずっと輪っかにしていたせいで、外せなくなってしまったのが懐かしい。

 便箋をそっと折り畳んで、組紐と一緒に封筒の中へ戻す。それからふと思い立って、小説の設定も、下書きも、全部のデータを削除した。どうせなら、ハッピーエンドがいいじゃないか。君が未来に、進めるくらいの。


 ──*──


 あいつから直接連絡が来るなんて、天変地異でも起こるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、私は電車に乗っていた。見慣れない景色が目の前を、滑るように走り抜ける。ふと高校一年生の三学期、始業式の日の帰りの事を思い出した。あの時は確か、あいつが見知った景色の中に居たんだっけ。今ではどうやら、逆になってしまったようだけれど。

 事前に知らされていた住所の、最寄りの駅に降り立つと、二月の頭のまだ冷たい、乾いた風が吹きつけた。寒い。こんな時期に呼び出したんだ、恨み言の一つや二つは見舞ってやろう。そう思いながら目的地へと足を運んだ。

 メールには、少々込み入った事情があるから、執筆を手伝ってほしい。そう書かれていた。今まで遠くに眺めていた世界が目前に迫ったものだったから、多少興味本位ではありながらも、了承の旨を伝えた。そもそもあいつが他人を頼っている時点で、どうにものっぴきならない事情が有るのだろうと予想はしているのだけれども。

 目的地に着くと、そこは二階建ての木造アパートだった。概ね引っ越しの時に、賃貸料をケチったんじゃなかろうか。少なくとも、大学在学中に一度遊びに行った時には、もう少しまともな家に住んでいた。そういえばあいつは、興味のないものにはとことん興味のない人間だったな、と思い返す。

 今にも崩れそうな階段を上って、二階の目的の部屋の前に立つ。あいつの名前が表札に入っていることを確認して、それから無遠慮にチャイムを鳴らした。三回連続でチャイム押すのは礼儀だって、うちのおばあちゃんが言ってた。言ってないけど。

 そんな言葉を並べ立てた後になって、そういえば鍵は掛かってないから勝手に入ってこい、と言われていたことを思い出す。うん、これは礼儀だから。そう自身を正当化しながら、私は木製の扉をがちゃりと開けた。

 嘗てからあいつは、自分は片付けの出来ない人間だ、と言っていたのを覚えていたから、果たしてどんなゴミ屋敷が待っているのかと半ば期待していたのだけれど、扉の先にある部屋は、多少散らかってはいるものの、想像よりは随分と片付いていた。けれどもそれがどうにもおかしくて、よくよく観察してみると、なるほど、必要最低限の家具の他、一切の欠落したなんとも質素な箱であることが分かった。あいつらしいというか、何というか。二重の意味で裏切られたような気分になって、理不尽に一発くらい蹴ってやろうかと家主を探した。

 私を呼び出しておいたのに、礼儀に適った三連チャイムを無視した挙句、二度も私の期待を裏切った張本人は、安らかな寝息を立てて寝ているところだった。反射的に脇腹に蹴りを入れると、どうやらしっかりと入ってしまったらしく、軽快な咳き込みと共に目を覚ました。

 寝起きのぼんやりとした目付きが、少しずつ焦点を合わせていく。それから私が立っていることに気が付いて、おはよう、と声を掛けてきた。おはようではないだろ、どう考えても、とそれに返して、それから早く起きろと急かしておく。頑張って早起きした私の苦労を返してほしい、本当に。

 ゆっくりと上体を起こしてから君は、まあ座って、と一言言った。素直にそれに従うと、それから君の身にあったことを話し始めた。

 君が特殊な病気だということ、小説を書くことがその原因だということ、近頃文字を打つのも儘ならないこと、そして、寿命はそう長くないということ。その一つ一つが初めて聞くことばかりで、気付けばさっきまでの呆れも不満も、どこかへ行ってしまっていた。

 もう少し早くに話してくれれば良かったじゃないか、と内心思いながらも、けれどもこれは君の事だ、本来私は関係ないじゃないかと納得する。私を今日呼んだのは、私に代筆を頼むためだったらしかった。

 どうして私なのか、とふと思って、けれどもめんどくさくて考えるのを辞めた。私と君の仲だ、少しくらいは手伝ってやろう。そう心の中で零して、それから私は君の言葉を書き綴った。

 君の口から出てくる言葉は、どうにも洗練されていて、それが私を介して綴られていくのが正しくないような。本来この言葉たちは、直接耳に届くべきじゃないんだろう、なんて考えながら、私は指を動かした。

 一時間近くそれを続けた頃、一旦休憩にしようか、と君が言った。入力した文字数を数えると大凡おおよそ千字で、彼にしては少ない文字数だなと気が付く。けれどもそれは、恐らく私を介しているからだろう。少しばかり申し訳ない気持ちになって、小さく溜息を吐いた。

 何か飲む物はあるかと尋ねると、君は一言、水道水と答えた。やっぱこいつの生活終わってるだろ、と思いながら、私は蛇口を捻った。もしかして実はここの水道水は、美味しいのだろうか。そんな妄想をしてみたけれど、うん、水道管の味がする。私が愚かだった。

 時計を見ると午前の十一時。恐らくまだこの後も、書き続けるのだろう。これだけの長丁場を言葉に費やすのなんて、何年振りだろうか。そんなことを思いながら、コップを洗った。

 十分程の休憩の後、また私は言葉を並べ立てた。君の言葉に直接的に触れるのは随分と久しくて、そう言えば文藝部だった頃、よくこうしてプロットを聞いたな、と思い返す。言葉の生み出す抑揚が、どうにも懐かしい。なんだか昔に戻ったような、そんな気分が私を支配した。夕暮れ時の、地学室の一室。その隅っこで、二人で散文を書いていた。時々君が馬鹿みたいなことを言って、それを私が一蹴する。そんな風景の中に、今、居るかのような。まあ、所詮過去は過去でしかないけれども。

 そんなことを考えながらも、君の言葉の濁流は、留まるところを知らなかった。一切の淀みなく、言葉の流れが寄り集まって、織りなす世界が現れる。全く君の頭の中は、どうなっているのだか。許されるのなら、かち割って覗いてみたい。猟奇殺人者じゃないから、しないけど。

 そんな調子でまた一時間経って、お昼を食べ、また書いて、休んで、書いて、休んで。その繰り返しの中で、物語だけが先を進んでいった。終盤に近付くに連れて、言葉の緻密さが、煌びやかに形を成していく。私はただひたすらに、書いているのか、読んでいるのか。境界線を曖昧に、言葉を並べていくだけだった。

 ふと気が付くと、時計は夜の八時を指していた。今日は一旦終わろうか、と君が言って、流石にそうしてくれ、と私が答える。晩御飯はどうする、と彼に聞かれて、どっちでもいいよ、と答えた。とは言え、冷蔵庫の中身も少なかったし、食べていくとしても何を食べるのやら。そんなことを考えていると、もし食材買ってきてくれるなら好きなもの買ってきていいよ、お金は出す、なんて君が言うから、素直にあやかることにした。蟹鍋食べたい。

 スーパーはアパートから、徒歩で五分の場所にあった。夕焼けで、空が金色に染まっている。本当に、あの頃に戻ったみたいだ、なんてことをふと思った。そこそこ大きめのスーパーのようで、広い駐車場には車がひしめいている。スーパーの中は暖房が付いていて、丁度心地の良い温度だった。買い物かごを掴んで、ふらふらと歩き出す。

 白菜、しめじ、玉ねぎ、と食材を籠に入れて行って、心優しい私の善意でインスタント食も入れておく。また君の食料調達のために呼び出されるなんて、御免だ。随分と自分本位な気もするけど、それが私だし仕方がない。それに誰も不利益を被らないのだから、むしろろエコなんじゃないだろうか。環境への配慮というよりは、人道への配慮。

 海産物コーナーへ着くと、丁度蟹が売られていた。タイムセールが掛かっているようで、最後の一杯。すかさずそれを買って、捌いて袋に入れてもらう。それから細々としたものを買いそろえて、私はスーパーを後にした。

 アパートに戻って君に蟹を見せると、一瞬顔を引きつらせて、それから何事もなかったかのように卓上コンロを準備した。レシピを調べて具材を入れ、コンロに火を点ける。暫く経つと、蟹の香りを纏った湯気が、部屋全体を満たして行った。

 やはりと言うべきか、食卓は随分と静かだった。たった二人の食卓で、蟹をつつく。静かになり得る要因を取って固めたような状況だけれども、蟹が美味しいからそれでいい。人の金で食べる蟹、うまい。

 蟹の鋏を冷ましながら、そう言えば、と私は口を開いた。どうして私を呼んだのか。私でなくても良かったはずだ。君の口から一度だけ、とある友人の話を聞いたことがあった。高校一年生の冬の君を、立ち直らせたらしい人。多分今日ここに居るのは、本来その人の役目だっただろうから。

 私の質問に君は、しばらくしてから、なんとなく、とだけ答えた。それが取って付けた理由であることは明らかだったけれど、それ以上は。追及するつもりも、深く考えるつもりもない。どうせそれを聞いて、私にはどうにもこうにもすることは無いから。ふうん、とだけ私は答えて、冷ました蟹を頬張る。熱くて口の中火傷したのは、許さない。

 食器の片付けをしようとしたところで、いいよ、それはやっとくと君は言った。そう、それじゃあ、と言って、荷物を纏めて帰り支度をする。明日もお願いできるかと聞かれたので、まあ暇ではある、と答えた。それじゃあお願いしたい、と君が言うから、仕方がないなと了承する。別に、嫌な気はしなかった。

 アパートの扉を開けると、さっきとは打って変わって、真っ暗な夜空が広がっていた。街灯も殆どなくて、遠くの方に微かに、駅の明かりが見て取れた。それじゃあ、と言って扉を閉めようとすると、左曲がったら明るい道に出るよ、とあいつの声がする。それを背中に聞きながら、私はアパートの階段を降りて行った。


 ──*──


 目が覚めると、部屋から微かに蟹の匂いがした。そういえば昨日、ここで蟹鍋食べたっけ。好きなものを買ってきていいとは言ったけど、まさか蟹を買ってくるとは。思ったよりも安かったし、私も食べられたから特に不満はないけれど。

 時計を見ると朝の八時で、どうやらいつもより体調も良いらしかった。起き上がって、布団の上で伸びをする。体の節々が、ぱきぱきと音を立てた。ノートパソコンを立ち上げて、テキストエディタを開く。昨日芥川が書いたところは、どうやら綺麗に残っているようだった。全体に目を通して、誤字脱字、言葉の歪みを確かめる。不自然さはどこにもなくて、少しばかり嬉しそうな私が居た。

 どうやら普段より、指も良く動くようで、これなら自分でも書けそうだった。キーボードに、指を落とす。流れるように言葉が連なって、文が、文章が編まれていった。するすると何かが私から、溶けるように落ちて行く。呼吸をするように続く言葉は、止まらない。自分の呼吸と、物語の呼吸が呼応する。彼ら彼女らは立ち上がり、一つの舞台を演じていた。その体温が、拍動が、私自身と溶け合って、混ざり合う。私がその世界に居るのか、その世界がこちら側に溢れ出てきているのだろうか。まるで、


 目が覚めた。どうやら体を揺さぶられているようで、少し頭に響く。ゆっくりと目を開けると、芥川の顔がすぐ近くに見えた。体を起こそうとして、それからどうやら力が入らないらしいことに気が付く。彼女は彼女で私が目覚めたことに気が付いたようで、少し安堵したような、そんな溜息を吐いて揺するのをやめた。

 どうやら私は、不覚にも気絶してしまっていたらしい。今の私にとっては、小説を書くことは猛毒であると、ようやくにして理解した。魂が削れ落ちる感覚というべきだろうか、何かが砂粒のように崩れていく感覚が、はっきりと感じられる。

 暫くして起き上がれるようになると、私は上体をゆっくりと立てた。とは言っても、どこか全身が酷く浮ついたような、そんな感覚がいつまでも残っている。片手で起き上がるだけの力を込めても、どうにも体は動かなくて、両手を使ってどうにか布団に座った。

 時計を見ると午前の十時で、一時間程度はここに横になっていたのだろう。けれども特に、体に痛みはなくて、その代わり全てが鉛のように重かった。

 続きを書こう。私はそう言った。怪訝そうな顔をしながらも、彼女はキーボードに手を置く。私は口を開いて、物語を綴った。あと、数項。この世界の幕引きには、十分足りそうな命は余っている。昨日のような滑らかさも、言葉の流れも、とうに枯れ切っていた。けれども、私の中にはちゃんと言葉が残っていた。それを一つずつ手に取って、しっかりと吟味しながら口に出す。一つ一つの言葉が輝いて見えた。ほんの少し、古い私がそこには居たような気がした。

 長い時間を掛けて、私は小説を言い上げた。命の残りも、もう殆どないらしい。それが、手に取るようにわかった。私はどうにか荒木さんへの入稿を頼んで、それから体を横たえた。

 そう言えば彼女に、海音に言伝を頼みたかったんだ。どうして、今更になって思いだすんだろう。私が使える言葉も、随分と少なくなってしまったというのに。

 今になってはよく解る。言葉には、力がある。だから物語にも、手紙にも、言葉が伝える力がある、と。人を殺す言葉もあれば、逆に生かす言葉もある。誰かを傷付けて、誰かを助ける、心を削った言葉を生み出す。私がこれまでしてきた事は、そういう事だったのだ。私は私を傷付けて、それに満足を求めていた。誰も救えていないのに。私が君にしてきたことを、ただ自分にやり返して、それで満足しようとしていた。そんなんだから、自分を許せないよな。そんな自虐に、どうしてだか、心が軽くなったような気がした。

 ああ、もう残り少ないじゃないか。ふと芥川を見ると、それに気が付いたのか、彼女と目が合った。

「言伝、頼んでいい?」

 あと、十文字。ほんの少しは、私は私を許せるだろうか。

「いいよ」

「ありがとう」

 あと、五文字。これが、本当に、最後だ。砂時計の最後の一滴が、するりと落ちる。


「七浦、進め」


 ──*──


 あいつの言っていた七浦という人間を探すのは、随分と簡単だった。あいつのメールの履歴の中に入っていた、数少ない人。私のメールアドレスから、あいつのことで伝えなければならないことがあるのでどこかで会えないか、とメールを送ると、数日後には返信が来た。

 指定されたのは、都心の外れを流れる川のほとりにある、小さなフードコートだった。やけに幅の広い外階段を上ると、壁一面ガラス張りの空間が見える。中に入ると、大手飲食店が五つほど、店舗として入っているようだった。所々にあるごみ箱が、可燃ごみとプラスチック、じゃなくて、綺麗なごみと汚いごみ、と分類されているのがどうにも気になる。綺麗なごみってなんだよ。

 事前に知らされていた通り、窓側の奥のカウンターに彼女は居た。彼女はあいつが死んだことを知らないんだな、と思うと、少し可哀そうに思う。こんなわけの分からない奴にいきなり、あなたの友人は死にましたなんて言われるなんて。もう少しまともな人選あっただろ、と、何度目ともわからない突っ込みを入れた。いや、だからこそ適任なのかも知れない。敢えて言うなら、みんな不器用過ぎるし優しすぎるんだ。


「七浦海音さんですか?」


 そう声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜にて、猫の首輪 糸永幸湖 @CokoItonaga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画