透明人間ぼくら。

喜丹凛

透明人間

ほとほと人間生活にも飽きてきたので、透 明人間になってみようと思う。

バッグもスーツも財布も、何も身に着けずにかなぐりだして外へ走り出した。太陽に焼かれたアスファルトとそこら中に転がっている小石が煩わしくてまともに歩けないから、一度家に戻ってサンダルを履くことにする。道中で、近所のおばさんの打ち水を浴びた。おばさんは血相を変えた様子だった。私の目は、何かそこにいてはいけないものを排斥せしめんとする彼女のそれと合っていた。そんな気がした。

打ち当てられた水の冷気が太陽に奪われていき、生ぬるい感覚へ変わっていくのが気持ち悪い。なにより気分がガタ落ちじゃないか。今までで一番自由な姿でいるはずなのになんだかとても不便に感じる。

アスファルトに付着しては数秒で消えていく自分の足跡をに迷いはなく、無事住処に戻ってこれた。今度こそ万全な準備を始める。前は見えてるのに髪の毛が顔にかかってくる 感覚があるのが気持ち悪いのでとりあえずカチューシャを着用する。あと、またおばさんに水をかけられたらたまったものじゃないからタオルを持っていこう。汗がだらだらと首から背中、背中から臀部、臀部からかかとに落ちていく感覚がくすぐったくとにかく気持ち悪い。最低限、パンツと、タンクトップと、靴下も履いていこう。

サンダルを履いてまた、町へ繰り出した。平日だと思っていたのだが想像以上に学生のような風貌の子が多い。「昨日が平日だったから、今日も平日だ。」という風に感じる社会人生活を経たせいで曜日感覚に支障をきたしているのだろうか。

透明人間になって、明らかにいままで以上に他者の目線を感じるようになった。今の自分の解放感から、感じ方が変わったのかもしれない。

なんとなく、前方に伺える歩いている学生カップルの後をつけてみることにした。会話に熱中している上にかなり遠くにいるし、もう少し近づいてもきっと気付かれない。ほかの人は皆、携帯端末に視線を落として歩いているので面白くなさそうだった。イマドキのデートを観察してみよう。だがその前に、

せっかく透明人間になったのだから悪戯のひとつでも仕掛けてみようと思う。

「彼氏君のどこが好きなの」

ほんのり息の混じった声を女の子の耳元で囁いてみた。女の子はびくんと体を震わせ、そして繋がれた手から伝播するように男の子の体が揺れる。二人はほぼ同時にこちらに振り向いた。二人は数秒間声の主の方へ視線をやった後に、二人は声にならない声をあげて走り去っていった。

カップルが走り去っていってからより一層、

自分に向けられた視線が強くなっていくのを

感じる。しかしそれ以上に奇妙な体験がこち

らに迫ってくる。五十メートルほど先から、奇妙な恰好の男が歩いてくる。頭にサングラスを掛け、上半身はネックレスだけを身に着けている。腰から下はまるっきり自分と同じ格好だ。しかし上半身の恰好に似合わず、自分より十ほど年齢が高い。姿がはっきり見えるようになると、“同族”であることが分かった。

「おや、あなたも透明人間ですか。」

向こうから声をかけてきた。言い返す言葉

につまずき少しおどおどしていると

「よければどうですか。女の子でも。お互い

稀にみるせっかくの自由な休日ですから。」

女の子といっても、いったいどうして今出くわしたばかりの名も知らぬおっさんと遊ばないといけないのか。なんとかはぐらかしてこの場を切り抜けようと試みるが、なかなか頑固な人だった。こちらとしても、“稀にみるせっかくの自由な休日”を一人で満喫したい。先程のカップルに倣うことにした。

突き抜けるように澄んだ空気を切り裂いていく。走っていてなんとなく目に留まるいくつかの光に一瞥しながら、町から少し離れた河原に出た。河原が見えるとゆっくりとスピードを落とし、やがて立ち止まった。目の前に現れたのは、おそらくこの辺りを縄張りとする野良犬だった。向こうはこちらの様子が見えているような素振りを見せた。

「キャン、キャン」

意外にもそれは甘えた声色で鳴きながらこちらへと歩みを寄せる。拒絶も容認もしない私に少し戸惑う様子を見せたが最終的には私のすねをぺろぺろと味わい尽くして去っていった。それが姿を消したその刹那、臀部に激痛が走った。楕円形に、それでいて乱雑に並べられた複数の刺されるような痛み。

「グルル、グルル」

さっきのものより一回りも二回りも大きい雄犬が、ところどころ禿げた汚い毛を逆立て、犬歯をむき出しながら威嚇している。私はその時理解した。大切なものを侵された子供の訴えかけるような目。あぶれる感情を、押し殺す必要なんて存在しない自然界の中で突如現れた異物を排せしめんとする弱く勇敢なものの目だった。彼の勇姿に、そっと、河原を立ち去ることにした。彼に背を向け歩いている間も、弱く震えながら、とめどなく雄叫びを上げていた。

ひりつく臀部を慰めながら帰路につく。水面に反射された夕日が厭目もなく目の端できらきらと踊っている。もうすぐ秋だというのに、いつまでも役目を果たせず今になっても鳴き続けている蝉に自らの姿を重ねてしまう。

私を追い抜いた自転車二台。鼻が曲がるような青春の香りをまき散らしていた。まるで、ポタージュに浸すトーストのように柔らかく、紅茶に浸す洋菓子のように甘々しい。微塵のいやらしさすら感じさせないその強い香りに惑わされながら、顔すらない自分の醜さを鑑みる。人間に生まれ人間を捨てる愚かな行為に、子供の手で握り潰せるくらいの小さな嘲笑を覚えた。明日からまた出社しないといけないな。そんな人間じみた言葉が自然と零れる。

意味のない往来に費やす日々。実りのない己の軌跡をたどって同じような作業を繰り返す日々。悲劇はないが刺激もない。似たり寄ったりの現実を、あの勇敢な雄犬のように退けようとしたのが今の姿なのか。

ハイテクな暮らしにおぼれた人間、プラスティックに溺れた自然。こんな油に塗れ汚れ切った世界で最低なことばっかり頭の中で連ね続ける。

公園。ベンチに腰を掛けた。自由な一日だったがそれゆえに普段以上に疲れた。眠気まなこを擦っていると、ベンチが軋んで、少し傾いた。自分じゃない重力のせいで、一瞬こころに隙間が生じる。刹那、吐き気を催す強い酒気に溺れそうになった。目線をそれらに向ける。ため息、ため息、ため息。そうして缶に口をつけちびりと音を立てる。こんな姿にすら、また自分を重ねてしまう。欲があるのかすらわからない。底を探っても何も見つからないような精神と記憶の中でアルコール

に身をゆだねる。外の空気なんて吸ったところで何も変わらないのはわかっている。生ぬるい空気が肺を満たして、そっと目を閉じる。また日を改めて、ベンチに腰掛ける。本当に、繰り返しばかりの日々だった。だけど、ほんの少しだけ、心地いい。

歩道橋。階段を上る。両足が、帰ってはいけないと訴えかけるように重たい。でも、明日、仕事があるから。一番上に上ると、左手にコンビニが見えた。ビール、家にあったっけ。冷蔵庫に、腐った食材と一緒に袋に入っていたものがあったはず。そんなことを考えながら歩みを進める。足の下で車が走っている。ごうごうと、歩道橋を揺らしながら音を立てている。下をのぞき込んでみる。運転手の表情は様々だが、フロントガラスのせいか幾分か曇って見える。なんだか少し勇気をもらえた。


もうすぐ太陽が沈み切る。生きるヒトはもう帰る時間。仕事に、学校。皆お疲れのところ心苦しいですが、明日も頑張っていきましょう!私は帰らなくていいのかって?大丈夫。だって、透明人間ですから。

バッグも、スーツも、財布も、体も!何も身に着けずにかなぐり捨てて、透明になってやりたいことをやるだけなんです。


たった今、本当の透明人間になれた。この生ぬるい季節に、フロントガラスがひんやりと気持ちいい。バッグも、スーツも、財布も、体も、命も!漸くすべてかなぐり捨てることが叶った。明日は腐ったものでも食べてみようか。

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透明人間ぼくら。 喜丹凛 @Ryu-gu

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