満月の指笛

芳岡 海

満月の指笛


 消去法で、宿の主人はスーツの男と目を合わせた。ツーピースの黒いスーツにシンプルな黒いネクタイ、きれいに撫でつけられた黒髪、カウンターに置かれた左手に見えるシルバーのカフリンクスも嫌味がない。特段怪しいところのある男ではない。


「もしあればでいいのですが」

 空き部屋があるかを尋ねたこの男は、にこやかにそう続ける。

「ちょっとした炊事場があるとありがたいんです。部屋に専用のものがなくても共用で使えるところとか、もしこちらになければ近くにそういったものがあれば」

「はあ、簡単なものでよければ」

「ありがとうございます。あとですね」

 年はまだ二十代後半といったところだろうか。宿の主人に対する話し方などはそれ以上の落ち着いた風格を感じさせる。消去法でなくとも宿の主人はこの男を歓待したであろう。


 しかし消去法と言ってしまうのも無理はない。訊ねてきたこの四人組、スーツの男以外にまともに話ができそうな者が見当たらない。

 まず目につくのは、宿のロビーの椅子にどっかり座っている大男だ。しわの寄ったシャツにサスペンダー、ワークブーツ。ぼさぼさの髪を雑に後ろでまとめている。いかにも肉体労働者といったところ。それはいいのだが、きりりとした眉を上げてさきほどからこちらをじっと睨んでいる。


 ビジネスマン風のスーツの男とあの大男の二人ならまだいい。仕事の関係とか、事情もあるだろう。

 そこに神父が一緒にいる。神父と見てわかる服装、足元まである黒いキャソックを着ている。神経質な顔で、椅子には座らずに立っている。遠慮というより部屋のどこにも触れたくないという様子でひどくしかめっ面だ。失礼な、と主人はムッとする。うちは村で一番とは言わないまでもそこそこの宿だ。


 この三人でも妙な組み合わせだが、さらにもう一人。主人は、神父の向こう、入り口すぐの壁に腕組みをしてもたれかかる男を見る。病的に白い肌に赤い瞳と唇が、深くかぶったフードの中に見える。まるで吸血鬼のような風貌である。


「あとですね。お気を悪くされたら申し訳ないのですが」

 スーツの男の柔和な声に、主人は急いで自分の顔に笑顔を呼び戻す。

「もしできたらバケツと雑巾なんてお借りできませんか? もちろん部屋が汚いなんて言いません。ただ、病的に綺麗好きの人間がいるもので、念のため、ね」

 そこまで言うとスーツの男は目尻を下げ人の良さそうな顔で笑った。個性的な連れに苦労しているのだろう。


 あまり気乗りしない客ではあったが、この男の感じの良さに主人は彼を歓待することにした。

 だいたいそこにいるのが本当に吸血鬼だったとして、吸血鬼があんなに典型的な吸血鬼の顔をしているか? もうちょっと吸血鬼らしさを隠して溶け込もうとするのではないか。それに神父のいる横で突然襲ってきたりはしないだろう。その神父に無礼を働くわけにもいかない。加えて、下手に邪険にすればあっちの大男にこちらがひとひねりにされそうだ。

 そういった各種の事情を鑑み、考えうる限りの危機を選別した結果、主人は他の三人は見なかったことにするという結論に至ったようである。


「あ、市場までの道を教えてもらえますか? それから、森までの道も」

 前金で宿代をきっちり払い終えるとスーツの男が言った。

 この男もよく見れば首筋や手首に手術跡のような人工的な縫い目が見えるが、きっと手術跡なのだろう。人間なら病気や怪我をすることだってあるのだからそこまで訝しんでは失礼というものである。まさか彼が人造人間とでもいうなら別だが。



「良かったですねえ。無事に宿が見つかって」

 部屋に入るとエミールが口をひらいた。スーツ姿の、今しがた宿の主人との交渉を済ませた男である。四人の部屋はシングルの二段ベッドが二つ押し込まれ、入り口にコート掛け、小さな窓の前に小机、それですべての簡素な安宿だった。それでも早くない時間に訊ねて日暮れ前に部屋を確保できたのだから上々というものである。


「クラウスさんのこと、宿の主人怪しんでましたよ。せめてもう少し人間らしい格好してくれません?」

 エミールがスーツのズボンのポケットに両手をつっこんで、ローブの男に言う。ローブ姿のままベッドの隅に腰かけていたクラウスはふんと鼻を鳴らしただけで返事はしなかった。

「エミールこそ、体の縫い目をもう少し隠せよ」

「ええー。これ案外怪しまれませんよ?」

 神父の言葉にエミールはネクタイを緩めながら口を尖らす。その横で早速ベッドの一つにどっかりと腰を下ろしていた大男が

「とりあえず俺はひととおり掃除しとくぜ。それから俺とエミールは飯だ。ハンスもどっかで食ってきたらどうだ」

 と口を挟み、さきほどエミールが主人から借りたバケツと雑巾を手に取った。

「ああ。頼む」

 ハンス、と呼ばれた神父はそう言うと、ドアノブに最小限の面積だけ触れて出ていった。彼の度を越した綺麗好きはしょっちゅう旅に支障をきたすが、アロイスという名のこの大男がいつも掃除を買って出てくれるのでなんとかなっているのだった。

「では僕は市場を見てくるよ。アロイス、何か食べたいものあるか?」

「肉」

「りょーかい」

 アロイスが「肉」以外の返事をすることはほぼない(「焼いた肉」か「茹でた肉」というバリエーションはある)が、エミールは毎回律儀に聞く。アロイスのご所望を確認したエミールは「一緒に行きましょうか」とヴァンパイアのクラウスを誘って部屋を出た。


 宿の主人に教わった市場は、小道を抜けた先にあった。日の暮れかけた石畳の道をエミールとクラウスは並んで歩く。冷たい風が二人のジャケットとローブをふわりと撫でる。大通りに出る手間で、あ、とエミールが足を止めた。

「クラウスさんも、先に軽くにしますか」

 右手をクラウスに差し出して言う。袖口から手首の手術跡のような縫い目がちらりと覗いた。

「いや。いい」

 白い顔をフードの下で振ってクラウスは先を歩く。

「なら、あとで」

 人の良さそうな顔で言ってエミールも後に続き、二人は市場の賑わいへと向かっていく。


 神父のハンスとヴァンパイアのクラウスを一緒にしておいても大丈夫なのに、アロイスとクラウスを二人きりにするといけないのはおかしな話だとエミールはいつも苦笑する。

 それは大男アロイスが狼男だからという理由ではない。シンプルに仲が悪いのである。出会った最初から、無口なクラウスに対しアロイスは「何言ってるのか聞こえねえ」、アロイスに対しクラウスは顔をしかめ「煩い」という調子だった。


 けれどもアロイスが煩いのは昔からのことで、それで嫌な顔をされることがあるのも昔からのことだ。そもそも狼男のアロイスにとって忌み嫌われる理由が「煩い」という程度ならそよ風ほども痛くない。

 だからこの二人の仲が良くないことは二人の個性なのだ、というふうにエミールは納得している。ハンスが綺麗好きだとか、アロイスの声がデカいとか、クラウスが無口だとか、エミールが人造人間であることと同じように、そういう個性なのだと。



 別に食事にまでキャソックを着て行く必要はなかったが、とハンスは思いながら目についた町の食堂に入った。案の定、食堂のおかみや店の客がハンスを見て「神父がいらっしゃった」と居住まいを正した。神父の威厳を見せたいわけではない。ただ服を宿に置いておけばアロイスの掃除で埃がつきそうだったからというだけだ。ここの食堂の椅子やテーブルの清潔さも宿と似たようなものだが、似たようなところなら自分で気をつけていられる方がマシだと考えハンスは端のテーブルにつく。簡単なスープに白いパンのついた食事が供される。


 彼は食にはこだわりがない。旅の道中、その土地にある土地のものを食べる。野菜があればいい。フルーツがあれば嬉しいがなければ構わない。

 本当に食にこだわりがないのはエミールのようなことをいうのだろうが、アロイスがいるので面倒が多い。アロイスはエミールの料理しか食べない。それ以外を食べられないということではないが、エミールが料理を作れないと如実に機嫌が悪くなる。まるで行き過ぎた愛妻家か子供だ。彼はどちらでもない狼男である。

 

 宿に戻ると、エミールとアロイスが部屋でまだ食事の最中だった。エミールが市場で買った食材を町の共同の炊事場で調理したのだ。窓際にあった小机に無理やり皿を乗せ、両脇のベッドにそれぞれ腰かけて二人が机を囲んでいる。窓枠に置かれたポータブルラジオがノイズ混じりに鳴っている。

「早かったな」

 アロイスが固くて重たそうなパンを強靭な歯で齧りながらハンスに声をかけた。皿の上には焼いた厚いハムとチーズと葉物野菜。青臭い匂いが鼻についた。

「屑が床に落ちる」

 ハンスが顔をしかめて言うと、

「また後で掃除するからよ」

 とアロイスは気にも留めず答え、ハンスも食うか? と手に持ったパンを薦める。アロイスの人を威圧する体格と表情は、百人中三百人が「恐い」という第一印象を持つのだが、気を抜いているときの彼は案外人懐っこい顔をする。それでハンスは細々したことを許してしまうのだった。

「窓を開けてくれ。匂いがこもる」

 それだけ言ってハンスは二段ベッドの上段に上がった。もう一つのベッドの上段ではクラウスが既に横になっていた。夜にまた起き出すはずだ。ベッドの手すりやはしごはさっきアロイスが磨き上げてくれたおかげですべすべと綺麗だった。


 確かに自分は度を越した綺麗好きで、アロイスが掃除役を買って出てくれるのは本当に助かっている。が、これから寝ようとする寝室で食事をするのはいただけない、というのは普通の感覚ではないか。

 ましてやエミールの料理。つまり、彼の作る料理は、とても慎重に言葉を選んで語弊が無いように形容すると、素晴らしく美味しい味である、とはハンス個人から見ると少々言い難い料理なのだった。それを好んで食べるのだからアロイスという男は悪食である。狼男だからなのかはわからない。

 けれどもその点についてエミール個人を責めるつもりはハンスにはなかった。

 それは彼が人造人間だということ。見た目にはほとんど変わらないのでハンスにはわからないが、我々とは味覚が違うらしい。

 その分、食の悦びというものも我々人間より薄い。多少悪いものを食べても平気らしく、様々なことが起こる旅の中では毒見役を申し出てくれることもあるが、そもそも彼が食べて平気なものを自分が食べて平気とは限らないのでハンスはあまり頼らないことにしている。


 まあそうでなくとも食事くらい一人で静かにさせてもらってもいいだろう。ベッドの下からアロイスの馬鹿笑いとラジオのノイズが聞こえる中で、ハンスは静かに寝がえりを打って壁際を向いた。



 雲が月を隠す夜、二人の人影が道を歩いていた。宿の前に伸びる道はそれなりの広さはあったが、夜更けの今、人影は他に見えない。


 はたから見れば、青年二人が若い体力と鬱憤を持て余し眠れぬ夜を過ごしているとも見えただろう。


 けれども二人の内の片方、クラウスはヴァンパイアである。夜になりローブを脱いだ彼の肌はことさら白く目立つ。痩せた体に粗末なシャツを着た姿で、赤い瞳が夜道をじっと見据えていた。齢は五百だの八百だの千を超えるだの、無口な本人に聞いても決まった答えは返ってこない。最終的には「忘れた」というひと言で片付けられてしまう。少なくとも確かなのは、二十代半ばという見た目よりはるかに年を重ねていることだけだった。


 そしてもう片方のエミールは人造人間である。スーツのジャケットを脱ぎシャツの袖をまくったラフな格好で、クラウスとの夜の散歩を楽しんでいる。これもまた見た目には二十代後半というところで、たまたま生まれてから実際に二十数年経つ頃らしい。しかし「僕に年齢って意味があるんですかね」と本人は正確な年齢を覚えていない。


「座りましょうか」

 エミールが声をかける。

「それとも、もう少し細い道に入りますか」

 問われたクラウスは立ち止まってエミールを振り返る。闇に溶ける黒い髪が白い肌と赤い瞳にかかる。猫背気味にエミールを見つめ、それから瞳を逸らした。

「この先で」

「わかりました」

 エミールが答え、二人は散歩を続けて小道に入った。


 クラウスの無口にエミールは慣れている。反応が返ってくればそれでいいのである。

 エミールが敬語を使うのは、もちろんこの場合は相手が実際には数百歳年上ということもあるがそうでなくとも彼の性分なのだった。彼が敬語を使わない相手は友人のアロイスくらいのものだった。


 狭い道に入ったところで二人は道端に腰をおろす。夜空が建物に細く切り取られて見えた。よく見ていると、月明かりを透かした雲がゆっくりと動いている。木の葉が風に揺れる音以外は静かな夜が流れていた。ヴァンパイアの好む夜だがエミールにとっても落ち着く夜だった。座って空を見上げているエミールの左手を、隣に座るクラウスが掴んだ。

 エミールは柔和な表情を崩さずクラウスの顔を見る。

「手首でいいんですか」

「いい」

 簡潔なその返事は無口というより空腹のためだろう。白い顔を傾け、赤い唇から覗く白く光る牙がエミールの手首に当てられる。


 牙をじわりと通る彼の血をクラウスは感じた。温かく新鮮な血液が体に染み込み、生気で満たされていく感覚。

 人造人間であるエミールは、クラウスが吸血しても死ななかった。彼と行動を共にしてから、クラウスは誰も殺めず、誰も傷つけずに生き永らえることができた。「僕の体が役立つことがあるなら」と彼は喜んで血を差し出してくれた。

 牙を立てたままちらと目をあげる。エミールは食事を黙って見守っている。数百歳年下であるのに、その眼差しにクラウスは深い安らぎを感じていた。


 上品なだ、とエミールは思う。荒いことはしない。控えめに牙の先だけを肌にあてる。エミールの白シャツを血で汚したこともない。品の良さを好むのも彼の性分だった。

 一滴だけ血を地面に落とし、クラウスはエミールの手首から牙を離す。物足りないのか余韻を味わっているのか、しばらくは手を離さずにじっとしていた。エミールは彼に左手をあずけて好きにさせている。静かな晩餐だった。


 しかし静寂は突如破られる。近づく複数の足音に、二人が振り向いた。

「あらあら。こんな夜道に二人だけでいたら危ないんじゃない~?」

「恐ーいお兄さんに絡まれたりするかもよ」

 ガラの悪い声が不躾に二人に向けられる。数人の男の影が小道を歩いてくるのが見えた。

「こんな時間に何してんの? ここ、俺らのナワバリってご存じ?」

 五人の男が座った二人を取り囲んで立つ。五人ともアロイスほどとは言わないがそこそこガタイが良く、品のないシャツにアクセサリーをつけていた。

「あれっ。カップルかと思ったら両方男じゃん」

 男たちの笑い声に、彼らのつけるネックレスのじゃらじゃらという音が混じる。小柄で色の白いクラウスは女性に見えないこともない。端の一人が値踏みするようにクラウスの俯いた顔を覗き込んだ。

「帰りますよ。お邪魔しちゃいましたね」

 立ち上がったエミールに、真ん中の一人が正面から向かい合う。

「いやあ、俺らも帰してあげたい気持ちはあるよ? でもナワバリからタダで帰られると俺らも面目が立たないわけよ。見たところお兄さん、きちんとしたお仕事で稼いでんじゃない?」

 ここから一歩も動かさないというように、男はエミールの鼻先すれすれに立ちはだかって言った。背丈はエミールより男の方が頭半分、いや四分の一ほど高いだけだったが、体格でいえば男がひと回りデカい。


 どうしたものか、とエミールは考える。自分はいつも交渉役で力仕事はアロイスに任せきりだ。この二人で男五人の相手は。思案する横でどさりと音がした。

 見ればクラウスの顔を覗き込んでいた男がぐったりと地面に横たわっている。

「死んではいない」

 俯いて見下ろすクラウスが言った。

「死ぬまで吸血するにはちと時間がかかる」

「全員気絶させられないんですか?」

 エミールの問いにクラウスは赤い瞳をちらりと上げて残り四人の男を見渡す。

「一人を吸う間に、他の三人にお前が身ぐるみを剝がされて終わりだろう」

 あまりこちらが有利な状況になったとは言えなかったが、目の前で音も無く仲間の一人が気絶し、さらに赤い瞳で見据えられて四人の男がたじろぐのがわかった。

「じゃ、走ります」

 エミールの言葉を合図に二人は同時に駆け出した。

「もう一人はただの人間だ! 捕まえろ!」

 一呼吸の間を開けて男たちが追ってくるのが聞こえた。

 本当は僕も人間ではないんだけどな、とエミールは思うが、なんにせよ身ぐるみを剝がされては困る。社会的信用を得られる格好の方が旅には役立つだろう、というハンスのアドバイスによりせっかく仕立てたスーツ一式なのだ。


 小道を抜けて広い通りに出たが、人通りが無いのは変わらなかった。森はどっちだ? せめて少しでも森に近づけば。走るエミールは考える。背後でどさっと音がした。

「一人捕まえた!」

 男の声がした。走りながらも振り返ると、クラウスが男の一人に頭を押さえつけられてうつぶせに倒れているのが暗い中に見えた。

 くそっ。よりによってアロイスのいないときに。

 ヴァンパイアを殺すには、首をはねるか心臓を杭で一突きにしなければならない。それはその辺の荒くれものがすぐできる仕事ではない。しかし仲間が危ないことには違いない。

 走りながらエミールは力いっぱいに指笛を吹いた。静かな小さい村の夜に不釣り合いな音が響き渡る。森まで届いてくれ。二回目の指笛を鳴らす途中で背中に衝撃を受けた。

 追いついた男の一人に後ろから掴みかかられ、振り向いたところを一発殴られて地面に転がった。硬い石畳の衝撃を内臓と肋骨に受けて呼吸が詰まる。起き上がる前に革靴の底で首を後ろから踏みつけられ頭を押さえ込まれる。

 こういう時に妙に冷静な思考になるのは、彼の性分なのだろうか。ああ、せっかくハンスに選んでもらったシャツなのに、と思う。厳しい綺麗好きの彼の審美眼をエミールは信用していた。口の中で血の味がした。いくら人造人間でもあまり乱暴なことをされると生命維持に支障がある。

 抵抗しようとする気配に男が踏みつける力を強めた。頭を押さえつけた手が乱暴に髪を掴む。

 ここからこいつらはどうする? エミールは考える。実際、金になる所持品はない。カフリンクスもネクタイピンも宿に置いてきた。しかしこいつらに奴隷商人のツテなどもしあったら。クラウスの方が実年齢こそ異なるがあの見た目だ。若い男の子を好む富豪あたりにそれなりの値段で売り飛ばせるだろう。買い取った相手が骨の髄まで吸血されるのがオチとはいえ。


 一瞬の間をおいてエミールの上の男が弾き飛んだ。毛むくじゃらの足がエミールの体を飛び越える。

 咳き込みながらエミールが上体を起こすと、狼の頭部、毛皮をまとった太い手足の、半身半獣の狼となったアロイスが男の喉元に噛みつく瞬間だった。悲鳴が闇夜に響く。けれども男が複数人連れだったことが幸いだった。後からもう二人の男が追ってくるのを見なければ、狼男は噛みついたまま息の根を止めていたはずだった。


 狼となったアロイスは頭を振って男を投げ飛ばすと残りの二人に襲い掛かる。もはや二人いることは男どもにとってはなんの有利さでもない。獲物が一人多いというだけだ。


 状況を察して逃げ出した男二人にアロイスが俊敏に飛びかかった。人間と犬では走る速度は比べようもない。右手の鋭利な爪が一人の首筋に食い込み、左手の爪と牙がもう一人の男を捕らえた。二人はほぼ同時に、アロイスによって地面に叩きつけられた。唸り声に男の悲鳴が混じるが、そこには僅かな虚勢を張る力も残っていない。獣に覆いかぶさられながら必死に手足をばたつかせる男の様子は、もはや捕食された非力な草食動物のもがきに他ならなかった。


「アロイス。そこまで」

 パンッ、と手を叩く音とともに理性的な声が響いた。

 男に覆いかぶさっていた獣のアロイスが、背をかがめたままエミールの方へぎろりと顔を向けた。時折唸り声を混じらせながら、ハッハッと舌を出して息をしている。新たな獲物を見つけたかのようなその目つきはエミールかクラウスでなければ震え上がっただろう。獲物を前にした唾液が狼の口元から糸を引いて垂れ落ちた。もともと大男のアロイスにすらオーバーサイズだったワークシャツとズボンを身につけた姿が、かろうじて人間の面影を残していた。

「殺すな。アロイス」

 静かだが厳しい声でエミールが言った。彼は既にさきほど男に踏みつけられたシャツの襟を整え、ズボンの砂埃を払い、クラウスを助け起こしていた。

 それでもなお、アロイスが未練がましく足元の男をちらりと見ると、パンッと再びエミールが手を叩いた。



「良かったんじゃないか。ちょうど満月の夜で」

 あまり状況のわかっていないハンスの言葉にエミールとクラウスは揃って首を振る。

「旅先で人が死ぬ事件なんてやめてください。正体がバレなくたって二度とこの町に来れませんよ」

「あんたがあの場にいたら失神しているであろうな」

 エミールが反論すると、めずらしくクラウスが話を続けた。昨晩の興奮がまだ冷め切っていないのだろう。血の匂いに興奮したというだけではあるが。

「ただの男五人程度なら普段のアロイスで充分ですよ」

 エミールに褒められたと認識したアロイスがまんざらでもない顔で、「ちょっと手間かけたな」と寝転んだベッドから言った。一晩森を駆け回った挙句エミールの指笛を聞いて町まで舞い戻り男三人を半殺しにした疲れは、人間に戻ったアロイスの顔にはほとんど見られない。運動を終えた後のすがすがしい疲労といったところだ。


「指笛が聞こえたら来る約束なのか?」

 早寝早起きの神父ハンスは満月のアロイスの姿を見たことがない。

「来る、と言いますか、僕が指笛を吹いたら僕の周囲にいる人間は襲っていい、という約束です。満月の夜の理性でも判断できるように覚えさせたので、約束というより犬の訓練ですけど」

「襲っていいはないだろ……あまりに雑じゃないか? それに狼とはいえ、友人に犬の訓練でいいのか」

 四人の中で唯一ただの人間であるハンスはいろいろ引き気味だが、他の三人はそうでもないらしい。


「あと僕が手を叩いたら、待て、の合図です」

「狼男に待てが通じるとは思わなかったよ」

 あまり信じていない顔でハンスは呟く。それから気を取り直し

「男たちはどうなった?」

「狼に襲われたという話になっているはずです。アロイスが町中に聞こえるように遠吠えしてくれたんで」

「こいつが狼男だと疑われなけりゃいいんだが」

 ハンスの心配にアロイスは得意げな顔を見せる。

「その点は対策済みだぜ。昨日の午後と今日の早朝に町中の猫と仲良くなっておいた。今頃は『あの旅人の大男は大の猫好き』で通ってる」


 それは果たして狼男の疑いの軽減になるのか? 

 ハンスの頭には疑問が湧くが、長髪に無精髭に無愛想で筋肉隆々のこの大男が小さな猫を可愛がる様子を見たら、何かを疑う気持ちが消えるかもしれない、とも思い直した。もしかしてこの四人の中で自分の役目はつっこみなのか? という考えも浮かんだが、ひとまず忘れることにした。

 クラウスは朝寝の体勢になる。ベッドに寝転んでいるアロイスは「朝メシにオムレツ作ってよ」とエミールに人懐っこい顔で言っている。ぱたぱたと振る犬の尻尾が見えるようだ。


 ため息混じりにハンスの広げた町の地図を、エミールとアロイスが同時に覗き込んだ。

 ハンスさんもたまには一緒に朝食食べます? エミールは気まぐれに誘ってみたが、綺麗好きの神父は丁重に断りの言葉を述べる。そう言うだろうと思いました、とエミールは笑う。

 でもコーヒーくらいは飲みましょう。そう言うと仕方なさそうに頷かれた。

 面倒も多いが一人ではできないことができる。それがこの旅だとエミールは思っていた。そして他のみんなもそうなのだと思えた。アロイスのバカデカい笑い声が朝日の差し込む部屋に響く。次の満月まで、しばらくは平穏に過ごせるだろう。



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満月の指笛 芳岡 海 @miyamakanan

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