第13話


 その部屋は一等に豪華でした。


 壁際には数々の調度品が並び、薄明りの中で、散りばめられた宝石が寂しく煌めいています。


 中央には巨大なベッドがありました。

 天蓋からはカーテンが下りていて、中の様子は窺い知れません。


 漂う緊張感にごくりと唾を飲みました。

 臆しそうになる心を奮い立たせて、私はそのベッドに向かってゆっくりと歩きだしました。


「......」


 そっと、ベッドを囲うカーテンに手を掛けます。

 ちるさんを驚かせないよう、努めてゆっくりとカーテンを引いて、


「ッ」


 不覚にも、息を呑んでしまいました。


 ふわふわの輪郭。

 ツンとした富士山のようなお耳。

 気だるげな表情はアンニュイでとても心惹かれます。


 しかし、私が惚れ込んだ怜悧で愛らしい瞳は、白く濁っていたのです。


 彼女は虚空を見つめ、ぼんやりとしていました。

 無意識に滑った視線は彼女の矮躯を捉えます。

 縮こまり、肋骨が浮き出ています。


 ふわふわの毛は艶を失い、弱弱しい呼吸は彼女の薄い胸を儚く上下させるばかり。


 そこに居たのは、終わりへと向かう、一匹の老ねこなのでした。


「私の姿を見て驚いたかい?」


 最初から私の存在に気が付いていたのか、彼女は微動だにすることなく、私の不躾な視線を咎めるように言いました。


「聞いたよ。きみは猫に惚れこんでいるとね」


 だがね、と。

 ちるさんは続けました。


「ねこも老いには勝てない。きみの思う美しさは過去のものだ。私は今、朽ちていく薔薇そのものだ。日々が移ろうたび、花弁はひとつ、ひとつと散っていく。諸行無常、栄枯盛衰そのものさね。――それでもなお、きみはねこを想うかね」

「当たり前です」


 彼女の問いに、私は断言しました。


「むしろ私からも問いたい。なぜちるさんは己の魅力にこうも無頓着なのか」


 それは心の底からの疑問でした。

 恐らく、彼女は私がちるさんに失望したのだと考えたのでしょう。


 まったく、私も舐められたものです。

 その程度で私がちるさん、ひいてはねこさんに失望する方が無理難題というもの。


 確かにちるさんは老いていました。

 私が絵葉書で目にしたちるさんはかつての若いお姿なのでしょう。


 その魅力は絵葉書という次元の壁を突き破って私のハートを鷲掴みにしました。

 彼女が美しかった事実は揺るぎません。


「しかし、老いたからといって、ちるさんの魅力が損なわれるということはあり得ないのです」


 薔薇は気高く、美しい花です。

 凛として咲くその姿に誰もが見惚れることでしょう。


 そんな薔薇もいつかは朽ちてしまいます。

 花びらを落とし、萎れて、土に還っていくのです。


 ちるさんは己をそんな薔薇であると喩えました。


 しかし、私から言わせてもらうと、それはナンセンスというほかありません。


 ねこさんの美しさはねこさんのもの。

 ちるさんの美しさはちるさんのものです。

 他の何物にも形容しようがないのです。


「ちるさんは薔薇ではありません。ねこさんです。そしてねこさんを舐めてはいけません。彼女たちはいつ、なんどき、何をしてどうなっていても、その美しさが損なわれることなく、その可愛らしさが欠けることなく、その最後の瞬間まで、ただひたすらに愛くるしいのです」


 見よ!このちるさんの愛らしさを。


 彼女の魅力はその長い生によって醸成され、とうとう極致へと至ったのです。


 彼女こそが、ある種の完成された美である。

 これは人類の総意だと私は考えます。


 それこそ、ちるさんが野に放たれでもしたら、瞬く間に彼女の深い美と神々しさに充てられた信者が寄り集まり、すぐさま新たな宗教が出来上がってしまうでしょう。


 私はそんな彼女のそばで侍り、彼女の威光が世界の隅々に行きわたるのを見届けるのです。


 濁った瞳が何だというのですか。

 たとえその眼が光を移すことがないとしても、彼女が美しいという事実に変わりはありません。


 もし、彼女自身がそれを醜いというのであれば、私は彼女の傍で永遠に愛を囁き続け、そして、終生を彼女の目として仕えることを約束するでしょう。


 つまるところ。

 彼女がいかに老いていようと、それは新たな魅力の発現なのであり、私のちるさんに対する想いは一層に深まるばかりなのです。


 念願の想い人に会えた興奮と感動がまるでミキサーにかけられたミックスジュースのようになって、もはや自分で自分の感情がコントロールできません。


 茹で上がった私は居ても立っても居られず、不躾ながら、ベッドに上がって彼女に迫りました。


 限界でした。

 いったいどれだけこの時を待ちわ侘びたことか。


 あらかじめ考えておいたイカした口説き文句など頭にありません。

 とうの昔に愛の焔によって灰燼かいじんと帰しました。


 あるのは彼女への純然たる想いのみ。

 視線を合わせて顔を近づけると、彼女のお鼻がひくひくとしました。


 彼女に存在を感じられるという認識が、私にかつてない興奮をもたらしました。


「本当に、この日をどれだけ待ち望んだことか。ねこさんを想って枕を濡らした夜は数知れません。ちるさん、私はねこさんのことが大好きです。初めてあなたたちの存在を知った時から私はメロメロなのです」


 一拍置いて、言葉を紡ぎます。

 それは存外にするりと口からこぼれ出ました。


「お慕いしております。私の恋人になってください」


 一世一代の大告白はそうして為されたのでした。












 ぽかん、と。

 まるでハゲタカさんが豆鉄砲にでも撃たれたかのようなお顔をして、彼女は固まってしまいました。


 その隙に私は彼女の頭を撫でました。

 ふんわりとした上品な毛並みはまさに想像通りの感触です。

 私の頬はへにゃりと歪みました。


 あわよくばお腹に顔をうずめてしまおうと考えていたのですが、彼女が身動ぎしたのを見て、私はようやく正気に戻りました。


 間一髪です。

 あと少しで人の道を踏み外すところでした。

 私は素知らぬ顔で元の体勢に戻りました。


 今思い返してみると、背後から突き刺さるまめ次郎さんの視線は、どこか白々しいものを見るようなものだったような気がします。


「まさか、そんなにもストレートな気持ちを伝えられるとは思わなかった」


 彼女はぽつりと呟きました。


「きみの気持ちは本物なんだな」

「ええ。私は生まれてこの方ウソを吐いたことがないもので」


 私が極めて真っ当なお顔を作って言い放つと、ちるさんは小さく噴き出しました。


「そうか。それなら信用ができる」


 そして逡巡を挟んで。

 彼女はふいに視線を逸らしました。

 その先にあったのは、長い長い廊下へと続く扉。


 その先に誰がいるのかは明白でした。


「キミの気持ちは嬉しいよ。だが、すまないね。私には大事な人がいるんだ」

「仙人さまですね」


 ちるさんは何も言わず、ただふんわりと笑いました。


「そうですか。とても残念です」

「きみの気持ちはとても嬉しいが、彼をひとりにするわけにはいかない」

「いえ、そういうことでしたら仕方がありません。私にお二人の幸せを壊す権利はありません」


 しかし、と。

 負けず嫌いの私は続けました。


「もしいつか、私のことが気になったのなら、是非ともお声かけください。全霊をもって、ちるさんのことを幸せにしてみせます」

「威勢がいいね。ならまずは私が満足できるような住まい作りからだ」


 私の言葉を冗談だと思ったのでしょう。

 ちるさんはからからと笑いました。


「私は辛口だぞ」

「おお、それは怖い。もしや、このお屋敷はちるさんのご趣味なのですか」

「まあ、そんなところだね」


 そう言うと、彼女はおもむろに毛繕いを始めました。


「あの爺は弱った私を元気付けるためにわざわざこんな屋敷を建てたのさ」そして溜息をひとつ吐いて「そのせいで仙人の格はガタ落ち。界隈では欲望三昧の邪仙扱いされているよ」と肩を竦めました。

「なんと、そのような事情があったのですか」

「あの爺は昔からそうなのさ。顧みることをしない。困ったものだよ」

「それだけちるさんことを愛しているんですね」

「モテるねこのつらいところだね」

「......ええ、まったく」


 本当に、まったくです。

 声の震えを抑えながら、その一言を絞り出しました。


 この時にようやく、私は敗れた恋愛こいあいの毒が全身に回り、覆しようのない事実を受け入れたのです。

 ちるさんの愛は茸仙人のものである。


 負けず嫌いを称する私ではございますが、道理を見失った外道に堕ちるつもりはございません。


 私が二人の間に割って入ること、それすなわち二人の絆を土足で踏みにじることに他ならない。


 そんなことは許されません。

 ちるさんを悲しませるものは、たとえ神さま仏さま私さま。

 何であろうと絶対に許しません。


 茸仙人は己の立場を顧みらずにねこさんへ無償の愛を捧げ、ちるさんもそれを当然のものとして受け入れて同等の愛を返しています。


 その証拠に、今もなお、毛繕いをしながら滔々と茸仙人への愚痴のような惚気を語る白濁の瞳には、濁りようのない愛が浮かんでいました。


 私には、その愛を踏みにじることはできません。

 その愛が、私に向くことはありません。

 私の恋は破れたのです。


 堪えていた感情がちょちょぎれます。

 恋愛こいあいに敗れた負け犬のしょっぱい塩水です。


 拭うため、慌ててハンカチを探します。

 彼女は楽しそうに茸仙人のお話をしています。

 ちるさんに気取られて心労を掛けるわけにはいきません。


 しかし、時すでに遅し。

 まめ次郎さんとバッチリと目が合いました。

 すると、彼はベッドへと上がってきて、頬を流れる涙をペロリと舐めたのです。


 私が反応できずにいると、彼は私の膝の上でうつぶせになりました。


「帰ったらまた焼き芋を食べよう」


 ぶっきらぼうなようで、しかし温かみのあるお腹と言葉。


 もちろん、私は笑顔で頷きました。











 ちるさんの小話は留まるところを知りません。

 当初は愚痴だか惚気だかわからなかったシロモノが、今では単なる恋人自慢のようになっています。

 事実、彼女のお顔は恋する乙女のように甘々です。


 この頃には私もすっかり調子を取り戻していました。

 涙も引っ込んで、彼女の幸せな様子にご満悦です。

 結局のところ、ちるさんが幸せであれば、私はそれでよいのです。


 幸いにして、彼女は茸仙人とのお話を語るのに夢中であったようで、私の異変に気が付いた様子はありませんでした。


 彼女に要らぬ心労を掛ける必要などありません。

 乙女の涙など知る者が少ない方がよいのです。


 私は素知らぬ顔で彼女のお話を訊いていました。


「やあ、ちる。私のことは憶えているかね」


 彼女の小話が佳境を越えた頃、傍に控えていたまめ次郎さんが口を開きました。


 ちるさんは急に降って湧いた声に困惑した様子でしたが、すぐにその正体について思い至ったようです。


「ああ、その声はまめ坊やか。元気そうで何よりだ」

「久しいな。最初見たときは誰かと思ったよ。随分と丸くなったようで驚いた」

「そういうきみこそ落ち着いた様子だ。声でわかる」

「お互い歳はとりたくないものだな」


 二人は顔を見合わせて笑いました。

 ふわふわと鼻ペチャが仲良くしています。この様子を全世界で放送すればたちどころに争いはなくなり、国境を幸せの旋風が席巻するでしょう。


 しかし、そんな鼻ペチャ筆頭まめ次郎さんは何かを思い出したのか、ふいにむっつりとした表情になり、ずいッとちるさんへ顔を寄せました。


「ちるよ、私は文句を言いに来たのだ」


 突然の告白です。

 その表情に険を浮かべて、まめ次郎さんが続けます。


「急に姿を消すからあの時は心配していたんだぞ 」


 彼の真剣な様子に、私も思わず緩んだ口元を引き締めて襟元を正します。

 眉間の皺を一等深めた彼は口元のをぷっくりと膨らませています。相当にご立腹です。

 それほどまでに、ちるさんはかけがえのない友だったということでしょう。


 誰しも無二の友が忽然と消えたら悲しみます。

 事故にでもあったんだろうか。どこか新天地へと旅立ったのか。一報くらい入れてくれても良かったのではないか。


 悲しみはやがて怒りに変わり、膨れ上がった不満はこうして再会した折にパンッと弾けてしまうのです。


 しかし、ちるさんにも事情があったはずです。悲しいすれ違いで二人の友情が壊れる所は見たくありません。諍いに発展しそうになったら、私は己の尊厳すべてを投げうってでも彼らの仲裁に入るつもりでした。


 しかし、語気を強めたその物言いに、ちるさんは飄々としていました。


「嘘をこけ。お前がそんな心配するものか」

「なにおう、友を疑うのか」


 ちるさんのあんまりな言葉に、まめ次郎さんの眼光が鋭くなります。

 しかし、それを見て、彼女はやれやれとでも言いたげに首を振ったのです。


「きみはいつもそうだ。何かしら難癖をつけて私からおやつをせしめようとしてきただろう。人の子よ、そう心配するな。今回もどうせ何か魂胆があるはずだ」

「おや、まめ次郎さん、そうなのですか」


 私の問いに、まめ次郎さんはそっと視線を逸らしました。


「おおかた、そこの引き出しに入っているジャーキーにでも気が付いたんだろう。食べたければ食べればいいさ。キミの食欲には負けるよ」

「......やれやれ、まだボケていないようでなによりだよ」

「お互いさまだね」


 しばらくの沈黙の後、まめ次郎さんは膨らんでいたたふたふを萎ませて白旗を上げました。

 剣呑な雰囲気は一気に霧散しました。


 お二人の遠慮のないやり取りはまさしく竹馬の友といった風情。私の心配は全くの杞憂だったのです。


 私はにわかに張っていた緊張を解きほぐしました。

 しかし、長年会っていなかったにも関わらず、再開すればすぐさま当時の雰囲気で交流ができる。これこそある種、友としての理想形でしょう。


 願わくば、私もちるさんやまめ次郎さんとそのような関係になりたいものです。


「さて、長々と待たせてしまってすまないね。そろそろ本題に入ろうか」


 昔話もひと段落したのか、ちるさんは改めて話を切り出しました。

 ベッドの傍にあったキャビネットからジャーキーを引っ張り出すまめ次郎さんを尻目に、私は真面目な顔を作りました。


「まずは謝らせてくれ。きみを試すようなことをして悪かった。急にあんなことを言われて驚いただろう」

「いえいえ、確かにびっくりしましたが、想いを告げることはできた以上、もはや不足はありません」

「おや、ほんとうに不足はないのかい?」

「ウソです。実をいうと不足しかありません。私はちるさんに未練たらたらなのです」

「素直で結構」


 ちるさんはからからと笑いました。


「というのも、きみに話したいことがあってね。その前にきみの気持ちを確かめておきたかったんだ」

「気持ちというのは?」

「きみがどれだけ猫のことを想っているか、ということさ」


 繰り出された予想外の言葉に私は鼻白みました。


「そしてきみの気持ちを訊いてみて、改めて話したいと思った」

「ということは合格なのですか」

「もちろん。というより、話すまでもなく、きみの瞳からは猫への情念が感じられて少し薄ら寒くもある。まるで獣の眼だ」

「まさかそんなッ」


 私は弾かれたようにベッドから飛び出して窓に映る自分を覗き込みました。

 うすぼんやりとした窓の向こう。

 そこには焦った顔をした私がいたのでした。


「冗談だよ」


 そんな私をちるさんはにししと笑ったのです。

 どうやら冗句のようで、私は思わず胸を撫でおろしました。

 ちるさんを怖がらせてしまうなどあってはならないことなのです。


「ほれ見ろ。こいつに限らず、ねこは平気で趣味の悪い冗談を言うんだ。こんな奴に懸想するのは今からでもやめたほうがいい」

「いえいえ、ちるさんのような美しい方に手玉に取られるというのも悪くはありません。これも恋愛こいあいの醍醐味でしょう」

「友の趣味はわからんなぁ」


 ひと安心した私は粛々とベッドに戻ってちるさんのお隣に座り直しました。


 ちるさんは苦笑すると、ゆっくりと身体を起こしました。不安定なその身体を支えると、彼女は「ありがとう」と礼を言いました。


「さて、余談はこれくらいにしよう。私は話をしたいとは言ったが、これを聞いてきみにどうこうして欲しいというつもりはない。ただ、きみが思うようにしてほしい」


 そうしてちるさんはゆっくりと語り始めました。


 それはねこという生き物と、彼女の軌跡。

 そして人類が歩んできた、愚かさの象徴ともいえるお話でした。











 猫が犬と袂を別った話は有名である。

 だが、なぜに猫が使命を捨ててまで人の世から姿を消したのか。

 それを知るものは少ない。


 犬たちの間では、猫が怠惰ゆえ、その蛮行に及んだと専らの噂であるらしい。

 キミもそう聞き及んでいることだろう。


 確かに、猫が気まぐれで気分屋なのは否定しない。

 だが、私は猫を代表して、その噂は否であると言わせてもらおう。


 そも、最初に断っておこう。

 猫と犬の本質は変わらない。


 要は猫も人が大好きだということだ。

 愛しているといっても過言ではない。


 ではなぜそんな猫が人の世から姿を消したか問われれば、それもまた、愛ゆえにと言わざるを得ない。


 複雑なのだ。


 キミも知っての通り、この世界は危険に満ち溢れている。

 特に、人間社会で醸成された魔はやがて世界に散って膿を溜める。そして人の世にまで危害を及ぼすのだ。


 ゆえに、我々猫と犬は、そんな危険から愛しい人間を守るために使命を掲げていた。


 だが、猫も愚かではない。

 人の歴史とは、いかに膿をもたらしたかの歴史でもあると気が付いたのだ。


 キミも聞いているだろう。

 我々が日夜相手取っている脅威は、人間が生み出した悪意がカタチを為しているのだ。


 我々が守るべき者。他ならぬ人間が、その限りない欲望と悪意によって、己自身を危機に晒している。

 要は因果応報だということだ。


 猫は人が好きだ。

 だが、その愚かさには辟易としていた。


 犬は言う。

 その愚かささえも愛おしいと。


 あるいはこうも言っていた。

 我々の友は、いつの日か己の愚かさに気が付き、悔い改める時が来ると信じている、と。


 もちろん、猫も信じていた。

 だが、猫は犬ほど気長ではなくて、気楽でもなかった。


 人の文明が興り、大きな争いが起こるたびに、猫は人の世を憂いた。

 そして、世界を巻き込んだ争いが起こる頃には、猫のほとんどは人を見限っていた。


 否。

 もうこれ以上、人の愚かな部分を見たくなかったのだ。


 愛ゆえに、人のことが好きなまま、自分たちと人の関係を終わらせたかったのだ。


 次第に猫は姿を消していく。

 その過程で、猫はこの世界の歴史からも自らの存在を消し去った。

 猫がいなくなって、人々が悲しまないようにするためだ。


 私の仲間もみな、姿を消した。

 残ったのは私だけだ。


 何分なにぶん、私は猫の中でも一等に真面目で頑固だった。


 そう言うと、まめ坊やはいつも鼻で笑うが、他の猫を見ればきっと納得するであろう。


 ひとり、またひとりと消えていく仲間たちの背を見送りながら、私は最期まであの独りではどうしようもない彼と共にあることを選んだのだ。


 人の子よ。

 どうかこの世界を去った彼らを恨まないでおくれ。


 彼らは奔放で、無邪気で、狡猾で、何より優しすぎた。

 心優しい彼らは、大好きな人間が為す愚行に耐えられなかったのだ。


 嗚呼、嗚呼。

 すまない、私はキミに何かを頼むつもりはなかった。

 だが、これだけは聞いておくれ。


 もし、仮にもし、この世界を去った猫に出会うことがあれば、少しの間だけでもいい、ただ抱きしめてあげて欲しい。


 それが私が望む唯一だ。











 消え入るように呟かれた「にゃん」という鳴き声。

 それは可愛らしい響きの反面、深い嘆きと悲しみに満ちていました。


 ねこという生き物は愛らしい生き物です。

 しかし、その愛らしさは、悲しみと表裏一体だったのです。


 愛らしさの化身としてこの世に生まれ出でて、人を愛し、そのお返しとして使命を果たすねこさんたち。


 しかし、いつしかその使命が果てのないものだと気が付き、彼女たちの心は疲弊していったのでしょう。


 愛し、愛され、守り、守られ。

 しかしその円環に果てはない。


 疲れ切った彼女たちは世界に泥を振りまく人間を見限り、失意の果てにこの世界を去ったのです。


 結局のところ、ねこさんがこの世界から姿を消したのは我々人間のせいだったのです。


 このお話を訊いて、私は生まれて初めて、人というものに心底呆れ果てました。


 私は人の業を恨みます。

 なぜに争いはなくならないのか。

 なぜに憎しみ合うのか。


 我々が愚かしいばかりに、この世界からねこさんという尊い存在がひとつ失われてしまったのです。


 嗚呼、なんと愚かな人類よ。

 私がこの世を統べる神であるならば、衝動のまま水洗のスイッチを押して大地を洗い流していたでしょう。


 絶望に打ちひしがれる私を見かねたのか、ちるさんが心配そうなお顔でそっと背中を撫でてくれました。


「キミはねこのために悲しんでくれるんだね。我々は使命を放棄したというのに」

「放棄だなんてとんでもない。結局は人間の自業自得。ねこさんに罪はないのです」


 鼻の奥がツンとしました。

 眦がじんわりと温かくなりましたが、寸前で堪えます。


 友に置いていかれ、たった独り取り残されたちるさんの方が悲しいに決まっています。

 そんな彼女が泣いていないのに、どうして私が涙を流せましょう。


 過去は変えられません。

 人類の愚かさを正すことはできません。


 であれば、私はこうやって出会えたちるさんと過ごす今に感謝しましょう。


 それこそが、この世界を去った、ねこさんとちるさんへの最大の報いだと私は考えました。


「なぜこの話を私にしてくださったのですか」


 彼女の目的はこの話を私に聴かせることに間違いはないでしょう。

 しかし、私にはその真意を読み取ることができませんでした。


 よもや、人類の愚かさを正してねこさんを呼び戻してほしいということではないでしょう。


 ちるさんのお頼みならば、生涯をかけて尽力する所存ですが、それでもやはり難事が過ぎます。

 おそらく、世界征服は避けられません。


「さて、どうしてだろうねぇ。哀れな彼らのために、猫を知っていた人間が少しでもいたらいいなと思ったのかもしれない」


 彼女は真意を感じさせない笑顔ではにかむと、のっそりと立ち上がりました。


「さて、私はそろそろ行くことにしようかな」

「どこに行かれるのですか? 」


 私の質問に、彼女は答えました。


「なに、ちょっとした散歩だよ。長い長い、ちょっとした散歩さ」

「それは楽しみですね」

「ああ、本当にね」


 ちるさんは右前脚を舐めると、その脚でお顔を撫で付けました。

 まるでお出かけに備えておめかしをしているみたいです。


「こんな老猫と話をしてくれてありがとう。お礼に、キミにいいことを教えてあげよう」

「いいこと、ですか」


 彼女の言葉に首を傾げます。

 私はもう満足していました。

 フラれたとはいえ、ねこさんに積年の想いを告げることができたのです。


 もうなにも思い残すことはありません。これ以上は望んでしまっては罰が当たりましょう。


 しかし、続くちるさんの言葉を聞いて、私の恋愛こいあいは更なるステージへと駆け上がったのです。


「猫たちの住処を教えよう。どこを見ても猫しかいない。キミにとってはまさに楽園だね」

「そ、それはいったいどこなんですか!?」


 ちるさんはうっそりと笑いました。


「この世界の始まりだよ」


 そう言い残して、彼女はしゃなりしゃりと窓の外へと消えていったのです。

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