第5章 冬のオリオン
prologue
告白します。
私の初恋は、決して報われるはずのない相手でした。
◇1◇
ぴぴぴぴぴ。
充電器に繋いだままのスマホ画面をタップして目覚まし時計を止める。
「うー……」
もう5時半か。
東京の事務所で月曜日は幹部会議がある。
間に合うように家を出るにはこの時間に起きるしかない。
月曜日だけは葉山の僻地に家を買ったことをうらめしく思う。
日曜の夜は実家に泊まったら、って菜々子は勧めるけど、そのほうがもちろん楽なんだけど、俺はやっぱりこっちがいい。
もう、あの18年すごした成城の家よりも、1年半しか住んでいないここが俺の家なんだと思う。
「ナツ……ごめん。もう5時半?」
俺の胸に半分頭をもたせかけて寝ていた菜々子ものっそりと起き上がる。
すでにベッドから出ていた俺は、菜々子の背中をべしゃっと押して、ベッドに押し付ける。
「菜々子はまだ寝てろよ。昨日、すげー遅かったろ?」
「うん。だけど、ナツの朝ご飯……用意。……昨日のミネストローネと…トースト……」
「わかった。行ってくるな」
またとろとろと寝かかっている菜々子の頬にキスして部屋を出た。
なべに残っている昨日菜々子が作ったミネストローネを温めて、トーストを焼く。
時間がないからコーヒーはインスタントだ。
3分で食って、歯をみがき、顔を洗う。
スーツのズボンをはき、白のワイシャツを着て、ネクタイをしめる。
スーツの上着を羽織ったところで、2階でものすごい音がしてドタドターっと転げるようにパジャマ姿の菜々子がリビングに入ってくる。
「ごめんっ。ナツ、自分で用意したの?」
「用意ってほどのもんでもないよ。昨日の残りにパン焼いただけだから。菜々子昨日遅かったんだから早く上行って寝ろよ。今日、入稿なんだろ?」
「うん。そうだけど……」
「がんばったな。大変だったもんな」
菜々子の前髪をかき上げて、髪の生え際にキスをする。
「ごめんー」
「いいんだよ。共働きなんだから」
玄関までヨタヨタついてきた菜々子に手を振って外に出る。
12月の朝の空気はきりきりと冷たい。
菜々子と暮らし始めて1年半。
この1年半、俺は自分たちで立ち上げた家庭教師の派遣会社、Canalsが業績を伸ばし、かなり忙しかった。
社員も起業時の10人から5倍の50人に増えた。新規事業に合わせてまたキャリア採用の予定もある。
実にありがたいことといえる。
一方、菜々子のほうは、翻訳の仕事なんてそうそう転がってるものじゃないらしく、ツテでくる観光のリーフレットの英訳の仕事を家で細々としていた。
今回、イギリス留学中の恩師に頼まれた児童文学の翻訳が、菜々子にとって初めての大きな仕事になる。
この3ヶ月、だいぶがんばっていた。
イギリス留学までしたのに、やりたい仕事がなかなかないというのは側で見ていて、ちょっとかわいそうだったから、本当によかった。
菜々子が朝起こしてくれて、俺が下に行く頃にはもうメシの用意ができている。
そういうのはそういうので悪くはなかったけど、やっぱり菜々子の好きなことが軌道に乗って、やりがいを感じているほうが、俺はずっとずっと嬉しい。
ここのとこ菜々子は2時とか3時までずっと部屋にこもって翻訳をしていた。
今日はやっと二人でゆっくりできるかなー。
この週末は、どこかいいとこでメシを食って、初仕事のお祝いしような、って言ってある。
週末、わやわやと俺のヨット仲間や仕事仲間が集まることが多い我が家で、なかなか菜々子とゆっくり二人の時間がとれない。
正直、結婚ってもっと四六時中一緒にいられるものだと思っていた。
◇2◇
「幼児教育に力を入れている大規模私立幼稚園に参入します」
雑居ビルのワンフロアを借り切っているうちの会社の会議室での事だ。
俺の説明にあわせて一応副代表の健司が、作ってきた創案をスライドに映し出す。
「これからは、語学が絶対基本の時代がくると思われます。まず英語、それからいずれは中国語、などまずは昨今勢いのあるアジア圏の言語に手を広げていく予定です。この計画にともない引き続き外語大学系、および、優秀な語学学科の学生の確保を行っていきます。ではその具体的な作戦として―――」
時間短縮のための立ったまま会議で、俺はこれからの事業展開、特に力を入れていくつもりの大きなプロジェクトについておおまかに説明した。
私立幼稚園への参入は、難しくはあるけれど絶対に成功させたいプロジェクトだった。
会議は30分で終了。
「おい代表」
健司が俺を呼ぶ。
「何、副代表?」
会社を立ち上げるとき、誰を代表にするかでちょっと揉めた。
経済学部の奴らが多くて、法律に明るいヤツがいない。
結局、法学部にいったラグビーの長田をひっぱりこんで、いろいろ相談にのってもらい……人当たりのいいやつを代表に据えることになり、俺がやることになった。
新しく採用した社員もいるわけで、会社の中では代表だの副代表だの呼んでいるのがちょっと笑かす。
いまだにふざけている感が抜けない。
「今日、ナベとかが飲もうって言ってきたけどお前行く?」
「フォルガ? あー、俺ちょっと今日はいいや」
「お? 何何? ここんとこなんか付き合いいいかなって思ってたら」
「だって俺んち遠いじゃん。俺んちを根城にヨットやってんだからわかるだろ」
「いきなり今日から遠くなったわけじゃねえじゃん。菜々子ちゃんの仕事、ひと段落したんだろ?」
「…………」
「わっかりやすいなー、お前あいかわらず。はいはい今日はお楽しみねっ」
健司は資料のファイルで肩をトントンたたきながら俺をおいぬいていった。
わかりやすくてわるかったなっ。
「ふんっ。お楽しみがうらやましいくせによー」
たいしてでかい声で言ってないのに健司は振り向いて、俺んとこまでもどり、俺の首をしめてきた。
「なんだとー」
「早く次の女探せよ。お前に女がいねーと俺がつき合わされてメンドーなんだよ」
健司は3ヶ月前、3年くらいつきあった女の子と別れている。
性格の不一致の円満解散だから、その子、都ちゃんとはまだ俺も健司も一緒に飲んだりする。
だけど、いかんせん酒好きの健司。
彼女がいなくても、仕事が遅くなっても飲みたい派。
菜々子が忙しかったこの3ヶ月は健司につきあっていたけど、彼女が仕事がないとなれば話は別だ。
女いないもの同士で勝手に飲んでくれ。
合コンでもなんでもやってくれ。
健司のことだから作ろうと思えばすぐできるんだろうけど、なんだか今回は慎重で、珍しく彼女なし期間が空いていく。
仕事人間になっていってるんじゃないかと、ちょっと心配にはなる。
まぁがっつりヨットには力を入れているからそんな事もないか。
「ナツー、こんなに若くてお肌つるつるのうちに結婚しちゃってー。後悔とか、反省とか、
健司は今度は俺のクビに腕をまわしてくる。
「ぜんぜん? ってかやめろっての。うぜーだけなんだけど男に抱きつかれても」
スーツ姿の男二人、しかも代表と副代表が廊下でじゃれあっていたら気持ち悪いだろ。
「あの……代表……」
事務をやってもらってる派遣の女の子の小さい声で、俺と健司はぱっと離れた。
教室で抱きあってるのを見られた高校生みたいじゃねーかっ。
なかなか買えないと評判のドーナツ屋の前を通ったら、たまたまなのかブームが去ったのか並んでいない。
俺は菜々子の土産にドーナツを買って家路についたっっ!
久しぶりの手の込んだ料理ー。
タンを煮込んだシチューとグラタン。
俺の好きなポテトサラダ。
この辺で有名なパン屋のバケット。
それで目の前にはこのご馳走より美味そうな女。
結婚って最高じゃん。
遅い夕食を二人でとりながら、菜々子の初仕事のささやかなお祝いをする。
俺が風呂に入っている間に、もうあらかた片付けは終わっていた。
テーブルの上を拭こうと、菜々子が布巾を手にキッチンからダイニングに出てきた。
俺はその布巾を菜々子の手からやんわり取り上げる。
「後、俺やるから菜々子も風呂、行ってこいよ」
「うん。ありがと。その後、コーヒー入れて二人でドーナツ食べる? ナツも食べるの? 甘いの」
「いや、あれは明日の昼間にお前が食べろよ。近所のナナミちゃんでも呼んだら? 酒、飲もうぜ。上で」
「わかった」
菜々子は風呂のほうに向かった。
テーブルを拭くと、俺はキッチンでつまみになりそうなものを探す。
チーズがある。
お。
サーモンと生ハムもある。
それを皿に空けて木製のトレイに乗せ、缶ビール2本とグラスも乗せる。
赤ワインの半端なやつを脇に挟んで、階段を上がって寝室へ移動する。
15畳のフローリングにあるのはキングサイズのアイアンワークのベッド(菜々子の趣味)。
ガラスの小さいテーブルと白い帆布を張ったソファ(菜々子の趣味)。
前面に雑誌や本をディスプレイするデザイン重視の実用性に欠ける本棚(菜々子の趣味)。
俺は、ガラステーブルにトレイを置くと、ビールのプルトップをひいて、喉に流し込んだ。
「ナツ。お待たせー」
菜々子がローラアシュレイの白いバスローブ姿で俺の隣にきた。
二度目につき合いはじめた時、一人暮らしだった俺の部屋で菜々子が使うように買ったヤツだ。
俺が大学1年、菜々子が2年の時で、もう5年もたっている。
いいかげんくたびれてきた。
新しいのを買おうって勧めても、ナツが最初にくれたこれがいい、と菜々子は譲らない。
そういうところがまた、たまんないんだよ俺には。
菜々子のグラスにビールを注ぐ。
あらかた1本目は空けちゃっている俺のビールを、いまさらグラスに注ぎ、乾杯をする。
こうやって菜々子と二人でのんびりしている時間が好きだ。
どうして菜々子と一緒にいると、なんてことのない時間が楽しくてたまらないと感じるんだろう。
取り立てて好きなことが同じとか興味があることが似ているってわけじゃないのに。
むしろのめり込んでいるものはお互い全く別。
だいたいここで飲む時は、菜々子が缶ビール1本、俺がその3倍くらいの量のアルコールを身体に流し込むと、そのままでかいベッドにうつる。
くっついて寝ちゃう時もあれば、お互いが好きな動画や本を、一緒に見たりそれぞれ見たりする。
いちゃいちゃしていれば、セックススイッチが入る事も多々ある。
(菜々子が忙しすぎてここのところ、俺は忍耐の日々を強いられてきた)
二人ともアルコールが入ると、自分ののめりこんでいることに話題を振る感じだ。
俺はだいたいヨットの話か、仕事の話。
菜々子はお気に入りの写真集「ヨーロッパの古城」とか「アイルランドの風景」をひろげながら、ケルトの神話だの、妖精だのの話をしてくる。
お互い、聞こうとはするけど、興味を惹かれるかといえば微妙、としか言いようがない。
今日も、俺がドラッガーのマネジメント理論の説明を始めると、俺の肩の上で舟を漕ぎ出す菜々子。
だめだ。
マネジメント話は菜々子の子守唄だった。
今日は寝かしたくないんだよー。
俺、ここんとこ結構我慢してたんだよー。
「菜々子っ」
二人うつぶせでならんで肘で身体を支えていた体制から、菜々子の肘をそっとはらって頭を支え、ゆっくり仰向けにする。
「うーん……」
「寝るなっ。今日はヤるの」
菜々子の耳元でささやく。
「もうナツのエッチー」
菜々子のローブを解いて鎖骨にキスする。
「24の男がエッチじゃなかったら人類滅亡するっての」
菜々子の、なんにも塗ってない自然な色の唇が好き。
滑らかな感触が好き。
菜々子を想い、加減してするキスは俺のやるせない気持ちを加速させる。
最初にセックスしてからもう5年以上たっているのに、こういう時俺はまだ胸が痛くなる。
幸せだー!! と叫びたくなる。
たぶんそれは辛い別れを一度体験してるから。
こうしていられることが、あたりまえなんかじゃなく、奇跡に近いことだと知っているから。
「今日って安全日?」
「うーん。平気だと思う」
結婚前は無防備に抱いたことは一度もなかったけど、結婚してしまうと、もうデキたらデキたでいいかなって気持ちになる。
避妊具をとりに行くのももどかしい。
無駄に凝ったアイアンワークのベッドの突起に小さい巾着袋にいれた避妊具をぶらさげておいて、えらく菜々子にふくれられたことがある。
ヨット仲間が海からあがって俺の家に来ていたある日のこと。
仲間のおじさんのところの3歳の娘が寝ちゃったから、ベッドを貸した。
起きてからその子がその巾着の中身をぶちまけて遊んでいたのだ。
下にいた俺らが物音に気づいて上にいった時、その子はベッドの上でひとつひとつ避妊具の袋を破って遊んでいた。
別に俺は平気なのにその日菜々子はもう隠れてみんなの前に出てこなかった。
夜になってみんなが帰っても、口をきいてくれない。
仕方ないからもうその巾着ぶら下げ方式はやめた。
そうすると、収納の少ないこの部屋では造りつけのクローゼットまでそれを取りにいかなきゃなんない。
酒を飲む前に用意しておこうと思ってもけっこう忘れるし、そのまま寝ることもあるから。
だからもう、こうして菜々子が安全日だと言う日には、そのまんま抱く。
愛おしいからそのまんま抱く。
「菜々子。好きっ」
俺の背中にしがみつくようにして果てる菜々子が可愛くてたまらない。
俺はこの女に心底惚れまくっているんだと思う。
さすがにもう裸のまま寝ることはなくなった。
二人とも脱いだ寝間着をもう一度着る。
俺は菜々子を後ろから抱きしめ、足までからめて眠りにつく。
もう完全に抱き枕状態だ。
最初の頃は重い、とか文句を言ってた菜々子も、もう最近は慣れたのか何も言わない。
朝、起きるとだいたい仰向けになってる俺に菜々子はへばりついてる。
俺らのスタイルができあがってきている。
まさにバカップル丸出しな今の状態が、俺にとっては最高に居心地がいい。
◇3◇
火曜日からはだいたい別会社や狙っている幼稚園をまわってから、出社する。
5時半なんて異常な時間に起きなくてもすむ。
俺が起きるともう菜々子はベッドにいなかった。
右半身に軽い痺れが残っている。
さっきまでここに菜々子がいた証。
「ざびー」
朝、冷え込むようになったなー。
俺は素足を布団から出して愛用のふかふかスリッパをさぐる。
ソファにそのままになっているフリースのパーカーを羽織って前をかき合せ、階段を下りる。
「おはようナツ」
「おー。おはよ」
「今日、何時?」
「んーと、七時半に出る」
もう部屋着に着替えた菜々子が味噌汁のナベを火にかけながら聞く。
「わー急がなきゃ。 ナツ先に顔洗ってきてー」
「ういー」
歯磨きをし、顔洗ってメシ。
ほうれん草とアゲの味噌汁にシャケ。
最近菜々子が凝ってる五穀米の入ったメシ。
スーツに着替えると玄関の外まで出てきた菜々子に聞く。
「次の仕事、もう始まる?」
「まだだよ。そんなポンポンこないよ」
「じゃ、今日も仕事終わったらすぐ帰ってこよー」
「うん。でもいいよ無理しないで。健司くんたちと飲んできても」
「それはいいよ。菜々子の仕事、始まってから飲みに行くから」
「そっか。じゃ、今日もナツの好きなもん作って待ってる」
俺は菜々子に手を振ってバス亭方面に歩き出した。
「いってらっしゃーい!」
振り向くと、手で口のまわりを囲い俺だけに聞こえるように菜々子が声を発したままのかっこで、まだ同じ場所に立っている。
こういうふうに穏やかに日々が過ぎていけば、もう俺は満足だった。
菜々子がいて。
やりがいのある仕事があって。
ヨットがあって。仲間がいる。
これ以上望むことなんかなかった。
だけど、それは俺にとって、どれもなくてはならないもので、どれがなくてもきっと俺はバランスを崩す。
その中でもどうしてもどうしても他のものでは替えが利かないもの、その1番にくるもの、それは……菜々子だった。
◇
幼稚園参入プロジェクトであたりをつけてる幼稚園がある。
かなりの規模を持つ教育系幼稚園。
同じ経営者の系列幼稚園が5つある。
そこから私立の小学校受験をする子供も多い。
文化教育めぐみ幼稚園という敵、いやお客様。
ここを絶対落としてやる。
俺は何度も足しげくそこに通った。
月の幼稚園費用は8万4千円。
区立じゃくらべるらくもないけど、普通の私立と比べたってだいぶ高い。
親はかなりな富裕層だと調べがついている。
ヴァイオリンや新体操というわけのわからないものまで幼稚園児にやらせている。
語学やプログラミングのほうが大事だろう。
そこに参入して、個別に家庭教師として希望者に語学系の学生を送り込む。
どうだどこもやってねーだろ。
来週の木曜日、ついに、五つの文化教育めぐみ幼稚園の園長があつまって、俺の話を聞いてくれることになった。
やっとここまでこぎつけた。
いままでで一番でかい契約。
健司が担当してる将来の語学の必要性の資料は、他国の語学推奨率と比較して、細かくてデータ分析してある。
完璧。
幼稚園側で、新体操やヴァイオリンのように語学家庭教師も幼稚園費用に組み込んでもらうのが一番なんだけどな。
親に説明会を開いてもらえれば、絶対に幼少期から語学をやらせたいと思わせる自信がある。
着々と語学系大学の学生登録数も増え、幼稚園のほうもあと一歩のところまできた頃……菜々子は今回の翻訳が評価され、また短くはあるけど子供向け童話の翻訳を出版社に依頼された。
すべてがいい方向に向かっている。
人生に冬なんかないんじゃないかと思えるほど、なにもかもが順調だった。
◇4◇
「菜々子ー今週末、ヨットな? お前も乗る?」
プロジェクトが佳境に入っていて忙しい。
12時近くに帰ってきて玄関で靴ぬぎながら、菜々子に聞く。
「うわー、乗りたいー!! でも翻訳がー!! っていうのもあるんだけど、ちょっと気になることも……」
「何? 気になることって?」
「はっきりしてから言うー」
「俺が気になるから今言え」
「えーと……いいよ。違うかもしれないし」
「今言え! 言わないとお仕置きすんぞー」
お仕置きとか自分で言っていてなんか欲情してきた俺は、鞄を放り出して、菜々子を抱きしめキスしようと唇をよせる。
顔をそらし、軽く俺の胸をついて押し戻そうとする菜々子。
「あのー、ちょっとしばらくそういうのは……」
「もうっ! なんなんだよっ。気になるから言えっての。俺の仕事にさしつかえんぞ」
「……できたかも」
「は?」
「……赤ちゃんが」
「は?」
「妊娠……してるかも」
「……」
「あっ。でもただ遅れてるだけかもしれなくて。わたし不順っていうか、よくわかんなくて」
「調べたのか?」
「まだ」
「遅れてるってどんくらい?」
「……3週間くらい」
「それって……どうなんだ? 今までそんなに遅れた事ないだろ?」
「わたし、忙しかったり睡眠不足だと乱れるから」
「調べるぞ。俺検査薬買ってくるから、ってもう薬局しまってるか。コンビニでそんなの売ってる?」
「いや、あの、検査薬はあるんだ家に。一応……」
「じゃなんで調べないんだよ。そうだったら早く病院行かなくちゃダメじゃんか」
「うん。でも……」
「でも、何?」
「違ったら…わたしちょっとそのー、ショックっていうか、できたかもって思ってから嬉しくて、もうちょっとこの気分に浸りたいっていうか……」
「何のんきなこと言ってんだよ。何かあったら大変だろ? 早く調べてこいよ」
「う……ん」
「大丈夫。俺が一緒にいるから。今回できてなくても、そんなに欲しいならいくらでも俺がヤってやるから」
「何いってんのよ。こんな時に……」
「早く行って来いって」
俺は菜々子の背を押し出した。
トイレに向かったらしい菜々子の背中を見送る。
な、なんだすんげえドキドキしてる。
菜々子に子供……。
俺の子供が菜々子の中に……。
うわー……。
菜々子と二人の生活が心地よくて、子供なんてまだあとでもいいと思っていたのに、でも、ホントだ。
できたかもって言われると、できてて欲しいと思ってしまう。
俺と菜々子の揺るぎない絆。
俺はダイニングテーブルの前に座って菜々子が戻ってくるのをそわそわと待った。
菜々子がトイレから出てくる。
俺は立ち上がる。
「どっどうだった?」
「にににに……」
「おお、落ち着けっ。どうだった?」
「にん……してた」
「まっマジで~~~?」
俺は菜々子が手に持っているスティック状の検査薬を奪おうとしたら、さっとかくされた。
「何だよー、俺にもみせろよー」
俺はじだんだ踏んだ。
「これはそのー、あんまりキレイな検査方法じゃないから」
「そんなことくらい知ってるよ。尿検査なんだろ。いいじゃんか見せろってば。どう見んのよこれ」
俺は菜々子の手からスティックを剥ぎ取って観察した。
線が二本で出ているけどこれが妊娠なんだ?
「いいの? ……ナツ。安全日? っていつも聞くのに妊娠しちゃって」
「よくなかったらちゃんとツケるよー。うわーマジでー」
俺と菜々子の子供が……。
うわー。うわー。うわー。
もう頭の中がそれこそ薔薇色に染まる。
ここのところ次から次へと絶好調。
菜々子は再び俺の手から検査薬を奪い取り、飾り棚の隅に置いた。
「やったなー菜々子。俺たちの子供だぞー」
俺は菜々子を横抱きに抱き上げた。
幸せすぎて怖いくらいだった。
「ナツ。だからそういうわけでしばらくアナタは禁欲生活ですっ」
菜々子が俺の肩に両手をまわしながら言う。
「よく言うよ。自分だって禁欲生活にはいるんだぞ」
菜々子の唇にちゅっと音をたててキスした。
恥ずかしそうに目を伏せる。
「えー……わたしは別に……」
「結構喜んでるじゃんいっつも。いてっ」
菜々子に頭を叩かれる。
「だからそういうことは思ってもいわないのっ」
その夜、菜々子が間に合わないとか言って翻訳をやっている横で、俺はパソコンでこの辺の産婦人科をピックアップする。
どこが評判がいいか、アクセスがいいか、最新機器がそろってるいるか。
難しいっていうかぜんぜんわかんねぇ。
外観がホテルみたいなところとか、退院する時にフランス料理が出るとか意味のわからない病院もある。
ラマーズ法がどうのとか無痛分娩を使っているとか、妊婦のエアロビがあるとか……。
「菜々子ー。何悠長に翻訳なんかやってんだよ。俺ぜんぜんわかんねぇ。お前どこで産みたいんだよ。ちょっと見ろよ。このホテルみたいなとこがいい? それともこっちのフランス料理?」
菜々子は顔をあげて、俺をみる。
「ナツ、そういうとこは値段がすごく高いんだよ。普通のとこでいいよ。うーん。通うのはここからだけど、どっかに決めなきゃなんないけど。産む時どうしよう。長野で産むか。ここにお母さんに来てもらうかしないと、わたし、産んだらしばらくは動けないからね?」
「あー、そうだな。ここに来てもらえよ。俺菜々子と離れんのやだ。赤ちゃんも退院したらすぐ近くに置きたい」
「そうだね。わたしもナツの近くにいたい。ここに来てもらおう。お母さんに」
「うちの母ちゃんまで来るとか言い出しかねないからしばらく黙っとこう」
「病院決めてちゃんと確認したら、両方の親に報告しよ?」
態度でわかる。
菜々子も嬉しくてたまらないんだ。
翻訳をやりながらもどこか上の空だ。
こんなんでいい仕事ができるのかな。
週末の土曜はヨットのレースで俺が欠けるとチーム全体が試合に出られない。
ホントは菜々子をとにかく病院に連れて行きたかったけど、やむなく海に出た。
菜々子はおいていった。
それからいつものごとく、俺の家にヨット仲間がなだれ込んでくる。
避妊具やぶっちゃった女の子も今日も奥さんと一緒にきている。
カナちゃんっていうんだった。
いままでなんとなく一緒に遊んでやることはあっても、特にどうとか思わなかったけど、菜々子の腹の中に子供がいるってわかってから、やたらと子供が目につく。
いままでと見方がぜんぜん違う。
マジで可愛いなって思う。
可愛いだけじゃなくて手がかかるんだろうってことは見ていてもわかる。
ジュースはこぼすし、すぐ泣くし、わがままばっかり言って母親の美智子さんが手を焼いている。
でも可愛いなって、すごく思う。
俺はその日、カナちゃんの世話ばっか焼いていた。
早く会いたいよ。
俺と菜々子の子供。
まだぺちゃんこの菜々子の腹を、気づくとチラチラ見てる俺がいる。
◇5◇
日曜の夜、俺は寝室で菜々子にクギをさした。明日は月曜日。
「菜々子ー。病院決めたか? 明日こそ産婦人科行けよ。俺、一緒に行きたいけど今、仕事が正念場なんだよ。もう少しででかい話がまとまるから。今度の週末なら行けるけど、心配だから早く行ってこいよ。もう最初はどこでもいいからとにかく行って来い。心配だから!」
「んー。週末、ナツが大丈夫ならそれまでに病院決めようかなー」
「はぁー? そんな悠長なこと言ってないでちゃんと行け。週末までにちゃんと病院決めたら、そこにもう一度俺も行くから」
「うーん。でも翻訳がー。そんなに急がなくても土曜日でいいよ。ナツと一緒がいいもん」
「もぉ~!! 頼むから行ってくれよ。俺が心配なんだよ!」
そんな会話が続いた。
菜々子はつわりらしき症状が出てきた。
これから10ヶ月、ホントに大変なんだな。
ベッドの上で足を放り出して座ってる菜々子の腹に耳をあてる。
「なんか菜々子の腹の音しか聞こえない。心音どれだ?」
菜々子にべちっと頭をはたかれる。
「まだ聞こえないよー。やめてよ、腹の音とか恥ずかしいから」
「あー。恥ずかしいこと10ヶ月もできないのー。妊娠って酷だな。でも俺、この子のためなら我慢できるかも。男かな。菜々子に似た女の子かなー」
「ナツに似た男の子がいいなー。ナツのちっちゃい時、可愛かっただろうな」
「ものすげー手がかかったらしいぞ」
「うん。そんなカンジだね。でもいいよ。ナツにそっくりの子が欲しい。男の子でも女の子でも」
俺ら、幸せだった。
すごくすごく幸せだった。
菜々子をまた後ろから抱きしめて眠った。
もう菜々子の身体に足は乗っけない。
いつも肩から腕を回して胸より上を抱くのに、今日は両手で菜々子の腹を守るように抱いた。
俺は今、菜々子と一緒に俺たちの最初の子を抱きしめている。
月曜。朝五時半。
昨日人が大勢来て、そのぶんもメシを作って、夜は翻訳をやり、疲れきって、俺にくっついて寝ている菜々子。
しゃかりきになって手伝って、片付けは手を出させずに、上に行ってベッドで休んでいてもらった。それでも疲れただろう。
菜々子の額にそっと口づける。
こんなにも愛おしい生き物がこの世にいるなんてな。
俺は起こさないようにそろそろと俺の胸の上に乗っている菜々子の腕をはずし、ベッドから抜け出した。
昨日菜々子が大量に作った料理の残りを漁って食い、まだ薄暗い朝もやの中、バス亭に向かった。
子供が生まれる。
会社をもっと揺るぎないものにしなくちゃならない。
菜々子と子供。
それにこんな小さい会社に入社してくれた社員とその家族。
俺が守っていかなくちゃならないんだ。
◇
月曜、火曜とすぎていった。
外回りの途中、俺が健司と長田と電車に乗る。
ちょうど空いている席があったから、3人で座る。
俺がナイロンのアタッシュケースから『初めての妊娠』を出して読み出すと、健司はぎょっとした声を出す。
「なっ。なんだよその本」
「何って妊娠の本だよ」
「何でお前、この真昼間からそんな本読んでんだよ」
「妊娠に昼も夜もねえだろ。菜々子妊娠したんだよ。読む時間ぜんぜんねーから今読んでんじゃん。おーっ!! 妊娠中期はヤってもいいんだって」
「そこかよっ お前の知りたいことは!!」
「そうじゃないけどたまたま目についたから……」
「ナツくん。ちょっと落ち着こうか? 絶対ヘンだって。バシッとスーツ着た男がその本読んでんの。その女体下半身内部の図解はヤバイから。な?」
「うるせーなー。そんなこと言ってる場合じゃないの。あいつ、つわりでどんどん具合悪くなってってるんだよ。お前はこの創案でも読んどけ」
「それは俺が作ったんだから、お前より詳しい」
俺たちを無視して目を閉じていた長田が目を開けると、俺の膝の上の本を珍しげに見て、一言言ってまた寝た。
「その本あとで見して。ある意味そそる」
「ばかっ。神聖な妊娠をそーゆー目で見るやつには見せてやんねえ」
「もうっ。これから大学行くのに、妊娠妊娠言うなよー。大学生で妊娠したら大変じゃんか。大学の路線なんだから同じ大学の学生いるかもしんねーじゃん」
「もうわかったよー。だってホントに読む時間ねえからー」
「てかこの路線や幼稚園関係の路線ではビジネス言葉を使おうか? 代表」
「わかりました。副代表」
俺は仕方なく『初めての妊娠』をしまった。
俺が仕事の外回りの合間に買って来る妊娠関係の本が増えていく。
『初めての妊娠』『出産と育児』『妊婦の栄養と食生活』雑誌の『たまごちゃんクラブ』『名前の付け方辞典』
菜々子の具合が悪い。
つわりが本格的になってきたらしい。
「菜々子大丈夫か? ほらグレープフルーツのゼリー買ってきたぞ。これ食え」
会社から帰った俺はいつも玄関まで出てくる菜々子の姿がないから、二階のベッドへ直行。
ベッドの上で青ざめた顔をしている菜々子が言う。
「ありがとナツ。ごめんね。つわりって3ヶ月くらいで終わるらしいから」
味覚が変わったとかで、大好きだったプリンやティラミスがダメになった菜々子。
今は人工的要素の少ない柑橘系のゼリーがやっとだ。俺が買ってきたものも、外回りの合間にデパートで買った老舗フルーツパーラーが出しているゼリーだ。
飲み物なんて、自分で作るレモンジュースしかうけつけない。
マジで栄養が心配。
匂いでメシを作るのが辛いという。
「俺は外でいくらでも食えるから。自分の分、どうしてるんだ?」
「作ろうと思ったんだけど……」
「俺がやる」
キッチンにいくと、里芋とかにんじんとかこんにゃくとか、大根とか、切っただけの野菜がボールに入ったままになっている。
俺はそれを鍋に移し、水を張って、煮込んだ。
菜々子の言うとおり、ダシを入れ、醤油とみりんで味付けする。
こんなんで大丈夫なのか?
妊娠の初期ってこんななのか?
確かに本にはそう書いてある。
つわりは軽い人、重い人がいる。
つわりで入院する場合まであるとか。
早く病院に行って欲しい。
菜々子は一人で産婦人科に行くのがいやだという。
電車に乗ると気持ちが悪くなりそうだから、俺に車で連れて行ってほしいという。
俺としてはすぐにでも連れてってやりたいけど、なんせ仕事が佳境だ。
社をあげてのプロジェクトでみんながんばっているのに、代表の俺が休むわけにいかない。
週末まであと2日……頑張ってくれよ。菜々子。
菜々子の具合いかんで俺はどうなるかわからないから、しばらくヨットは休むことにした。
文化教育めぐみ幼稚園での大事なプレゼンを明日にひかえ、社のパソコンとにらめっこで担当の健司と長田と最後の確認にはいる。
明日は絶対失敗できない。
◇6◇
「代表……」
社の女の子がためらいがちに俺に声をかけた。
ここは代表の部屋なんてものはなくて、俺だってみんなと同じフロアで仕事をしている。
これは健司のデスクのパソコン。
「ん? 何?」
「すみません大事なお話中、お電話が入ってるんです。S大付属葉山病院なんです。緊急のようで」
「え……」
S大付属葉山……。葉山……。
俺の家のほう……菜々子?
菜々子に何かあったのか?
「どこ? 電話」
「代表のデスクにまわしました」
俺は自分の席にすっとんで帰って、電話をとっった。
「一之瀬です。菜々子に……妻になにかあったんですか?」
…………。
…………。
…………。
「代表?」
健司が俺の近くにきて肩をゆする。
「菜々子が……」
嘘だろ。
頭がぐらぐらする。
早く…病院に行かなくちゃ……。
「健司、あと頼んでもいいか? 俺ちょっと……病院……」
健司はふらふらして思考のまとまらない俺の腕をつかんで廊下にひっぱりだした。
「菜々子ちゃん、どうした?」
「大量の出血で、ショック症状…今、意識不明……」
嘘だよな。
つわりがキツイとは言ってたけど、今日出てくるときだって、俺にへばりついて満ち足りた寝顔で……。
俺が作った美味くもない汁物もちゃんと食べている。
「いいよ。行けよナツ。あとやっとくから」
「悪いな」
俺はそのまま、社を出た。
通りにちょうどきたタクシーに乗り込んだ。
「S大付属葉山病院まで。すいません急いでください。妻が意識不明なんです。お願いします」
タクシーの運ちゃんはそれなりに急いでくれたんだと思う。
でもでも遠い……。遠すぎる。
こうしてる間に菜々子が死んでしまうんじゃないかと、もう叫びだしたい気持ちをどうにか抑える。
受付で名前を言い、運び込まれた一之瀬菜々子の居場所を聞く。
集中治療室……ってなんだ?
な……なんで。
いったい菜々子に何がおこったんだ?
流産? 大量出血っていったらもう子供はダメってことか。
それは仕方ない。
どうしようもないんだと思う。
流産は10人に1人とかの確率で起こると本にも書いてあったし、ヨットのおじさんもそう言っていた。
ただ菜々子。
菜々子。
菜々子がなんで……。
「一之瀬ですっ。菜々子はどうなったんですか。菜々子に会わせて……。いや担当の先生に。看護師さんは知ってますよね。なんで菜々子は大量出血なんてっ」
集中治療室の目の前にあるナースセンターの看護師に、俺は食ってかかるような勢いで話した。
「一之瀬さんっ。落ち着いてください……今先生を――…」
「一之瀬さん」
ナースセンターの壁で仕切られた裏側から、年配の白衣姿の男の人が出てきた。
「先生? 菜々子の担当の先生ですか?」
俺はカウンターの切れ目からナースセンターの中に入った。
「あっ一之瀬さん困ります。ここには―――…」
「いいよ。一之瀬さん、こちらに来てください」
年配の先生はカウンターの中の壁の裏側に俺を連れていった。
「座ってください」
デスクがくっつけて4つ置いてあり、そのうちのひとつの前の椅子に先生は座った。
となりに俺にも座れ、という。
「先生、それより菜々子に何があったのか教えてください。菜々子は大丈夫なんですか?命に別状はないんですよね?」
早く聞きたいのに、命に別状は……と言った瞬間、自分で言った言葉をこれまでにないほど後悔した。
命が危ないとか……まさか、そんな事はないよな。
でも返答を聞くのが怖い。
「子宮外妊娠だったんですよ」
「は?」
「つまり子宮ではないところ、卵管に受精卵が着床してしまっていまして、しかも一番狭い場所、いわゆる狭窄部というんですが、そこに着床して、受精卵が大きくなり、卵管が破裂してしまったんですよ。それで大量の出血をしました。緊急だったので、手術をし、卵管の切除をしました」
「菜々子は? ……子供は?」
「残念ですが、お子さんのことはあきらめてください」
「な……菜々子は?」
「大量出血でしたので輸血をしました。かなりの量の出血だったんですよ。本当にこれ以上だったら危なかったですね。でももう大丈夫。命に別状はありません。……ないはずなんですが、麻酔が効きやすい体質なのか、まだ目をさまされないんですよ」
「い…いいい生きてるんですよね?」
「もちろんです。眠っているだけです」
「………」
「一之瀬さん……?」
俺の目から大量に涙が滴り落ちた。生きてた。菜々子が生きてた。
生きててくれた。
菜々子の意識不明の情報を聞いてから、どれだけ俺が菜々子の死におびえていたか、今わかった。
「先生……菜々子を救ってくれて、ありがとうござい……ござい……」
大の大人がこんな大泣きしているなんて、傍からみたらどんなに滑稽だろう。
でも止められなかった。
ボタボタ床を濡らす涙をぬぐいもしないで、俺は先生の手を両手で握り締める。
この人がいなかったら、菜々子は確実に死んでいたと思うと、もうどんな感謝の言葉でもたりない。
俺は菜々子が洗濯しアイロンをかけ、勝手にスーツのポケットに入れておくハンカチを出して涙を拭いた。
みっともねえ。
マジみっともねえー。
「お会いになりますか?」
「はいもちろん」
菜々子は点滴をされて、集中治療室で、眠っていた。
椅子をひきよせて布団の中から菜々子の手をさぐり、握りしめる。
温かい手。
何の力も入ってないけど、とにかく生きているんだ、と確認できる温度。
だめだ。
また涙が出てきそうだ。
なんでこんなことに……。
二人で俺たちの子供を迎えようと、喜んでいたのに。
なのに、子供は消えてしまい、菜々子は命を落とす寸前。
いつ目をあけるんだ菜々子。
「夏哉……」
「母ちゃん、ヒカリ」
「残念だったわね。菜々子ちゃんとあなたの赤ちゃん……。かける言葉もないけど、とにかく菜々子ちゃんだけでも助かって本当によかった。卵管の破裂なんて……」
「ああ……母ちゃんたちなんでここを知ったの?」
「菜々子ちゃんが手術を受ける前に、スマホを渡して、連絡してほしい人を看護師さんに言ったらしいのよ。もうすぐ長野からも菜々子ちゃんのお母様たちがいらっしゃると思うわ」
「そう」
「もうそろそろ麻酔がきれてもいい頃って先生がおっしゃってたから、じき目を覚ますわ」
そうしたら菜々子になんて言おう。
子供はダメだったって……。
あんなに喜んでたのに。
なんで子宮外妊娠なんておこしたんだろう。
どのくらいの確率でおこるんだっけ? 決して高い確率じゃなかったはずだ。
流産とは違い子宮外妊娠なんて相当にレアだと、本の中のそのページはほぼスルーで、言葉くらいしか記憶に残っていない。
まさか菜々子にそんな事が起こるなんてありえないと、最初から可能性さえ浮かばなかったんだろう。
「いつ、目をさますんだろうな。俺、今日ここにいてもいいのかな」
「あなた明日会社でしょ?」
「それどころじゃねえ」
「夏哉……」
長野から菜々子の両親が来た。
菜々子の産みの母親もきた。
俺の親父も遅れてきた。
健司と長田、その他の創業メンバーも心配してきてくれた。
みんな心配でたまらないんだよ。
早く目をさましてくれ。
八時になり面会時間が終わった。
俺の親とヒカリはこの病院の近くにホテルをとり、菜々子の親たちは俺の家に泊まってもらうことになった。
健司は何かいいたそうにしてる。
わかっている。明日のプレゼンのことだ。
俺、こんな状態でできるのかな。
でもさすがに明日までには菜々子は目をさますよな。
明日の朝、また来るとだけ口にし、健司はプレゼンについては何もいわずに帰っていった。
夫ということで、俺だけは集中治療室に簡易ベッドを持ってきてもらってそこで寝てもいいことになった。
麻酔が切れている時間のはずなのに、菜々子が目を覚まさない。
菜々子の耳元で彼女の名を呼んでみる。
なんの反応もない。
俺はずっと菜々子の手を握り締めていた。
強く握ったり、さすったりしたけど、その手はいつものように、俺の手を握り返してくることはなかった。
ただ温かかった。
その温度だけが、菜々子が生きているという証だった。
夜中、あまりに目を覚まさない、菜々子に新しい機械が取り付けられた。
おそらく心音を確かめるためのものだ。
よくドラマに出てきて脈が動くときなのか山ができる。
それがまっすぐになると……。
なんでこんなのを菜々子につけるんだよ。なんでだよ。
菜々子、寝てるだけなんだろ?
こんなもの必要ねえじゃん……。
誰もいない真っ暗な集中治療室で、俺は菜々子の手をにぎりながら、その機械の音を聞いていた。
俺の意思に関係なく涙があとからあとから流れた。
だれも見てないからもうそのままにしてた。
一晩中……。
これは悪い夢だよな。
朝になったらまたいつもどうりあの海沿いの家で、菜々子が俺にへばりついて寝ているんだよな?
外が白みだし、朝がくる。
菜々子が目をさまさないまま……。
菜々子。菜々子。菜々子。
頼むから目を開けてくれ。
俺、本当にどうにかなりそうだよ。
後悔ばかりで俺の胸ははちきれそうだった。
つわりだから大丈夫だなんて言葉を鵜呑みにしないで、無理にでも病院に連れて行けばよかった。
仕事が正念場だから週末まで行けないなんて、そんな事を言っている場合じゃなかったんだ。
俺のせいだ。
俺のせいで菜々子が死ぬ。妊娠させたのは俺だ。
―――おかしくなりそうだ――――。
8時をすぎ、また母ちゃんたちが病院にくる。
菜々子が目を覚まさないからみんな口が重くなり、何を喋っていいのかわからないようだった。
9時に健司がきた。
文化教育めぐみ幼稚園……やっとこぎつけたプレゼンは今日の午後一だ。
「ナツ、どうする? 今日のプレゼン……。お前抜きでやるか? 俺、昨日その対策もやったよ。予定してたお前ほどってわけにはいかないけど、どうにかやれると思う」
健司が恐る恐るというかんじで聞いてきた。
「……―――」
「ナツ、行けよ」
そう言ったのはヒカリだった。
「初めてのでかい仕事だって言ってたじゃんか。やっとここまでこぎつけたって喜んでたじゃんかっ。ナツ、代表なんだろ?」
「あ……」
「ナツの肩に社員が乗っかってんだぞ。菜々子ちゃんは目を覚ますよ。目を覚ましたとき、ナツが自分のために行かなかったって知ったら、どんなに嘆くよ!!」
「……そうだな。行かなきゃ。絶対取らなきゃ……。健司、行こうか」
俺はたんたんと言って歩き出した。
外は雪がちらちら舞っていた。
早い初雪だな。
「ナツ、スーツ着ろよ」
俺が集中治療室に忘れてきたスーツを健司は持ってきた。
「ああ」
俺は無造作にそれを受け取った。
不思議だな……。
スーツなんか着なくたってぜんぜん寒くない。
◇7◇
10人以上そろった5つの文化教育めぐみ幼稚園の関係者。
ここの代表は、文化教育めぐみ幼稚園文京、の園長。
この系列幼稚園でもとりわけ小学校受験に力を入れていて、なおかつ親に富裕層を多く持っている。
それからそれぞれの幼稚園の園長と教育担当者。
強面の俺よりずっと年上の彼らを前にしても、俺は怖さも緊張もまるで感じなかった。
ただ淡々と、何度も練習したように、わかりやすく、これからどれだけ日本人にとって語学が大切かということ、早期教育の重要性、耳から覚える英語や中国語に幼児が慣れるのが早いか、そのために、マンツーマンでのレッスンが大切か、話をしていった。
横で健司が資料をスクリーンに大写しにして提示しながら、俺の話を裏付けていく。
園関係の反応はよかったと、冷静な目でみていた。
家庭教師派遣のシステム。
教師として派遣する大学生の質の高さ。
俺はロボットのように、一語一句間違えず、打ち合わせの通りに話をした。
俺の表情が乏しかったからなのか、横で健司がたまにユーモアのあることを言って会場を沸かせている。
プレゼンは終わった。
俺は5人の園長とどうにか笑顔で握手をし、その場をあとにした。
「ナツ、上出来だったと思うぞ。よくがんばったな」
「健司もフォローありがとな」
「あとは、社のほうは俺がなんとかするからお前はもう病院へ行け」
「いいよ。俺も社まで行く。俺が行かなけりゃ、向こうから連絡来たときに心象が悪いだろ。今日中に連絡するって言われたんだ。これで終わりじゃない」
「そうか」
綺麗ごとだ、と自分で思った。俺は病院へ帰るのが怖かった。
スマホの確認が怖かった。
社に帰ると、全社員がじりじりして俺らの帰りを待っていた。
俺は笑って見せた。
大丈夫だと思うよ、と声をかけてまわった。
でも実際、どうでもいいと思っている俺がいる。
あれだけとりたかった仕事で、これが決まればCanalsは大躍進のはずなのに、どうでもいいと思っている俺がいる。
ほどなく文化教育めぐみ幼稚園文京の園長から電話があった。
契約が決まった。
俺は大声をあげて社員に決まったことを告げた。
俺が音頭をとり、社員全員でバンザイをする。
俺は笑った。
とにかく笑っている顔を必死で作った……。
バンザイの声が鳴り止まない中、スーツの胸ポケットで、マナーモードにしていた俺のスマホが振動した。
それこそ取り落としそうになるほど俺自身が震えて、ようやくスマホを耳にあてる。
涙があふれそうになるのをぎゅっと唇をかみ締めてこらえ、俺はそっと廊下に出た。
廊下の壁に両手をついて頭を垂れる。
肩が小刻みに震えているのが自分でもわかる。
「ナツ」
「健司……」
「何年ぶりだよ。お前が泣くとこ見たの。高校の最後、花園で負けた時以来だな……でもあん時の涙と違うよな」
「別に泣いてねーよ……ってお前に強がってもしゃーねぇか。なんであの時の涙と違うってわかるんだよ」
「お前、高校時代よく泣いたもん。試合に負けた時、勝った時、どっちの涙かなんてわかるよ」
「そっか」
「よく我慢したよ今日一日。もういいよ。行けよナツ」
「悪い健司。あとよろしくな」
俺は鞄も持たずに雑居ビルを飛び出した。
雪が……うっすらと積もっていた。
「さっびー」
朝はワイシャツ1枚でも寒くなんかなかったのに、寒い。
俺の体に感覚がもどってきた。
菜々子。早くお前に会いたいよ。
お前さえいればもう俺には何もいらない。本気でそう思うよ。
俺は道路に飛び出すようにしてタクシーを捕まえ、飛び乗った
菜々子。
生きててくれて、ありがとう。
◇
俺が病室に入っていくと、菜々子の両親と産みの母親、俺の母ちゃんがいた。
菜々子はベッドの上に起き上がっていた。
「菜々子っ。起きてる……? 菜々子!」
俺が菜々子のベッドに駆け寄ると、母ちゃんたちはぞろぞろと廊下に出て行った。
二人だけにしてくれたんだ。
「菜々子……よかっ……」
また俺は泣いてしまいそうだった。
男のくせにどうして俺の涙腺はこんなにもろいんだ。
ここで泣くわけにいかない。
俺より菜々子のほうがずっと痛くて、辛くて、悲しい思いをしたんだ。
確かにいたはずの子供がいなくなってしまった感覚。
それは、男の俺にはわからない。
泣くまいと唇をかみ締め、菜々子に顔を見られないように、彼女をひきよせそっと抱きしめる。
ああ、菜々子の匂いだ。菜々子の肌だ。
生きてた。
生きてた。
生きていてくれた。
「ごめんなさいナツ……ダメだった。赤ちゃん…」
「仕方ない。誰のせいでもない…」
いや、もしかして俺のせいなのか?
子宮外妊娠って俺のほうに問題があるのか?
もうイヤだ。
菜々子を死の淵においつめてまで子供がほしいとは思わない。
「ナツが早く病院病院って言ってたのに…ごめんなさい」
早く行ってたとしたって子宮外妊娠の事実は変わらない。
どっちにしろ子供はダメだったのだ。
確かに卵管の破裂はさけられたかもしれない。
でも俺がその可能性にさえ思い至らなかったように、菜々子もそれは同じだったのだ。
誰だってそんなレアなケースを疑ってかからない。
なのにひたすら、ごめんなさい、を繰り返す菜々子。
精神的にも肉体的にもボロボロのはずの彼女の口から漏れるその言葉が、痛々しさを増幅させていく。
「菜々子、どっちにしても子供はダメだったんだよ。先生から話は聞いた? 子宮外妊娠だったんだ」
「…………」
力いっぱい抱きしめたいのをどうにか踏ん張ってとめる。
菜々子の髪を何度もなでた。指で梳いた。
もう妊娠なんてしなくていいよ。
きっと菜々子ももうこんな思いは二度とイヤだと思ってるだろう。
二人でいい。ずっと二人でいい。
菜々子を亡くすあの恐怖を俺は、もう一度味わう勇気なんかこれっぽっちももちあわせていない。
菜々子の容態は安定してきて、次の日の午後には集中治療室から一般の病室に移された。
仕事を追え、面会終了ぎりぎりに菜々子の病室を訪れた夜、俺たち二人はナースセンターに呼ばれた。
担当の先生に菜々子のこれからのことを聞かされる。
「卵管の形成術を行っていますので、次の妊娠でも子宮外妊娠の可能性が他の人より少しだけ高くなります。それから一之瀬さんの場合、問題になるほどではないんですが、卵管の形が変わっていまして、狭窄部がかなり細いんです。そこに受精卵が着床してしまったので、早い段階で破裂、という自体になったわけですね」
「それって……受精卵がそこを通れないってことですか? そしたら絶対子宮外妊娠になるってことですか?」
俺は聞いた。
「いや絶対なんてことはありませんよ。子宮外妊娠のおこる原因ははっきりわかっていませんが、卵管や卵巣の奇形も一因ではあります。絨毛(じゅうもう)といって、受精卵を運ぶ働きをする器官の機能が弱いということも考えられます」
「はい」
「妊娠……しにくい体質なのかもしれませんね。まだあなた方はお若いですが、妊娠を望まれるようでしたら一度、不妊外来のある病院へ行くことをお勧めします。紹介状を書きますか?」
「いえ、結構です」
俺は即答した。
「ナツ……」
菜々子は俺の言葉にびっくりしたようにこっちを見る。
次も子宮外妊娠になる確率が人より高い。冗談じゃない。
もう菜々子にそんな危ない目にあってほしくない。
しかも卵管が細い。麻酔が効きやすい。
出血しやすい。
危ないことだらけだ。
「先生」
菜々子が口を開いた。
「わたし、子供が産めないんでしょうか?」
「いやそんなことは全くないと思いますよ。今回は子宮外妊娠でしたがちゃんと妊娠はしたわけだし」
「そうですか」
「ただ計画を持って妊娠に望んだほうが危険は避けられると思うのです。ですから不妊外来のある、管理をしっかりしてくれる病院とつながりを持っているほうがいいと考えるわけですよ。わたしは」
菜々子……?
こんな目にあった直後なのにまだ妊娠しようとしているのか?
いや子供のことがあきらめきれないのかもしれない。
それだけなんだ。
菜々子は今、冷静な判断ができないほど傷ついている。
菜々子は『わたしは家庭に憧れが強い』と言っていたことがある。
菜々子のいう家庭とは子供のいる家庭のことなんだろう。
だからなおさら、家庭の象徴のように感じていた子供を失い、菜々子は今とても不安定なんだ。
俺が。
俺が支えなくちゃならない。
夫婦二人だって立派な家庭だよ。子供を待たなくても幸せに暮らしている家庭はいくらだってある。
でも。
漠然とした不安が、まるで予感のようにはっきりと形を持って俺の胸に広がる。
この不安がこの先、菜々子を追い詰めていくんじゃないかと……。
菜々子を失うかもしれないと怯えていた数日前の恐怖がまだ去らない。
ぜんぜん脳裏から消えてくれない。
俺は今、不安定だ。支えなくちゃならない俺のほうが菜々子よりずっとずっと不安定だ。
「ナツ。仕事どうだった? わたし、ナツが一番大変な時に倒れちゃって。手術とか、麻酔でなかなか目が覚めないとか……プレゼン、行ったよね?」
「ああ。ちゃんととったよ」
「よかった……」
菜々子が心底ほっとしたようにため息をもらす。
俺の仕事どころじゃねーだろ? 仕事は今回ダメでもまた次がある。
どうしてもあの幼稚園じゃなきゃいけない理由なんてないんだよ。
あるとしたら、代表が私情で創業以来のでかい商談を棒にふっちゃ、社員に申し開きができないってことだ。
俺はそのためだけに行った。でも行ってよかった。
菜々子のために行ってよかった。
ヒカリが俺の背中を押してくれなかったら、俺は……俺はもしかしたら行かなかったかもしれない。
「ずっと後悔してた。手術で麻酔をかけられる直前まで。ご主人の連絡先を教えてくださいって言われてナツの連絡先を教えたこと。ナツは一番大事なプレゼンを控えてたから。明日には大丈夫って思ってたけど、もし……」
「ばか! 教えなかったら俺、あとですんごい怒ってたぞ」
「それはわかるよ。怒られるのはわかってる。でも、ナツに行ってほしかった。ちゃんと代表のつとめをはたしてほしかった」
「お前に言われなくたってそうするよ。俺は社長様だぞ?」
「そっか。そうだよね」
病院で目を覚ましてからずっと、菜々子を儚い割れもののように感じる。
向こう側が透けてみえそうなガラスのような危うさ。
寂しそうだからなのかな。
無意識に腹に手を当てて、失ってしまった宝を思っている。
早く家に連れて帰りたい。
こんなところにおいておきたくない。
菜々子がいないとキングサイズのベッドは広すぎるよ。
「退院するまで俺ここに泊まりたいな」
「何言ってんのよナツ」
俺は袋小路になっていてあまり人のこない廊下に菜々子の手をひいて連れていった。
「ナツ」
「菜々子」
菜々子を抱きしめた。
こういうことをされるはまだ辛いだろうか。
骨が砕けるほど抱きしめたいと思うけど、必死にそれを我慢する。
菜々子が足りない。足りない。足りない。足りない。
いくら抱きしめても菜々子が足りない。
きつく抱きしめていないと、俺の手をすり抜けてどこかへ行ってしまうんじゃないかと怖い。
「ごめん。まだ辛いよな」
「ううん。ナツの腕の中、すごく安心する。早く家に帰りたい」
「早く帰って来い。待ってるから、安静にして早くよくなれよ」
「明日も来てくれる? 遅くなってもいいよ。仕事、今大変でしょ? 緊急外来は遅くても開いてるから連絡ちょうだい。わたし、そこまで行く」
「来るよ。遅くなっても。でも辛かったら出てくるな? 早くよくなって早く退院してほしいから」
菜々子を病室にもどし、寝かせて布団をかける。
病院の消灯時間は異常に早い。
部屋は暗く、もう菜々子のベッド以外は全部カーテンが閉まっていた。
なごりおしそうにいつまでも俺の手を放さない菜々子が、可愛くてたまらない。
ふいうちのキスをする。菜々子が驚いて手を放す。
自分からしかけたくせに寂しい。
布団の中から俺に小さく手をふる菜々子。
菜々子を思うと苦しい。
痛い。
俺の気持ちは、いったいいつになったら恋から愛に落ち着くんだろう。
◇8◇
ほどなく菜々子は家にもどり普通の生活を再開した。
俺たちは俺たちの最初にして最後の子供の供養をし、いつでも近くにいられるように小さな位牌を作った。
菜々子は翻訳も始めた。
何度かの通院の後、医者から、もう全く普通の生活にもどっていいと言われたらしい。
その全く普通、というのはつまり、セックスをしてもいいということなんだろう。
仕事はなんの問題もなく軌道にのった。
幼稚園児相手の外国語プロジェクトでも、ちゃんと学生は集まる。
俺もそうだったけど、奴らはとにかく当面の金がほしいのだ。
学生に嫌われる家庭教師センターは上手くいかない。
それが俺自身、学生のときに打ち出した結論だった。
充実していると思う。
やりがいもある。
でも俺は、どこかでいつも家にいる菜々子を思っていた。
日に何回もラインをしようと思う。
声が聞きたくて電話をしようと思う。
何度かは本当にそうした。
菜々子の体調を気遣うフリをしながら、その実、菜々子の声が聞きたかっただけだったりする。
11時すぎに帰る。
「ナツ、お帰りー」
菜々子は最近、俺の帰りが遅くて食事も遅くなるから、おかゆっぽい短時間で消化するものを作って待っていることが多い。
「ただいまっ」
靴を脱いで家に上がると、鞄をおいて菜々子を抱きしめキスする。
もう我慢できない。
俺はおかしい。
「ナツ……ご飯たべちゃおうよ。明日も会社なんだよ。早く食べないと消化し……」
「やだ。来いよ」
手をひいて上の寝室に連れて行こうとすると抵抗された。
俺は菜々子を抱えあげた。
「ナツってば……まずご飯!」
―俺はおかしい―
スーツを脱ぎ捨てるとベッドに座り、まだ軽い抵抗を試みる菜々子をだきしめて髪をなでる。
風呂上りの清潔な匂いがする。
全く抵抗がなくなり、菜々子の両腕が俺の首にまわるのを辛抱強く待つ。
それからやっと服を脱がしにかかる。
肌と肌をあわせ、きつくきつく抱きしめ、身体の深い部分で繋がっていないと、菜々子が消えていきそうだった。
生きているんだ。
ちゃんと俺の側で生きているんだ。
そうすることで、俺はそれを確認したかったのかもしれない。
今日もシャワーもあびず、一日働いた汗臭い身体のまま、菜々子を抱いた。
医者から普通の生活にもどっていいと言われたあの日から、気持ちの上では毎日菜々子を求めるようになってしまった。
実際は、まだ本調子じゃないだろう彼女を思い、これでもできる限りの我慢をしていた。
でも、実現した大きなプロジェクトのせいでどんどん帰宅時間が遅くなっているにもかかわらず、あの出来事の前より頻度はあがってしまっているかもしれない。
終わった後に、まだきっと辛い、と思うと後悔で押しつぶされそうになるのに、菜々子が生きていて俺のもので、結婚している、と確かめずにはいられない時がある。
俺が菜々子を思うように俺も彼女に思われていると、身体を重ねる事でやっと信じることができる。
俺は明らかにおかしいと自覚はしているのだ。
菜々子の意識不明や手術後に目を開けないという恐怖は、見えないところで俺を強く鋭く深くえぐった。
恐れていたこと、俺の気持ちが強すぎて、バランスを崩し、俺らの間がダメになる。
それが今、起ころうとしているのかもしれない。
もっともっともっと自分の気持ちを抑えなければ。
でも好きだ。菜々子。好きすぎるのだ。
「ごめん……また……」
菜々子のむき出しの肩にタオルケットをかけながら、謝罪の言葉が口をついて出る。
「ナツ、最近必ず避妊するんだね……」
「だって」
「ごめんなさい。あれはわたしが悪かった。ナツが言うように早く産婦人科に行ってたら、あんな大事にはなってなかったのに」
「もういいんだよ。あのことは。思い出したくない。妊娠させたのは俺なんだ。それに一番辛い思いをしたのは菜々子だろ?」
俺はタオルケット越しに菜々子を後ろから抱きしめる。
「……そうなのかな」
「え?」
「だってナツの態度、あきらかに違うもん前と。前はこんな会社から帰ってすぐいきなり抱くなんてしなかったもん」
「汗くさくてやだ?」
「そういうことじゃないよ。もうわたし大丈夫なのに壊れ物でも扱うみたいで……。ナツの方が痛々しくて辛そうなんだもん」
そんなふうに菜々子の目には映っているのか。
不安なんだよ、そう言えない。
大の男が何を言ってんだ。
「そんなんじゃないよ。ちょっと離れたら菜々子が可愛く見える」
「……ねえナツ。もう子供、つくる気ないの?」
俺は菜々子を放し、適度な距離をとった。
いずれ、このことは話し合わなくちゃならない。
「菜々子を死の危険にさらしてまで、俺は子供を作る気はない」
「でもナツだって楽しみにしてくれてたよね。それはわかる。いままでたいした感心を示さなかった小さい子供をいつも目で追ってた。一日、何回もわたしのお腹を触った。本だって自分で買ってきて、仕事遅いのに読んでた。幸せそうな顔してた」
「正直、楽しみだったのは楽しみだった。だけど俺はもうイヤだ。聞いただろ? 菜々子は普通の人よりも子宮外妊娠の可能性が高いんだ。麻酔も効きやすい。また同じ目に合うかもしれないんだぞ」
「じゃあ、ナツはわたしといる限り、自分の子供を持てないんだよ」
「いいよ、そんなの。俺は菜々子がいればいい」
「ダメだよ。そんなの」
「え?」
「ナツは……ナツはすごく明るくて、優しくて……強くて素敵な人で、EQって言われてるんだけど、心の知能指数が高いんだよ。ちゃんと後世に自分の遺伝子を残すべき特別な人なんだよ。ナツだって本当はそうしたいと思ってるはずだよ」
「別に俺はそんな特別な人間じゃねーよ」
「ナツが自分の子供を持たないなんておかしい。もったいない。子供ができたとき、ナツの子供だったから、わたしはすごく嬉しかったし、誇らしかった」
「菜々子……」
「わたし、子宮外妊娠なんて怖くない。今度はしょっちゅう検査薬で調べればいいんだもん。すぐお医者さんに行けばいいんだもん。そしたらもし子宮外妊娠でも今回みたいなことにはならない」
「もうやめよう。菜々子」
俺は菜々子の髪をなで、散らばっている服を身に着けた。
くだらないケンカだってしょっちゅうした。
最初の頃はここで食べたり飲んだりしてそのまま寝るのを、菜々子はイヤがって抗議した。
でも俺が楽しいじゃん、上にも簡単な洗面台あるから、そこで歯磨きだけして、寝よ、って。
菜々子とこのまま寝るのが好きなの、下に洗い物に行くなよっ、って言うと、なんかちょっと嬉しそうで抗議しながらもこのスタイルが定着した。
新しく入ったヨット仲間の女の子が船酔いしちゃって、俺が抱えあげて船から降ろしてやっていたら、夜、猛烈な勢いで怒っていた。
ああいう思わせぶりなことはしちゃいけない、とかなんとか。
別に思わせぶりもなにも、誰かが抱いて降りなきゃ降りられなかったんだから仕方ない。
でも、ヤキモチやいている菜々子が可愛くて、怒るだけ怒らせといたな、あの時は。
だけど今回のケンカ、ケンカとはいわないのか、意見の相違はいままでとは根本的に違うものだ。
俺の中で、確かに警鐘は鳴ってはいたんだ。
菜々子が言っていたEQどうの、はよくわからないけど、明るい、優しい、強い、と彼女が俺を思っていてくれたのは、飛び上がるほど嬉しいことだ。
でも、俺は強くない。
菜々子の死を目の当たりにし、むしろこんなに弱い人間だったのかと、自分であきれ果てる。
俺のトラウマは菜々子に関することばかりだ。
菜々子、お前は俺を限りなく弱くする。
俺は昼間、菜々子のことを考えすぎないように、前以上に仕事に熱中するようにした。
マジでおかしいと思う。だって夫婦なのに。
自分の妻のことを考えないように仕事に没頭しようとするなんて、異常以外の何者でもない。
菜々子のほうも今やっている翻訳の仕事に精を出し始めた。
夫婦でいままでどおり、仲良くくらすのはダメなのか?
どうしても子供が欲しいのか。
俺は、菜々子が入っていた施設のことを思い出した。
あそこには、幼かった菜々子のように親になってくれる人を待っている子供が何人もいるのかな。
菜々子がどうしても子供が欲しいっていうなら、あそこから養子をとったらどうだ?
だめなのかな?
菜々子は自分の血をひく子供が欲しいのかな。
だとしたら……どうしたらいいんだ。
俺はとりあえず、深夜、菜々子が寝てから下に降りてパソコンを開いてみる。
不妊外来で有名な病院を検索しようと試みたが、キーボードの上で指が強張ったように動かない。
イヤだ、また菜々子が同じ目に……。
俺はパソコンを閉じる。
俺のこの気持ちはいったいいつになったら恋から愛に落ち着くのだろう。
愛おしくて愛おしくてたまらない。
毎晩遅く身体はヘトヘトなのに、菜々子を求めずにはいられない。
菜々子がイヤだと言ったらもちろんそんなことはしないけど、俺が誘う日に彼女は本気で抵抗したりしなかった。
これでも俺が相当に我慢していることを、彼女は見抜いているんだと思う。
菜々子の肌に触れている時だけ、ああ、本当に菜々子は生きていてくれたんだ、と実感できる。
―俺はおかしい―
◇9◇
金曜の午後、その感覚はなんの前触れもなくきた。
俺が社員にホワイトボードでこれから展開していく、事業においての大学生確保の戦略を説明している時だった。
菜々子が家に鍵をかける映像が俺の脳裏をよぎった。
手にキャスターのついた大きな荷物を持っている。
なんだ? この感覚。
こんなことはいままでになかった。
菜々子が本当に家を出て行ってしまったんじゃないかと思うと、変な汗が背中を伝った。
俺は今日のスケジュールをざっと頭に浮かべた。
人と会う約束は入ってない。
文化教育めぐみ幼稚園に提出する登録大学生を選別して、その名簿を今日中に作らないといけないだけだ。
家でもできる。
俺は、人の出入りをチェックするホワイトボードの『代表』の場所に、外出、直帰、のマグネットを貼った。
俺の秘書的な役目をしてくれてる二宮さんという女の子に、いくつか作ってほしい書類の指示を出し、家で書類を作る旨を伝えた。
必要な関係資料をまとめ、アタッシュケースに入れると、俺は家にむかった。
思い過ごしだよな。
でも俺……また菜々子に無理をさせている。
菜々子は嫌がらないけど、俺の不安な気持ちを察してイヤなのにまた我慢してるのかもしれない。
まだ身体が本調子じゃないかもしれないのに、ああも高頻度でセックスを要求されるのは辛かったのかもしれない。
俺は……菜々子に対して何度同じ過ちを繰り返すんだ。
つき合い始めた頃とは比較にならないほど、俺に対して言いたいことを言ってくれるようになっている。
ケンカもするし、ヤキモチも妬いてくれる。
でも、俺が不安を抱えている時に、イヤだなんて言える女じゃない。
我慢するほうを選ぶんだ。
菜々子ごめん。
我慢するのは俺のほうだよな。
お前のほうがずっとずっと辛かったはずなのに、俺が不安定になってどうする。
今日からもっと我慢する。
お前が生きていることを肌で確かめずにはいられなかった。
でももっともっともっと我慢するから、だから、出て行かないでくれ。
出て行ったなんて俺の勝手な思い過ごしだよな?
疑心暗鬼だよな?
家のドアに手をかける。
鍵がちゃんと締まっているのは菜々子がいてもいなくても同じ状態だ。
それなのに締まっているドアにとてつもない不安を感じる。
菜々子……。居てくれよ。
いないのなら、どこかに買い物に行っただけだよな?
鍵を開けて中に入る。
「菜々子っ!!」
返事がない。リビング?
最初に足を踏み入れたリビングにはいない。
キッチンにもいない。
上?
俺は階段を駆け上がり、まず寝室をのぞいた。
具合が悪くなって寝ているんじゃないかと思ったけど、そこに菜々子の姿はない。
次に菜々子が翻訳につかってる部屋を覗いた。
「え?」
いつも机の上には、辞書や今やってる翻訳の本や資料がまとめて重ねられているのに、何もなかった。
本棚を見てみる。
いつもぎっしり詰まっている本棚だけれど、イギリスの資料で、ないものがたぶんいくつかある。
本棚は前ほどぎっしりではなかった。
「菜々子……」
血の気が引いていく。
俺はもう一度寝室にもどった。
機能性にかける本棚の前面にいつも飾るように置いてある菜々子のお気に入りの写真集、『ヨーロッパの古城』と『アイルランドの風景』。
そのうち、古城のほうの写真集がなかった。
「嘘だろ?」
転げるように階段を下りると、俺はリビングのテレビボードの下の引き出しを漁った。
そこに、俺と、菜々子、両方の通帳と現金が少し入っているからだ。
通帳……菜々子の通帳。通帳。
菜々子の通帳が……なかった。
菜々子。どうして……。
いきなり出て行くほど俺のことが嫌いになったのかよ。
なんでっ。
イヤならイヤって言えと、あれほどいつも諭しているのに、やっぱりまだそれができずに我慢していたのか。
溜め込んで溜め込んで爆発されるのは、長いつき合いの間、俺が一番警戒していた事だったのに、なぜ俺はまた同じ過ちを繰り返したんだ。
菜々子っ。
ばんっ。
俺は手のひらでリビングのローテーブルを思い切り叩いた。
いつも何も乗っていないローテーブルに1枚の紙があって、それが今の衝撃で宙に一瞬浮いた。
俺はその紙を取り上げる。
菜々子から俺への手紙だった。
ナツ。
いきなり出て行くなんてことをしてごめんなさい。
でも、あなたに子供を持ってもらうにはこうするより他になかった。
わたしといるとナツは自分の子供を持てない。
ナツだって本当は自分の子供が欲しいはずだよ。
どんなにあなたが優しい目で子供を見るかわたしは知っている。
ごめんなさい。
そしていままで本当にありがとう。
幸せな家庭を築いてください。
さようなら。
菜々子
「なんだよこれ……」
ローテーブルの上、手紙の下にもう一枚紙が乗っていたのを見つけた。
「ありえねえよ」
離婚届だった。
菜々子のほうにはもう全部記載されていて、ハンコも押してあった。
こんな紙……こんな紙切れ1枚で俺たちの間は終わるのか……。
ご丁寧にその横に、今俺の薬指にはまっているのと同じデザインの指輪が置いてある。
「ふざけんじゃねぇよ」
俺は婚姻届けという紙1枚で菜々子を手に入れた気分になっていた。
永遠に俺のもの。俺だけのもの。
笑えるよ……。
世の中にもう一枚、婚姻届けを打ち消すためのこういうものが存在するんじゃ、あの紙の効力は絶対じゃないじゃんか。
むしろ今の俺にとっちゃぜんぜん効力がねーじゃんか。
俺は離婚届けを握り締めて怒りとも悲しみともわからない感情に耐えた。
「終わりじゃねえよ。菜々子」
そんなに簡単にいくかよ。
学生のとき、居酒屋の前で突然言われたさよなら……。
あの時は引き下がるしか術がなかった。
でも今度は違う。
俺がこの届けを出さなけりゃ、俺たちはまだ夫婦だ。
あの時みたいに俺、簡単にはひかないぞ。
自分にとって菜々子がどれほど大切な存在か、全く無自覚だったあの時とは違うんだ。
どこに行った。冷静に考えろ。
俺はもう一度ゆっくりリビングを見回す。
キッチンに入ると、カウンターの上の食器洗浄機の蓋が閉まったままになっていた。
中を開ける。
入っていた皿にさわるとまだほんのりと温かい。
出て行ってからそんなに時間はたっていない。
どこへ行った? 実家?
実家へ行けば、すぐ俺が追いかけてくるのはわかるよな。
覚悟を決めるとテコでも動かない菜々子の事だ。
そんな簡単に俺に捕まる場所に行くとは思えない。
だったら……。
簡単には捕まらない場所。
だったら……。
俺はもう一度、通帳の入った引き出しをあけて中を探る。
「やっぱり……」
パスポートがなかった。
◇10◇
俺はスーツから、ジーンズに長袖のTシャツという格好に着替えて上から皮ジャンを羽織る。
ワンショルダーのバッグに財布と携帯を入れ、背負う。
キャンプに使う厚手の毛布を持つとバイクのキーを取り上げた。
俺は空港に向かった。
まだ間に合うはずだ。
ロンドン行きの飛行機はそんなになかったはずだ。
空港に着き、ロンドン行きの飛行機を表示する電光掲示板を見上げてほっとする。ここ何時間かは飛んでいない。
そうだ。
ロンドン行きは基本的に朝かナイトフライトだったはずだ。
次はブリティッシュエアラインの00時発。
俺は出国カウンターの前で張ることにした。
もしかしたら、菜々子は今日ここにはこないかもしれない。
日本を離れる覚悟なら、長野まではいかなくとも、きっと父親の墓参りくらいは行くんじゃないかと思う。
でもすれ違いになる可能性を考えると、墓に行くのは危険すぎた。
今日じゃないかもしれない。
でもきっと菜々子はイギリスに行こうとするはずだ。
イギリスに渡ってしまえば、もう俺が菜々子を探す手がかりはほとんどなくなってしまう。
菜々子の友達だって全部俺が把握してるわけじゃない。
手紙もない。
パソコンのメールが手がかりと言えば手がかりだろうけど、パスワードがわからない上に、きっと菜々子は削除している。
菜々子の通っていた大学をあたり、わからないと言われればもうそれまでだった。
絶対に日本から出せない。
だったらここで張るしかない。
俺はブリティッシュエアラインの出国のカウンターの前の椅子に座り、道行く人の中から愛しい女を捜そうと人波を見つめ続けた。
まだフライト予定にはぜんぜんはやいのに、そうしないではいられなかった。
今日が金曜でよかった。
今日、こなかったら、明日もこうしてここで待つ覚悟だ。
菜々子。なんで……。
俺に子供を持たせるためなんて、そんなのただの言い訳なんじゃないのか。
ホントは……俺がイヤになったんじゃないのか。
もしそうなら、追いかけても無駄だってことなのか。
菜々子。苦しい。
もうお前に会えないかと思うと、息がうまくできないほど苦しい。
こんなに人が人を求めることってあるのか。
俺が……俺がお前じゃない女に子供を産んでもらうなんてありえないんだよ。
そんなこと、きっと何年たっても無理だ。
お前以外の女に子供を産んでもらう事はできず、お前の事は怖くて妊娠させられない。
どっちみち俺は自分の子供を持てないんだよ。
人の波を見つめながら思う。
俺のこの気持ちは、いったいいつになったら恋から愛に落ち着くのだろう。
確かにまともにつき合いはじめてすぐ、菜々子はイギリスへ行ってしまった。
超遠距離恋愛が3年で、その間に会えたのは12、3回だろうか。
一年に一度か多くても二度、日本に菜々子が戻ってくるときと、俺が格安チケットを取って会いに行った時だ。
二人ともが大学を卒業し、日本に帰ってすぐ、俺が22、菜々子が23という若さで婚姻届を出した。
離れている時間が長かったから俺はまだ菜々子に恋をしているんだろうか。
大学を出てすぐ、22で結婚なんて早すぎる、と誰もが言った。
基本放任のうちの親でさえ、俺の仕事だって軌道に乗るのかどうかわからないのに、結婚なんてもっての他、相手のお嬢さんに失礼だと反対した。
でも、俺は仕事に自信があった。
菜々子をやしなっていくだけの自信があった。
だったら、これだけ好きな女と離れて暮らす理由なんてないだろう?
婚姻届という1枚の紙で俺は菜々子を縛った。
そう、俺はまだあの時の、あの大学1年の時、突然菜々子に言われた『さよなら』にとらわれていた。
怖かった。
いつか、何かの拍子に菜々子に別れを切り出される事態になるかもしれないと、それが怖くて仕方なかった。
菜々子が俺の前から消えること、俺は、たぶんこの世でそれが一番怖い。
だから22で結婚することになんのためらいもなかった。
やっと。
やっとやっとやっと俺だけのものになる。
もう誰に取られる心配もないんだ、と。
菜々子は俺にとって甘くて残酷な
俺の身体の深く深く入り込んでもうとれない。
鏃の進む方向は前しかないんだよ。
無理に後ろに引き抜こうとすれば、刃が肉をぐしゃぐしゃに裂いていく。
◇11◇
そう……。
考える前に俺の身体は反応する。
人ごみにちらっと見えただけなのに。
キャスター付のバッグを持った菜々子……。
菜々子はちょっと洒落た場所に行く時によく使っていた、キャメルのリアルファーのついたコートを着ていた。
走る。走る。走る。
こんな人ごみの中、ぶつからずに走れるのは俺が高校時代、大学からオファーが来るほどの名ウイングだったからだ。
「菜々…っ」
もう逃がさないっ。
抱え込むように後ろから抱きついた。
菜々子は俺に気がついていなかった。
突然抱きつかれて前のめりに倒れそうになるところを俺が踏ん張って支える。
菜々子がしていたのか?
黒のサングラスが磨き上げられたリノリウムの床に落ち、硬質な音を立てながら滑っていった。
「……ナツ? ナツなの?」
「そうだよっ。あんまりだろ……なんで」
「離してよ。みんな見てるよ」
「関係ねえよ。お前が俺のとこにもどるって言うまで離さない!!」
「ずるいよ。そういうの」
そうだ……そうだな。
菜々子がもう俺に愛想をつかしきってるなら、こういうのはストーカーっていうんだよな……。
「わかった。離すよ。でも逃げるなよ。ちゃんと話し合おう。逃げたって俺の足から逃げ切れないことはわかってるだろ」
俺はそっと菜々子を離した。
菜々子はそのまま俺をふりむきもせず、はるか先の床に転がっている黒いサングラスを拾いに行った。
それをかけると俺のところにもどってきた。
「なんだよ。それ」
俺はサングラスをはずそうとする。
「ダメっ」
両手でぎゅっとサングラスを押さえつける菜々子。
「なんだよ。どうしたんだよそれ」
「目に……ばい菌が入ったの。充血して真っ赤だから恥ずかしくて取れないの」
「大丈夫なのかよ」
いつものように菜々子の手を取ろうとして……振り払われた。
胸に鋭い痛みが走る。
もう……手もつなげないのか。
手をつなぐのもイヤなのか。
唇をかみ締め、先に立って歩き出す。空港のカフェに入った。
「なんだよ。いきなりこの手紙。この離婚届け」
「何って……、わたしが考えて出した結論だよ」
「結婚って二人でするもんだろ? なんでお前一人が勝手に結論だして勝手に俺の前から消えようとしてんだよ。そんなの許されるわけないだろっ!」
「話し合ったじゃない。でも平行線で答えはでないよ。だったらわたしが消えるしかないじゃない」
でかいサングラスで表情の見えない菜々子が言う。
「お前が消えればどうなるんだ? 俺はいずれ他の女と結婚して子供を持つのか?」
「そうだよ」
「ふざけんなっっ!!」
俺は立ち上がった。
グラスに入った水がこぼれる。こぼれるままにした。
「……」
「人の気持ちが……俺の気持ちがそんな簡単なもん? 俺はお前以外の女の子供なんてもてねーよっ!! 俺はもうお前じゃなきゃタタねえんだよっ」
俺の、思いのほかの大声に、まわりがみんな振りかえって俺らを見る。
「ナ…ナツ。やめてよ。ここどこだと思ってんの。空港の――」
「ホントのことなんだからしょうがねえだろっ」
「落ち着いてよナツ。ちょっと出よう。もうちょっと人のいないとこで話そう」
どこを、どういう風に歩いたのかぜんぜんわかんねぇ。
でも、今の自分がどれほどみっともないかは自覚できる。
俺はとにかく人のいないほういないほうへと歩いて行った。
菜々子、誇張じゃなくてそれは本当のことなんだよ。
もう俺には、お前以外の女を抱くことなんかできねぇんだよ。
『でね? ナツー。ケルトのレプラコーンは地中の宝物のことを知ってて上手く捕まえるとね――?』
『おおーすげーな』
『んーもう! じゃこっちのフーアは水の妖精で人間と結婚することもあるんだよ?』
『おおーすげーな』
『ナツ?』
『おおーすげーな』
『ナツっ!! 人の話聞いてるの?』
『聞いてるよーケルトの妖精だろ? でも俺ちょっと飲みすぎて眠いかも』
『だめっ』
『ぎゃっやめろよ。俺わき腹よえーの知ってんだろっ』
『だからやってるの!! ケルトの妖精10種類言えなきゃ寝せないっ!!』
『お? 俺に勝負をいどむ? 上等じゃねえか酔っ払い菜々子。んじゃケルトの妖精10言えたら、俺が菜々子のこと寝せねえぞ?』
『え』
『レプラコーン、フーア、プーア、リャナンシー、スプリガン、デュラハン、バンシー。ううううーんと、えっとー、これで7つだろ? あと、ガンコナー、ケット・シー、んーと、んーとっ。グランシュっ これで10。どうだ言えたろ? さー、菜々子ちゃん今日は寝せねーぞ?』
『さっさっき眠いってー』
『ケルトの妖精で頭使ったら目が冴えた』―――
ベッドの上で二人戯れた、楽しすぎたあれこれ。
俺は、仮に他の女とそういう状況になったとしても絶対に思い出す。
菜々子の笑顔を。菜々子のしぐさを。
菜々子の髪の感触を。菜々子のすべてを。
胸のうちにお前への苦しい想いを抱えたまま、他の女となんてできるわけないんだ。
空港の敷地内なのかそうでないのか、フェンスの張っただだっぴろい工事現場のような場所にでた。
日付が変わる頃、もうあたりには誰もいない。
縁石に二人で腰掛ける。
「これ使えよ」
キャンプ用の厚手の毛布。
ホテルが取れなかったときは最悪これで野宿して明日の、ヒースロー空港行きの便を待つつもりだった。
「ほら……」
菜々子がなかなか手を出さない。
もうそれほどまでに嫌われてるのか。
「頼むから」
身体が冷えてわかりにくいところで体調を崩しそうで、俺は無理やり菜々子の膝にかける。
二人で行ったキャンプ。
この毛布にくっついてくるまって、笑いあった日もあったのに……。
うー。やべえ。そんなこと今思い出すな。
今だけは思い出すな。
また俺の軟弱な涙腺が……。
これ以上弱い男だと思われたくない。
俺は静かに話し始めた。
菜々子に拒絶されているんだと思うと、もうでかい声を出すほどの気力もなかった。
「お前は……お前はこうやって簡単に俺から離れようとする。離れることができるのかもしれない。でも俺はちがう。俺の身体の半分は、お前で成り立ってるんだ。俺の体の感情とか感覚をつかさどる部分はお前が持ってる。暑い、寒い、悲しい、嬉しい……」
「……」
「菜々子が病院で目を覚まさなかったとき、俺はどうにか生きてた。大きな仕事もこなしたし、人前では笑ってもみせた。でも暑さも寒さも感じなかった。あんなに取りたかった大きな仕事、とってきても、まるで現実感がなくて、嬉しくもなくて、たぶん落としても悲しくもなくて……人の人生をテレビ画面の向こうからぼーっと見てるみたいだった」
「ナツ……」
「俺」
「何……?」
「すごい女々しくてヤなんだけど、菜々子がいないと何も感じない。ただ生きてるだけ。楽しいも嬉しいもなくてなんかに興奮することもなくて……」
「そんなの……ナツじゃないよ」
「そう。お前が俺の前に現れてから、俺の半分はお前になった。俺の感情はお前が持ってる」
「……」
「あきれた? あきれるよな。引くよなこんな女々しい男。お前に追いつこうと学生時代、必死だった。追いついたと思ったのに。結婚してやっと間違いなくがっちり掴んだと思ったのに。まだ俺が追いかけてたんだ。お前は俺がいなくてもちゃんとイギリスでやっていけるのかもしんない。でも俺は――」
「し……仕方ないんだよ。ナツ。こういう別れもあるんだよ」
「こういう別れってどういう別れ? 俺が子供、持つ気がないって言ったから? 菜々子を危険な目にあわせてまで子供を持つ気はないって言ったから? 菜々子はそんなに子供が欲しいの?」
「そうだね。わたしはね、自分の子供が欲しいの」
「危ねーよ。菜々子。それは危ない」
「それはわたしが決めることだよ」
お前は命の危険を冒して俺じゃない誰かの子供を産むのか……。
俺には無理なのにお前は俺じゃなくてもいいのか。
子供を産めれば相手は俺じゃなくても……。
またあんな目にあうかもしれないのに、その時、俺は近くにいないのか。
「……別れようナツ」
「……最後くらいちゃんと顔みせろよ」
「だからばい菌で目が充血してるの」
俺は無理やり菜々子のサングラスに手を伸ばした。
「やだっ!! もうナツのそういう強引でデリカシーのないとこが嫌いなの!!」
サングラスに触れる前、菜々子は俺の手を叩き落とした。
嫌い……。
一番俺を傷つける残酷な言葉。
菜々子はそこまで言う女か?
こんなに自分を思う男を、わざわざ一番残酷な言葉を使ってまで傷つけられる女か。
菜々子は言葉のプロである翻訳家だし、それ以前に、そういう言葉選びに頓着しない性格じゃないはずだ。
「わかったよ。じゃあな。菜々子」
俺は……立ち上がって最後の賭けに出る。
工事現場の監督者が、忘れているのかなんなのか、使い物になりそうにないさびた鉄筋が何本かフェンスに立てかけてあった。
俺はわざとそれにつまずいたふりをする。
ばらばらと俺の上に鉄筋が降ってくる。
「ナツ危ないっ!!」
すごい体当たりを背中に感じる。
ああ……菜々子、ありがとう。
ラグビーでタックルをかけられることに慣れてる俺は、こんな体当たりは読んでさえいればなんでもない。
菜々子の体当たりと同時に後ろをむいて彼女を腕の中にかばい、反対の腕で落ちてくる鉄筋から身を守る。
思いのほか、いてぇ。うわっ。
こんなはずじゃ……。
ものすごくいてぇ。
骨がどうにかなったかも。
「ナツ……ナツナツっ!!」
もう菜々子のサングラスは今の体当たりで吹き飛ばされてた。
あらわになった彼女の瞳から、涙がぼろぼろこぼれ出ている。
涙もすごいけど……もう目が真っ赤でまぶたが腫れまくっていて、いつもの綺麗な二重は見るかげもない。
目がふさがりそうな一重瞼になった菜々子の顔が遠くのライトにぼんやりと浮かび上がる。
「うわっ!! これ、ホントにばい菌で充血してるの? なんで瞼が腫れてるの?」
「あれ…あれっ? サングラス……」
菜々子は自分の目元にサングラスがないと知ると、暗がりの中、両手をペタペタ至る所に這わせ、それを探し始めた。
かなりの慌てようだ。
「家、出た時から泣きっぱなしだったんじゃないのか?」
「…………」
「菜々子、嘘つくとき目が泳ぐからすぐわかるけど、サングラスで隠されちゃな。でもそのほかにもいろいろあって、拳を作って親指の関節をさするってクセもあるんだよな」
「…………」
俺は右手でサングラスを軽く掲げ、菜々子のタートルのセーターの首元から左手の人差し指を入れて、あるものを引っ張り出した。
「指輪は置いていったのに、これはまだつけてるんだ?」
アリスモチーフのハートトップがついたネックレスの鎖部分が、俺の指に絡んでいる。
俺が学生時代に菜々子にやったものだ。
元のとおり縁石に腰かけさせるとサングラスを置き、菜々子の頬を両手で包んで上を向かせる。そして顔を覗き込む。
「もう一度言って。嫌いって」
「…………」
菜々子は俺の手から逃れるように強引にうつむく。
「どうしたんだよ。さっきの勢いは」
「……サングラス返して」
「サングラスがないと強いこと言えないの? なんで嫌いな男をとっさにかばったんだよ。ヘタしたら菜々子があの鉄筋の下敷きだぞ?」
「ナツのばかっ!!」
菜々子が顔をあげずに俺の胸に飛び込む。
「デリカシーがないから嫌いなんだってば!! こんな顔好きな人にみられたくないよ」
「菜々子ならどんな顔でもいいよ……」
俺は菜々子を片手で強く抱きしめて冬の夜空を仰いだ。
「別れたくねぇ……」
「わたしだって別れたくないよ……」
「俺と別れて別の男の子供、産むんだろ?」
「そんなことできるわけないじゃない! ナツの色がわたしには濃すぎて、もう心から抜けないよ。ナツがいなきゃ、わたしだって自分の子供なんて持てないよ」
「なら別れるか……。菜々子が他の男の子供も産めないんなら、お前に命の危険はないってことだもんな」
「…………」
「もどって来いよ。また一緒に暮らそう? もう絶対あんな無茶……お前の体が本調子じゃないのにしょっちゅう抱くなんてことしないから」
俺、何度菜々子のことで自分に誓うんだろう。
菜々子に無茶はさせない。
「それは平気なのに……」
「嘘だ。無理してた」
「無理じゃなかったよ。ただナツの方が痛々しくて、わたしがいるとダメになっちゃうんじゃないかって、それが一番心配だった」
「なら……また楽しく暮らそうよ。前みたいに」
「ひとつだけお願いがある」
「何?」
「ナツの子供が、やっぱり欲しい」
「厳しい条件だなー……俺あの時マジでおかしくなりそうだった。怖いよ菜々子」
俺は抱いた片手で菜々子の背をなでた。
鉄筋があたったほうの腕が痛すぎて力が入らない。
その手で、菜々子のネックレスのトップをなでた。
パヴェダイヤで輝くいびつなハート。
「このネックレス渡すとき、俺、I want to live with you.って書いたよな。あの時、もうひとつ、一瞬よぎった言葉があってさ、そっちはなんか女々しくてヤだった。でも今の俺は……まるでそっちの心情なんだよ」
「何の言葉がよぎったの?」
「I can't live without you.」
I want to live with you.
~あなたとともに生きたい~
I can't live without you.
~あなたなしでは生きられない~
積極的な愛の言葉と消極的な愛の言葉。
俺が選んだのは前者のはずだったのに。
「……」
消極的な愛の言葉はいらない。
菜々子なしで生きられないから、彼女を呼び戻すなんて間違ってる。
俺は菜々子とともに生きていきたい。
生きたいんだ。
子供を産むということは、菜々子を死の危険にさらすこと。
菜々子が俺以外の子供は産めないというのなら、俺と離れれば死の危険はないってことなのか?
「菜々子。俺はお前とずっと一緒に生きていきたい。子供はあきらめよう。お前を死の危険にさらしたくない。どうしても」
「別れよう。ナツ。ナツは子供を持つべきなんだよ。ナツ男だもん。男っていうより優秀な雄だもん。子孫を残したい願望が絶対に強い人だと思う」
「菜々子。だから俺はお前じゃなきゃ……」
「わかったよ。無理に日本を出たりしない。お互いに、冷静に一度考えよう? でもわかって。これは人生において大事なことだと思う。わたしはナツを見てたから」
「え?」
「ずっと見てたから。動物の雄は強い雄だけが子孫を残せるでしょ? 戦いに勝った雄だけが子孫を残せるでしょ? ナツの自然体な生き方は、動物の雄に似てる。ほら人間だって、英雄色を好むっていうじゃない」
「違うっ!!」
「……」
「違う。俺はそんな単純な動物なんかじゃねぇ。好きな女の子孫しか残せない。その女が子供を産むのに危険な状態なら、俺は子供を産ませたいなんて思わない。俺はお前以外の色なんかもういらねえ。それが弱いっていうなら弱くてもいい。英雄になんかなりたくない」
「ナツ……」
「わかったよ。俺の気持ちだけ押し付けても、なんかお前が心まで俺から離れていきそうだから。お前がそうしたいなら少し離れよう。俺はお前に対してもっと身体を気遣うべきときに、自分の不安定な気持ちばっかおしつけた。菜々子が考えたいっていうなら、それは拒否できないことなんだと思う。ただ、勝手にいなくなるなよ」
「うん」
「どこにいる? 実家が俺、一番安心できるんだけど」
「実家に帰るよ」
「わかった」
「イヤだったら、逃げて。拒んで」
そう言って俺は菜々子を抱き寄せた。
しびれてほとんど力のはいらない左腕も合わせて、力いっぱい菜々子を抱きしめる。
失うかもしれないぬくもり。
菜々子を生かすため。
俺の近くにいたら子供を産もうとするから。危険だから。
意見が合わないのに無理に俺の近くに縛り付けられないから。
だから離す。離せるのかな……。
もしかしたら俺から心が離れかけているかもしれない菜々子にあえてキスしてもいい? って聞かないで唇を重ねた。
聞いてイヤだと言われたら、引き下がるしかないから。
菜々子。
もしかしたらお前は俺の半分じゃなくて、全てなのかもしれないと思う。
お前が思うより、俺はお前が好きなんだよ。
最後かもしれないと思う。
俺に打ち込まれた菜々子という鏃が抜かれる。
俺の肉も筋も骨も引き裂きながら……。
「愛してるよ。菜々子」
狂うほどに愛している。
気が変になるほど愛している。
俺の体温を忘れないでくれ。
俺はあらんかぎりの力で彼女を抱きしめた。
18の春、大学のキャンパスで初めてお前は俺に声をかけた。
『うちのサークル入りませんかっ』
どこのサークルも新歓コンパ代はタダで、仲間うちで今日は適当なとこでタダ飲みしようって相談してた。
なのにお前が勧誘にきたオレンジだけが新歓コンパ代を500円徴収する。
この子のところに行きたいと強く思った。
『タダにしてよ? そしたら行ってやってもいいよ』
仲間の手前そう言った。
だってタダじゃなかったら他行こうぜってことになっちゃうから。
言ったあと、なんて傲慢な男だって思われただろうなって、そう感じた。
人からどう見られようが基本関係ない、のスタンスで生きてきた俺には珍しいことだったんだぞ。
差額はあの先輩が払うのかな、と後から思い至った。
だから俺が出す気でいた。
ここに決めたのは俺だから。
まあみんな500円くらい出してくれたけど。
あの時は自分の気持ちになんて、微塵も気づいていなかった。
でも俺は……最初から強烈に菜々子に惹かれていたのだ。
菜々子を抱きしめながら奇跡のような出会いを思った。
運命なんて残酷だ。
見上げると、冬のオリオンが凍てつく空で頼りなくも清冽な光を放っていた。
◇
俺はその夜、救急外来で病院に入った。
骨にヒビが入っていた。
もちろんバイクには乗れる状態ではなく、朝まで病院のベッドで寝かせてもらった。
菜々子ももう危ない時間だから、俺の付き添いとして置いてくれと交渉した。
夫婦だから一緒に寝るから、と。
家よりずっと狭いベッドで背中合わせに寝た。
こんなのはじめてだった。
菜々子はそのまま、長野の実家に帰っていった。
菜々子のいない家。
菜々子のぬくもりばかりが残る家。
菜々子の指示どおりに二人で作った外国の田舎を思わせる庭。
庭に咲いたラベンダーの花。
いつの間にかこんなに増えていたんだ。
菜々子がもどったときに、この庭が荒れ果てていたら悲しい思いをするだろうな、と思う。
もうもどってこないかもしれないのに、俺は丁寧に水をやる。
この家には菜々子の思い出しかないのだから、前に進むためにはきっと売ってしまう方がいいんだろう。
でも菜々子がいない今、俺に残されたのはこの家だけだった。
菜々子の思い出がつまったこの家だけだった。
何種類もの包丁。何種類もの鍋。
フライパン。レースのエプロン。
ランチョンマット。
コップに刺した庭から摘んできたグリーン。
俺には全く必要のないこういうものこそが愛おしくてたまらなかった。
俺はまだ24で、菜々子が言うように、他の女と結婚して、子供を持つという選択肢もあるのかもしれない。
でもそれはただの選択肢にしかすぎない。
俺がそれを選択することはありえない。
腕にヒビが入っててヨットもできない。
俺は菜々子のぬくもりを求めるように二人で毎晩くっついて寝ていたベッドにもぐりこむ。
菜々子……。
こんなの大人の男のやるこっちゃねぇよな。
でも俺のお前に対する気持ちは18の春と何も変わっていない。
悲しいくらい何も変わっていない。
俺のこの気持ちは、いったいいつになったら恋から愛に落ち着くのだろう。
菜々子とここで離れてしまう。
そうしたら永遠にそんな日はこないんだな。菜々子。
菜々子のいない昼飯。菜々子のいない晩飯。
落ち込みすぎだろう、と自分に渇を入れ、とりあえずメシくらいは食おうと、買い置きのラーメンを作って食ったけど……まったく箸が進まない。
美味いまずい以前に味がしない。
海にでれないまでもヨットハーバーくらいには行けるだろうに、俺はあの大きすぎるベッドでただ眠っていた。
日曜日もそんな感じだった。
「……うー」
菜々子が泣いている。夢の中で泣いている。
夢だってはっきりわかる。俺の子供が欲しいと泣いている。
俺には、お前が一番欲しがるものがあげられないのか。
俺だって欲しいよ、俺と菜々子の子供。
幸せだった。
ほんの短い間だったけど、お前の腹の中に俺の子がいた時間。
お前は、命の危険もかえりみないで、もう一度俺の子を産もうとする。
ダメだよ。
菜々子が目をあけなかった時のあの恐怖がよみがえる。
何を思っていた? 夢の中で……。
俺はゆっくりと目を開けた。
リアルな夢。夢でも菜々子に会える。でも夢でも菜々子は泣くのか。
夢でも菜々子の笑顔が見られないのか。
菜々子が俺の子供を産む。
菜々子は俺の子供が欲しいとまだ言ってくれた。
俺の子供じゃなきゃ産めないと……。
ダメだと決めつけないで、調べるだけ調べてみようか。
前に一度調べたことのある不妊外来で有名な個人病院のサイトを開く。
俺はその中の項目にあった子宮外妊娠の記述を詳細に読んだ。
菜々子は左右の卵管を取っているわけじゃないから、自然妊娠もできる。
ただ子宮外妊娠の原因とされる子宮の形が多少人と違う。
管の狭窄部が細い。出血しやすい体質。
麻酔が効きやすい体質……。
怖い事だらけだけど、ここの病院で話だけでも聞いてみようか。
なんと、ここの病院は日曜もやっている。予約しなきゃダメだよな。
思い立ったからって、すぐ話なんか聞いてくれないよな。
でもとりあえず、電話してみるか。
俺はその病院へ電話をしてみた。
どうしても緊急で話が聞きたいと言ってみた。
そうしたら、4時半なら、キャンセルが出た穴に入れてもらえることになった。
四時半……。間に合うかな?
遠いうえにここからすごく乗り継ぎの悪い場所にあって、さらには駅からもかなり歩くらしい。
タクシーも渋滞してたらダメだし、俺は腕にヒビが入ってて、車もバイクも運転できない。
絶対間に合わないだろうけど、悶々としているよりは動いた方がいいかもしれない。
電車で行ってみるか。
そこで俺のスマホが電話の着信を告げた。
ディスプレイを見ると健司だった。
「おー」
「ナツどうした。何かあった? 金曜、様子おかしいまま、直帰したじゃん。今日、ヨットこないし」
健司は菜々子が倒れてから、俺の様子がおかしいことに気づいてる数少ない友達の一人だ。
そしてこんなナイスなタイミングで電話をかけてくるすばらしいヤツだった。
「なあ健司、もうヨットあがった?」
「ああ、うん」
「今日、なんで来てる、アシ」
「バイク」
「俺んちまですぐ来て!! 片付けとかしなくていいから!!」
「しなくていいからって、なんでそんなことお前が決めんの」
「いいからナツの一大事って言え。俺、腕にヒビ入った」
「はあ?」
「その話は後。とにかく来いよ。10分で来い」
健司がきた。
「おせぇ!!」
「呼びつけといてなんだよ。上の人とかいっぱいいるのに、
俺が左腕を固定して吊ってるのを見て健司がそう言った。
「四時半までにこの病院に行きたいんだよ。今日の四時半なら話聞いてくれるんだって」
俺はパソコンからプリントアウトした個人病院の紙を健司に見せた。
健司はその紙をチラッと見ると、腕時計に目を走らせた。
「メット持って来いよ。でもその腕でバイク乗れんの? つかまれんの?」
「平気、ヒビって言っても細いヒビなんだよ。たいしたことねぇ」
俺はそういって吊りだけとった。
用意してあったメットをつけ、鞄を背負う。
健司のでかいバイクの後ろに乗った。
健司はけっこうとばすほうだ。
間に合うぞ。四時半。
◇
俺の前にはけっこうお歳のおじさん先生。
俺は菜々子に起こった子宮外妊娠とその経過。
彼女の体質。
卵管の狭窄部が細いこと、その他必要と思われることを話し、今後、妊娠してまた子宮外妊娠になる可能性がどのくらいあるのか、命にかかわる可能性がどのくらいあるのかを聞いた。
「心配ありませんね」
「は?」
「子宮外妊娠は事故みたいなもんですから。卵管の破裂や麻酔で2日も目を覚まさないなど、不幸な事実が重なって神経質になるのはわかりますよ」
「はぁ」
「そこのお医者さんが言われたとおり、妊娠しにくいのかもしれないし、また子宮外妊娠になる可能性も否めません。でもあなたが一番恐れている命の危険、というのは備えて計画性を持てば、ありませんよ」
「確率は?」
「絶対とはいいきれませんが可能性としては、0に近くするようにこちらでつとめます。また子宮外妊娠になったとしても、卵管さえ破裂しなければ、大量の出血もないし、薬で処置することができるんですよ」
「ほ…本当に命の危険がないんですか? 菜……妻の卵管は細いんですっ。また子宮外妊娠に……」
「お子さんを持てるかどうかは別にして、命の危険は管理さえすれば大丈夫です。もちろん0とは言えませんが限りなく0に近くすることはできますよ」
「子宮外妊娠の可能性は全妊娠の1%。それより少し可能性は高くなるというのが一般的な見解でしょう。一度奥様をお連れになるのがいいと思いますよ? 妊娠を望まれてるのは奥様なんですよね?」
健司は俺が診察室に入ってる間、待合室で待っていてくれた。
男二人で産婦人科から出て行く俺らを好奇の目が包む。
俺にかまわずさっさと病院をあとにする健司の後ろをタラタラ考えながらついていく俺。
本当?
本当に絶対絶対命の危険がない?
子宮外妊娠になっても卵管さえ破裂しなきゃ問題ないの?
でも菜々子の身体に負担がかかる。
自販機でコーヒーを買って俺に放り投げながら、健司が言う。
「何があったんだよ。ナツ」
「菜々子、出て行った。俺ら、離れて暮らすことになった」
「はあー? なんで」
「俺が、もう子供はあきらめようって言ったから」
「お前……」
「怖いんだよ。すげぇ怖いんだよ。菜々子が死ぬのが。死ぬくらいなら離れてるほうがいいのかなって思えるほど」
「死ぬ死ぬって……。俺もその菜々子ちゃんの子宮外妊娠がどんなもんなのかは知らないけど、普通に考えたら死なないよ。お前、ホント、菜々子ちゃんのことになると果てしなくナーバスんなるな。菜々子ちゃんに関することだけお前は別人だよ」
「菜々子、子供が欲しいんだって。俺の子じゃなきゃ産めないんだって。だったら離れてれば菜々子、死なないですむじゃんか」
「もうっバカかよ。ありえねぇよお前ら。それで別れるとか。今の医者になんて言われたんだよ。次、妊娠したら死にますって言われたのかよ」
「いやその逆だけど」
「ナツ、もっと冷静んなれよ。怖かったのはわかるよ。ある意味、もしかしたら菜々子ちゃんよりお前のほうが怖かったんだろうな」
「…………」
「菜々子ちゃんは怖かったり痛かったりしただろうけど、何が何だかわかんないまま手術になった。お前菜々子ちゃんが目ぇ覚まさない間、ずっと恐怖と戦ってたわけだし。その間菜々子ちゃんは寝てたわけだし。だから時間的にはお前のほうが死に対する恐怖が長かった。その分、恐怖が大きいんだろ? だけど大丈夫って言われたんだろ?」
「あぁ」
「その医者、信じてチャレンジしてみればいいじゃんか。死なないよ。客観的に見たら」
「1%でも怖いと思う俺、どうかしてんのかな。だって、子供持たなきゃそんな危険ないわけで……」
「そんなこと言ったら、世間一般の妊娠だって絶対安全なんて言えないんだぞ。お前だって親がそういう危険を冒して生まれてきたんだぞ」
「そう……だな」
「生まれたがってるかもしれねーじゃん。お前たちの子供。俺から見れば、お前らみたいながっちりくっつきすぎのバカップルっていねぇもん」
「そっか。菜々子も俺が好きかな」
「好きに決まってんじゃん。見てりゃわかるよ。あの子がどんだけお前を想ってるか。だからお前と離れようとしてるんだろ? 自分といたらお前が子供持てないから」
「よくわかるな」
「でもな。ナツ。人の心は変わらないとはかぎらないんだよ。ここでお前ら、子供のことで別れて、何年かしてからでも、菜々子ちゃんに好きな男ができてそいつと結婚して妊娠したらどうすんだよ。菜々子ちゃんの身体が普通よりそういうことに関してヤワとか知らなくて、配慮してくんなかったら」
「そんなこと……ねえよ。菜々子、俺の子しか産めないって。だから俺――」
「一生、心変わりしない保障なんてないだろ? あんだけ綺麗で性格いい子なんだぞ? 男がほっとかねぇと思わないの? 別れてまで縛れねぇだろ? 菜々子ちゃんのこと」
「…………」
「好きなら離すなよ。お前と別れて菜々子ちゃんが子供持たないなんて保障ないんだって。だったらお前が守ってやれよ。妊娠に関して最大限の危険を回避してやれよ。一番それができるのはお前だと思うぞ。この地球上で。こんな恋愛盲目バカ見たことねぇもん」
「そうか……そうだな」
「お前だって欲しいんだろ? 可愛いと思うんだろ? 子供。お前、菜々子ちゃんが妊娠してた短い間、空中に5㎝くらい浮いてたもん」
「そうだな。俺、怖がりすぎだよな。菜々子が平気だって言ってるのに。ちゃんと管理すれば、大丈夫だって言われたもんな。そっか。そうだな。菜々子が他の男の子供産むとかおぞましすぎる」
「すごいよお前は。高校ん時の女とっかえひっかえだった男と同一人物とは思えん」
「それを言うなよー。反省してるよー」
「帰ろうぜっ。菜々子ちゃん迎えに行けよ」
「おうっ」
この病院に来てよかった。健司がいてよかった。
なんだか霧が晴れたような気がする。
長い暗いトンネルから出られたような気がする。
菜々子を迎えに行こう。
あの葉山の家を売って、この近くに家を借りよう。
いつでも菜々子が安心して妊娠できるように。
そうだよな。菜々子は人形じゃない。
菜々子の意思に関係なく、俺が彼女を失うことばかりを怖がって、ただ側にいてくれればいいなんてきっと傲慢なんだ。
「健司ー。明日の幹部会議でなくていい? お前俺の代理やってよ。今もう幼稚園プロジェクト軌道にのったから大きな問題ないだろ? イヤ、絶対ダメだと思うんだけどさ、こういうのは社会人として」
「仕方ねえな。今回だけな? 次やったら代表から引きずり降ろすぞ。代表が一番、女にモテるのによー」
「給料変わんないじゃん。代表も副代表も。そのわりに気ぃ使うんだけど代表って。変わる?」
「変わんねえ。いいよ行って来いよ。長野行くんだろ? 代表はすっころんで腕にヒビ入りましたって言っとく」
「サンキューでございます!!」
◇13◇
健司のバイクで俺は東京駅まで送ってもらった。
このまま菜々子の実家に行こう。
そして二人で帰ってこよう。
菜々子、お前が許すならまた手をつないで。
長野の菜々子の実家へ行った。
菜々子は庭の花にホースで水をあげていた。
ホースの水がもう真っ暗の闇の中で、菜々子の家の庭に据え付けられてるソーラーライトの明かりにキラキラ反射して綺麗だった。
その向こうに立つ女はもっと綺麗だった。
声をかけてこの景色を壊してしまうのが惜しくてじっと立って見ていた。
それから門扉に手をかけゆっくり……。
「ぎゃーっ!! 何すんだよっ!!」
大量の水が俺めがけて飛んできた。
びしょぬれー。
「ナ、ナツ? え? ナツなの?」
「そうだよ。もう何すんだよ。こんなに水かけて追い払うほど俺のこと嫌いなのかよ」
「違うよ。だって人がずっとそこに立ってて怖いなって思ってたら、入ってくるんだもん。ナツだと思わなかったもん」
「こんな真っ暗んなか水やりなんかするかよ普通!!」
「…入って。風邪ひいちゃうよ」
「言われなくてもそうしますっ」
俺は菜々子にかまわず自分から玄関の戸をあけて菜々子の実家に入っていった。
「ちわー。夏哉ですー」
俺のでかい声に、中からすぐ反応があり、転がるように菜々子の母ちゃんが、次に父ちゃんが出てきた。
「えっ!! な、夏哉くん どうしたの? あら? 急に雨?」
雨で上半身だけ、しかも髪から水がボタボタ滴るほどぬれるかよ。
もうボケてんなー、菜々子んちの母ちゃんも。
「おたくのお嬢様、そしてボクの妻に水かけられました」
「え!! 菜々子っ。何やってるの。せっかく連れ戻しに……来てくださったんですよね? うちのはねっかえり娘を」
「そうです」
「ナツ……」
俺は風呂に入らせてもらい、菜々子んちの父ちゃんの、タテに足りなくて横に余りすぎの洋服を貸してもらい、二人で菜々子の部屋に並んで座ってた。
「俺、怖がりすぎてた。考えすぎてた。子供、持てるようにやってみよう。菜々子の望みかなえたい。菜々子に側にいて欲しい。俺、菜々子をなくして幽霊みたいに生きていくのイヤだ」
「わたしも」
「菜々子」
「ナツが迎えにきてくれなかったらわたし、きっと我慢できなくてあの家に帰っちゃってたと思う。もう限界。心が悲鳴を上げてる。わたしもナツがいないと何にも感じないよ。何を見ても綺麗だと思わない。翻訳なんてできないよ。心の入ってない文章になっちゃう」
「菜々子…それホントなのか」
「ナツの選ばなかった消極的な言葉。わたしもナツがいなくちゃ生きられない。使いたくない言葉だけどわたしも言うよ。I can,t live without you.」
俺は菜々子を抱きしめた。
戻ってきたんだよな。今度こそ。
「やだこれ」
「は?」
「お父さんの匂い。ナツの匂いじゃない」
「誰のせいだよ」
「落ち着くんだよ。水やり。なんかやってないとおかしくなりそうだった」
菜々子を抱き寄せる。ずいぶん久しぶりに感じる菜々子の唇は、塩水の味がした。
菜々子の狭いベッドの上で子供の頃の彼女のアルバムを開いてみる。
やだ、見ないで、これもダメ、あれもダメと言って写真に蓋をする菜々子の手を強引にどけていった。
施設時代の菜々子の写真に強く胸を打たれた。
みんなが遊んでる中、一人で雑巾持って、笑ってる写真とか。
先生と一緒にクリスマスツリーの飾りつけをする写真とか。
はさみを持って、先生と一緒に折紙の金メダルを作る写真とか。
笑っているけど、ただ遊んでいるっていう写真が少なすぎる。
そう、大地に菜々子の施設時代の話を聞いた時、幸せにするんだ、と誓ったのに。
なんで俺はまたこいつを、目が腫れるほど泣かせているんだ。
菜々子の細い肩を強く抱き寄せた。幸せにするよ。今度こそ絶対。
お前が欲しいものはどんなことをしても、自分がどんな恐怖を感じようとも、取りに行くよう努力する。
怖がる前に、まず努力してみるよ。
「菜々子、ここの施設、俺も行きたいな。俺、お前が世話になった先生たちに挨拶してないよな」
「うん。一緒に行こう。先生たちもナツに会いたがってる。もうすぐ園長先生の誕生日だから。明日は時間ないんでしょ?」
「ああ。東京帰ったら会社出るから」
菜々子のぬくもりが俺を包む。
抱きたいな、と思う。
ささやかな胸にちょっと服の上から触ると菜々子が身をよじりながら笑う。
「今、貧弱って思ったでしょ?」
げ、なんでわかるんだ。
「思ってないよ。ささやかって思った」
俺の頭の左右を菜々子の作った二つの拳がしめつける。
「おんなじじゃんっ」
「いいじゃんか。俺はこれが好きなの。どんな巨乳よりこのささやかな胸が好きなの」
そう言ってがらあきになった菜々子の胴体に抱きつく。
時に甘く、時に残酷な俺だけの身体。
菜々子が俺の頭を抱きかかえ、愛おしそうに頬まで寄せる。
「隠れてする?」
うー。
めちゃくちゃ珍しい菜々子からのお誘いなのに。
「がまん。今日、持ってないから」
「そっか」
「でも、東京に帰ったらもう避妊はしないよ。あの家売って都心に住もう。菜々子を診てくれる病院、見つけておいたから。その病院の近くにマンション借りよう」
「ナツ……」
◇14◇
あれから2ヶ月。
俺たちは海辺の家を売って都会に出てきた。
菜々子の身体をちゃんと診てくれる全国的にも有名な不妊治療外来のある病院の近くにマンションを借りた。
もう菜々子に絶対に無理はさせない。
俺の気持ちも落ち着いてきて、会社から帰ってすぐ、やみくもに菜々子を抱くこともなくなった。
桜のつぼみが見え始めた頃、俺と菜々子は長野に向かった。
菜々子の施設の園長先生の誕生日なのだ。
菜々子の夫としてちゃんと挨拶をしておくために俺も一緒に行く。
土日かけて、菜々子の実家に泊まる。
「園長先生!」
菜々子は施設に入るとすぐ駆け出して園長先生のもとへ向かう。
初老の優しそうな小柄な人だった。
エプロンをつけ、箒を持って庭を掃いている。
菜々子を見ると優しい笑顔になり、手を振った。
しわの寄った目尻には人柄が滲み出ていて、どうして菜々子がその人のことを好きだったか理解できるような気がした。
広い庭のある古びた建物。
園庭の周りには桜の木が植えてある。
菜々子の育った場所。
土の上を駆け回るいくつもの笑顔。
ただただ明るい笑顔もあれば、どこか曇った笑顔もある。
「はじめまして。菜々子さんと結婚した一ノ瀬夏哉です」
買ってきた東京土産の定番、東京バームクーヘン5箱を渡しながら挨拶する。
建物の中を一通りみせてもらう。
俺らのほかにも、何人かここ出身だと思われる男女が園長先生に会いにきていた。
菜々子がここで暮らしていた時期に重なる子もいるのか、菜々子はその中の何人かと話し始め、俺を紹介した。
元緒先輩とか、大地とか、俺の知っているヤツは来ていなかった。
先輩のほうは、百合先輩と一緒に俺の家に来たことがある。
もうそろそろ結婚するんじゃないかな、あの二人も。
菜々子がなつかしがってあちこちで喋ったり見て回ったりしている間、俺の目は、ある一点に釘付けになっていた。
3つか4つの小さな女の子。
みんな外で遊んでいるのに、一人だけ室内で、もくもくとティッシュペーパーを重ねたようなものを折りたたんでいる。
よくあんな小さな手で折れるもんだと思うほど、起用にその子は折り続ける。
慣れているんだってことがわかる。
蛇腹状に折って真ん中を輪ゴムでとめ、薄紙を一枚一枚はいでいく。
ああ、そうだ。
これでふわふわの花ができるんだ。
俺のいる教室内を見てみるとあちこちにその花が飾ってある。
園長先生お誕生日おめでとう、の横長の模造紙にもその花がついていて……でも一部が足りない。
そうか、あそこに埋めるのか。
まだ若い先生がその子と一緒に花を折っている。
菜々子だ……。
小さい菜々子を見ているようだった。
先生に好かれたくていい子にしていた、と菜々子そうは言っていた。
他の子が外で遊んでいるのに、あの子一人が先生の手伝いをしている。
小さい頃の菜々子と同じ理由じゃないかもしれない。
ただ室内が好きで、外遊びが苦手なのかもしれない。
ちゃんと両親がいて、ここにはなんらかの理由で一時的に預けられているだけなのかもしれない。
「園長先生」
俺は気づくと園長先生に話しかけていた。
どこかせっぱつまった時の俺の口調を知っているのか、他の女の子と喋っていた菜々子が振り向く。
「あの子、あの、若い女の先生と花折ってる子、どういう子なんでしょうか?」
「ああ……。莉々ちゃんね。他の子と遊ばないでああやって先生のお手伝いをしてくれることが多いの。できることもできないことも。いい子なんだけど心配ではあるわね」
「あの子の親は?」
「わからないんですよ。いまどき珍しいんだけど、赤ちゃんの時に、この施設の目の前に、ベビーカーに入ったあの子がいたの。莉々をお願いします、とだけ書いた紙が入っていて。莉々って珍しい名前でしょ? 役所をあたったんだけど、それらしい子供が見つからなかったんですよ。ここらへんの病院で生まれた記録もなくて。どこかでひっそり産み落とされた子なのかもしれないですね」
「そうですか」
「上手なんだね?」
気づくと俺はその子、莉々ちゃんに話しかけていた。
「……」
俺を警戒してるのか、知らない人間に慣れていないのか、怖い顔で睨んで何も言わない。
「俺、いや、お兄ちゃんも手伝っていいかな? どうやるの?」
「……こう……」
やっと少し口をきいてくれた。小さい手だなって思う。
何年か前に言われた、ここで菜々子と一緒に育ったという大地の言葉を思い出す。
『菜々子のこと大事にしてやってくれよ。まともに遊んだこともないような小学生時代送ってるんだよ。自分が親から捨てられたからなのか、すんごい捨てられるのを怖がってる』
この子もそうなるんだろうか。
まともに遊ばないような小学生生活を送るんだろうか。
人から捨てられることに怯えながら大人になっていくんだろうか。
しばらく俺はその子、莉々ちゃんと一緒に花を作った。
「莉々ちゃん、お姉ちゃんも一緒に作ってもいいかな?」
菜々子が来た。
俺にほんの少しだけ打ち解けたと思ったら、今度は菜々子のことを警戒して睨んでいる。
なんだか野良猫みたいな子だ。
野良の子猫の瞳。
なんの力もないのに、一生懸命、自分の領域を守ろうとして、それでも人に愛されたいと願う、そんな瞳だと思った。
◇15◇
「ナツ、何考えてるの?」
東京の自宅にもどってきてからの夜。
ダイニングテーブルの前に座り、コーヒーを飲みながらぼーっとしていたみたいだ。
「あててあげようか?」
「んー?」
クビをまわしてゴキゴキならしながらなんとなく返事をする。
「莉々ちゃんのことじゃないの?」
俺のクビを回す動作が止まった。
「うん」
菜々子が俺の正面に座る。
「あの子、小さい頃の菜々子に似てるんじゃないの? 前さ、大地に聞いたんだよ。お前が留学前に行ったホテルで大地に会ったろ?」
「うん」
「菜々子、小学校ん時、あんまり遊ばなかったんだってな。菜々子んちで見た施設時代のお前の写真も、雑巾持ってる写真があんまり多くて、俺、結構胸が痛かった。なんかあの子見てたら、あの子も菜々子と同じような小学校、中学校、ひたすらいい子で誰にも甘えられないのかなって思って……」
「うちで引き取る? わたしとナツがパパとママになる?」
「え? いいのか菜々子。自分の子が欲しいんじゃないのかよ」
「自分の子も……まぁそうだけど、ナツの子が欲しいんだよね。でもそれとこれは別だよ。わたしもあの子のことはすごく気になる。ホント、ナツが言うように、昔の自分を見てるみたいなんだよね」
俺は立ち上がった。
「そっか!! じゃ、今度の週末でももう一回行ってみるか」
「ナツー。莉々ちゃんばっか可愛がってわたしのこと忘れないでよ?」
「えっ?」
「だってナツ、ここんとこ、施設から帰ってからなんか上の空っていうか、また。莉々ちゃんのこと考えてるーって思ってた」
「じゃ菜々子のことも可愛がればいいの?」
「そうっ」
「それってヤキモチ?」
「違う」
「じゃなんなの」
「なんでもないのっ」
そう言って菜々子は寝室に入ってしまった。
菜々子もヤキモチを妬いてくれるのかな。
同じ重さで想いあっていると思っていたのに、時に俺の想いは暴走する。
今回もそうだった。
俺は誓う。何度も何度も何度も。
菜々子に対して暴走しないと。
俺の一方的な想いを押しつけたような抱き方をしないと。
まだ俺に可愛がってほしいなんて思うんだ。
そう思ってヤキモチ妬いてくれるんだ。
胸が熱くなる。
痛くなる。
俺の恋はまだまだ愛に変わらない。
◇16◇
週末、俺と菜々子はまたあの長野の菜々子が育った施設に向かった。
「莉々ちゃんを引き取る。それはよく話し合ったことなんですか? 菜々ちゃんはここにいたからわかると思うけど、養子縁組のほとんどは子供に恵まれない夫婦との間に成立するものなんですよ。あなた方はまだ若い。大変失礼ですけれど、何か子供に恵まれない要素があるの?」
「子供はできにくいかもしれません」
菜々子ははっきり答えた。
「でも、もしかしたらわたし達の間にも子供が生まれるかもしれません」
「その場合のことをよく話したの?」
「子供が生まれても何もかわりません。莉々ちゃんも、僕たちの間に生まれた子供も、同じように自分たちの大事な子供です」
「菜々ちゃんをよく知っているから、大丈夫だと思えるわ。うん。あなたたちを見ていると大丈夫だと思えます」
園長先生は莉々ちゃんを手招きして呼んだ。
今日もあの子は一人、若い先生の近くで何か作業を手伝っていた。
(たぶんいないほうがはかどると思う)
俺たちが気になるのか、こっちをチラチラ見ている。
俺は莉々ちゃんの前に膝をつき、目線を合わせてゆっくり言った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「お兄ちゃんのこと、覚えてるかな?」
「うん」
「お兄ちゃん、莉々ちゃんと暮らしたいんだ。ダメかな?」
「暮らす……?」
「そう莉々ちゃんがお兄ちゃんの家に来る。お兄ちゃんは莉々ちゃんのパパになる。あそこにいるお姉ちゃんが莉々ちゃんのママになる」
「やだっ!!」
即答。
飛びのくように俺から離れる。
そうだよな。
慣れている施設をすぐ離れられるほどこの子は順応性が高くないんだろう。
ここを離れる時、もういろんなことがわかっていた菜々子と違って、この子はまだ4つ。
「あ、そうだよね。すぐパパなんて、それは無理だよね。でも少しずつ、お兄ちゃんとお姉ちゃんに慣れていくのはどうなのかな? うちに泊まりにきてみない?」
「やだっ!!」
手……手ごわい!!
「一ノ瀬さん、あんまり無理強いしないでくださいな」
園長先生がやんわり俺をたしなめた。
「あ……すいません」
「莉々ちゃん、いいのよ。今のお話は忘れて。一ノ瀬さん、どうでしょう? この園には他にも子供はいますし、他の子供を養子になさっては?」
「はぁー?」
何言ってんだ、この園長……。
俺と菜々子は誰でもよくて引き取ろうとかいうわけじゃない。
他の子と違って外で遊ばないこの子を……。
「……行く」
「え?」
莉々ちゃんが立ち上がった俺のシャツの裾を手でしっかり握り締めていた。
菜々子と園長先生が顔を見合わせて笑い合って
なんだ……これ、作戦なの?
他の子供を薦めれば、莉々ちゃんの心が動くと、そう見抜いていたのか。
莉々ちゃんが俺たちの家に来たくないって言ったのは、単なるポーズだったのか?
俺にはぜんぜんわからなかったのに、園長先生は正確にそれを読んでいた。
さすがだな。
こんなんで親なんかつとまるのかな。
でも俺はやっぱりここにこの子を置いておきたくない。
一緒に行こう。
莉々ちゃん。
◇
初秋。
莉々がうちに来てから、半年がたった。
今でも莉々は『いいこ』だ。
不定期だけど菜々子は仕事を持っている。
だから莉々は延長保育のある幼稚園に入れた。
俺が休みの日、外に連れ出せばついてくるし、俺が470の二人乗りディンギーに乗る時は、菜々子と二人で仲良く見ている。
ヨットハーバーのアイスクリーム屋で俺が海から上がってくるのを待っている。
もっと大きいヨットで海に出るときは、菜々子と三人で乗りこむ。
最初の頃のがちがちに緊張した様子はもうない。
あのでかいキングサイズのベッドで夜は莉々を挟んで三人で寝ている。
莉々が来たからといって、俺と菜々子の生活を根本から覆して、莉々に合わせて創りなおすのは何か違うと思った。
だから次の日が休みの時は、まず莉々を挟んで三人で寝て、莉々を寝かしつける。
それから、夏は外のデッキで、今ごろからは照明を落としたベッドサイドで二人で晩酌したりする。
二度、途中で莉々が起きてきたことがあり、たまたま次の日が休日だったことと、眠そうにしながらも俺の膝によじ登ってくるから、大人の時間に『とくべつ』に混ぜてあげた。
もちろん莉々は酒じゃなくジュースだ。
それでも莉々は、自分がすんなり仲間に入れてもらえたことに安心したのか、しばらくして膝の上で眠り込んでしまった。
そうやって少しずつ、俺たちに慣れていけばいい。
こわごわパパとかママとか呼ぶ声も可愛い。
今日はヨットもなく特別の行事もないから、弁当を持って三人で公園に遊びにきた。
さっきまで莉々の自転車、補助輪はずし特訓をやっていた。
さすがにまだ早いかなー。
でも俺が補助輪をとったのが確か四つの時だった。
「莉々にできないはずはない」
だけど、なかなか上手く乗りこなせずに転んでばっかりの莉々は、はんべそ状態だ。
菜々子が見かねてか、とめに入る。
「もうナツ。そんなに早く取らなくたっていいじゃない。まだ補助でいいよね? 莉々。パパがんばりすぎだよね?」
「うん……。ちょっと休憩したらまたやる」
そう言ったまま莉々は同じくらいの歳の子供と遊び始めた。
俺と菜々子はシートの上に座ってそれをぼんやりみつめる。
「ああやってすぐ誰かとなじむことができるようになったね」
菜々子が言う。
「そうだなー」
「もうナツ、無茶しすぎだよ。莉々は女の子だし、ナツみたいな体育会系とは違うからね? すごく夢見がちなんだよ。王子様とかお姫様とかの絵ばっかり描いてるような子なんだよ? ナツと違って繊細なの」
「なんだよ。俺だって充分繊細だよ」
「うーん……。そうだね。ナツも繊細だけど、莉々の繊細とナツの繊細はちょっと違うかな。ナツのは繊細って漢字で書かないでカタカナでセンサイって書くかな」
「何だそりゃ」
「とにかく、あんまり無理強いはダメだよナツ。莉々が自転車嫌いになったら大変じゃない」
「わーかった」
「どうだか!」
秋の風が色づいた葉を揺らす。
莉々が来てから生活に変化はできた。でも菜々子と二人の時間は確実に減っちゃったな。
「菜々子、手だして」
「ん?」
菜々子がてのひらを上に俺のほうに手を出す。
俺はその上に、ばんっと封筒を乗せた。
「プレゼントっ!!」
ずっと渡そうと思って渡せなかったものを、天気のいい青空の下、二人穏やかな気持ちでいる今なら渡せると思った。
封筒に入った紙だ。
菜々子は封筒からそれをひっぱりだし、息を呑む。
「な……何。ナツこれ……」
離婚届。
俺の著名と印鑑も押してある。
「みればわかるだろ? 離婚届。お前が俺に渡してきたんじゃん」
「え……? 別れる……の? え……何? どうして?」
混乱して涙が盛り上がる菜々子の肩を抱き寄せた。
「違うよ。それは人質。俺の暴走を止めるため。それはお前が持ってて。それを出されるかもって思ったら、俺もそんな無茶できねぇじゃん」
「ナツは無茶なんかしてないよ。ナツのわたしを思う無茶は……嬉しかったりするんだよ?」
「いいの。それは俺がもっといい男になってお前に惚れてもらうために必要なものなの。持ってて。出したいときにだして」
「ナツ……これ以上惚れさせるんだ?」
「ただし、よく考えて出せよ? もう今は二人じゃない。菜々子に似たあんな可愛い女の子が俺らの娘なんだぞ?」
「うん……。ナツに似たかっこいい男の子が息子になるかもしれないし、ね」
「え?」
「えへへ」
菜々子は俺の側に寄ってきて、俺にそっと耳打ちした。
風が……止まる。
epilogue
告白します。
私、一ノ瀬莉々の初恋は決して報われるはずのない相手でした。
好きになっても仕方のない人でした。
「上手なんだね?」
四つの時、施設で先生と何かの紙を折っていた私にその人は言った。
最初、窓から斜めに差し込む逆光が身をかがめたその人の輪郭だけを照らし出す。
その人がゆっくり動くと徐々にその顔がはっきり見えてきた。
くっきりした二重に、柔らかそうな黒にちょと茶色が混じったような髪。
浅黒い肌。なんて素敵な人なんだろうと思った。
私の夢にいつも出てくる王子様そっくりだった。
というか、おぼろげにしか覚えていない夢に出てくる人がこの人なんだと、思い込んでしまったというか。
その人は笑顔で私の隣に座り、私と一緒に紙を折り始めた。
ああ、私を迎えに来てくれたんだ。
私、この王子様とけっこんして一緒に暮らすことになるんだ。
そう思ったのに……。
その人は私を置いて帰ってしまった。
でもすぐ次のお休みの日には来てくれて、私が待っていた言葉を口にする。
「お兄ちゃん、莉々ちゃんと暮らしたいんだ。ダメかな?」
私、この人と一緒に暮らすんだ。
やっぱり迎えに来てくれたんだ。
私はこのお兄ちゃんと結婚するんだ。
なのに。
次にその人が言った衝撃的な言葉で、私は叩きのめされることになる。
「お兄ちゃんは莉々ちゃんのパパになる。あそこにいるお姉ちゃんが莉々ちゃんのママになる」
パパ? なにそれ? 結婚じゃなくてパパ?
お兄ちゃんが私のパパになっちゃったら、結婚できないじゃん!!
「やだっ!!」
全く私もおマセさんだったな。
ずいぶん後になってその話をママにしたら笑われちゃった。
それからおでこを小突かれて言われた。
『いくら大事な莉々でもパパはあげられないのっ』って。
あげられないも何も、パパがママのことは離さないよ。
あれはママ中毒だな。超ママに過保護。
よく覚えていないんだけどまだ私が施設からここの家に来て間もない頃、三人でどこかの広い公園に行って私の自転車の練習をしていたことがあった。
ホントはイヤだったけど、パパがあんまり熱心に私を補助なし自転車に乗せようとするから、仕方なく練習していた。
でも、パパはすぐ熱くなるから、たぶんママが見かねて注意してくれたんだ。
それで私はパパとママから離れて遊んでた。
そしたら、いっつも遊びに出ると夕方までいるパパがいきなり、帰る、とか言い出したの。
ママが冷たい風に当たると身体が冷えるからって。
いままでそんなこと一度も言わなかったパパがそう言って、その言い方が不自然にあわてていたからビックリした。
後になってよくよく考えてみたら、きっとその時、ママのお腹には優河がいたんだ。
そのことをママがパパに伝えたんだ。
弟の優河が生まれてから、二年後にママは妹の遥南を生んだ。
赤ちゃん二人を抱えていまひとつ身動きがとれないママに代わってパパは私を連れてよく遊びに出かけてくれた。
その間の何年かはたぶん、大好きなヨットをお休みしてる。
でも。
パパと遊びに出るとすぐ、『とっくんごっこ』になる。
逆上がりのとっくん。縄跳びのとっくん。
一輪車のとっくん。ドッヂボールのとっくん。
運動会の前なんて走るとっくんまである。
だから、優河と遥南が赤ちゃんじゃなくなってママも一緒に出かけられるようになってちょっとほっとした。
私は今年中学にあがる。
今は、ようやくパパのとっくんから開放されて、ママとお買い物に行かれるからちょっと嬉しい。
パパのとっくんの矛先は今、優河と遥南に向いている。
優河はとっくんが大好きだ。
特に今はサッカーのとっくんにハマっている。
大きいベッドで今、ママとパパとまだ五歳の遥南は三人で寝てる。
私と優河が同じ部屋。
ヨットのない休日、一番遅くまで寝ているのはたいていパパで、そうすると優河はベッドの上のパパのすぐ横で「とっくんとっくんとっくん」といいながら跳ねている。
それでパパが「あーわかったよとっくんなー。よし行くかー」とか言いながら起きてくる。
優河のとっくん好きに反して、遥南はいつも半べそ。
パパのとっくんが度をすぎると、ママが強烈な一言をお見舞いする。
『ナツっ!! もうトドケ、出しちゃうよ』
あ、ナツっていうのはパパのあだ名? みたいなもの?
パパの名前は夏哉だから。
ママに『トドケ』って言われるとパパは、しぶしぶとっくんを止めておとなしくなる。
でも最近はそう言われても、『あーはいはい』みたいに受け流すことが多くなっていた。
その『トドケ』が何なのかわからないけど、私はつい最近『トドケ』に関する重大な秘密を入手した。
夜、パパとママが話しているのをこっそり聞いちゃったんだ。
「ナツ、いままでこれ、一人で持っててごめんね。この『トドケ』はこれから二人で管理しよう。いつでもここからどっちかが取り出して出しに行けるように」
そう言って、ママは大事なものを入れてる金庫の中にその『トドケ』を入れていた。
暗証番号はパパとママしか知らない。
『トドケ』は今もその金庫の中で眠っている。
もうずっと、あの金庫から出てくることはないまま忘れられていくんじゃないかと思う。
なんとなくだけど。
「莉々、そろそろ出発するぞ」
いっけなーい。
パパが私の部屋を開けて呼びにきちゃった。
今日は引越しだ。
「もうパパっ!! 勝手に人の部屋開けないでって言ってるじゃんっ」
Tシャツにジーンズ、シルバーのネックレスがまた憎らしいほど似合っちゃっているパパが顔を出す。
学校公開で私の授業を見に来るパパは、いつも歳の離れたお兄さんだと思われる。
「あーそっか。そうだな。いつの間にかこんなに大きくなっちゃって。莉々はパパと結婚するって昔言ってたんだぞ」
そう。
本気の本気でそう思ってたことはママだけが知っている。
だれでもそういうふうにパパに言う時期があるのかも知れないけど、私は本気だったんだから。
だってパパと私は血が繋がっていないんだから、本当に結婚しようと思えばできちゃうのだ。
でもあれだけママ大好きを小さい頃から見せつけられちゃね。
だから私はすぐ幼稚園で隣の席になった増田くんに心変わりしちゃったんだからね。
「さっ。行くぞ。下でみんな待ってる」
パパは最後の私の荷物を持ち上げた。
引き取られてから八年暮らしたマンション。
私の中学入学とともに、昔、新婚の頃、パパとママが暮らしていたという葉山に私たちは今日移る。
子供が三人になって手狭になったのと、パパが本格的にヨットに復帰するためだ。ヨットはお金がかかる。
でも大丈夫なの。
だって、パパは大きい会社の社長さんだから。
ママだって児童文学の翻訳のお仕事をしているから。
私たち子供を一ノ瀬のおばあちゃんのところに預けて、毎年二人でイギリスに行かれるくらいだから、お金持ちの部類に入るんじゃないかな、と思う。
それで今回、葉山にみんなで設計した大きい家を建てたの。
「ねえパパ?」
「何?」
「私、パパと結婚できないじゃん。パパが一番好きなのは誰?」
「菜々子。お前のママだよ」
「ひっどーい親。娘よりママなの?」
「そうだよ。しょせんお前たちとは血が繋がってる。他人の中に自分の片割れがいるんだ。そういう相手を莉々は自分で見つけるんだ! パパやママよりちょっとだけ好きな相手がいつかできる。その時、パパとママのところから出て行くんだよ」
私だって他人なのに、パパはそれを覚えていないんじゃないかと思う時がある。
玄関の先からママの声が聞こえる。
あんまり遅いから迎えに来ちゃったんだ。
「ナツー。莉々ー。早くー。もう優河と遥南がぐずってるー」
「ほら行こう。莉々」
パパは私の頭を無造作にポンって叩いた。
「はーい」
葉山の海が似合う自慢のパパ。
私の初恋はあっけなく破れ去りました。
パパの想い人が私の大好きなママじゃ納得だしね。
パパと結婚はできないけど、いつまでも私たち、親友だよね。
~Fin~
citrus age 番外編 1ミリの向こう側 菜の夏 @ayu
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