さなぎのうか

雪無

永井都香砂



 中編小説二冊分ぐらいの小さな隙間だった。二年二組の引き戸の隙間から蠢いている影を見て、「あ。永井くんと竹中さんだ」と咄嗟に思う。


 放課後の掃除で、女子にどやされながら一生懸命に整列させた机は、すっかりその規律を乱していた。互いを絡れさせる動きに、夕焼けの彩度が煮立って影を伸ばしている。

 湯気の燻るような吐息が聞こえた。セーラー服の赤いリボンが金魚みたいに落ちて、竹中の華奢な手は永井のシャツのボタンを外しにかかる。妙にじれったい動きで、いけないとわかっていながらほつれた糸をほどこうとするようなもどかしさがあった。

 自分の体がじわじわと熱くなっていく。忘れ物を取りに帰ってきただけなのに、ここにいてはいけないんじゃないかという罪悪感が強くなった。悪いのはこちらではないし、もちろんのもこちらだ。今すぐにでも引き戸を開けて、彼らの獣じみた行いをやめさせたってよかったはずだった。


 永井の薄い腹が官能的に露わになって、「あっ、」という彼女の嬌声と自分の声が被さる。


 肋骨が、その皮膚から剥き出しに照らされていた。


 ぼたぼたと赤い血肉を涎みたいに垂らしながら、バックリと突き出た永井の、皮膚が、繊維が、肋骨が。

 比喩でもなんでもなく、口を開いて、彼女の体を貫いた。



◻︎



「えー、今日からこのクラスに新しい生徒が加わります」


 夏とも秋ともつかない、名前のない季節のことだった。変わり映えのしない朝のホームルームで担任の乾燥した声が教室に木霊する。

 日高湊人ひだかみなとが親の転勤でこのヨバリ町に越してきたのも、ちょうど今から去年の夏休み前だ。

 担任の言葉に女子も男子もワッと色めき立って、「どんな人だろう」と隣の席同士、もしくは仲の良い同士で囁き合う。湊人は、しかしその空気の輪に出遅れて、ただただ窮屈そうに身を縮こまらせた。

 ドン、と横から机の足を叩かれる。隣の席の水原が卑しく眉を上げていた。


「よかったじゃん。日高。転校生同士さ、仲良くなれるかもよ」


 その言葉に善意がないのはこの一年間で痛いほど身に染みている。湊人は適当に、そうだねとぎこちない相槌を打ってバレないように机を直し、教卓に立つ担任の情けない肩を見た。

 閉塞的な町において“転校生”というのはそれだけで村八分の対象になり得る。かろうじて、夏休み前というのが救いだったのか、当時の中学一年生になって間もない不完全なクラスで、最初のうちは、湊人もまだ同じ人間として扱われていた。

 それでも一年が経てば、ピラミッド型の優劣は少しずつ積み上がっていく。“転校生”はもうどう頑張ったって“外来種”としか見なされない。仲良くなろうと懸命になったところで、媚びを売っている自分に恥ずかしくなるだけだった。


 夏休み後の今では余計に、クラスに馴染むのは難しくなるだろうな。国語の教科書を出しながら、湊人は自分のことのように右腕をさすって、仄かな同情と期待を転校生に馳せた。もし、この転校生がなんらかの形で失敗すれば、自分は優位に──少なくとも嫌味を言われずに──立てるのではないか?


「じゃあ、ね、入ってきなさい」


 担任の間の悪い声で、教室の引き戸が開いた。


 ギシ、と古びた木板が軋んで、杭の通ったような姿勢のいい男子生徒が入ってくる。教室全体が衝撃を受けたかのように静まり返った。

 夏服のシャツから伸びた艶のある手。腰の位置はどこかのモデルみたいに高く、ストレートの黒髪が青年のキュッと引き締まった輪郭を際立たせている。暗い印象を与えるような伸びた前髪も、陰鬱な美しさがその奥に潜んでいるようで、教室にいる誰もが彼から視線を外せなくなっていた。

 彼は教卓の前に立つと、クラス全体を概観し、流れるように瞼を細める。


「トウキョウから引っ越してきました、永井都香砂ながいつかさです。まだ不慣れで、わからないこともたくさんありますが、みんなと仲良くできたらと思っています。よろしくお願いします」



 顔を上げたその目は、まるで空洞みたいに真っ黒だった。



 女子の黄色い拍手と男子の惚けたような拍手が狭い教室に響き渡る。

 驟雨のように耳を劈く歓迎の音と、場違いに心臓の逸る音が交わっていく。湊人はじわじわと滲んでいく手汗を両腕になすりつけて、刹那に下を向いた。

 そのまま辺りの様子を縋るような思いで見渡す。誰も、誰の顔にも動揺は見受けられなかった。恋慕ではない怖気で心臓をばくばく鳴らしているのは自分だけのように思う。


 誰も、なにも思わないのだろうか。それとも、見間違いだったのだろうか。もう一度確かめたく思ったが、一瞬の恐怖がすぐにリフレインされて湊人は前を向けなかった。


 ──永井という少年の目は、人間のそれではなかった。


 目玉をほじくり出したら、きっと、あんなふうになるのだろうと思う。真っ黒な目。あの目。目。

 長く、長く続く拍手が耳鳴りに変わっていく。


「はい、それでは……永井は真ん中の列の一番後ろ、あそこ。日高の後ろの席についてくれるかな」

「わかりました」


 担任の指示に耳を疑った。さりげなく後ろを確認してみると、いつの間にか最後尾である自分の席の後ろに新しい机が用意されていた。どうして登校したときに気が付かなかったのか。湊人は自分の観察力の鈍さを悔いた。

 ギシ、ギシ、と秒針のように足音が近づいてくる。湊人は意識的に下を向きながら、どうか、どうか、無視してくれますようにと何度も胸中で祈った。なにも見ていなかった。あれは気のせいだった。懺悔するように唱えた。すぐ目の前まで、彼の脚が近づいてきている。斜め前、そして、真横。


 やがて、足音は自分よりも後ろに過ぎていった。自意識過剰なまでに何事もなく過ぎ去った時間を味わい、湊人は大きく肩を撫で下ろして、視線を上げる。




 病的なほどに白く整った顔と、くり抜かれたような溝の目が、湊人の顔を覗き込んでいた。




「よろしく、日高君」




 全身に鳥肌が立つ。叫び声は凍った血液と一緒に固まって、幸いにも口から飛び出ることはなく、湊人はブリキみたいに頷くことしかできなかった。それで満足したのか、永井は何事もなかったかのように姿勢を戻して、自分の席へと着席した。

 授業が始まる。一時間目は国語だ。後ろからスクールバッグを探る音が聞こえてくる。


 心臓を絞るような覚悟で湊人はもう一度小さく振り返った。

 

 永井の目は何事もない普通の人間と同じ目の色をしていた。彼は、人当たりよく湊人に微笑む。

 見間違いだった。それしかない。最近はとくに疲れているのだ。湊人は強く、果てない努力で自分自身をそう思い込ませて前を向いた。



◻︎



 消しゴムがない。


 二時間目の数学が終わる十分前に、後ろから独り言が聞こえてきた。


 誰に聞かせるわけでもない、うっかり出てしまった言葉なのだろうとは蚊の鳴くような声でわかる。ただ、後ろに注意を向けていたせいで、その独り言がいやにはっきりと聞こえてしまったのだった。

 関わりたくはない。けれど、今日に限って湊人の筆箱には二個、消しゴムがあった。雑誌かなにかの漫画の付録で、どこに置こうか考えた末に筆箱に入れたのを覚えている。

 生徒が板書し終えたかも確認せず、数学の田原は黒板を消し始める。

 消されていく数式や解答や解説。彼はどこを書き間違えたのだろう。もうすぐ消される問題は期末テストに影響してくる範囲だ。

 湊人は腕だけを後ろに伸ばして、アニメのキャラクターが描かれている消しゴムを永井に差し出した。指先が無意識にでも震える。


「えっ」永井のぽっかりとした声が聞こえてくる。

 驚いたような顔をしているのだろうとは、振り向かなくとも想像がついた。

「……これ、使いなよ」

「でも、日高君は」

「もう一個あるんだ」


 彼に対する最初で最後の良心だった。早く取ってくれ。そう思っていると不意に霊安室を彷彿とさせるほどの冷たい指が消しゴムごと湊人の指先を包んだ。蜘蛛の脚が一本一本絡んでいくような握り方で、ゾッと肌が粟立つ。

 今に振り解きたい衝動を堪えた。振り向くのも、振り解くのも、同じぐらいの勇気がいる。


「ありがとう。終わったら、返すね、……」

「い、いい。返さないでも。あげる」


 永井の指先が消しゴムを握ったと同時に、手を引っ込める。半ば、押し付けるようなかたちにはなったが、もうこれで金輪際、永井に深く関わらなくともいいような気がした。一度は親切にしてやった。その免罪符がある。


「日高君、日高君。聞いて。あのね、言い訳をするんじゃないんだよ。でもね、消しゴムを使うなんてわからなくて」


 だというのに、どうしてか、永井はずっと後ろでなにかをぶつぶつと喋り続けていた。


 語りかけるといった方が近いかもしれない。どちらにしろ、面白い状況でもなんでもなかった。

 湊人は必死に板書を続けて、十分間をひたすら耐え忍んだ。先生、注意してよ、と教卓を睨んでみても教室にいる誰一人としてこちらを気にかけるような素振りはみせなかった。

 鉛筆を握る指先が滑る。ノートの端っこの、窮屈そうな文字が汚く掠れた。誰だよ、こんな隅に字を敷き詰めたのは。

 ──自分自身だ。


「うれしい。うれしいなあ。日高君。大切に使うね」


 チャイムが鳴るまでの十分間をこんなに長く感じたのは初めてのことだった。



 休み時間になると、周りの生徒たちは一目散に永井の元へ集まってくる。恒例行事なのだろう。クラスメイトからの質問攻めだけは自分のときとなんら変わりなかった。

 どうしてこの町に引っ越してきたの? 彼女はいた? 家はどのあたり? 前の学校では成績よかったの?

 四方八方に姦しい空間で、少しずつ自分の居場所がなくなっていくのを感じる。上履きの先を擦り合わせて、湊人は寒がるように猫背になって体を縮めた。立ち上がったとして、行く先はどうせトイレしかない。授業の合間の休み時間も十分間だ。

 すぐに席を立てばよかったのに、中途半端な時間ばかりが過ぎてしまった。あと何分で休み時間は終わるだろう。


「そういえば、永井君は東京のどこからきたの? やっぱり都心?」一人の女子が声をワントーン上げて、そう訊く。

「ああ、ううん、そうだな……」

 永井の答えが滞った。

 席を立って、廊下に出られるのは今のうちかもしれない。

「日高君もトウキョウって聞いたよ。どこにいたの」

「は、」


 唐突に振られた話に、素っ頓狂な声が漏れる。まさかこちらに飛び火するとは思ってもみなかった。浮かびかけた腰が突き飛ばされたように戻って、湊人は亡霊でも見るような動きで振り返る。銃口のような視線がこちらに集中していた。


「どこって」洒脱な回答も上手い誤魔化し方もわからない。こういうところで頭の良さというのは露呈するのだろう。奥歯を痛いほど噛み締める。

「……神奈川に近い、辺鄙なところだよ。八王子の奥の方で都会じゃない」

「え! 僕もその近くだよ!」

 永井の顔色が取ってつけたかのように明るくなった。体を前のめりにして、まるで偶然を喜ぶようだったけれど、そこはかとないわざとらしさが拭えていない。

 もっとも、その不自然さを拾えていたのは湊人だけで、周りの人間は「東京のそのあたりに住めるって、なんだかかっこいいね」などと適当なおべっかを捲し立てていた。自分のときはつまらないという反応しかされなかったのに、持っているものが違うだけでこうも色彩が変わってくるのだ。

 

 チャイムが鳴る。集まっていたクラスメイトたちは名残惜しそうに自分たちの席に散開していって、こちらの強張っていた肩の力も抜けた。

 永井の机に誰もいなくなったことを確認し、湊人は体の向きを彼の机に寄せながら機嫌の良さそうな彼を無感動な横目で盗み見た。


「……うそだろ」

「なにが?」

「八王子近くに住んでたなんて。嘘だろ」


 もう死んだはずの夏が微笑んだような、永井はそんなふうに笑う。


「ほんとだよう」


 綺麗な黒髪が、永井の睫毛の上で揺れる。湊人は外にハネた自分の髪を掴んで、その毛先が生きていることを実感した。



 永井は他の女子や男子たちからの誘いを断って、一緒に帰ろうよと放課後も湊人のそばから離れようとしなかった。

 クラスで曖昧だったカーストは永井がきたことによって確立に近い形で決まりつつある。もちろん、ピラミッドの頂点には永井がいる。だからこそ、永井に誘いを断られたとしても渋い顔をする人はいなくて、その代わりに永井に“選ばれた”人間が睨まれるようになるのだ。それが転校生であれば尚更のことで、彼からの誘いを断ろうものなら陰口の主役は確実に自分になることはわかりきっていた。

 この逃げ場のない小さな町で、町の人間とうまくやれないというのは致命傷に近い。大人であれば町を出て一人暮らしという選択もあるのだろうけど、それをできる金もなければ、許される環境にも今はいない。

 湊人には頷く以外に選択肢などなかった。永井は心の底から嬉しそうにしていた。


「……永井くんの家はどこ」

「日高君の家の近くだよ」


 嘘つけ。自分の家がどこにあるかも永井にはまだ伝えていなかった。それを言及したところで、たぶん、誤魔化される。いや、誤魔化されるだけで済むのだろうか。彼に踏み入った話をしてはいけない気がする。

 いつ、長袖に衣替えしようか。焦がしたような夕焼けに体の悪そうな影を落としながら、畦道を歩いた。永井の肩に時折、こちらの肩が擦れる。ごめん、と言うと、わかっていないような顔をされる。


「あ、待って」


 そう言われた瞬間に腕を強く引っ張られた。突然の引力に目を白黒させていると、湊人のいた一歩先の場所に、わかりにくいぬかるみがあった。あと少し進んでいたら湊人の右足は泥だらけになるか、悪ければ転んでいたろう。昨夜に小雨が降っていたから、それによって崩れたものかもしれない。そうでなくとも、このあたりは土砂が多い。

 蹈鞴を踏んで後ろに下がると、永井の鎖骨に湊人の後頭部が当たる。


「……ありがとう」

 礼を言って見上げると、永井はこちらを小さく見下ろしてゆっくり笑った。

「どういたしまして。ここら辺、気をつけなくちゃね」

「あ、あのさ」

「なに?」

「この町のこと、わからないことあったら俺に聞くより同じクラスの委員長とかに聞いた方がいいよ」

 永井は傾げるように目を見開かせていた。握られた腕はまだ離されない。

「わかったよ」


 星みたいに近いのだか遠いのだか掴めないところでカエルの鳴く声や鈴虫の合唱が明滅している。空は広く、田んぼばかりの緑の海に空白はたくさんある。それなのに、音と視覚の密度は濃かった。トンボも洞窟のような青峰も、なにもかもに監視されているような。小さな町。

 そんな町に、二人も東京から転校してくるなんて、どんな巡り合わせか知れない。

 家が見えてくる。赤い屋根の一軒家は、湊人の家だった。ここに来るまで、永井は湊人の腕を離そうとはしなかった。

 自分の家を彼に知られてしまっていいのだろうか。漠然とした不安が拭えない。けれど、一刻も早く帰りたいという思いの方が不安を遥かに凌駕していた。


「……じゃあ、俺はここで」

「ここが日高君のお家なんだ」

「永井くんの家は?」

「ええっとね、あそこらへん」

「そう」


 ようやく腕が解放される。バイバイと手を振る永井を無視して、玄関の扉を開け、自宅の扉を開く。なんとなく気になって扉が閉まる寸前に後ろを見てみると、彼は手を振ったままだった。

 “あそこらへん”と永井が指していた方向を思い出す。


 そこに広がっているのは寂寥とした水田のみで、家らしき建物は一軒も見当たらなかった。


「また明日、日高君」


 湊人はすぐさま玄関の扉を閉めて、鍵をかけた。家の中は鬱蒼と暗かった。まだ誰も帰ってきていないのだろう。安心を得たいがために、廊下の電気をつける。

 ドアスコープを覗いてみる気には、当然、なれなかった。



◻︎



 永井に彼女ができた。彼が転校してきてから一ヶ月もしないうちだ。


 彼女は落合という、クラスでも目立たない、日陰にいるような女生徒だった。おそらくはなにかの罰ゲームだったか、一世一代といった決死の告白に、永井はあっさりと承諾した。

 その間、湊人は少なくともクラスメイトの女グループからは嫌味を言われることはなくなった。女子たちの敵意はすべて永井の“彼女”という立場に寄せられる。それが陽のもとにいないような女であれば尚更、プライドと承認欲求の高いグループに目をつけられやすい。恋人である永井が庇えばいいのに、当の本人はなんら気にかける様子もなく、放課後には彼女ではなく必ず湊人に声をかけてくる。


「日高君、一緒に帰ろうよ」


 後ろから優しく肩を叩かれる。情けない話だが、そうやって肩を叩かれるだけで湊人の心臓は不整脈を起こしかねない飛び跳ね方をしていた。毎日、毎日。寿命がいくつあっても足りないかもしれない。冗談らしくそう思うが、遅れてほんとうに薄ら寒くなる。こいつのせいで死んだら、どうしよう。

 湊人は渋々といったふうに振り返った。人工的な笑みを浮かべる永井の目に、黒い影はどこにも見当たらなかった。


「……彼女を誘いなよ」

「どうして?」

 湊人は辟易して眉を寄せた。「わからない?」

「日高君と帰りたいよ」


 毎日、同じ問答、同じ結果。だが、これではあまりにも彼女が可哀想だ。大人しい彼女は、日陰にいるというだけあって、湊人に嫌味を言うこともない人だった。そんな人が寂しい想いをするのは、なんだかこちらの胸が重くなる。

 それでいて永井を強く突き放せないのは、どうあっても、“誰かに選ばれる”という優越に隷属してしまうからだ。相手がたとえ、どんな人間であったとしても。

 自分を諌むように唇を僅かに噛み締めて、スクールバッグを肩にかけた。まだ、彼女は帰っていない。


「それならさ、落合さんも一緒に誘おうよ。途中まで帰る道も同じだった気がするし」


 落合と呼ばれた女生徒は突然名指しにされたことに驚いたのか、おかっぱの髪を揺らして振り向いた。

 気まずそうな、迷惑そうな難色を示す落合の顔色に、湊人はそれでも食い下がる。


「帰り、途中まで一緒だったよね。落合さん」

「そう、そうだけど」

「よければ、三人で帰らない」


 頷いたのか首を傾げたのか、わからない加減で落合は逡巡し、結局は頷いた。永井はなにも言わなかったが、湊人が動き出すと彼も黙ったままそれに続いた。

 湊人は鳩尾を強く押さえて、キリキリ痛む胃を黙らせた。もう、肌寒い季節だ。



 ただでさえ狭窄とした畦道を三人で横並びに歩くのは、双方にひどいストレスをもたらした。

 糅てて加えて並ぶ順番が落合、湊人、永井となっており、これではなんのために落合を誘ったのだかわからない。湊人は必死にさりげなさを装って順番を変えようとしたが、そのたびに永井ももれなくついてくる。胃の痛みは短い間隔で叫びを上げ始めた。

 伸びていく影は三人の先で合わさり、一個の大きな暗闇になって化物みたいに広がっていた。


 永井との沈黙は──怖気もあるが──あまり気にならないのに、一人分の沈黙が増えただけで二酸化炭素が急激に膨張したような息苦しさを覚える。

 湊人は落合の引き摺るような歩幅に合わせ、永井は湊人のそぞろな歩幅に合わせた。


「……そういえば、永井くんは、あの儀式したの?」

 湊人は会話のタネを捻り出すように口を開く。

「儀式ってなに?」

「儀式?」


 二人揃って同じ反応が返ってくるとは思わず、少しばかり面食らった。それと同時に、ああそうかと懐疑的だった蟠りが確信に近く懐に落ち込んだ。

 湊人は口角を無理に上げて、


「この町に来たら儀式をやらなくちゃいけないんだろ。なんか、積み重なった石を一つ崩す、みたいな」

「石を崩すって、どこの石を!?」


 それまで大人しく黙っていた落合がにわかに声を張り上げた。


 普段の暗澹とした姿勢からは想像もできないほどだった。彼女の顔色は今に沸騰しそうに赤く、そして青い。湊人の腕を引っ掴み、そこで湊人の歩も止まる。永井も二歩先で止まって、振り返った。

 冗句にするつもりでいた。石を崩せと言われたのも、そうさせられたのも事実だったが、永井がそれを通過していない事実を鑑みるに、あれは嫌がらせだったんだよなー、みたいに終わらせるつもりだったのだ。こんなふうに詰め寄られるとは思ってもみなかった。


「いや、どこっていうか、ええと」湊人は辺りの山脈を見渡してから「あの鳥居のふもとだったと思う」

 学校からさほど離れていない距離にある赤い鳥居を指差すと、落合の手の力がよりいっそう強くなった。大人の男に腕を掴まれているみたいだ。掴まれているところから汗がじんわりと滲む。

「誰に言われたの。ほんとうに崩したの?」

「あ、その……」

「どうせ五十嵐あたりに言われたんでしょ」


 詰るような彼女の言い方に、いよいよ自分はなにかいけないことに首を突っ込んでいるのかもしれないと思い始めた。

 なにをどう説明すれば自分は悪くないと言ってもらえるのか、湊人は半歩後ずさった頭で目を泳がせる。

 永井が落合の手を上から覆うように握ったのは、その直後のことだった。落合の目は喫驚に大きくなって、湊人の腕を反射的に離した。


「五十嵐って、名前なんだっけ」


 突拍子もない永井の発言に、湊人も落合も思わず互いを見やった。開いた空白を先に埋めたのは落合の方だ。


「五十嵐……灯、だけど」

「他には? 五十嵐あたりってことは他にもいたんだろ」


 どうしてそんなことを訊くのか、困惑ばかりが湊人の思考を揺らがせる。誤魔化そうかとも思ったけれど、落合もその部分は知りたいらしく、永井と加担して湊人を促すように見つめていた。二人の視線を跳ね除ける度胸はない。


「五十嵐と、如月、それと高橋、──」

「名前は?」永井がすかさず口を挟む。

「……如月遥、高橋あきら、水原歩、竹中美恵。なあ、これってそんなに大事なこと?」

 落合は口篭っていたが、永井は「大事だよ。誰が、なにをしたのかって大事じゃん」と笑っていた。


 歩き始めた三人の会話は極端に減り、その間も、永井だけが我関せずと機嫌を保っていた。同じ東京出身であるならば、もっと言及してもいい話題だったろうに。

 落合も永井もそれ以上、石の話題を掘り返そうとはしなかった。

「あ、わたし、この道で別れるから」と落合は丁字路で二人に別れを告げる。また明日と、軽く手を振って、それでも彼女は言い淀んだふうにすぐには背を向けなかった。

 落合は湊人の元に近寄ると、切り揃えられた黒髪を肩で揺らして、


「日高くんさ、ほんと、なにかあったら親とか先生に相談しなね。この町、小さいけど、ちゃんと和尚さんとかいるからさ」


 そうとだけ言い残して、彼女は帰路についた。最後まで、永井にはなにも言わなかった。


 二人になれたね。永井は嬉しそうに言った。歩調を遅くすると、永井の歩幅も狭くなる。スラリと伸びた脚に、湊人のやましい歩みを真似るのはずいぶんと窮屈そうに見えた。

 人が一人減ったおかげで、細長く寝転んでいる影はきちんと人間の形を取り戻していた。

 カエルの声が長袖の白いシャツに透けて張り付く。土と草の純度の高い匂い。東京よりも冷えた空気に、引っ越してきたばかりの頃は慣れなくて、なんとなく毎日気分が悪かった。

 今、胃の痛みは止んでいた。


「俺さ、ほんとは石なんて動かしてないんだ」

 湊人の言葉に、永井は前を向いたまま視線を変えない。

 どうして終わった話題を掘り返してしまったのか。言ってしまったあとの後悔を調和させるように独白は止められなかった。

「あの日、確かに、石を崩さなくちゃこの町にはいられない、みたいなこと言われて。鳥居の下に積まれていた石のところへ連れて行かれたんだよ」

 相槌すら返ってこない。

 湊人は胡乱に言葉を繋げた。「でも、できなかった。やっちゃいけないような気がしたし、だから、違う石を掴んで、動かしたように見せかけた。それだけなんだ」


 なんの返答も得られないまま、自分の家が見えてきた。潮が満ちていくように、哀れな羞恥心が体の体温を上げていく。日高君は悪くないよ、わかってるよ、とそんな言葉をどんなにか期待したろう。それぐらいには彼に好かれているんじゃないかと自負していたから。

 身の潔白を言葉にして重たくなったのは自分の卑しさと孤独感だった。

 とにかく、自分はなにもしていない。心配することもなにもないのだ。そう自分を慰めるしかない。

 家の前に着くと、二人の足は必然的に止まる。明日からは彼女と帰ってくれればいいのに。彼と絶交できるならさっさとそうしてやりたかった。


「じゃあ、また明日、……」

「日高君」


 呼び止められる声に、今日だけは振り向いた。

 永井は笑っていた。その顔しかできないのかよ、と言いたくなるぐらいには、永井の表情が変わっているところを見たことがない。


「またね」


 それだけだった。湊人はこの後に及んでまだ期待していた自分をさらに恥じ、そして、彼に嫌気がさして、なにも言わずに扉を閉めた。

「おかえりなさい」と奥から母の声が聞こえてくる。カレーの香ばしいスパイスの香りが漂ってくる。「ただいま」の一言を言うまでに、もうこの町に居たくないという言葉をまるまる太った氷を飲むように嚥下せねばならなかった。



◻︎



 喉が渇いた。


 夜中に湊人はふと目を覚ました。


 口の中がカサついている。上顎に舌がへばりつくようで、気持ちが悪い。部屋の中の温度は暑くもなく、乾燥しているわけでもない。口を開けて寝てしまっていたのだろうか。自覚はなかった。

 ベッドからゆっくり起き上がり、寝ぼけた頭で自室を出る。壁に手をつきながら暗い廊下を渡り、滑り止めのついた階段を下りる。リビングに着くと、これも手探りで台所まで歩いていった。

 時計の秒針がか細く鳴いている。鈴虫の音も遠くで聞こえていた。

 冷蔵庫を開ける。一瞬の光に目が痛んだが、あらかじめ目を細めていたおかげで暗がりに慣れ始めていた視界に大してダメージは残らなかった。

 冷たい麦茶を喉に流し込むと、眠りかけていた胃は驚いていたが喉と口内は気持ちいいぐらい潤った。

 時計を見ると深夜三時をさしていた。あと三時間は眠れる。

 麦茶を冷蔵庫に戻し、トイレに行こうかどうしようかぼんやり考えていたところで、


 ピンポーン、と、呼び出し音が家にこだました。


 心臓は正直に飛び跳ねる。しかし寝ぼけすぎて、幻聴かとも疑えていた。

 とくとくと進む心臓を置き去りにして、湊人はリビングを無意味に見渡し、息を潜める。時計の針の音、鈴虫の声、目を閉じたままのテレビ、自分の心臓の音。


 ピンポーン ピンポーン


 今度は急かすように二度鳴った。

 幻聴などではなかった。

 深夜三時に、この家のインターホンが、何者かによって鳴らされている。


 ピンポーン ピンポーン ピンポーン


 全身の神経、筋肉、血流が嫌な音を立てて覚醒していく。は、は、と呼吸が遅れて汗が体から滲んだ。

 親が起きてくることを願ったが、熟睡しているのか、誰かが反応したような気配は感じられない。待てば待つほど、インターホンの音は連続して鳴らされた。起きていることはわかっている、早く出ろ、と言わんばかりに鳴らされる間隔も短くなってくる。

 こんなにうるさいのに、どうして誰も起きない!


 場違いな癇癪を親にぶつけながら、湊人は台所の引き出しを開けた。恐怖と焦燥のせいで起こしにいく猶予も残されていないように感じられる。今、自分がどうにかするしかない。それしかない。

 引き出しの中から一本の果物ナイフを取り出した。手汗と緊張でナイフの柄を掴む指先が細かく震える。いざとなったらこれで殺せばいい──そんなことが、果たして自分にできるのか? いや、刃物をちらつかせれば相手だってきっと怯むはずなのだ。やられる前にやる。やってみせる。

 叫び続ける心臓に、血流はアクセルを全開にして暴れ回っている。両手でナイフを握りしめながら、猫背のままにリビングから出て廊下を小さな歩幅で渡る。近づいていくたびにインターホンの音も少しずつ間隔をあけていった。


 魚眼レンズで見通したように廊下は果てしなく遠く、扉が異様に大きく感じる。

 この一枚の向こうに誰かがいる。過呼吸にならないよう、間欠的に呼吸を繰り返し、音を立てないように湊人はドアチェーンをかけた。

 あとはドアスコープで相手を確認すればいい。

 小さな穴。その暗闇が巨大な目のようにも思えた。ナイフを握ることで臆病風を擦り潰し、湊人は背を伸ばしてドアスコープを右目で覗き込む。


 真っ黒。


 なんの景色も見えない黒い世界が広がっていた。そこに人や風景の一つも見当たらない。

 ここ一帯は街灯もなく、夜になると本当に暗くなる。それはわかっていたのだが、それにしてもここまで暗くなるものなのだろうか。しかし、誰もいないという事実は湊人の心臓を拍子抜けさせるには充分な効力を発揮した。やはり疲れているせいで妙な幻聴を聞いてしまったのだろう。インターホンも、今はすっかり静かだ。

 もう引き返してしまおうかとも思い至ったが、最後に安全を確認してからでないと安眠には辿り着けそうにない。大丈夫、大丈夫、そう言い聞かせてドアノブを回してゆっくりと重いドアを押す。


 ダンッ! と白い手がドアの隙間から短兵級に差し込まれた。


「うわあッ!」


 感電死寸前の悲鳴が喉の浅いところで漏れる。湊人はドアから手を離して後ろへと雪崩れ込むように後退った。ナイフが落ちそうになって、慌ててそれを握り直す。体は今に悲鳴で千切れそうだった。

 閉まりそうになるドアを白い手が掴んで離さない。ガタガタガタガタとドアが何度も揺さぶられる。それはまるで痙攣にも似ていたが、開けられないことを不思議がっているふうにも見て取れた。耳を塞ぎたくなるような音は数秒後におさまった。逃げたい。逃げたい、けれど、このドアに背を向けることは死を意味している。

 歪な音を軋ませて、ドアチェーンが限界まで突っ張る。

 斜めに開いた隙間から、顔の半分が覗く。



「こんばんはあ、日高君」



 間延びした声に、永井が瞼を弛めて、こちらをまっすぐに窺っていた。


 突き破りそうな脈拍が湊人の全身を轟かす。まだ、見知らぬおっさんだとかこれ見よがしの不審者であるとか、そういう類の方が全然対処のしようがあった。

 パニックに染まった頭でナイフの切先が力無く下がる。


「……永井、くん」

 前髪に被さる永井の目は弧を描いて、眼球も黒にしか見えない。

「よかった、出てきてくれて」

「ど、どういうつもりだよ。今が何時かわかってるのか! どうしたってこんな、こんな、……」

「どういうって、日高君に用があるから」


 ギチ……ギチ……、と、チェーンが妙な音を立てる。ナイフの柄を掴む掌の感覚は麻痺して腫れていた。


 永井の眉が僅かに寄った。「ねえ、これ、邪魔だよ。外してよ」

「い。嫌だ。チャイムだってあんなに鳴らして、非常識だと思わないのか」

「出てきてくれるまで鳴らすものじゃないの?」

「違う」


 気にしてもいないふうに「そうなんだ」と言って、永井はドアの隙間から手を無理にねじ込ませてきた。握り拳の中に、なにかが入っているようだった。湊人は取りに行くのを嫌がって構えていたが、永井も諦める様子はない。むしろ、それを受け取るまではこのままだとでもいうようだ。

 湊人は浅い呼吸を保ちつつ、及び腰でドアに近づいていく。小刻みに震える手を差し伸べると、永井の手は直きに開かれて、湊人の掌になにかが落ちてくる。軽い質感に生き物を想像して鳥肌が立つ。


 恐る恐る視線を落としてみれば、そこには消しゴムとペンが寝そべっていた。


 アニメの柄が描かれた、消しゴム。自分が彼にあげたものだった。


 呆気に取られたかのようにその消しゴムとペンを見つめ、永井の方を見やる。白い手はそれでもドアを押さえたまま離れない。


「その消しゴムにさ、名前、書いてほしくって」

「……は」

「名前。日高君の。いいでしょ? それ、宝物なんだあ。もっと大切にしたいから、書いてほしい」

 湊人は汗ばんだ掌を動かせずにいた。また喉が渇いてくる。

「あ、あし、明日でも、いいじゃんか」掠れた声が乾燥しきった唇をくすぐった。

「書いてよ」


 背後で秒針の音が脈打っている。湊人はぐっと奥歯を噛み締めて、ナイフを小脇に挟んだ。人を刺せるほどの硬さが肋骨を刺激して痛かった。

 ペンを握り、そのまま名前を書こうとすれば、「カバーを外して。消しゴムに直接書いて」と口を挟まれる。喉元まで迫り上がる文句も、耳鳴りの重い倦怠感でかき消される。

 震える手で書いた名前はひどく歪で、インクのせいか文字はほとんど潰れていた。

 返さなくともよかったのに、湊人はとにかく彼に帰ってほしい一心で消しゴムとペンをそのまま病的な手に返す。その瞬間に果物ナイフが脇から滑り落ちた。カンッ、と冷たい音を立てて、それはドアの隙間まで勢いよく滑っていく。


「あっ」小さい悲鳴よりも先に湊人は慌ててナイフに手を伸ばした。永井に盗られてはまずい。

 もちろん、永井はナイフを盗ろうとはしなかった。しかし、そんな冷静な判断などできるはずもない。狼狽して伸ばした指先がナイフの刃に引っかかる。熱い温度が鋭く伝って、中指と人差し指からぷくりと赤い血が漏れ出た。

 思わぬ痛みに手が怯む。冷え切った体温を必死になって落ち着かせ、反対の手でナイフの柄を持ち上げる。

 途端に、ドアから伸びた永井の白い手が湊人の切った方の手を掴んだ。

 氷のような温度が手首に広がり、瞬間、このまま狭い隙間に、暗闇に、引き摺り込まれるんじゃないかと想像して湊人は身を引こうと足掻く。


「やめろよ。離せってば! どうして、どうして俺に構うんだよ……!」


 永井の手は、びくりともしなかった。鎖のように強く、湊人の手首を掴んでいた。それは中学生が出せる力をとっくに超えていた気がする。


「石を動かしたように見せかけた。それだけだって、言っていたけど」

 顔を上げると永井と目が合う。その頬は紅潮しているようにも見えた。

「それだけじゃなかったよね?」

「……え」

「手を、合わせてくれた。ごめんねって言ってくれた」


 湊人の中指と人差し指を湿った感触が包んだ。永井の口の中に、自分の指が咥え込まれている。指の腹に柔らかな軟体の動きが張って、それは一つの生き物のように蠢いた。

 声も出なかった。

 ただ、ただこの世のものではない感覚を味合わされ、扉一枚の境界線が曖昧になる恐ろしさに身を委ねることしかできなかった。

 ズル……、と指が舌から抜き出され、目に見えない糸が引く。指がなくなっていやしないか、焦って手を引き戻したが、中指も人差し指もきちんとそこにあった。


「ありがとう、日高君」永井が言う。「また、明日ね」


 その隙間から見えていた目は、光もない爛れた眼窩だった。

 気配も音も夢幻であったかのように息を潜める。次第に鈴虫の声が生き生きと聞こえ始め、秒針の音はずっとずっと小さく背後で息をしていた。

 一拍か、それ以上か、正気を取り戻すに充分な深呼吸を繰り返したあと、湊人はドアチェーンを外し、特攻の勢いでドアを開け放った。

 そこには閑寂とした畦道に続く道のりと、灯りの一つもない暗視の景色が一面に広がっているだけで、人の気配など微塵も残ってはいなかった。


 寒々しい風が無知に肌を冷やす。握りしめたナイフの硬さと、赤くなった掌、そして気持ち悪いほどに汗を吸収した寝巻きだけが今までの悍ましさを物語っている。


 中指と人差し指の切り傷は、最初からなにもなかったみたいにすっかり塞がっていた。



◻︎



 永井と落合はあまりにもあっけなく別れた。


 互いに未練はないようで、落合はむしろ傷になる前でよかったと安堵していたほどだった。まあ、それもそうかと思う。永井の態度は到底恋人に向けるようなものではなかったから。

 その三日後に、永井は別の生徒と付き合いだした。

 なんてひっきりなしなのだと驚いたが、それよりも注意を引いたのは相手が五十嵐だったということである。つまりは男だった。これは自分と永井だけが知っている事実であった。

 あんな夜のあとでも、湊人と永井は互いに変わらず接している。トラウマになって寝付けなくなるのではと危惧していたことも起きず、自分の神経が存外図太いことを湊人は初めて知った。永井という存在の畏怖は拭えないが、それは拭わないままでいいのかもしれない。知らなければ、平和でいられるのかもしれないのだ。得体の知れないものも、不透明なフィルター越しであれば、多少は見られる。


「日高君、今日もごめん。一緒に帰れなくて」


 五十嵐と付き合い始めてから、永井は五十嵐と帰るようになった。落合のときにはあり得なかった懇親さだ。

 湊人は椅子に肘を置いて振り返り、永井の目が人間のものであることを無意識に確認する。


「……俺に断らないでもいいよ。毎日、そんなさ、……」


 落合のときがあまりに淡白であっただけで、よく考えれば──考えずとも──恋人とともにいることは当たり前で、だからこそ恋人でもない自分に毎回断りを入れてくる永井の心情が、湊人にはまったく理解ができなかった。別に、こちらから一緒に帰ろうなんて誘ったことは一度だってないのに。


「寂しいね。でも、すぐにまた一緒に帰ろう」

「なんだそれ」


 永井の手が伸ばされて、肩が反射的に強張る。切り揃えられた爪が湊人の外ハネの髪をくすぐった。

 五十嵐と付き合っている意味はなんなのだろう。「都香砂ー」と教室の引き戸から五十嵐の声がして、やましいことなどないのに、湊人は体を引いて前を向く。

 “永井と仲がいい”というのは、クラスの中で一種のステータスになり得た。人とは違う美しさを持った人間に気に入られる、そいつと仲良くしている事実は、高級なアクセサリーになるのだ。名前で呼び合う彼らを見て、外野は、いつの間にそんなに仲良くなったんだよと羨望を交えた野次を飛ばす。

 教室を出ていく間際に、永井は振り返って湊人に手を振った。

 湊人はスクールバッグを守るように抱えて、それを無視した。

 五十嵐の視線が痛いことに、永井は気づかない。



 舗装もされていない土くれに、一人分の影が伸びる。黒いシルエットだけを見れば、今の自分のスタイルは永井より、もしくはどこのモデルよりもうつくしかった。

 その影を自分で踏みながら、手前の小石を軽く爪先で弾く。保健体育の授業をつい先週にしたばかりだった。子供がどうやって生まれ、そのために、自分たちはなにをしなくてはならないのかを。

 黄色い声を飛ばして先生に注意されていた男子生徒が何人かいたけれど、湊人は到底そんな気分にはなれなかった。あまりにグロテスクで、なんだか気持ちが悪かった。人体の中になにかを挿れるって、とんでもなく痛いことのような気がする。きっと、グネグネしていて、まるで口の中みたいに粘っこいのだ。

 中指と人差し指がむず痒くなる。男女で付き合うことと、男同士で付き合うことはなにが違う? 手を繋ぐ? キスをする? 性行為はどうするのだろう。女性のように子供を作る器官なんてない。


 器官。


 永井の体に、果たして心臓とか内臓なんてものがあるのだろうか。



「あれ、湊人君?」



 声がしてハッと前を向くと、向かい側から警官服を着た若い駐在員が自転車を引いて歩いてきていた。湊人は歩みを止めず、そのまま会釈をして通り過ぎようとしたが、その腕を駐在に捕まれる。

 毛虫が這うような寒気に振り返った。


「学校帰り? どうかな、この町に来て一年が経つよね。もう慣れたかい」


 若い、といってもおそらくは三十代後半で、この男は湊人がこの町に越してからなにかとこちらを気にかけてくれていた。親身になって話を聞いてくれたり、土地勘になれるまでは学校から家まで送迎もしてもらった。少しずつ、少しずつその頻度が増えてきて、駐在にしては過干渉だと気づいたときには彼と二人きりになることの方が怖くなった。

 なんとか送迎は断れても、狭い町ではこんなふうにしてすぐに会えてしまう。正直、あまり関わりたくない大人だった。親は親で、「これで安心ね」なんて言って聞く耳を持ってくれない。


「はい……慣れました」

「そう? また困ったことがあったら、いつでも声をかけてね。妻も、君をほんとうの子供みたいに思っているのだから」


 握られた腕に、緩やかな弾力が加わって、血圧を測るみたいに二の腕を揉み込まれる。その蠢くような感覚に吐き気を覚える。駐在夫婦に子供はおらず、彼の妻はいつも子供を欲しがっていた。

 離してくれる気配もなくて、「そういえば身長も少し伸びたんじゃないか?」と話を続けてくる。

 湊人はとにかく話題を逸らしたくて、必死に口を動かした。


「あ。あの。駐在さんに、少し訊きたいことがあって」

 制帽のツバから見える駐在の目があからさまに冴え冴えとした。

「なんだろうか。なんでも訊いてごらん」

「学校近くの鳥居の……あの積まれた石って、なにか意味があるんですか」

「石?」彼は一瞬、抜け殻みたいに虚空を見つめて、「ああ、あの石ね。あれは慰安の意味も込めてあるんだよ」

「慰安ですか」


 湊人の反応に気をよくしたのか、駐在の笑みはいやらしく深みを帯びた。その目の奥に渦巻くような力が擬集している。

 自分に向けられたこの視線の意味を、湊人は最近になってわかりかけていた。わかりけても、納得できるわけではないし、そんなはずはないという認め難い想いが交錯する。だって、自分は女の子じゃない。

 掴まれた腕に力が入って、駐在は驚くほど強引に湊人を引き寄せた。

 汗と埃くさい独特な匂いが近くに迫って、彼の息の匂いまでも感じられた。嘔吐反射をなんとか堪え、呼吸を呑むように止める。


「ここだけの話、昔にね、この町でひどい死に方をした少年がいたんだ。自殺らしいけど、自分で死ぬにしたって死に方ぐらいは選ぶものだろ? 本当に、ひどい死に様だったんだ」


 ガシャン、と自転車のストッパーがかけられ、湊人の鳩尾に新たな手が這った。ゴツゴツとして太い指、分厚い掌がシャツ越しに伝わる。動揺したくない。反応して、弱みを見せたくない。そう思っても、心臓の鼓動は皮膚を突き破って響いていた。

 駐在の手が、鳩尾から下腹にかけてヘドロのように伝う。


「鳥居のそばにある鉄道の線路、わかるかな。あのレールの上に、こう、縦に寝そべってね。その上を列車が走るわけだ。どうなると思う」

「わ……かりません」湊人は手術台に上がるようにして声を引き出した。

「ここからここまで、真っ二つ……にならずに皮一枚で繋がっていたんだよ」


 駐在の手が湊人のズボンのチャックに引っかかる。

 別の意味で悲鳴をあげたくなったが、厄介なことに、こういうときに限って声も出ない。

 しばらくは生きていたんだって。そう囁かれて、自然と永井の顔が浮かんだ。綺麗な顔が真っ赤に染まって、体中血だらけになって。それでも、彼は生きていた。


「その男の子の名前って」

「え? ああ、うーん、なんだったかな……うちにくれば、もしかすると当時の資料があったかもしれない。見たい? 俺もね、湊人君のこといろいろ知りたいよ。ところで、湊人君は精通ってしてるのかな?」


 限界だ。湊人は逃げ出すように身を捩る。腕が振り解けない。

 それどころか駐在の手は際どい場所まで下がり、骨盤をまさぐるような手の動きに呑み込まれるような恐怖が湧き出てくる。あの夜よりも遥かに恐ろしいことが起きているんだと脳が熱く揺れていた。

 声が出ない。泣きたくない。帰りたい。誰か助けてほしい。お母さん、お父さん。

 ──家は、もう目の前にあるのに。


「離してください」


 はっきりと鼓膜を打った声に、一瞬、耳を疑った。まさか、自分の肺から出た言葉なのかと思って顔を上げる。


 夕間暮れの影を背負った永井が、二人の間に立っていた。


「うわッあ!」

 素っ頓狂な悲鳴が上がって、駐在の手が離れる。後ろに止めてあった自転車が駐在の体に押され、ぬかるみの中に倒れた。この場で不動だったのは湊人だけだった。

 いつも微笑んでいた永井の表情は穴が空いたみたいにぽっかりと抜け落ちている。

「な、なんだ、君ッ、──」

「日高君のクラスメイトです。彼、怖がっているのがわからないんですか。大人がそんなふうに他人の体に触れるなんて」

「言いがかりだ。ね、湊人君、君の面倒をたくさん見てやったのは誰かわかってるよね」


「違う。いつだって嫌だった。世話なんて頼んでないし、変なふうに触ってきて、気持ち悪いことばかりしてくるじゃないか!」そんな言葉など、到底、言えやしなかった。今ここで自分自身の心を優先させたとして、その後の報復を考えてしまうと足が竦んでしまう。

 溺れかけの鯉みたいに口だけがハクハクと空気を呑む。頭から血の気が引いていく。立っているだけで精一杯だった。あの手の感触が、体に黒くこびりついている。

 動けない湊人より先に動いたのは永井だ。彼はおもむろにズボンのポケットから携帯を取り出すと、その画面を湊人には見せず、駐在にだけ向けた。ツバに遮られていても駐在の顔色がみるみる青くなっていくのが見て取れる。


 永井は湊人を庇うようにして前に立ちはだかった。整って長い手足、泳ぐように姿勢のいい背中。駐在の姿が隠れたことで、息の仕方を思い出せた。


「これ、知れたらどうなるんでしょう。この町で流言が広まるのは、水の波紋よりも早いとご存知のはずです。村八分で済めばいいですけど、これはあなたの上司にも報告される。そうしたら、この地球のどこに生きていく場所、あるんですか」


 永井の声は一本の針を通したかのように鋭く、重く、そしてそれは大人一人を追い詰めるのに充分な速度を孕んでいた。

 液体窒素の視線を受けた駐在は、座に堪えなくなったのか苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めて大きな舌打ちをこぼしながら、泥まみれの自転車を起き上がらせ、ストッパーを外して逃げ帰るようにその場を後にしていった。

 

 悪夢がまだ続いているような浮遊感に、二人分の影だけが地に伸び続けている。


「……永井、くん」


 永井はなにかを言う前に駆け寄るようにして湊人を抱き締めた。彼がどんな顔をしているのかも、抱き寄せられたおかげで確認できなかった。

 強く、強く圧迫される体に、膨張し続けていた恐怖が堰き止められる。泣き出せるような機会はもうとうに失われている。彼の背に腕を回す勇気も出ない。

 スクールバッグのショルダーを両手で握りしめ、匂いも体温もない魂だけの力強さだけを永井の腕の中で静かに感じていた。


「永井くん、どう……どうしてここに。五十嵐と帰ったんじゃなかった」

「うん。帰っただけだよ。やっぱり、日高君と帰りたいなって思ったから戻ってきた」


 涙の代わりに、場違いな笑いが込み上げてくる。本当に、どうして五十嵐と付き合ってるんだよ。

 笑った。笑ったはずなのに、唇から糸を引くのは嗚咽だった。小刻みに肩が震え、永井はそれを押さえつけようと必死なようで、言葉も少なかった。

 スクールバッグから手を離し、永井の体を押し返すと、永井は焦ったようにまた湊人を引き寄せようとした。湊人はもう一度それを拒んで、大丈夫だと伝える。彼の不安そうな表情を見るのは貴重だ。

 そんな顔ができるんだと思うと、彼が急に人間味を帯びて輪郭を描いてくる。


 ──永井くん、君も、自殺する前は誰かに抱きしめてほしかった?


 許されるような気がして、湊人は永井の手に指を滑り込ませる。案の定、永井はおっかなびっくりではあったけれど、嬉しそうに笑って湊人の手を握り返した。

 たとえば、彼が幽霊でも怨霊であっても構わない。

 もう二度と死にたいなんて思わせないよう、彼が成仏してくれるまでそばにいようと思うのだ。


 そう、思えていた。まだ、この時は。


「一緒に帰ってくれる、永井くん」

「うん、うん。帰ろうね、一緒に。大丈夫だよ、日高君、僕が隣にいるから」


 二人の先で伸びる影は寄り添いあって交わって、それはそれで、バケモノみたいだった。



◻︎



 駐在と五十嵐が行方不明になった。あれから三日後のことだった。


 捜索は一週間以上続き、今もなおその足取りは掴めていないらしい。

 その報せを聞いたとき、湊人は戦慄するよりもまず安堵を覚えてしまった。駐在がいなくなったことは、自分の中に巣食っていたがん細胞が解消されたということだからだ。

 五十嵐は、どうしたろう。そのことは極力考えないようにする。行方不明なら、きっと、どこかにいるのだろうし。

 永井は、そんなことも気にせず、次に如月と付き合った。彼女と付き合っている間も、五十嵐と同等に放課後は一緒に帰るようで、湊人は一人での下校が続く。


「ごめんね」と永井は言った。「また、すぐに一緒に帰ろうね」


 二人が見つからないまま、一週間後に如月の行方がわからなくなった。


 小規模なクラスで最初はいいスパイスだった事件の話も、少しずつ誰もが禁句とするように行方不明の話題には触れなくなっていく。

 雲がかった教室で、普通に接していられるのは永井だけだ。「おはよう」と言われれば「おはよう」と返し、少ない雑談を話す。

 彼はふとあるときに消しゴムを見せてくる。湊人の心臓も、それにはさすがに小さな悲鳴をあげていた。自分の名前の入った消しゴム。


「まだ使ってるの……」

「宝物だもん。大切に使ってるよ。ちょっとずつ減ってきちゃってるけど」

「消しにくいでしょ。それ、ノートとか汚くならない?」

「そんなの、気にしない」


 永井は湯気が燻るように笑う。歯並びのいい白い歯が唇の隙間から見えて、行方不明、行方不明という文字が頭の中で散りつく。行方不明だ。湊人はそう言い聞かせて、永井の「帰ろう」という誘いに頷いた。

 それからしばらくして、永井は高橋と恋人になった。


「お、男同士で付き合うって、どんな感じ?」


 彼が高橋と付き合って間もない頃、湊人は椅子を永井の机に寄せて、秘密を囁くようにそう訊いた。

 教室で訊くような話ではないのはわかっている。けれど、最近はまた下校がバラバラになっているから、ここでしか訊けないのだ。

 永井はきょとんと目を丸くさせて、微笑んだまま首を傾げた。


「どんなって?」

「いや、だから、なんていうのかな。なにか特別なこととかする……」


 言っていて、じわじわと耳が熱くなってくる。やはり興味本位で訊くようなことじゃなかったかもしれない。それも、こんな公の場所で。シャツについた袖口のボタンをいじりながら、不揃いに切り揃えられた爪を見つめる。

 永井の顔は見られなかった。

「とくべつ?」と空っぽの声が聞こえてくる。薄皮のような軽さだった。


「帰るだけだよ」

「こう、手を繋いだりとかしない?」

「するわけないじゃん」

「ええ、……」


 おもしろいこと言うね、と笑われたが、おかしいのは永井の方だろうとも思う。永井は、五十嵐のことも如月のことも高橋のことも、きっと好きではなかった。恋に落ちたわけでもないのに、好きですと告白し告白されて付き合った。そうして一緒に帰っている。


「じゃあ、俺と帰るときとなにか違うの」

「日高君とは、なんだって違うよ」永井はそう答えた。「僕はだって、本当のところはね、ずっと、帰りたくないなって思いながら君と帰ってるんだ。手を繋いだら離さなくちゃいけなかったでしょ。それが寂しくて、でも、日高君は帰らなくちゃいけないからさ。これ以上寂しくないようにしてるだけだ」

 教室の前の方から「永井」と高橋の声が聞こえてくる。永井は事務的に机から立ち上がって、スクールバッグを肩にかけた。

「“特別”なこと、日高君とならしてみたいよ」


 一週間後に高橋は行方をくらました。その次は水原が永井と付き合い、またその一週間後に行方がわからなくなっている。

 内輪で揉み消しあっていた事件も、こうなってくれば意味がなくなってくる。外部から派遣された警察がついにこの町へとやってきた。湊人の家にも警察が訪ねてきて、なにか知っているかという事情聴取に、なにもと答える。知らない。実際、なにが起こっているかなんて、見当もつかないのだから。


 登校も下校も、湊人は地面を見て歩くようになった。見渡す限りの不入山を目に入れたくなかった。


「大袈裟じゃない? 警察とか」


 ある日、クラスのうちの誰かがそう言った。


「殺人とかでもないわけでしょ。行方不明なんだから、普通に見つかると思うし」

「今見つかんない奴らってさ、日頃からけっこう問題ばかり起こしてただろ? 自業自得っていうか。なあ」


 一人が声をあげると、捻られた蛇口みたいにクラスのあちこちで話が咲いた。

 カーストピラミッドの上部にいたグループがすこんと抜け落ち始めて、クラスは一種の拮抗状態に陥っていた。自分は安全地帯にいると思いたいから、行方不明者の共通点や粗を無理にでも探し出して、自分は違うと遠回しに話し合うことで確認しているのだ。行方不明者にもなりたくないし、そうやって事件に巻き込まれたくもない。


「というか、あいつらって日高のこといじめてたじゃん。ねえ? 私はあれだけ止めたのにさ」


 黙りそうで黙らなかったのは、竹中という女生徒だ。彼女は行方不明になった彼らと連んでいたのにも関わらず、自分は彼らとはまったく違う気でいた。思い込みではなく、本当にそういう事実でいるようだった。

 腰まである黒髪を揺らし、短く折ったセーラー服のスカートからあふれる豊満な太腿をこれ見よがしに組む。

 何人かの女子は彼女を睥睨し、何人かの男子は目のやり場を探した。湊人も上げかけた視線を変に動かす。彼女は周囲の反応を見て、目を高揚させながら饒舌になった。


「日高をいじめてた奴ら他にもいなかったけ? ハブったりしてさあ、どの口が問題起こしてないとか言えんの? 私だけじゃん、いじめとかやめなーって言ってあげたの」


 昼休みの教室に、竹中の声は選挙期間を彷彿とさせる勢いで繰り返し反響していた。

 湊人は机の木面の模様だけを熱心に見つめ、両手を握りしめ合うことでひたすら惨めな気持ちを押し殺した。嫌味を言われているとき、あからさまな排斥を受けているとき、確かに竹中はやめなよーと声をかけてはくれたが、それは加害性を助長するための言葉だった。

 今も、声を張り上げているのは、湊人の後ろにいる永井のポイントを稼ぐためだ。あの中で彼女だけが永井と付き合えていない。

 こんなときでも、永井を疑う人間は誰一人としていないのだから、皮肉なものだ。


 不意に後ろから肩を叩かれる。竹中のわかりやすい視線が痛い。湊人は今世紀最大の憂鬱を背負って小さく振り向いた。

 目の前に、指先ぐらいの鶴の折り紙がスッと差し出される。


「見て、日高君。ツル、ほら、見て。ツル折れた。僕ね、折り紙得意なんだ。他にも折れるよ」


 湊人は机の端に置かれた小さな鶴を見て、力なく笑った。


「言ってみてよ、なにか折ってほしいものある?」そう言って笑う永井だけが、遮断された世界にいるみたいだった。

 こいつ、幽霊かもしれないんですよ。そう言いつけたところで、頭がおかしいと言われるのはこちらになるのだろう。「犬、折れる」と言ってみれば、彼はさっそく折ってくれた。平面的なものかと思っていたら、ずいぶん立体的なものを折って、それを湊人に差し出す。

 手に取った紙の感触はつるつるしていて、脆そうで、しかし確かにそこに存在している。


「すごいね」

 簡単に褒めると、永井は前髪の隙間から見える瞼を三日月型に弛めた。

「いくらでも折ってあげるよ。日高君のためにならさ」


 三日後に、永井は竹中と付き合いだした。


◻︎



 一週間、二週間が経つ。竹中は今日も健在で毎日のように永井の隣にいた。


 最長記録だ。と、思わず感心して、それから、どうしてどうにもなってくれないんだろうと聞こえない蛹の中に思う。五十嵐よりも如月よりも水原よりも、どうにかなるなら一番にいなくなったっていいような人間だったはずだ。竹中は駐在となんら変わりないほどの有毒性を孕んでいる。

 そんな泥のような感情が、ここ二週間は湊人の脳を蚕食していた。いじめがどうので行方不明者が増えているなら、どうして彼女だけが許されているのだろう?

 学校では永井と目を合わせることも難しくなっていった。醜悪な思考が露呈してしまうんじゃないか、という不安より、目を合わせたら、途端に永井を睨んで「竹中みたいなやつが好きなの?」と「じゃあ、お前、死んじまえよ」と今に引き金を引いてしまいそうだったからだ。


 チャイムが鳴って、それぞれが席を立つ。最前列の席に座っている竹中は一目散に立ち上がって、永井の元にやってくる。


「じゃあ、また明日ね、日高君」


 永井の笑っている唇。組まれた腕。もう二週間も彼らは一緒だ。


「……またね。永井くん、竹中、さん」


 直きに泡となりそうな下手くそな笑みを力ませて、理解のある友達を取り繕った。

 スクールバッグのヨレたショルダーを食い込むぐらいに握り締める。永井は、別に幽霊でもなんでもなかったのかもしれない。あの夜の出来事も半分くらいは夢をみていたのかもしれないし、人間じゃないように見えた目もやはり結局はただの気のせいだったのだ。彼は健全なただの中学生なのだろう。そう思うと、湊人の中で永井という存在は急速に輝きを失っていくようであった。

 なんだ。自分は、特別な存在のではなかったんだ。

 幽霊だなんだと、今更恥ずかしくなってくる。

 永井たちが教室から出ていったのを横目で見届けると、湊人も席を立った。ふと、永井の机に妙な出っ張りがあるように感じられて、それをそっと確認する。


 体操袋が引っかかったままだった。

 

 給食着や体操服はきちんと持って帰るようにという母親の言葉がくわんとリフレインした。これ、永井は怒られてしまわないか、と無条件に胸がざわつく。

 届けてやる義理はない。でも、届けてやれば永井と二人きりで話ができる口実にもなるかもしれない。

 湊人は意味もなく周囲を警戒して、誰の目もないことを確信すると永井の体操袋を机のフックから取り上げた。


 盗むわけでもないのだし、悪いことはなにもしていない。なにも、していない。



 永井の家は担任に聞けばすぐに教えてもらえた。湊人の家とは真逆の方向で、かつて彼が指していた方角でもなんでもない。家、ちゃんとあるんじゃん、とあの日の彼を悍ましく疑っていた自分がますます惨めにそして痛々しく思えた。

 多少は広い畦道を歩いて、住宅地に入る。かわいい色の屋根だとか、みかんの木が植えてある家屋だとかが賑やかに湊人を迎え入れる。このあたりは引越してきた当日に散策しただけで、それ以外で通ることは滅多にない。郵便ポストが見えてくると、そこを左に曲がった。

 学校からここまでまでかなりの距離がある。夕方の瞼がそろそろ落ちそうになっていた。歩き続けていると、建物も少しずつ物置小屋のような黴臭いグラデーションに変化していく。

 進めば進むほど、自信がなくなってくる。本当にこの道であっているのか?


 外国かぶれの別荘のような家が増えてきた。しかし、どれも蔦や放置された雑草が屋根や壁にべったり張りついて、とても機能できるとは思えない有様だ。その中で、ようやくまだ小綺麗な一軒家を見つけると、湊人は足の疲労を叱咤してなりふり構わず駆け寄っていった。表札には『永井』と綴られている。

 脱力するぐらいの安堵が押し寄せてきて、この時間なら彼も帰ってきているだろうと項垂れかけた肩を無理に引き上げる。


 体操袋を確認し、インターホンを見る。この町にきて、初めて他人の家に訪ねた。永井に悪態をつかないでいてよかった。関係は良好のまま、彼の親に挨拶できる。

 インターホンを押そうとするが指先になかなか力が入らない。何度か深呼吸を繰り返し、五度目に息を吐いたところでボタンを強く押した。

 ビーッ! と警告音のようなざらついた音が建物に響き渡り、湊人は半歩後ろに下がって営業マンのように手を前に組んで姿勢を正した。


 柵の外から落ち着いてその洋館のような外観を眺めてみると、窓に灯りはなにも点いていないことがわかる。


 もしかして、外出しているのか? 徒労という言葉がチラついて、焦燥感が助走をつけ始める。ここまできたのに。家主が出てくる気配もあまり見受けられない。体操袋の紐を握り直し、あと三十秒待って誰も出なかったから、もう帰ろうと思った。虚しさをグッと堪えて、胸中で数え始める。


 ……十、……二十、──


 ガチャ、とドアノブが回される。


 それに顔を上げ、湊人は息を呑んだ。まるで亡霊のようにすっかり窶れた一人の女性が、背を丸めながらドアにしがみついている。


 歳は四十代半ばぐらいかと思うが、そう思い込むのは自分の母親を基準にして考えているからだ。母親という先入観を抜けば、その女は齢六十、それ以上にも窺えた。黄ばんだワンピースに、何ヶ月も洗っていないようなザンバラの白髪混じりの髪、窪んだ目やコケた頬にはシミや皺が枯れ木のように爛れている。心なしか饐えた匂いが鼻につく。

 それでいて目だけは妙にけざやかで、それが余計に女を奇矯者たらしめていた。

 女はドアから外には出ようとしない。柵と家の玄関までは少しの距離がある。これでは体操袋を手渡せなかった。

 湊人は唇を舐めて、「あ、あの」と喉に力を入れた。


「お、俺っ、永井くんのクラスメイト……えと、友達の日高って言います。体操袋を忘れていたみたいなので、届けに来ました、……」


 女はうわごとのように口をもごもご動かして「永井……永井……」と小刻みに呟いている。

 陽は暮れ始めて、気温が著しく下がっていく。もうすぐ十八時は過ぎるだろうに、永井はまだ帰宅していないように見える。そもそも、永井都香砂の自宅なのだろうか、ここは。

 湊人は怖気立つ指先を握り込み、声をできる限り張り上げた。


「ここ! 永井都香砂くんのご自宅で、あってますか!」


 女の目の色が狂った秒針のように上向く。


「都香砂はいないって、言ってるでしょぉぉおおおッッ!!」


 黒板をフォークの先端で引っ掻くような金切り声が、鼓膜を劈いた。

 頭を殴られたみたいに目をキツく瞑り、薄く瞼を開くと、女は這いつくばるようにしてドアから出て足を絡れさせながらこちらまで走ってくる。

 今すぐにでも人を殺めそうな形相が目前にまで迫り、後ろへ下がろうとして踵がつんのめる。湊人は尾骶骨から地面に転んだ。その瞬間に、ガシャン!と柵が大きく悲鳴を上げる。


「いい加減に、いい加減にしなさいよ!! あの子はいない! 見つからないって言ったのはアンタたちじゃないのぉおッ!!」


 土石流のような怒鳴り声で裂けた口から、粘着質な唾が飛ぶ。激昂したその目はどこを見ているのかもわからず、ただ、ただ、鮮やかな薬を飲んだみたいな強迫が女の体を揺さぶっていた。

 なにを言われているのか、さっぱりわからなかった。永井がいないなんて、そんなことはない。彼はクラスにいて、自分と話し、折り紙だって折れていた。今は、竹中と付き合っている。

 目の前で頭を振り乱す女を見上げて、湊人の中で恐怖より怒りが膨張し始める。

 永井はいる。存在しているのに、どうしてそんなことを言うのだろう。

 湊人は両手をついて、もたげるように起き上がった。


「永井くんはちゃんといます! デタラメなことを言っているのはそっちじゃないですか。永井くんは今日だって竹原さんと一緒に帰っているし、俺とだって毎日会っています!」


 掌に食い込ませた爪の痛みでも、声の震えを抑えることはできなかった。

 女はそれに食いつくようにしてさらにしゃがれた声を荒げる。「じゃあどうして帰ってこないのよッ!!」


「冷やかしなら帰って! こんな、こんな町に引っ越してこなければ、だってェ……あの子は」

 聞く耳を持たない女に、苛立ちとこれまでの鬱憤が衝突し合う。湊人は乱暴に息を吸って、女の元に体操袋を突き出した。

「これ、永井くんのじゃないんですか。そんなに疑うなら放課後にでも学校で待っていればいいのに、変なこと言わないでください!」


 涙や鼻水や唾液で汚れた女の顔が上がる。怨恨を凝縮したような目の色に、湊人は少しばかりたじろいだ。が、女の方は体操袋を見た途端、取り上げられた赤子を取り返すような勢いでそれをひったくった。

「都香砂……都香砂……」と今度は放心したように何度も彼の名前を呟く。声を軋ませて体操袋を見下ろす姿は、追いやられた老婆のようで、湊人はまた無意識に後ろへ下がった。

 乾燥してひび割れた唇に、赤い筋ができている。女はその口をしきりに動かして言葉を編んでいた。


「引っ越してきた日に……あの子……いなくなって、どれだけ探してもいなくって……警察に言っても大して探そうともしてくれないし、この町の住民は余所者に無関心で……都香砂……お母さん、ずっと待ってるのよ」


 脳裏に永井の微笑んだ顔が明滅する。細まった瞼、形のいい白い歯。目、あの、黒い目。

 もう、永井はいるんだとは言えなくなっていた。

 触れられもするし、彼はきっと幽霊でもないと思うのに、湊人はこの母親になんて声をかけたらいいのか、なにも思い浮かばない。

 暗くなっていく空だけが一日を強制的に終わらせていくようだった。地面に横たわったスクールバッグを手に取って、割ってはいけなかった花瓶の残骸を前にするのと同じく、じりじりと後退る。


「……永井くん、連れてきます。その、明日にでも、必ず」


 そうとだけ言い残して、湊人は一目散にその場から踵を返した。

 過ぎ去っていく景色に、とにかく思考を止めて駆け出す。途中で永井に会えたらと願ったが、学校が近くなってきても永井どころか自分の学校の生徒とは誰一人すれ違わなかった。

 肺が潰れるように躍動し、呼吸も痛いほど上がる。羽虫が額や頬に打つかり、そこで初めて涙が込み上げてきた。


 見知った赤い鳥居が見えてくる。そこで足を止め、湊人は膝に手をついて、はーッ、はーッと体内の血液で息をした。汗が全身から吹き出し、五臓六腑に真っ赤な溶岩がぐつぐつと煮立っている。口元に張り付く髪を粗雑に拭いながら上半身を起こした。走ってきた道を振り返り、夜空の下にある黙ったままの暗がりを見渡す。

 ヨバリ町については、引っ越す前に十全に調べたつもりだった。自分がこれから住まう土地について調べるのは、行きたくないと親にプレゼンするか否かにおいて最も重要なことだ。SNSを漁り、町の伝承みたいなものがあるかも調べ、事件などにもひととおり目を通した。しかし、そういったいわくは見つからなかった。

 なにも見つからなかったのは、この町が都合の悪いことをすべて隠しているからなのだろう。

  

 足元に視線を移すと、鳥居の台石に十の石が崩れず積み重なっているのが見えた。大小形の違う石っころが糸を通したように歪にバランスを保っている。五十嵐灯、如月遥、高橋あきら、水原歩、竹中美恵……。それは湊人が彼らに呼び出されたときとなんら変わりない姿だった。

 湊人はその石に少しずつ近づいていく。

 屈んで石をよく観察してみると、石の模様かと思っていたものがそうでなかったことに気づく。スクールバッグの中から簡易な子供携帯を取り出し、光源生んだ。舐めるような動きでブルーライトが地面と石を照らす


 十人分の誰かの名前が、積まれた一つ一つの石に小さく刻まれていた。


 下にある石の名前はすっかり掠れていて読めないが、上に積まれた石の文字はまだ消えていない。崩さないよう慎重になりながら、一番上の石を覗き込む。


 林春一


 『ここだけの話、昔にね、この町でひどい死に方をした少年がいたんだ。自殺らしいけど、自分で死ぬにしたって死に方ぐらいは選ぶものだろ? 本当に、ひどい死に様だったんだ』


 忘れてしまいたかった駐在の声が警笛のように反響する。

 どくどく、どくどくと心臓が重たくなっていく。携帯の光を切った。永井の顔を想像しようとしても、突然、その細部がモヤがかったようになる。

 永井都香砂という名前は石のどこにもなかった。


 ──あの永井という人間は、本当に“永井都香砂”なのか?


 考えたくもない思考が片隅に顔を出す。湊人はそれを見ないようにして暗い夜道を戻った。赤い屋根はここからでも確認できる。

 明日。明日、永井に聞こう。そうして、母親の元に連れて行こう。

 それで、すべてがわかる。あるいは、終わるのだ。



◻︎



 終わる、はずだった。



 その日は、音楽の授業でリコーダーを使った。

 体操袋と同じようにリコーダーも必ず持って帰らなければならない。これは校則で決められたことだった。破ると、なぜか反省文を書かせられる。よくわからない校則だが、学校には往々にして七不思議のような決まりが最低でも一つは存在しているのだ。

 そして、そういう日に限って、湊人の頭の中には永井と話をすることだけしか入っていなかった。

 朝に「おはよう」と言った永井に不自然なところはない。湊人の方が挙動不審になって挨拶を返せなかったほどだ。授業もそぞろで、とにかく今日だけは何としても彼と帰らねばならない、たったそれだけが湊人の意識を我が物にしていた。


 長いホームルームが終わり、下校のチャイムが鳴る。


 湊人はすぐに後ろを振り向いた。

 永井の姿はどこにもなかった。


 一瞬、世界が白く覆われた。湊人は開きそうになった口を閉じ、彼がまだ帰っていない可能性を慌てて探す。バッグは置いてある。トイレに行ったのかもしれない。焦ったい心地だけが湊人の脚を浮き上がらせる。竹中もまだ教室にいた。

 じっと待っているとどこかがおかしくなってしまいそうな気がして、湊人は自分から竹中の元に足を運んでいった。


「竹中さん」

 キツいまなじりが睨みを効かせるようにしてこちらに向けられる。

「は? なに」

「永井がどこに行ったのか知らない?」

「都香砂くん? ああ、ええとね」


 妙な間があった。逡巡するような、もったいぶるような含みのある沈黙で、竹中はわざとらしく目を泳がせる。その頬はわずかに紅潮していた。


「ごめぇん、知らないやあ」

 挑発的な言い方も、今の湊人にとっては瑣末なことだった。

「帰りは、二人一緒で帰る? 今日は違う?」

「都香砂くん次第かなあ。彼、なんだかね、寂しがりやみたいだから」


 今度こそ目眩がした。目を覚ましたような瞋恚が湊人の体温を急激に上げて、踏み締めた床板を軋ませる。爪先は竹中の方を向いていた。

 しかし、それはほんの数秒間ほどの暴発で、湊人は彼女の長い髪を掴むことすらできない。気圧の激しい感情に、ほとほと疲れていた。

 待つしかない。

 湊人は自分の席に座り、だらんと腕を垂らしてスクールバッグの開きかけのチャックを眺めた。それぐらいしか、時間の潰し方がわからなかった。本なんて持ってきていないし、折り紙が折れるわけでもない。携帯の使用も学校では校則違反になる。

 少しずつ人が捌けていく教室を眺めた。いつか、教室が空っぽになるまで──あるいは町に人がいなくなるまで──行方不明者は増え続けるのだろうか。違う、そうじゃないと信じたい。なにもかも偶然なのだと。非現実的な事実などどこにもない。


 時間だけが過ぎていく。



 声をかけられるだろうと思ってうたた寝から目を覚ましたときには、すでに十七時を回っていた。


 寝坊したときのような焦燥が胸を衝き、後ろを見て、バッグがなくなっていることに気づく。クラスには誰もおらず、竹中の姿も見当たらなかった。

 傾きかけた夕陽が窓から薄く溢れている。机の影が伸びている。置いていかれたことより、一緒に帰れなかったことより、永井から声をかけられなかったことに愕然とした。

 

 あの母親に永井の友達ですと言った言葉が急に見当違いのように思えて、蒼白とどうしようもない孤独感が視界を歪める。

 永井がここに転校してきてからこんなものばかり味合わされる。いや、そもそも、最初からこの町はおかしかった。


 湊人はスクールバッグを肩にかけ、席を立つ。──帰ろう。

 帰って、両親に伝えよう。もう、この町にはいられない、と。なにを言われても東京に帰ろう。

 虚ろな歩幅で教室のドアを半端に閉めた。東京に帰るんだと決心したとき、心が救われた気がした。


 リコーダーを置いてきたことに気づいたのは、学校から出てすぐだ。


 ああ、いけない。ぼんやりし始めていた頭を無理に働かせて、来た道を戻る。上履きに履き替えるのだけが面倒だけれど、取りに行くためだと言い聞かせて廊下に出た。


 階段を上り、二階の廊下に出る。短く並ぶ放課後の教室には誰もいない。



 誰もいないはずと思っていた教室に、永井と竹中がいた。



 引き戸の隙間から焦げた色が漏れている。

「ああ、永井くんと竹中さんだ」とうっかり飲み込めてしまうぐらいには、驚いていた。疲労で擦り切っていた感情が最後のエンジンをかけ始める。

 野晒しにされた蝋燭のような二人の蠢きは、おおよそ、中学生が許される行為の範疇を超えている気がした。少年漫画の付属品みたいなキスとは違う。粘液のついた動物の交わりだった。

 保健体育で習うことは、命の尊さであって、こんなグロテスクな行為ではないはずだ。それなのに目が離せなかったのは、竹中の嬌声や白い肌を見ていたいからでも、彼らの行為の行く末を観察していたいからでもなんでもなかった。


 はだけたシャツに、永井の薄い腹があらわになる。


 その腹部、鳩尾から臍にかけて、ヒビのような亀裂が入る瞬間を見た。目を疑ってマバタキを落としたが、瞼を開けるたびに腹の亀裂はもっと確かで、もっと深いものになっていく。

 永井が竹中の首筋に唇を押し付ける。甘い刺激に犯されている竹中は、永井の腹中に気づかない。

 獲物を抱擁する蜘蛛のように、そこに愛情なんてものは存在していなかった。瞼を上げた永井の目は、黒く黒く澱んでいる。白い輝きはどこにもない。

 彼女の体をうつ伏せに組み敷くようにして机に押し付ける。「ねえ、優しくしてよ」という非難にも満たない声が聞こえてくる。


「あっ」と竹中と湊人の声がそれぞれ別の意味で被さった。


 亀裂の進んだ永井の腹部から、皮膚が、筋肉が、骨が、ばっくりと突き出る。


 肋骨は蟹の足みたいに口を開けて、そこから血液が涎のようにダラダラ垂れていた。真っ赤な血が彼らの足元にあるスクールバッグを汚している。

 今、目の前で広がっている光景が、現実のものと思えない。

 逃げなくては。ここから一刻も早く立ち去らなければ。そう思うのに、足は廊下に縫い付けられたままだ。鋭利な六本の骨が大きく開いていく。

 それはまるでトラバサミのような勢いだった。

 ぽきんとあっけない音がして、竹中の上半身を永井の腹部から伸びた骨が食い破った。なにが起こったのかも、本人にはわからなかったろう。竹中の腕が糸の切れた人形のようにだらんと重力に従う。飛び出た肋骨が胸に収納されていくと、それと同時に彼女の体も咀嚼されて歪な角度に曲がっていく。


 残るのは、跡形もない静寂だけだ。


 ──動け、動け、動けッ!


 ようやく、足が廊下から離れる。

 湊人は躓きながら──あの痩せ衰えた母親のように──這いつくばってでも廊下を、階段を、駆け降りた。上履きのまま校庭に出て、正門まで一直線に走る。この調子なら、去年の体育祭ではリレーのアンカーにだって選ばれただろう。

 運動不足の体のどこにそんな体力があるんだと自分でも驚嘆するほど、長く、長く、がむしゃらに走れた。前だけを向く。後ろなど、到底振り返れる気にはなれなかった。

 もし、彼がこちらに気がついていて、家にまで押しかけられたら。湊人は遠回りするように鳥居のある道を選んだ。

 視界の端を通り過ぎていく昨日と同じ光景が、歪んだ既視感として芽生える。前後左右不覚のままでいたせいか、鳥居を横切る間際になにかを強く蹴飛ばして、湊人は盛大に転んでしまった。


「うう、ッ」と体を打った衝撃に唸りながら肘をついて上半身を起こす。掌がひどく痛んだ。膝にも、出血を予感させる痛みがこもっている。

 手のそばに、平たい石が転がっていた。

 その石には掠れた名前が書かれている。血の気が引くような衝動で後ろを振り返ると、積まれていたはずの石があちらこちらに散開していた。


 やってしまった。


 風船に穴が空いたように気道が細くなる。けれど、この石に守られていたものはとうに灰燼と帰しているに違いないのだ。今やただの石ころ同然だ。

 とにかく、もっと遠くへ逃げなければ。安心を獲得できるまで、歩みを止めてはならない。湊人はずきんと疼く痛みを堪えて膝を奮い立たせた。


 ──あともう少し。家に着いたら鍵を閉め、窓も閉め切る。夜に部屋から出ない。それから、それから、……


 前を向く。



「日高君」



 一メートルほど先に、微笑んだままの永井が立っていた。


 体内の絶叫が喉を通りかけて、空気と一緒に押し戻される。力んだ体は金縛りにでもあったみたいに動かなくなった。

 学校は湊人の背後にある。先に外へ出たのもこちらで、学校の出入り口は正門の一つしかない。どう頑張ったって自分より早く先回りなんて出来っこなかったはずだ。滂沱の汗をかいている湊人とは違い、永井の顔には汗一つ、血液一つ流れてはいなかった。


 影は斜めに伸び、永井の顔半分が黒い影で覆われる。

 一歩、二歩、こっそり駄菓子を持ってきた子供みたいに体を左右に揺らしながら、彼は湊人に近づいた。その頬があからんで、人間の目を模した瞳が熱に潤んでいることを知る。

 永井の片手には湊人の靴とリコーダーが握られていた。


「リコーダーと靴、忘れてる」

 カラカラに乾いた喉に唾を通す。喉の奥がへばりつくような違和感に、唇も水分をすぐに吸収してしまう。

 湊人は死にかけの声をふり絞った。

「……り、がとう……」

「お礼を言わなくちゃいけないのは、僕の方だよ」

 永井は嬉しそうに前髪の下で目を細めた。

「体操袋、届けに来てくれたでしょ」


 と胸を衝かれたように永井を真正面位に見る。──いたのか、あの場に。


「……見てたんならちゃんと受け取れよ。永井くんのお母さん、泣いてたのわかってたんならどうして!」

「まさか。見てないし、あの場に僕はいなかった」

「それはどういう、……」

「どうってさ」


 永井は自分の頬に掌を当てがい、絹の肌に爪を食い込ませた。食い込んだ爪に引っ張られて、下瞼がわずかにめくれる。薄ピンクにてらつく結膜が、夢を見るようにひくひく震えていた。


「日高君がどこにいて、なにをしているのか。僕にはね、いつでも、わかっちゃうんだァ」


 酸素が薄くなる。永井のシャツは規則正しく第一ボタンまで閉められ、そこに惨憺たる余韻はどこにもない。パカッと開いた肋骨、本来開くことのない皮膚、筋肉、内臓、そこに人が喰われていった。

 彼の砂利を踏み躙る爪先が近づく。頭痛が頭の奥で細く唸り始めていた。落ち着け、落ち着け、そう言い聞かせて、湊人は唾を固く飲んだ。


「俺にGPSでもつけてるの」

「ジーピーエス? なにそれ」

 永井の細まった目から嘘は感じられない。

 話の方向を変える。

「永井くん、どうして家に帰らないんだよ。お母さん、あんなに心配してたのに」

「あの母親に会えることはできるけど、家の中には入れないな」

 “あの母親”というまるで他人行儀な言葉に、胸がざわつく。

「どう、どうして」

「だって、日高君はあの家に入っていないから」

「……は?」


 自分があの家に入っていないことと、彼が家に帰れないのではいったいどんな関係があるというのだろう。

 永井の爪先が転がっていた石を無関心に蹴飛ばす。それは湊人の足元まで転がってきた。林春一と綴られた石だった。


「僕は日高君と繋がっているから、日高君が行ったところじゃないと入れないし行けないんだよ。ここ周辺の地域は日高君、引っ越したてのときに回っているよね。案外、お散歩好きなんだなって」

「繋がってるって……まさか、あの消しゴム」

「消しゴム?」

 永井は一度だけ足を止め、眉を上げながら斜め上を見上げた。それから「ああ!」と声をこぼし、無邪気に湊人のリコーダーと靴を両腕に抱えた。

「あれはまたちょっと違うものだよ。単純に日高君との思い出がほしかったんだ。そうじゃなくてさ、繋がってるのは」


 パンッ! と永井の掌が合わさる。


「こう、してくれたでしょ? ここで」


 胸に蟠っていた疑念が錆びた音を立てて確信へと変わっていく。

 永井は湊人の目の前まで来ると、ようやく足を止めた。

 二人分の影が蝶番の錆びたドアのように後ろへと流れる。湊人は信じがたい気持ちで口を震わせた。


「……お前は、誰だ」

「“永井都香砂”だよ」

「それは、その“体”がっていう話だろ」


 永井の目からすーっと感情が消えていく。やがて、軽い息を吐くと、永井は湊人のスクールバッグに手を伸ばして勝手にそのチャックを開け始めた。思わず身を引こうとするが、彼はその中に湊人のリコーダーを戻しただけだった。

 伏せた睫毛から、諦念が見て取れる。逃げ出したがる心臓を堪えて、湊人は永井の目を見続けた。


「……誰っていうのは、一概に言えないなあ。なにせ、こんなにいるから」そう言って、永井は周囲に散らばった十の石を一瞥した。

「この町で起こった不都合な事件はすべてなかったことにされる。それによって死んだ人も、いなかったものにされる。弔うことなんてされない。誰かが偲んでくれることもない。日高君は、そのことにもう、気づいているよね」


 永井は湊人の足元にしゃがみ込み、靴をそばに置いた。


「集団的な暴行や傷害も、強姦も、ぜんぶが隠される。」


 湊人の破れた膝を見て、永井は「膝、服と一緒に擦り剥けてる。かわいそうに、痛かったろうに」とほんとうに眉を下げて心配そうにする。

 彼のつむじを見下ろすと、頬から汗が伝った。

 膝は、そのとおり痛みを訴えていた。


「俺は、もしかすると、お前が林春一なんじゃないかって、……」

「間違ってはいないよ。もう、僕だけの想いじゃないけど、一番に思想が強かったのは“僕”だったから」


 永井の指先がそばで転がっている石を小突く。ツヤのある石は誰に手入れをされていなくとも、新しいままだ。彼は話を続けた。


「打撃を与えたかった。この町に、踏み躙った人たちに、少しでも罪悪を植え付けて、少しでも、僕を弔ってくれたら。それだけでよかった。他の九人がどんな死に方をしたのかはわからないけど、みんな、誰かに弔われたかったのは同じなんだ」

「……あ」


 手を合わせる、誰かを偲ぶ。湊人は自分のした行いの意味を──彼らにとってのその意味を──ようやく理解した。

 擦れた膝に、永井の手指が触れる。沁みるような痛みが走り、踵が下がった。それを阻止するように、あるいは縋るようにして、永井は湊人の膝裏に腕を回した。

 嫌悪しろ。湊人はそう自分の感情に言い聞かせる。この期に及んで、永井に触れられることを嫌がっていない自分がいたのだ。

 それを知ってか、知らずか、永井は彼の膝に頬を擦り寄せた。


「日高君が初めてだったんだ。『ごめんね』って謝ってくれた。手を合わせて、悪いことなんてしてないのに、巻き込まれただけなのに……ずっと、ずっとほしかったものを日高君がくれたんだ」

 湊人は正気を探して、奮然と永井の腕を蹴り払う。

「永井都香砂は。彼は、本物の彼はどこにやったんだよ」

「……僕が“永井くん”じゃいけないの」


 泥のような声が下から手を伸ばす。こちらを見上げた彼の目が一瞬だけ黒に染まっているように見えて、しかし、現実はまだそこまでに至っていなかった。

 喉の奥が引き攣った。強気に出てしまった言葉を悔やんで、湊人は冤罪のように目を泳がせた。

 永井は彼のそんな様子を見て、少しばかり慌てたように「あ、ごめんね」と呟く。


「そりゃ、気になるか。だって、ずっと“永井都香砂”として日高君のそばにいたわけだし」


 湊人は辛抱強く口を閉じた。この場合、言葉で押すより、沈黙で促した方が効果的だと今さっきの問答で学んだ。なにも言わない湊人を見上げたまま、永井の笑みが薄れていく。ダメか、と誤魔化しきれない現実を憂うように肩を落としたあと、彼は吊られるようにして体を起き上がらせる。


「“永井都香砂”は、もういないよ」


 母親のあの悲痛な声が湊人の中で再生される。──ああ。連れてくると言ってしまった。後戻りできない嘘へと変わってしまった事実に、湊人は瞼を瞑った。


「……いないって、いうのは」

「死んだってこと。本当は、この町の誰かでもよかったんだけどさ。彼がここに越してきたときには、さすがに運命かと思っちゃった。まっさらな状態、万全な状況で日高君と一緒になれたんだから」

「殺したんだろ」

「そうかな。そうとも言うのかも」


 彼を連れて行ってもそれは永井都香砂ではない。針を飲むような心地だった。彼が永井都香砂のフリをしたとしても、母親にはきっとわかってしまう。

 細長い息を唇から吐いて、顔の筋肉を少しずつ抜かしていく。

 なんの罪悪感もない声に、殴りかかったってよかった。むしろ、そうすべきだったのかもしれない。「なんてことをするんだ」と「罪を償え」「お前なんか消えてしまえ」糾弾はいくらでも思いつく。

 手汗に濡れ、掌の擦り傷から滲む血を収縮させるように握り込んだ。何度も、何度も。そこに怒りが芽生えることはなかった。

 彼が竹中といつまでも一緒にいたときの方がよほど腹立たしかったように思う。湊人は、ふ、ふ、と息を短く繰り返して、自分の善悪がいつの間にか曖昧になっていることに気づく。


「……もう少し、しらばっくれるかと、思ってた」

「僕だってまだあと少し“永井都香砂”でいたかったけど。その……ほら、見られちゃったから」


 永井の声は含羞を帯びていた。それに初めてゾッとする。

 焼け爛れた影に光る、血、皮膚、筋肉、骨。どれも目の裏で鮮明に輝いている。


「どうして、殺したんだ」声を振り絞る。「永井都香砂も竹中さんも……他の人たちも、ぜんぶ、お前が」

「どうしてって……」


 永井の顔が前を向く。


 恍惚に弧を描いた瞼の奥は、光沢のない黒だった。


「日高君の一番になりたいから」


 なにを言われたのか、瞬時には飲み込めなかった。

 湊人が言葉を失っていると、永井は思春期の女子会でも開いていたかのように急に破顔して、長めの前髪をいそいそと指先で目元に掻き寄せる。

 交尾相手を探すトンボが永井の背後で飛び回っていた。


「言っちゃった。なんだか恥ずかしいねっ、こういうの」永井の口は止まらない。「かけっこの一番と違ってさ、誰かの一番ってどうしても難しいんだよ」

 湊人はやっとの思いで唾液を飲んだ。「別に、なにも殺さなくたって……」

「思ったのだけど、僕はやっぱり殺しなんかしてないんだ」彼は湊人の言葉に被せてそう言った。

 驚愕に目を見開いて、湊人は永井の顔を見る。

 今更、なにを言っているんだと思う。教室で見たあの光景は決して嘘ではなかった。

「十人の賞賛よりたった一人の誹謗中傷で命を断つ人がいる。たとえば僕がどれだけ日高君に尽くしたとしても、この地球上に日高君をいじめてた奴らや嫌なことをしてきた奴がいたら、日高君は僕じゃなくって、そっちを気にしちゃうわけだ。そんなのってあんまりだ、理不尽だよ、僕はもう一度自殺なんてしたくないし、それで日高君の一番になれるとは思えない」



 だから、いなくなってもらった。僕は悪性の腫瘍を取り除いた。それだけのことなんだ。



 永井の目に、人間の眼球が侵食するように戻ってくる。彼はいじくっていた前髪から指を離すと、おもむろにその手を自分の第一ボタンへとかけた。

 ──その服の下になにがあるかを知っている。

 湊人の右足が後ろに大きく跳ねた。それは彼が最後に捻り出せる瞬発的な防衛本能であり、“永井”という執着から逃れられる最後のチャンスだった。


「帰らないで。待って、日高君」

 永井に腕を掴まれる。まだ、“まだ”振り解ける力だ。

 こんな得体の知れないバケモノと一緒にいたらいけない。良いことなんて一つもない。普通には戻れなくなる。わかっているのにどうして振り解けない。

 二人の影が蝋のようにもつれる。

 教室で見た、はだけたシャツとか細い嬌声。そのどれもに興味はなかった。ただ、湊人の興奮を一心に掻き立てていたのは、


「ねえ、僕ら、やっと特別になれるよ」


 人間ではない、永井の存在だった。


 一つ、二つ、世界が変わるような緩慢さで外されていくボタン。肌の下。平たい腹部がシャツの隙間から露わになる。

 未発達な白い肌に、細い亀裂が臍から鳩尾にかけて浮かび上がった。縫い付けられたみたいに視線が外せなくなる。パリ、パリ、と蛹からなにかが羽化するかのように亀裂の入った皮膚が裂けていく。赤い境い目に覗くのは、暗赤色の血液、粘着質な繊維、内臓のない黒い空洞。夕焼けの光が滑って彼の中身を照らす。


 腕を振り解く気は──最初から──起きなかった。


 どちらともつかない吐息が怯えたように、しかし獣じみた高揚をまとって上下する。

 湊人の腕を掴んでいた永井の手が、腕の輪郭を辿って手元に這った。そのまま湊人の手を握ると、彼は自分の裂け目へと誘い込んだ。低い体温に肌が粟立つ。


「あ、あ……い、いやだ」恐怖か興奮か、震えた声が漏れた。

 目の奥がひどく痛む。瞼の奥、そして上から、水中に飛び込んだようなひずみが溢れてくる。

「だいじょうぶ。大丈夫だよ、誰にも言ったりなんかしない。僕だって恥ずかしいし……これは、僕と日高君だけの特別だ」


 膿んだ気色の肋骨が、永井の腹部からゆっくり開く。彼の頬は上気し、目は水墨を落としたみたいに揺れていた。

 指先の感覚がなくなっていく。その指が、彼の空洞の中に触れた。背筋に黒い積乱雲が立ち上る。だらだら垂れる血液が手の甲を汚し、ひき肉に触れたような感触がグチリと指先から伝わった。──ここにたくさんの人たちが飲み込まれていった。

 なんのために? 彼が、自分の一番になりたいがために。

 半開きになった口を閉じる。乾いた喉に唾を押し込むと、下瞼から涙が溢れて視界がクリアになる。


 永井の口から陶酔した吐息が溢れ、瞼がひくつく。その目はまるで欲情した天使みたいに悍ましく、この世のものではない美しさと湛えていた。


 どこで呼吸をしているのかもわからないのに、指先に触れている肉感は彼の息で腸のように蠕動する。永井のナカに、手が沈んでいく。不可侵の向こう側はよく見えない。

 もう少しで心臓に触れられる気がした。湊人のシャツは背中の肌がくっきり見えるほど、汗に濡れ、衣服としての機能を放棄し始めている。

 さりげなく指先を動かしてみると、すぐに永井がくすぐったそうに笑い出す。湊人の全身に怖気と興奮の入り混じった血液が走り出す。


「ご、ごめっ、……」

「いいよ。僕の心臓はもう少し上」そう言うや否や、永井は湊人の手を上に誘導した。「ここ。ここに触れて」


 上向けた指の腹に、打つような脈動があった。柔らかく、少しでも爪を食い込ませたら破裂してしまいそうな弾力が脈打っている。冷え切っていた指先は真っ赤に熱くなっていった。

 体温が上昇し、頭に爆発寸前の情緒が暴れ出す。目眩を覚えると、鼻の奥から下になにかが垂れる触感がした。それを鼻血だと知ったのは、唇の隙間に鉄臭い匂いが侵入してきたからだ。

 湊人がそれを拭おうとすれば、それよりも早く永井の顔が近づいた。猫が互いに毛づくろいするような動作で、永井は湊人の鼻血を舌で掬い取った。「ウ、」と体が強張る。


 湿った呼吸が鼻先をくすぐる。永井の唇に、舌に赤い血液が泳いでいた。ケミカルな脳に思考が回らなくなっていく。飛び回る無数のトンボの目だけが二人を無尽に映し込む。

 過呼吸に近い呼吸を繰り返しながら身を捩るも、永井の開いた肋骨は──竹中を飲み込んだときと同じく──すっかり湊人の体を覆おうとしていた。

 食べられる。喰べられる。

 永井の手が湊人の手から離れ、今度は肩に両腕が回される。


「日高君、ぎゅってしてもいい……」

「たべ、食べるの。俺のこと」

「そんなこと、どうして? これからはさ、こうやってお別れしようよ。親友同士だけの挨拶っていうの、やってみたかったんだ」

 アイアンメイデンの硬さと重さで、永井の腕と肋骨が湊人を囲い込む。

 二つの影が重なって、一つの黒い塊になった。じわ、とシャツに血が染み付く。不思議と鼻につく匂いは香らない。つまりは、気持ち悪いと思えなかった。


 ──認めざるを得ない。


 認めざるを得ない。永井という常軌を逸した存在に“選ばれた”こと。自分が“安全地帯”にいること。誰かに好かれる、誰かという点においてこの先彼を超えるものは現れないだろうという、その汚く膨張した優越が自分の心を占めていること。

 誰が死のうと、誰が悲しもうと、本当のところ、彼が自分を選んでくれているならそれ以外の事象はどうだっていいこと。


 湊人は永井の胸の中で身を丸くさせた。それから、目を閉じる。


「ね、僕は日高君の一番になれたかな?」

 息を吸う。指先にはまだ彼の心臓の感触が残っている。永井が声をこぼすたびに、彼の腕と肋骨が湊人の体を締めた。嬉々とした声だった。少女のような、少年のような。彼の声にやるせなくなった。

 一番にはしてやれない。彼の願いは叶えてやれない。

 万が一にも、永井を成仏させてやることなどもうできなくなってしまったのだ。少なくとも、今は。

「……どうかな」湊人は言った。「ずっと一緒にいてくれるなら、なれるかも」


「じゃあ、ずっと、ずっと一緒にいようね」


 約束だよ。


 石を片付けることはしなかった。その代わり、彼が持ってきてくれた靴に履き替え、手を繋いで家まで帰った。涙、止まらないね、と言われて初めてとめどなく頬を流れる透明な血液を知る。


 悲しくない、怖くもない、それでも静かに流れ続ける涙は、永井に拭われてようやく止まった。



◻︎



 赤く汚れたシャツを、親の目に留まらないようにこっそり洗う。そんな日々が中学卒業まで続いた。


 クラスで湊人を馬鹿にするものはいなくなり、永井は変わらず一目を置かれている。永井とは毎日のように下校を共にし、別れ際にあの特別な挨拶をして家に戻るのを繰り返す。

 永井の母親とは、あれから会えていない。会いに行かなかったというのもある。


「永井くんさ、お母さんには一応会いに行こうよ」と何度目かに言い放ったとき、一切の感情が永井の顔から削がれた。

「日高君は、そればかりが気掛かりなんだ。きっと僕があの母親に会ったら会ったで、今度は一緒に暮らしてやってくれないかなって思い始める。そうだろ? あれの悲しむ顔を見たくないって母親の顔がチラつくんだな。どうだろう。ねえ、日高君の一番上に、今は誰がいる?」


 促すことはもうやめた。そうすることで、永井の母親が無事でいられるならある程度の罪悪感は飲み込めた。

 この頃になると、湊人は彼と共にいるということの重要性をようやっと自覚し始めたのだった。

 誰がいなくなっても、とは思っているけれど、もちろんいなくなってほしくない人たちはいる。両親や自分に優しく、よくしてくれた人、そして無害な人たち。

 永井に嘘は通用しない。

 たとえ「俺の一番はお前じゃないよ」と言ったとしても、それが戯言であると永井はわかった上で「そっかあ」と笑っているのだ。紙一重の危うさなのだと湊人は言葉に気をつけるようになった。嘘で「俺の一番はお前だよ」とは言えない。


 それさえ守れば、すべてがうまくいった。



 氷のような水の温度に、指の感覚が鈍くなる。風呂場で血のついたシャツを洗っていると、自分がたいそうなことをしてしまったような気になって、どうにも落ち着かなかった。

 しかし、このシャツを洗う作業も今日で最後かと思うとなんだか空っ風が吹くようでもある。


「東京に帰ることになったんだ」


 卒業式の二週間前に、湊人は永井にそう告げた。

 永井は二瞬ほど目を丸くさせていたが、マバタキの間で瞼を伏せ「うん、わかってた」と呟いた。


「ついてくる?」

「ダメかも」


 行けない、でも、行きたかった、でもない“ダメ”という返答はそれ以上にない説得力があった。湊人は「そっか」と返して、見慣れた畦道を眺める。

 もう少し寂しくなったり、悲しくなったりするものかと思っていたが、湊人の体のどこにも寂寞とした感慨は見当たらなかった。それに安堵もする。

 終わりだ。この名前のない関係も、悍ましい約束事も、グロテスクな挨拶も、なにもかもまっさらに戻る。あるべきところに戻るのだ。普通の学生に戻る。


 永井は、珍しく俯いて地面ばかりを見ていた。


「……くん」

「えっ」永井の顔が勢いよく上がる。


 今まで一度だって呼んだことのない昔の、彼の名前だったものは、口に馴染むまで時間がかかりそうだった。馴染ませる必要もなくなった今、関係のないことでもある。


「“永井”くんも“林”くんも、きちんと俺の一番だったよ。そりゃ、最初は怖かったけど、でも、この町でここまでやってこれたのは林くんがいてくれたおかげだ」


 ありがとう。


 赤い屋根が見えてくる。

 いつもどおりの分岐点で足を止めると、永井はシャツのボタンには手をかけず、そのまま両腕を広げて湊人に向かい合った。

 真っ直ぐに梳いた黒髪、氷柱でも通ったみたいに姿勢のいい背筋。スラリと伸びた手足に、整然と美しいその顔。そこには“永井都香砂”ではなくかつての“誰かが”立っていた。

 湊人はゆっくり腕を伸ばし、その抱擁に応える。


「元気でいて、日高君」

「うん」

「忘れないで、僕がいつだって日高君の一番だよ」

「もちろん」


 この言葉に嘘はない。

 永井の体に体温を感じたのは、この日が最初で最後だった。



 シャツはさっぱり綺麗に洗われていた。血の落とし方も手慣れたものだ。こんな技術もよほどのことがない限り使うこともなくなる。せいぜい、鼻血が服に落ちても必要以上に慌てずに済むことぐらいだろう。

 湊人は浅く笑って、漂白剤を引越し用ダンボールに戻した。


 顔を上げると時計の針は深夜三時を差している。玄関の方に視線を寄せ、音が鳴るのを待った。……無音。腰を上げて寝室へと足を向ける。明日の朝に残りの荷物を送ってしまって、あとはさよならだ。



 この町を発つ前、最後に彼となにを話したのか、それだけがどうしても思い出せない。



◻︎



 慣れるまで、毎日、なんとなく具合が悪かった。


 三年間も澄んだ空気に洗われた体は、東京の空気を悉く拒絶した。副流煙を一身に受けているような気分になる。肺や自律神経が有害な空気だと声を上げる。


 湊人は東京の都立高校を受験し、多少の努力で第一志望に入学することが叶った。まっさらな状態で初めた高校生活は意外にも順調に湊人を迎え入れた。余所者扱いをされることもなく、それどころか中学校での話題は周囲から注目を浴びる大きな種にもなった。孤立もせず、友達もできて、優しい女の子とも出会える。

 都会には設備の整ったカラオケもあり、洒脱な服屋もあり、流行をおさえたカフェもあって、友達と遊びに行くのにはなんら困らない都市だ。

 高校での一年間はあの町での出来事が幻だったかのように楽しく、夢中に過ごせた。やはり、自分には田舎よりこうした都会の方が肌に合っている。調子はすっかり元に戻っていた。


 “普通”に戻れる気がした。


 高校二年に上がり、クラス替えはあったもののそれも大して影響を及ぼすものではなかった。広い教室、広い黒板、空調の効いた快適な教室。

 おはようと声をかけられるたびに安心する。それにおはようと返しながら、湊人は自分の席に座った。

 真ん中の列、その、最後尾。

 机の上にスクールバッグを置き、ブレザーの裾を少し整える。あともう十分もすればチャイムが鳴る。


「おはよう湊人」


 前の席に座る深山が振り返った。爛々と輝く目と口は、今になにか一大ニュースを滑らそうとしていた。


「おはよう、深山くん」

「湊人の中学ってさ、確か、ヨバリ町っていうところだったよな」


 他人の口からあの町の名前を聞くのは、どうにも胸がざわついた。プライバシーに土足で踏み入れられたかのような忌避感が背筋を撫でていく。

 湊人は努力して笑みを作った。


「そうだけど、……」

「その町、今朝ニュースになってたぞ」

「ニュース」

「なんでも、死体が見つかったとかで」


 明確な音を立てて遠くなっていく鼓膜の中で、サーッと血の気が引いていく。脳裏には何人かの名前と顔が浮かんでいた。悟られるな、悟られるな、そう言い聞かせながら全身に力を入れ、演技経験もないのに不自然にならない反応を必死で探した。


「あ、へえ、それは知らなかった……誰? 若いの? 身元とかわかってるの」

 深山の目はより得意そうに輝きを増した。「若い若い。十六だってさ。なんでも山の中で見つかったらしいけど、死体の損傷が激しかったみたいで」

「名前は?」

 間髪入れない語尾に、深山の勢いがほんのわずかに削がれる。湊人はもう一度言い直した。

「名前とか、公表された?」

「ああ、ええと。確か」


 目の奥が痛い。忘れかけていたあの声が脳内で漣のように戻ってこようとしている。


「永井都香砂とかいってた気がする」


 湊人の体から力が抜けていく。席についていたことが不幸中の幸いだったろう。これで立っていたら、意識を保っていられる自信など寸毫もなかった。

「そっか」という人の死に対してあまりに薄情な感想が漏れる。ずっと待っている、そう言っていた母親の小さな体がまざまざと瞼の裏に想起される。死体が見つかっただけでも、よかった。


 ──永井くん、最期に俺の願いを聞いてくれたのかな。母親に、会いに行きなよって。永井都香砂の体を返してくれたんだ。


「それでさあ! その死体、中身がなんにもなかったらしいんだよ!」


 懐旧に視線を落とした湊人の姿に構いもせず、深山の口は止まらなかった。彼はこうした怪奇事件や未解決事件、不可解に血生臭い話をしだすと周りが見えなくなる傾向にある。

 湊人の視線が上がる。「……なにもって?」


「なんか、ばっくり腹が裂けてて、心臓以外の臓器がなんにもなかったらしい。野生動物の仕業じゃないかって見解みたいだけど、そんなふうに食い荒らす動物っている? 熊だってもう少し色々食い漁るだろ。腐ってたわけでもなかったってさ」

「そうなんだ」


 口の中が日照りのように乾いていく。今すぐにこの話題をやめてほしかった。唇の端に力が入って、笑みが歪になっていく。湊人は頬杖をつくかたちで口元をさりげなく掌で覆った。


「あと、肋骨が普通の人間とは違う形状をしてたらしくって。死因もイマイチはっきりしてないって。イヤア、な。お前が死体になってなくてよかったよ。まじでさ。ヨバリ町ってけっこうやばい町なんじゃねっ?」


 バシバシと友好的に背中を叩かれる。一方的に喋って欲求は満たされたのだろう、深山は笑いながら違うクラスメイトに声をかけて前を向いた。

 背中に叩かれた余韻が広がっている。永井は死んだ。“永井”は? 彼の中にいたあいつも諸共死んだのではないか。そのはずだ。そのはず────



「日高君」



 ドクン、と心臓が一際大きな音を立てた。


 日高君。ひだかくん──背後から聞こえてきた声の抑揚が、耳にこびりつく。

 ──そんなはずはない。だって、“彼”は死んだ。万が一でも、あの町からは出られないはずだ。そんなはずはない。

 じわりと背筋に身に覚えのある汗が滲む。この高校で永井の話を自分から出したことはなかった。裏を返せば、永井の話だけは表に出さなかったのだ。あれは、終わった話だから。

 夕焼けに光る血の感触。粘着質な繊維、鼓動の蠢動、黒い目、空洞、肋骨、あの──高揚感。

 ふ、ふ、と小さく息を整える。湊人は心臓を縮めて、勢いよく振り向いた。


「わっ、どうしたの日高君、そんな青い顔をして」


 今どきの緩やかにカーブがかった黒髪を揺らす女生徒が、大きな目をさらに一回りほど大きくしてそこにいた。


「は……畠中さん」茫然と声が漏れる。


 畠中は裏でも表でも話の中心にいるような女子だった。ほんのりと化粧をした瓜実顔はクラスの男子から「可愛い」と称され、膝上のプリーツスカートから伸びる生足は他の女子の僻みを買いそうなほど細く引き締まっている。

 湊人が彼女と話せるようになったのは、たまたま、一年の終わりに席が隣同士だったことで、それが二年に上がった今も引き続いているといったふうである。

 特別な好意はないが、彼女から特別な嫌悪も感じていない。それがどんなに嬉しかったことか。

 湊人はホッと胸を撫で下ろして「ごめん」と口をこぼした。


「なんでもないんだ。なにかあった?」

「ああ、ううん。大したことじゃないんだけどね。転校生がこのクラスに入るかもしれないんだって、知ってた?」

「転校生?」

 軽く反芻した言葉が、自分の中でどろりと重さを持って滴る。

 それに見て見ぬふりをした。

「いや……知らないけど」

「私もさっき知ったの! 先生が話しているのをうっかり聞いてね」


 畠中の手が湊人の座っている椅子の背もたれを握る。前屈みになると、畠中の開いたブレザーの下にあるシャツに皺が寄って、その柔らかそうな胸の動きも誇張される。湊人は視線を落として彼女の手指を見た。体温が冷えていく。


「中途半端な時期じゃない? 体育祭が終わって、クラスがまとまってきた頃に転校生だなんて。六月だよ? もうすぐ夏休みにもなるのにね。どんな子なんだろう。私、仲良くなれるかな」

「……なれるよ」妙な沈黙をあけてしまったことを自覚し、湊人はいそいで言い直した。「畠中さんなら、誰とだって仲良くなれる」

「そう?」

「問題は俺だよ。俺は、どうかな……仲良く、なれると、いいんだけど、──」


 湊人の頬を畠中が両手で包み込んだ。温かい温度に驚いて、湊人は瞼をしばたかせた。彼女の丸く潤んだ目が視界いっぱいに広がる。


「日高君は優しいもん。大丈夫だよ!」


 湊人は貝のように首を窄めながら、「ありがとう」と呟いた。頬と耳だけに熱が集中する。畠中はそれを見て嬉しそうに湊人から手を離し、にっこり笑った。慈愛の笑み、もしくは自己愛の笑みだった。


「ああ、それと、これ。日高君のじゃない? 鞄から落ちてたよ」


 畠中はブレザーの胸ポケットから折り紙を湊人に差し出した。犬の折り紙、あの日、自分が永井にリクエストした折り紙が畠中の手の中で眠っていた。

 ヘリウムを吸い込んだ風船のように思考がかけ離れていく。湊人は体だけを動かして、その折り紙を手に取った。つるつるした感触が記憶を刺激する。


「……ありがとう」

「日高君、折り紙上手だね。今度、私にも教えてよ」


 気が向いたら、と答える。──違う。違う。折り紙なんて折れない。これは“彼”が折ったものだ。だがこれをいつ、自分は持って帰っていたのだろう。なんだって鞄の中に……。

 なにも知らずに馬鹿みたいに笑う畠中の能天気さが、今だけはひどく醜く見えた。


「もし、転校生が困っていたら、二人で助けてあげようね!」


 チャイムが鳴る。


 それじゃあ、と手を振って畠中は自分の席へ戻っていった。最前列の席、中学校では竹中が座っていた位置とよく似ている。

 熱があることを予感するように胸騒ぎが神経を襲う。視線をもう一度背後に寄せると、そこには昨日まではなかったはずの空の机があった。

 とん、と横から肩を叩かれる。「うわっ」と思わず知らず声が出た。隣の席の青崎がびっくりしたように眉を潜める。


「なんだよ、人を幽霊みたいに」

「あ、ご、ごめん」

「まあ、いいけど。なあ、それよりさ、さっき畠中となにを話してたんだよ? お前らデキてんの?」

 今はそれどころじゃないんだよ。

 湊人は前頭葉あたりで回答を考えながら、両手の指を何度も握り直した。それによって守られる心はないというのに。

「まさか。畠中さんは一年の頃からのよしみで俺を気にかけてくれてるだけだ」口から出る言葉は誰に向けている? こんな、言い訳じみた言葉を、なんのために。

「ふうん。それにしちゃ、距離も近ぇし、なんだか怪しいけどな。やめとけよお、日高。畠中を彼女なんかにしたら、お前、生きて高校卒業できねえよ。わかんだろ?」

「もちろん、わかってるさ」


 青崎の揶揄うような声も、今では悪魔の嘲笑に聞こえる。


 扉が唐突に開き、湊人の肝を冷やす。音の一つにも肩が跳ねた。大柄な担任が威勢よく教室に入り、彼は子供にサプライズを明かす直前の父親みたいなしたり顔で生徒を見渡す。いかにも熱血な担任は声も動作もなにもかもがうるさい。


「おはよう。えー、今日はな。このクラスに転校生が入ってくることになった。みんな、いいか、他のクラスはきちんとホームルームを始めてる。なにせ、特別なことが起きるのはこのクラスだけなんだ。あんまり大声を出さず、だが拍手で迎えるように!」


 何人かの生徒が勿体ぶった担任の抑揚に笑う。そうでない生徒もソワソワと体を揺らしていた。

 視線を上げられない。湊人は祈るように指を組んだ。食い込んだ爪が手の甲に半三日月型の跡を残す。それでも、彼の心臓は血管を外から押し出さんばかりに肋骨を打ち続ける。指先にはあの感覚が呼び起こされていた。


 ドクン、ドクンと脈打つ、自分しか知らない不可侵領域。


「じゃ、入りなさい」


 扉が再度、開かれる。

 

 湊人は断頭台を見上げる心地で顔を上げた。


 上履きの爪先が整備された教室の床を踏み締める。

 姿勢のいい背筋、成長痛の壮絶さを物語るように流れた手足。催眠術でもかけられたみたいに誰もがその人物から目を離せずにいた。このクラスに如実なカーストなどはなかったが、今、この瞬間で男子のカーストは彼が頂点に立ったと思わせる引力があった。

 襟足をカットして段をつけたストレートの黒髪、前髪は瞼の上で清潔に整えられている。身長はゆうに180は超えているだろう。それなのに、体の輪郭ときたら筋骨隆々とせずティーンの瑞々しさを存分に残したままだった。その服の下の肌が白いことを──白い? そんな、馬鹿なことはない──容易に想像させる。


 しばらく俯いていた転校生が顔を上げた。瞼を鬱蒼と細め、夜を見回る灯台のように教室を見渡す。


「……“トウキョウ”の東高から転校してきました。林夏香です。よく女の名前みたいって言われてしまうのですが、僕はこの名前、気に入っています。みんなと仲良くできたらいいなと思っているので、これからよろしくお願いします」


 演奏を終えたあとのような喝采と拍手が教室に湧き起こる。

 その中で、湊人だけが拍手に混ざれずにいた。


「じゃあ、林にはこの真ん中の列、日高の後……最後尾の机に座ってもらおうな」

「はい」


 ギシ、ギシ、とありもしない足音が鼓膜に近づいてくる。湊人は意識的に下を向きながら、どうか、どうか、間違いでありますようにと何度も胸中で祈った。すぐ目の前まで、彼の脚が近づいてきている。斜め前、そして、真横。

 林と名乗った青年は不意に湊人の横でしゃがみ込んだ。心臓が膨張していく。頭の中で脈拍が聞こえる。


 彼は、直きに起き上がると湊人の机に一つの消しゴムを置いた。


 なんのカバーも消費されてもいない、まっさらな白い消しゴムが手元に転がってくる。湊人にはそれだけで充分だった。──充分すぎる確信だった。

 白い手指が、机の端に乗っている。


「これ、落ちてたよ」


 視界が揺れる。声質も名前も違うのに、あの町でのすべての光景がに重なる。

 喘息になりそうなか細い呼吸で、口を動かした。


「……俺の消しゴムじゃないかも」

「そうなの? でも、君のかもしれないよ」彼の声が近くなる。影が机に被さった。「名前、書いておいたら?」


 湊人は視線を上げた。


「日高君」


 そこに“林夏香”という人間はどこにも見当たらない。

 どこにも。


「元気そうで、よかったァ、……」



 黒い目を細めて笑う、永井だけがそこにいた。




 拍手は延々と鳴り止まないまま、驟雨のように劈いたまま。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さなぎのうか 雪無 @snow_noname00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ