大学日本拳法とイスラム教 V.2.1
@MasatoHiraguri
第1話 イスラム教の祈りとは
私はイスラム教徒ではないし宗教の専門家でもありません。
しかし、ここ3ヶ月間ほどの間に、街で見かけたり話をしたイスラム教徒や、近くのモスク(イスラム教寺院)を訪問して彼らの祈りを見学し、話をした体験から、(40年前の)大学日本拳法経験者として、私なりのイスラム教の理解を得ました。
① イスラム教徒とは「神=絶対というもの」を強く志向する人たちである。
(この極めて強い絶対指向・確実性の追求が、イスラム教世界における哲学・医学・天文学・数学・地理学などの発達を促し、「それは近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店」という事実は、多く物の本(学問的な本)にも書かれていることです。
② 彼らイスラム教徒の崇拝する「神」とは、いわば、悠久の昔から絶対に動かない太陽や、その周りを運行している地球や月のような「永久に・絶対に、間違いのない時間と空間における規則性・確実性」のこと。
③ そして、そういう絶対的な規則性・確実性を追求する(祈りの行為)とは、自分(たち)自身もまた、超がつくくらい真面目になる・真剣になる、ということ。
だからこそ、彼らはその真剣さを維持していくために、日に5回もの「祈りの時間=自分にリマインドさせる機会」を作り、実行するのです。
「神を崇拝する・神を恐れおののく・神に縋(すが)る」という、一般に私たちが思い浮かべる神への祈りではなく、神(天体の運行)のように、絶対に正しい結果を導き出せる自分になるために、自分で自分に気合いを入れる。
時間と空間における絶対的な規律・規則の象徴としての神(彼らはアラーと呼ぶ)を鏡として、自分の心・意志・精神をそれと同期させようとする。それが彼らの祈り(五体投地)です。
** 五体投地とは仏教の言葉ですが、イスラム教徒のそれも同じです。両膝・両肘・額を地につけて、尊者・仏像などを拝すること。最高の礼法。
→ 五体を擲(なげう)ち・ひれ伏して祈るというスタイルは、完全に自分を無防備な状態にすることであり、仏教のようなのんびりした宗教とちがい、戦いの宗教であるイスラム教でこれを行うというのは、祈る相手が神という完全無欠の存在であるからこそ、できることです。**
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私たち大学日本拳法人が、試合(団体戦)の前に円陣を組み「(絶対に)勝つぞ、勝つぞ、○○!」と大きな声で気勢を上げるのと同じく、イスラム教徒は毎日5回の祈りの場で「絶対に嘘や不正に打ち克つぞ、神に即した正しい生き方をするぞ!」と、自分自身を諭し・鼓舞している。自分で自分にエールを送る行為こそが彼らの祈りなのです。
3分間という試合が開始されれば、私たち大学日本拳法人はコンマ1秒単位で無限に変化(移動)する敵と自分との関数において、絶対にこれしかないという一点をそれぞれが求め合う。そして、その究極の一点を再現性のある方程式にする為(確実性を求め)、何度もその攻撃パターンを(日々の練習で)繰り返し練習している。
彼らイスラム教徒の(五体投地という)祈りとは、そういう正当性・確実性・再現性を自分の中に見出そう・実行していこうという、いわば科学的思惟であり、それを行動として現実化するための「きっかけ」といえるでしょう。
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