第2話 「寸止め」ではないイスラム教
格闘技或いは武道(各種空手・少林寺)における寸止めというスタイルと異なり、(防具をつけて)現実に相手を思いっきりぶん殴る、真の真剣勝負を味わうことができるのが日本拳法。
イスラム教もまた、殴ったつもり・祈ったつもりの「寸止め宗教」と異なり、全身全霊を込めて祈る「真剣勝負の宗教」という点で、仏教などとは全く違う次元の宗教です。
仏教では、崇拝・礼拝する対象が(偶像化・象徴化された仏像や観音様、大仏や仏舎利といった、現実に目に見えるものとして存在するがために、それだけで安心し、(イスラム教ほど)真剣に祈ることができない。
また、意味不明・曖昧模糊としたお経を(とにかく正座して足の痛みに耐えながら)5分でも20分でも読んでいれば、それだけで「仏教やってる」という気になるものだが、それはバーチャル・リアリティー(コンピューターの作り出す仮想の空間を現実であるかのように知覚させること。)という仮想現の実感でしかない。
(意味不明の)お経の言葉(呪文)・木魚の音・線香の匂い・チンという鉦(かね)の音・足の痛み。そういった、大道具・小道具、バックグラウンドミュージック(お経)によって、いわば状況証拠を作り上げている。
(イスラム教の真剣な祈りに比べ)仏教における祈りとは、警察や検察が得意とする冤罪(事件)と同じで、真実ではない虚構、実体のない・人の手によってそういう気持ちになるように仕向けられた行為です。
この意味で、仏教とは「寸止めの宗教」といえるでしょう。
イスラム教のモスクには、仏像も仏殿も、鉦も木魚も線香もない。演出装置が何もない、大学日本拳法の道場と同じシンプルさ。イスラム教徒にとって祈りの場とは、大学日本拳法の道場と同じで真剣勝負という戦いの場なのです。
続く
2024年10月7日
V.1.1
平栗雅人
大学日本拳法とイスラム教 V.1.1 @MasatoHiraguri
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