バベルの塔、ノアの方舟

@Kinoshitataiti

忘れられた約束


「は? 塔?」


 友人の言葉に、思わず惚けた声を出してしまった。

 昼下がり、それぞれの仕事の休憩時間にそれぞれ持ちよった固いパンを齧っていた筈なのに、友人であるバベルは唐突にそんなことを言い出した。


「そうさ! バカでっかい塔を作るんだ!」


「バカ言うなよ、どうやって作るつもりだ。偉人にでもなって作ってもらうのか?」


「ノア、お前は夢が無いな。同じ志を持つ奴らを集めるんだよ! 誰がリーダーとかそう言うんじゃなくて、皆で作ったでかい塔を後世に残すんだ!」


「そんなもん建てたって何の意味もないだろ。お前はあの教会建てた人の名前知ってるのか? お前の塔だって、そう言うオブジェとして残っていくだけだよ」


「……なら、教会よりもっと大きい塔を作ってやるよ!」


 バベルは立ち上がると、人差し指を大きく天に向かって突き出した。


「天を突く程のでかい塔を! 絶対作ってやる!」


 何を馬鹿げた事を言い出すのだろうか。


「そんなもん、作れるかよ。神様にでも頼むのか?」


「ノア~、お前はもっと夢を見た方が良いぞ。夢って言うのは生きる活力だ!」


 目をキラキラとさせて太陽の様な笑みを浮かべるバベルをどこか冷めた目で見つめる。


「俺は別に……」


 こうやってパンを齧って、適当にのんびりと暮らせればそれで良い。

 バベルの様に大きな夢はない。両親と同じように、教会で祈りを捧げながら小麦を作って一生を終えるだろう。


「ノア、一緒にやってやろうぜ。俺は石を切り出して塔の材料を作るからよ、お前は集まった人たちにパンを焼いて渡すんだ!」


「俺は小麦は作ってるけどパンは焼けないぞ?」


「今から出来る様になれば良いだろ! 叔母さんに習えよ! あの人のパンは絶品だ!」


「叔母さんのパンなんて固いだけだろ……」


 そんなこと言うなよ!とケラケラ笑うバベルに釣られて、俺も思わず笑みを溢してしまう。


「考えとく、でもそうなったら、塔には俺の名前も刻んでくれよ?」


「固いパン職人としてか?」


「固いは余計だ!」


 大声を張り上げた俺は、一瞬、バベルと顔を見合わせる。そして、どちらともなく声を上げて笑い始めた。

 石工のバベルと、農家の俺。

 バベルは村の反対側に住んでいるが、近い年の子供がバベルしか居なかった事もあって、俺たちは毎日の様に一緒に遊んでいた。

 最も、二人とも仕事を放る訳にもいかず、遊べるのは1日の内のほんの少しだったが……。

 それでも、俺たちは親友と呼べるほど仲が良かった。




 そして、それは20年経った今も変わらない。

 ドン!とバベルがジョッキを酒場の机に叩きつけ、う~。と情けない呻き声を上げる。

 バベルは石工として逞しく育っており、立派な顎髭を蓄え、日々の過酷な労働によって培われた筋肉が衣服の隙間から見え隠れしている。

 俺も大人になってそれなりに筋肉が着いた筈だが、鍛え方の違いか体質なのか、俺はそこまで太くなれなかった。


「おいおい、大の大人がそんな情けない声を出すなよ。もう酔ったのか?」


「おめーは殆ど酒飲まねーだろーがよー」


 赤くなった顔を上げて、バベルは大きくため息をつく。


「キリスト教では泥酔しちゃダメって教えがあるからね」


「またそれか。お前位だぞ、そのお堅い考えを続けてんのは。まだ教会に行ってんのか」


「勿論、バベルだって子供の頃は来てただろう? また来てくれたって良いんだよ?」


 優しく微笑みかけるが、バベルは、けっ。と俺の微笑みを一蹴する。


「バカ言え、そんなとこに行く暇なんてねーよ。村の反対側じゃねぇか。仕事が忙しくて行けたもんじゃない」


 チャプチャプとジョッキを回しながら、バベルは鬱陶しそうに目を細める。

 俺の勧誘にうんざりしているのだろう。

 だからと言って俺がそれを止める訳ではないと分かっているのか、直接文句は言ってこない。


「確かに、最近忙しそうだな。何をしてるんだ?」


 話題を切り替えようとそう言うと、バベルは少し気まずそうに口をモゴモゴさせてから語り始めた。


「あー……まぁ、もう良いか。王都の方でよ、居住地を増やすらしいんだ。寂れた教会を潰して、より人が住める様にするらしい」


「教会を潰す!?」


 ガタッ!と思わず立ち上がってしまった。

 教会とはキリスト教のシンボルだ。それを潰す等神を裏切るに等しい。

 幾ら使わないからとそんなこと……。


「仕方ねぇよ。そこはもう誰も寄り付かなくなって蜘蛛の巣が張ってたんだ。お前はショックを受けるだろうから、黙ってたんだけどよ……」


「いや、すまない。少し取り乱した。そうだな、新しく住む場所を作るのも大事だ。王都は発展してるしな」


「あぁ! 凄い所だぜ! 仕事で呼ばれて初めて行ったが、ありゃ見事なもんだ! 特にあの城! どんな奴が作ったか是非お目にかかりたいもんだ」


 キラキラと目を輝かせて、バベルはいつもの太陽の様な笑顔を見せる。

 王都とはそんなに素晴らしい所なのだろうか。

 田舎の農家である俺には、一生理解出来そうにない。


「そうだ! ノア! 今度一緒に来るか?」


「え? 王都にか?」


「別に数日家を開けたって問題ねーだろ? 今は冬だし、特に作物も植えてねー筈だ」


「それは、そうだが……」


 別に冬だからと完全に暇なわけではない。


「何日も留守にする訳にはいかないな。母さんももう年だ」


「ん、そうか……まぁ、良いさ。次行くときは土産でも買ってきてやるよ」


「わざわざ要らないよ。王都だからって大したものは無いだろうし」


「はっ、お前昔は俺が彫った下手くそな石像一つで大喜びしてたじゃねぇか」


 鼻で笑われて、思わず耳が赤くなる。


「あれは誕生日プレゼントだから喜んだだけで……! 別にそんな……!」


「あはは! そんなに動揺する事ねーだろ!」


 バベルは大笑いしてジョッキの中身を飲み干すと、おもむろに立ち上がった。


「ってことで、明日には王都に向けて出発するからよ。お前も頑張れよ、神父様」


「一言余計だ」


 ケラケラと笑って、バベルは酒場を去っていく。

 俺は別に神父でも何でもないのだが、未だに教会に行っている俺をからかっているのだろう。

 しかし、俺からすれば行かない奴の気が知れない。

 さっきの教会を潰すと言う話もそうだ。

 一体、皆は信仰心をどこへ置いてきてしまったのだろうか。

 少し苛立ちながら帰路に着き、家の扉を開けると、部屋の奥から弱々しい声が聞こえてきた。


「お帰りなさい、ノア」


 母はベッドに横になったまた、顔だけをこちらに向けて話しかけてくる。


「ただいま、母さん。調子はどう?」


「今日は大分良いわ。神様のお陰ね」


 ふふふ。と淑やかに笑って、母は穏やかに息を吐く。


「あぁ、それなら良かった。明日は納屋の掃除をするけど……」


「ごめんなさいね。貴方に任せるわ」


 いつもよりゆっくりとした口調。

 これは本当に申し訳なく思ってる時に出る母の癖だ。

 まぁ、癖が分からずとも、母の声音や表情からそんなことは十分察せられる訳だが。


「いや、大丈夫だよ。父さんが居ないから、俺がしっかりしなきゃだもんな」


 父は数年前、恐らくこの世を去っている。

 恐らくと言うのは、山に行ったっきり行方不明になったからだ。しかし、数年も帰ってこないのなら死んだも同然だ。

 母は父の空いた穴を埋めようと粉骨砕身し、とうとう参ってしまった。

 結局畑を縮小し、俺一人で管理できる範囲に絞って小麦を作っている。


「ごめんなさいね……」


 またゆっくりとした口調。

 母は母なりに責任を感じているのだろう。

 もう一度、大丈夫だよ。と声をかけてから、俺は自室に戻る。

 自室は実にシンプルな作りだ。

 部屋にあるのは聖書が置かれた机とボロボロのベッド、そして空の棚。

 棚の上には下手くそな石像がちょこんと乗っていて、その横に一つのメッセージカードが添えられている。

 メッセージカードをそっと持ち上げると、その中心に書かれている汚い字が月明かりに浮かび上がる。


 "いつも一緒"


「ふっ。子供騙しだな」


 石像は所々歪んでいるが、かろうじて人の形をしている。

 バベルが自分をモデルに作った物らしいが、とてもじゃないが似ていない。


「中々会えないからこれを俺を思えとか……いや、残してる俺も大概か」


 自嘲気味に笑って、メッセージカードをそっと石像の横に置き直した。

 ベッドに潜って、ぼんやりと明日の予定を考える。


ーー明日は朝、教会に行って、そして納屋の……あぁ、バベルが王都に行く日を聞いてなかったな。見送り位はしてやりたい……。


 そこまで思い浮かべたところで、俺はスッ。と眠りに落ちた。



 次の日の早朝、家の隙間から吹き込む冷たい風で目が覚める。

 冬は他の季節に比べて余裕があるとはいえ、この寒さのせいであまり好きにはなれない。

 何とか身を起こしベッドから出て、石像を一瞥してから母の寝室へ向かう。

 母を揺り起こし、朝食を作り、二人で食べてから母に肩を貸して一緒に教会へ赴く。これが俺のルーティンだった。


「母さん、朝だよ……?」


 俺は目の前の光景が一瞬、理解出来なかった。

 ダランと天井からぶら下がった手足、その下にあるのは母が愛用している父が作った年季の入った椅子。

 "それ"が着ている服が昨晩母が着ていた物と同じと理解したところで、俺は腹からせり上がってきた胃液を吐き出した。


「うおぇぇええええ……ケホッ、ウガゥ……!」


 口減らし、と言う風習がある。

 役に立たない赤ん坊やお年寄りを殺し、一人当たりの取り分を増やすという、何とも非人道的な風習だ。


 見たことがない訳ではない。

 もう行く年端もない老人が、"自ら"山に消えるのは良くあることだ。

 手に終えない赤ん坊が、教会に遺棄されているのを見たこともある。


 村の誰が犯人なのかと、探す事もない。

 一度それを糾弾すれば今度は我が身だ。

 いざという時に口減らしが出来なければ、一家丸ごと死んでしまう。


 俺はこの風習が大嫌いだ。

 何故お年寄りや赤ん坊が、ただそうだと言うだけで死ななければいけないのか、だから俺はやらなかった。

 違う、やれなかったのだ。

 結局、母は自ら口減らしを実行した。

 このまま二人で生きていくなど、不可能だと分かっていたのに……。


 母は体が悪く、山まで歩いていくなど到底出来ない。

 その途中の村の中での垂れ死ねば、その責任を追求されるのは俺だ。

 だが、その体が悪い母が一人で縄を括ってぶら下がれるとは思えない。

 手伝った者が居るのだろう。


 ひとしきり吐瀉物とのにらめっこを終えた後、俺はのっそりと立ち上がって母の縄をほどいた。

 ドサリと落ちた母の死体を何とか持ち上げて、そっとベッドに寝かせる。

 家の外にある井戸から水を組み上げて体に付いた吐瀉物を洗い流した俺は、そのまま教会へと歩いていく。

 教会の近くまで行くと、教会の外で箒を掃いていた初老の神父様が慌てて駆け寄ってきた。


「おぉ、ノア! どうしたんだ、そんなにずぶ濡れになって! それに、母はどうした? 今日は一緒じゃないのか?」


「……死にました」


「何と……まさか、ノア……」


 神父様の目に困惑の色が浮かぶ。

 まさか、"やった"のか。と


「違います」


「ノア?」


「寿命です」


「……」


「母は、寿命で死んだんです」


 キリスト教では、自殺や殺人は禁止されている。

 神父様は静かに頷くと、ただ、そうか。とだけ言って俺を優しく抱き締めた。


「母はどこにいる? 葬式を執り行おう」



 葬式には村中の人々が集まり、母の死を悼んでくれた。

 中には驚いたように俺を見る目もあったが、そういった人たちも、ひつぎの中の母の死に顔を見て申し訳なさそうに去っていく。

 首吊り自殺を行った死体は特徴的な最期を迎えると言うが、母の死に顔もそうだったのだろう。

 結局、俺は式の最後まで母の顔を見ることが出来なかった。


 式が終わり、母の棺が地面に埋められた後、教会の椅子に座り込んでいた俺の隣に、バベルが軽快に滑り込んできた。


「よう、これからどうするんだ?」


「どうするもなにも、今まで通り小麦を作って、パンを焼くよ。何も変わらないさ」


「あの固いパンをか?」


「叔母さんのよりは柔らかいだろう?」


 一瞬、顔を見合わせて、ははは……。とお互いいつもより力なく笑いを溢す。

 それでも、バベルの軽口のお陰で少しだけ気が紛れた。


「来てくれてありがとう、バベル。仕事も忙しいだろうに……」


「何言ってんだ! 親友の母親の葬式だぞ! 出ない訳あるかよ!」


「ありがとう……」


 バベルに笑いかけながらも、俺の目尻には涙が浮かんでいた。

 バベルもそれに気が付いて、複雑そうな表情で俺の両肩に手を置いた。


「とにかく、俺はお前の味方だ。困ったことがあれば何でも言えよ」


「あぁ、頼りにしてる……」


 俺がようやく涙を拭くと、教会の扉が開く音がして、細身の男性が入ってきた。

 初めは神父様かと思ったが、白髪交じりの髪からそれが隣に住むトムであると判断する。


「おぅ、ノア。元気か?」


「お陰さまで、トム」


 正直、俺はあまりトムが好きではない。

 それはトムの遠慮のない物言いにあるが、それ以上に彼が時間を見つけては家に来て、母と話しているのがどうにも気にくわなかった。

 そんなトムが、俺たちの近くまで歩いてきたかと思うと、おもむろに口を開いてこんなことを言った。


「良かったな、母親の分まで生きろよ」


 カッ!と頭に血が登ったが、俺が殴りかかる前にバベルがトムの胸ぐらを掴んで持ち上げ、教会の椅子に勢いよく投げつけた。


「もういっぺん言ってみろ! てめぇ、何が良かったって!?」


「ま、待て。バベル、良い。良いから落ち着け」


 ものすごい剣幕で怒るバベルを見て、怒りが引っ込んでしまった。

 ガタイの良いバベルが細身のトムに迫る様は、見ていて恐ろしい。

 思わずバベルを止めるが、


「お前は悔しくないのかよ!」


 と叫ばれて、サッ。と目を逸らしてしまう。

 その拍子に、トムと目があってしまった。

 トムの目に浮かんでいたのはバベルに対する恐怖でもなく、俺に対する憐れみでもない。

 ただ、目の周りが腫れぼったく、赤く腫れている。


「何回でも言ってやるよ。なぁ、ノア! お前、あの人とどれだけ話してたよ? あの人の悩みを、孤独をどれだけ知ってたよ!?」


 そこまで言われて、俺はこの人が母の自殺を手伝ったのだと察した。

 きっと、毎日話している内に母の心の内を語られたのだろう。


「……俺は、小麦を作って、パンを焼いて、それだけで一杯一杯でした。すいません」


 グッ!とトムが下唇を噛んだ。その相貌が悔しさに歪んでいく。


「でも、母は貴方がいつも話してくれると嬉しそうでした。食事時も、貴方から聞いた村の皆の話を俺にしてくれました」


「ウ、ウゥ……!」


 声にならない声を上げて、トムは両目から涙を流す。


「貴方のお陰です。今まで……最期まで、ありがとうございました」


 俺が頭を下げると、トムは、うるせぇ!と叫んで、教会から走り去ってしまった。


「おい、良いのかよ」


 バベルはどこまで察しているのか、複雑そうな表情で俺の肩に手を置く。


「良いんだ。あの人の物言いはそんなに好きじゃないけど……でも、悪い人じゃないよ」


「……そうか」


 少し考えたように黙り込んで、バベルは俺に語りかける。


「なぁ、ノア。やっぱり一緒に王都に行かねぇか? お前の心傷を癒すにも、少し気分転換した方が良いと思うんだ」


 なんと、再度の王都への同行のお誘いだった。

 だが、俺は丁重に断る。


「母さんの遺品を整理しなきゃ。それに、今は遠出する様な気力は無いよ……」


「そうか……」


 そもそも、母の葬式を執り行おう為に、バベル達の王都への出発は一日延びている。

 俺のようなお荷物を連れて行くのは難しいだろう。


「楽しんでこいよ、王都」


「仕事だって言ってんだろ」


 俺の軽口に苦笑いして、やがてバベルも教会から去っていく。

 一人になった俺は、ぼんやりと教会のステンドグラスを眺める。

 あのステンドグラスのシーンは何だったか。処女懐胎か何かだったような気がする。

 天使から天啓を得た聖母マリアが、処女であるにも関わらず子供を妊娠する。

 男の俺には関係のない事か。


「妊娠か……」


 母は俺をその腹に宿した時、こんなことになると想像していただろうか。

 父は失踪。自分は首を括り、お腹の中の子が一人残されると想像しただろうか?


「想像するわけないか」


 人生とはどう転ぶか分からないものだ。

 今は悪い方向にしか転がっていないが、いずれ好転する筈だ。

 俺に出来るのは、今まで通り真面目に生きていくことだけ。


「そうだ、普通に生きるんだ……」


 そっと胸の前で手を組んで、目を閉じる。


「どうか、私を導いて下さい……」


 簡単な祈りの言葉。

 母と毎日行っていたのを思い出して、思わず頬を涙が伝う。



『信心深き者よ』



「え!?」


 教会全体に響く声に目を開けると、夜だと言うのにステンドグラスの後ろからまばゆい光が指していた。

 俺はまさか朝まで眠っていたのか? いや、違う。

 慌てて涙を拭いて椅子から立ち上がり、跪く。


『稀に見る信心深き者よ。主からの天啓を与えよう』


「て、天使様ですか?」


『その通りだ、お前は毎日教会に通っていたな。主は感心していらっしゃる』


「そ、それは……」


 あまりの出来事に、言葉が続かない。

 別に主の存在を疑っていた訳ではない。しかし、自分ごときに天啓が降りるなど、考えたこともなかった。


『この世は腐敗してしまった。教会の数は減り、人々は主への信仰心を忘れてしまった。あまつさえ、王都では天を突く塔の建設が行われている』


「塔ですか?」


『天は主の物。そこへ届かんとする塔など到底許される物ではない』


「そ、その通りですね……」


『主はお怒りだ。その内、この世界に大洪水を引き起こし、もう一度世界を創り直そうとしていらっしゃる』


「なんと……それは、止められないのでしょうか?」


『お前は優しいな。本来は主の決定事項を覆す事など出来ない。しかし、主はお前の信心深さに感銘し、チャンスを与えて下さった』


 ステンドグラスの後ろから指す光が、より大きくなる。

 眩しさに思わず俯くと、天使様は少し口調を強くして言葉を続けた。


『全ての生き物のツガイを船に乗せ、大洪水から逃れるのだ。主は生き残った者たちへ祝福を与え、新たな世界を始めるおつもりだ』


「わ、分かりました……」


『船は時が来れば用意してやる。それまでに生き物のツガイを集めろ。そして、毎日祈りを忘れるな。主を失望させるなよ』


「勿論です!」


 力強く言った俺に満足したのか、頼んだぞ。と言い残して指していた光はゆっくりと消えていった。

 後に残ったのは薄暗い教会と、呆然と跪く俺だけだった。




 次の日、鳥のさえずりで目が覚める。

 昨日の隙間風で起きた朝とはまた違った憂鬱に悩まされながら、俺はベッドから飛び起きた。

 そのままの苛立ちに任せて窓を強く開くと、バサバサと外の木に止まっていた鳥達が飛び去っていく。

 悪いことをしたなと飛んでいく小鳥の背中を見守っていると、木の上に白い鳩が一匹、残っているのに気づいた。


「……白い鳩?」


 鳩と言えば灰色の筈だが、純白とは随分珍しい。

 そんなことを考えていると、その白い鳩が羽を広げてこちらに向かって飛んできた。


「え!? ちょっ!」


 思わず窓を閉めようとしたが、


『待ちなさい』


 と言う聞き覚えのある声に手が止まる。


「まさか、天使様ですか?」


 白い鳩は閉まりかけの隙間をすり抜けて部屋に入ってくると、俺の肩に止まる。


『そうだ。これからお前を導いてやる』


「わ、わざわざ?」


『こう言ってはなんだが、教会がもうほとんど無いのだ。よって、主を信じる者も数少ない……お前も身に覚えがあるだろう?』


「そう……ですね」


 正に今日、バベルが教会を取り壊しに王都へ向かう予定だ。

 見送りに行きたかったが、天使様に見られながら教会を取り壊しに行くのを見送るのはさすがにまずいだろう。


 いや、それより、大洪水が起きてしまってはバベルも流されてしまう。

 どうにか出来ないだろうか。


「あの、天使様」


『何だ?』


「私以外の人間を助けることは出来ないんですか?」


『ふむ……お前のように信心深ければ、私が取り持ってやろう』


「本当ですか!?」


『主は寛大だ。信じる者には手を差し伸べるだろう』


 それなら希望が見えてきた。

 説得すれば何とかなるかもしれない。

 取り敢えず、いつも通り朝食を取って、教会へと向かう。

 教会に近付くと、神父様が驚いたようにこちらに駆け寄ってきた。


「来たのか、ノア。私はてっきり……もう来ないかと」


「何を仰るんですか、私が祈りを怠る訳が無いでしょう?」


「ノア……いや、そうか……。お前は信心深いな」


 何か言いたげだった神父様は、顔を曇らせて俯く。


「実を言うとな、私はもう足が思うように動かないのだ。教会に通うのも厳しくなってしまった」


「そ、そんな……」


「だから、この教会は取り壊そうと思ってるのだ」


「なっ!?」


『なんと不敬な』


 俺の肩から、静かに、だが確かに怒りに満ちた声が聞こえてくる。


「ダメですよ神父様、大丈夫です。まだ神父様はこんなに元気ではありませんか。それにいざとなれば俺が……」


「ノア、もう良いんだ。この年まで神父をやっているとな、どうしても救えない者を沢山見てしまうのだ。主とは何だ? 全能とは? 試練とは? お前の母はお前の荷になることを恐れて命を断ってしまった。あんな良い子がだ」


「……っ!」


 グッ!と歯を食い縛り、喉から出かけた言葉を何とか押し戻す。

 誰も言葉に出来なかった事を、神父は淡々と話していた。


「ノア、もう良いんだ」


 そう、神父は繰り返す。

 教会を指差して、声高々に叫ぶ。


「こんなものに縛られるな! 自由に生きろ! バベルと共に王都に行きたいのだろう? 行ってこい。お前はまだ若い、寂れて行くだけのこんな場所、捨て置くべきだ!」


「なんて事を言うのですか!」


 神父の両肩を掴み、俺は叫び返す。

 驚いたのか、天使様は俺の肩から慌てたように飛び立った。

 両目を丸くする神父を、俺は矢継ぎ早に糾弾する。


「神にそんな物言いを! 今すぐ謝罪してください! でないと貴方は船に……!」


「船? 何の話だ」


 ハッ。と、神父の言葉に我に返る。


「……神父様、すいません。しかし、主を信じてください。間もなく大洪水が来ます。信心深い者以外は船に乗れない。流されてしまうんです」


「ノア、どうしたんだ? 母の事がそんなにショックだったのか?」


 困惑した瞳を向ける神父を振りきり、俺は教会に背を向けて走り出す。

 やがて追い付いてきた白い鳩が俺と並走しながら、呆れた様に声を漏らす。


『彼はダメだな』


「……そうですか」


 神父はもう船には乗れないだろう。

 大丈夫だ。神父は無理でも、バベルならきっと分かってくれる。

 家の前で足を止めたところで、俺は教会で祈りを捧げるのを忘れていた事を思い出す。

 しかし教会に戻る気も起きず、天使様に相談してみる。


『十字架を立てて祈りなさい』


 言われた通り、母の棚から十字架を引っ張りだし、自室の机の上に立てる。

 十字架に跪きながら、母の事を思い出す。

 母は毎日この十字架を握っていた。

 教会で、ベッドの上で、母は一体何を思っていたのだろうか。


『立派な十字架だ』


「ありがとうございます……」


 そうだ、母は立派な人だった。

 その最期は褒められたものでは無かったが、それでも俺は母を尊敬している。

 母に顔向け出来ない様な人生は送りたくない。


 いつもより長目の祈りを終わらせ立ち上がると、天使様が、クルクル。と鳴いた。


『では動物のツガイを探しに行くぞ』


「そうですね。その……動物であれば誰でも良いのでしょうか?」


『動物に信仰心は無い、誰でも良かろう。とにかく多くのしゅを船に乗せるのだ。だが、気を付けろ。蛇はダメだ』


「蛇ですか?」


 確かに蛇は毒があって危険だ。しかし、それならばもっと危険な動物は沢山いる。

 蛇だけダメだと言う意味が分からない。


『蛇は人を誑かし堕落させる。主は蛇を新しい世界に連れていけないと仰った』


「なるほど、分かりました。蛇以外の動物ですね……」


『あぁ、それと……清き動物は多く乗せろ。主への生け贄によって滅びては本末転倒だ』


 清き動物とは、蹄が分かれ、反すうする動物だ。彼らは主への生け贄として捧げられる。


「そうですね……」


 何はともあれ、動物を探しに行かなければならない。

 この村で牧場を営んでいるのはトムだ、一先ず彼の牧場に行けば牛と豚がいる筈。

 昨日の今日でトムと会うのは気が引けるが……。


『何も気にすることはない。お前は神の使いとして行動しているのだから』


「そ、そうですかね」


 恐る恐る隣の牧場に向かうと、ちょうどトムが牛の寝床の掃除をしていた。

 どこか暗い顔で作業を続けていたトムは、俺に気付いて今度は嫌そうな顔でため息をつく。


「何しに来たぁ」


「う、牛を見ようかと」


「あぁ? ノア、お前は小麦の世話をしろよ。この牛の寝床もお前んとこの小麦で出来てんだ」


 ボスボスと、牛の寝床である干し草を三股に分かれたすきで苛立たしげに叩いている。


「今は冬で畑も何も植えてないからさ……」


「やるこたぁいくらでもあるだろ。こんなとこで油売ってんなよ」


「うちの干し草を使ってる牛達に異常が無いか見たいんだ。良いだろう?」


「……ちっ。見たらさっさと帰ろよ」


 トムは訝しげに眉を潜めて、シッシッ。と追い払うように手を振った。

 ペコリと頭を下げて牛達の方へ近付くと、草をんでいた牛の内の一頭がゆっくりと顔を上げる。


『健康状態は悪くない。こいつで良いか』


 そう言うと、天使様は牛の額の上に乗り、ポウッ。と輝く。

 牛は少し驚いたように身動ぎしたが、光も直ぐに収まり、また何事も無かったかのように草を食み始めた。


「何をしたのですか?」


『"許可"した。これで時が来れば船に乗るだろう』


「こう言ってはなんですが……こんな簡単な事で良いのですか?」


『複雑にしては時間もかかる。目的を達成出来れば何でも良い』


 天使様はそう言って、次々と牛に"許可"を与えていく。


「全て連れていくおつもりですか?」


『まさか、七匹程で良いだろう』


 七匹か。いささか多いような気もするが、天使様に従う他あるまい。

 同様に豚にも"許可"を与え、トムに一礼してから牧場を後にする。


 ふと村の外を見ると、荷台を連結させた馬車が森の中へ入っていくのが見えた。あの先には王都がある。

 きっと、バベルもあそこに乗っているのだろう。

 見送りに行けなかった事を残念に思いつつ、遠目にそれを見守る。


『あれが王都へ向かう一団か』


「え? あぁ、はい。そのようですね」


 唐突な天使様の言葉に戸惑いつつ、俺は頷く。


「荷台に石工達の紋章がありますし、先ず間違い無いでしょう」


『よし、追え』


「え?」


 追う?いや、そもそもどうやって?


『何を呆けている。さっさと走れ』


「いやいや、何故追う必要が!?」


『主は私の目を通して世界を見ていらっしゃる。今回、主はその塔の建設を見たいと仰った。動物は道中、森で見つければ良い』


「は、はぁ……」


 もう何が何だか分からない。

 天使様はあまりにも唐突に色々な事を教えてくる。最初に全て教えてくれれば良いものを……。

 しかしそれを口に出す訳にはいかず、天使様に従って森に入る。


 森は鬱蒼としているが、そこまで木々が密集しているわけでもなく、所々日差しが漏れていた。

 王都への道も雑ではあるが整備されており、道に迷うことはないだろう。

 はぁ……。とため息をついて歩きだしたところに、後ろから声がかかる。


【お前ぇ……馬鹿じゃないのか?】


「なんだと?」


 むっ。として振り替えると、そこにはチロチロと舌を出す、1m程の褐色の"蛇"が居た。

 天使様の言葉を思い出して、うっ。と後退ると、蛇は地面を這って近付いてくる。


【なぁんでそんな嘘臭い鳩の言うこと聞いてるのかねぇ】


『耳を貸すな。前へ進め』


「は、はい」


 蛇に背を向けて、俺は道を進む。

 後ろではシュルシュルと蛇がついてくる音がしている。


【大体お前、本当に大洪水に賛成してるのか? 冷静になれよ。全部洗い流されちまうんだぞ】


「……」


【それに、知ってるか? キリスト教の禁忌をよ。同性愛、酩酊めいてい、窃盗、他の神の信仰、殺人……。おい、殺人だぜ? 分かってんのか? 大洪水ってのは立派な殺人だ。それを神自らやろうってんだから滑稽だよな。お前もそう思ってるんだろ?】


『不敬なやつめ……』


 ボソリと呟いた天使様の声には、強い怒りが滲んでいる。


【もう一度言ってやろうか? キリスト教の禁忌は同性愛……】


「黙れ!」


 振り替えって、蛇に怒鳴り付ける。


【なんだよ、図星じゃねぇか】


 チロチロと舌を出して、嘲笑うように蛇は身をよじっている。

 俺は今どんな顔をしているだろうか。息が上がり、動悸が酷くなっている。胸の奥のズキズキとした痛みが、それをさらに加速させた。


【その調子で矛盾だらけの行動を、最後の最後まで続ければ良いさ】


 蛇は楽しげに言って、茂みの中に消えていった。


『耳を貸すなと言っただろう』


「すいません……未熟な身で」


『決して蛇の話には乗るな。分かったな?』


「はい……」


 天使様の言葉に頷きながら、俺は未だ収まらない胸の動悸を感じていた。

 何をそんなに焦っているのか、蛇の妄言など聞き流せば良いのに。

 そう言い聞かせて、俺は再び歩き出す。


 道中出会った動物に"許可"を与えながら、少しずつ王都へと歩を進める。

 王都は村からそう遠くない。

 馬車なら半日、人の足でも1日歩き通せばたどり着くだろうが、生憎俺は"許可"を与えるために立ち止まりながらの行軍だ。

 ふと空を見ればいつの間にか真っ赤に染まっている。

 どうやら王都に着くより先に日が暮れてしまいそうだ。


『思ったより時間がかかったな、宿を探さねば。それとも夜通し歩くか?』


「そもそもこの辺りに宿はありませんので……」


 つまり、夜通し歩く一択である。

 こんなことになるならバベルと馬車に乗って行けば良かった。


『ならば歩くしかないか。野獣の類いは心配するな、私がどうにかしよう』


 どうにかとはどうするのだろう。

 いや、大洪水を起こそうと言う主の使いに、理屈を求めてはいけない。

 日が暮れてくると、当然森は暗くなる。しかし、天使様がぼんやりと光っているお陰で道を見失わないですんだ。

 王都へと近付けば、森は切り開かれ、その賑やかな光が辺りを照らし始める。


「明るい……」


 遠目に明るく輝く王都を見た時、思わずそう呟いてしまった。もしや祭りの光かと思ったが、どうも外周に立ち並ぶ飲み屋や宿の光らしい。

 こんな時間まで何をしているのかと呆れていたのだが、バベルたち村の石工の紋章を見つけて立ち止まる。

 バベル達が乗ってきたであろう馬車が宿の一つに横付けされており、その近くの馬小屋で見覚えのある馬が草をんでいた。


『馬か、丁度良い。"許可"しておこう』


 バサバサと羽ばたいていった天使様を横目に、俺は紋章をじっと見つめる。

 正直、ここに来るまでずっと不安だった。

 俺はバベルをちゃんと説得出来るだろうか。


【無理だよぉ】


 唐突に、背後からまたあの声が聞こえてきた。

 俺は振り返りそうになったのを我慢して、天使様の姿を探す。


【天使を探してるのか? あいつは馬小屋を回ってるよ。しばらく戻ってこないなぁ】


「……」


【無視するなよぉ。なぁ、こんなこともう止めようぜ? 大洪水だのなんだの……分かってる筈だろ? お前には完遂出来ないって。お前、このままだと全部失うぜ? 今からでも村に戻って、小麦育ててパン焼いてりゃ良いだろうがよぉ】


「黙れ……これは、俺に任された事なんだ……」


 俺は意を決して、近くの飲み屋の扉に手をかける。


【おいおい……その先は地獄だぞ?】


 蛇の声を振り切って、俺は扉をゆっくりと開いた。

 カランカラン。と来客を伝える入り口の鈴が鳴り、店の入り口に居た数人がこちらへ振り向く。

 やはり、この店に居たのは村の石工の集団であり、急に現れた顔馴染みの俺に、ギョッとしたような、困惑したような表情を向けてくる。


「ノア? おめぇどうやって来た」


「バベルはどこに……?」


 石工たちはお互いに顔を見合わせ、店の奥を指差す。


「の、ノア。どうしたんだ? 見送りにも来なかったと思ったらお前……歩いてきたのか?」


「見送りは……えと、すいません。また今度話します」


「あ、おい!」


 石工たちの声を背に、俺は店の奥へと歩を進める。

 途中、幾つもの視線が俺に集まり、店内にヒソヒソとした話し声と困惑した空気が充満する。


「バベル……」


 店の奥までたどり着くと、酒を煽っていたバベルが、ドンッ。と勢いよくジョッキを机に叩きつけたところだった。

 バベルは俺の姿を見つけると、少し驚いたような顔をして、直ぐに、ニカッ。とはにかんだ。


「よう、ノア。どうしたんだ?」


「今朝は……すまない。見送りに行けなくて」


「気にすんな。お前も忙しいんだろ?」


「それと、話があって……」


「何だ?」


 何から説明しようかと一瞬言葉に詰まった瞬間、後方からドンッ!という轟音が響いた。

 思わずそちらを振り替えり、轟音の正体が酒に酔った赤ら顔の女性が、飲み屋の扉を勢いよく開いた音だと理解する。


「たのも~! バベルはいるかね!?」


 女性の年の頃は俺と同じ位だろうが、赤ら顔といい、どこか古びた服といい、年上のおじさんの様な印象を与えてくる。

 再び飲み屋中の視線がバベルへと集まり、女性は、おぉ!と甲高い歓声を上げてノシノシとこちらに歩いてくる。


「バベル、あの人は?」


「リリス……あー、設計士だ。王城を作った人で……今回の塔の図面も引いてる」


「リリス……」


 リリスはこちらにたどり着くや否や、俺の肩に手を置いて、ガハハ!と豪快に笑う。


「バベル! 飲んでるか!?」


「え!? いや……俺は……」


「何だそのナヨナヨした声は! 石工の誇りはどうした!?」


「ちょ、イタっ、痛い!」


 バシバシ!と不機嫌そうに俺の背中を叩くリリスに困惑していると、バベルが苦笑いしながらリリスの手を掴んで止めた。


「リリス、俺はこっちだ」


 リリスは、ん~?と目を細めてバベルを見ると、不思議そうに俺とバベルの顔を交互に見る。

 そして俺の顔をグイッ。と引き寄せると、さらに目を細めて首を傾げた。


「誰だお前」


「の、ノアです……」


「ノア? 石工の人間じゃないな」


「俺の親友だ。農家をやってて小麦を作ってる……」


「小麦!? 丁度良い! 今私たちは食料がモゴモゴ……」


「バカ、ちょっと待て。手順ってもんがあるだろ」


 何か言いかけたリリスの口をバベルが塞いで、微妙な顔で俺の方に振り返った。


「リリスは目が悪いんだ。許してやってくれ」


「あ、あぁ……」


 俺が目を泳がしながら頷くと、二人は店の端に寄ってひそひそと何かを相談し始める。

 何を話しているのかは聞き取れないが、リリスの顔が少しずつ曇っていくのが見て取れた。


 しばらくすると、気まずそうな顔のリリスが先ほど言いかけた話を再開した。


「えー……ノア。小麦を作ってるって?」


「まぁ、はい」


「私たちは今、王の命令で塔を作ってるわけだが……反王朝の貴族から妨害を受けててな、食料の配給ルートを制限されてんだ。そのせいで思ったように人を雇えてない」


「まぁ、つまり。王都とは別口の食料が欲しいんだ」


 なるほど、俺の育てる小麦は王都にも流通しているが、その殆どは村内や家畜に消費される。

 それでも余った物は貯蓄するか旅の商人に売っていた。今年も勿論かなりの貯蓄がある。

 それを石工たちに流して欲しいと、そう言うことなのだ。バベルもその現状を知っていてこの話を持ちかけてきてるのだろう。


 しかし……。


「今回の塔、教会を潰して作ると聞いている」


 その一言に、バベルは身を固まらせ、リリスは落胆したような表情でため息をついた。

 バベルが、おい。とリリスの肩を小突いて、リリスは慌てて表情を引き締める。


「個人としてはバベルたちを応援するが、支援は出来ない。すまない」


「いや、別に無理してって訳じゃないんだ。気にするな」


 バベルはそう言ってくれるが、他の石工たちからの視線が痛い。

 たまらず飲み屋から退散すると、何故かリリスが後を追って飲み屋から出てきた。


「ノア~、飲まないのか? 嫌なことは飲んで忘れた方が良いぞ」


「キリスト教は泥酔を禁止してる。俺はあまり酒に強くなくてね……」


「はーん? まぁ、どうでも良いけどよ……お前がそのキリスト教ってのを信仰してるのはバベルから聞いたよ。色々と教えがあって大変なんだって?」


 リリスは無遠慮に言って、俺の肩に手を置く。


「まぁ……そうかな」


「教会を潰すって話な、取り消しても良い」


「え!?」


 思わずリリスの方へ振り替えると、リリスは赤ら顔で、ニヘラッ。と笑った。


「今回は私が設計士だって聞いたろ? 教会は元々の持ち主が死んだ時に国に譲渡された物でな。国もどうせならとその土地を使おうとしてたんだが……少し設計を弄れば教会は残せる。幸いまだ施工前だし、何ならその教会、お前にやるよ」


「それは……そこまで君の一存で決めれる物なのか?」


「土地は今回の件に際して私の物になってる。なんか法律とかややこしいことは知らねーけどそう言うことだ」


 それは俺が考えもしなかった提案だった。

 教会を残すなら、もしや主も納得してくれるかもしれない。

 リリスは満面の笑みを浮かべながら、こちらに手を差し出した。俺はその手を……


【本当に? 主が納得すると思うか?】


 その声に、俺の手はピタリと止まってしまう。

 間違いない、蛇の声だ。


【あぁ、良いと思うぜ。取れよ、でももし主が納得しなかったらお前もバベルもリリスだって全員流されて終わりだぜ。主は人間がいない世界を始めてそれで終わり。分かるか? 分かるよな?】


「おい、どうしたんだ?」


 急に固まった俺の顔を、リリスが不思議そうに覗き込んでくる。

 俺は慌てて目を剃らしながら、出した手を引っ込めた。


【天使はお前に失望するだろうなぁ。塔を作るやつらに加担するだなんて……結局、お前の信仰心はそんなものだったって訳か。いや、元からそんなもの無いのかもなぁ?】


「り、リリス。えと……塔を低くする事は出来ないか?」


「はぁ?」


【ギャハハハ! 滑稽だな、おい! 主がそんなもんで納得するかよ!? そもそもお前塔が作られる目的、聞いてんだろぉ!? 人が住むためだぞ! 低くしてどうすんだ!】


「あー……何か高かったら教義? に反するってことか? 悪いが具体的な数字が欲しいんだが……」


「た、多分……城より低ければ良い」


「城より? あー……城っつーと私が作ったあの城か。うーん……スペース足りっかな……」


【ほらな、困ってる。城を作った天才設計士様もお前の無理難題に困り果ててやがる。諦めろ。それか、主を説得でもしてみるかぁ?】


 俺は主と話した事がない。説得しようにも、それを試みた時点で切り捨てられる可能性すらある。


 そうなればもう誰も助からない。


「ノア、リリス。何してるんだこんなとこで」


 俺たちの会話を聞き付けたのか、バベルが飲み屋からのっそりと外に出てきた。


「あぁ、バベル。ノアが塔を城より低くして欲しいと言うんだが……」


「あ、いや……それは……」


 何と説明すれば良いのか、どうすれば丸く収まるのか、そもそも天子様が帰ってくる前に終わらせなければ不味いのではないか、と混乱する俺に、バベルは乾いた笑いを漏らした。


「城より? あー……ノア、別に無理して俺たちを手伝わなくて良いんだぜ? 食料は他で何とかするからよ」


 何となく突き放した物言いに、俺は頭にカッ。と血が昇るのが分かった。


「そんな言い方ないだろ!? 俺はお前たちを助けようとしてるのに!」


「の、ノア?」


 バベルが気圧されているのを見て、俺はその襟首に掴みかかる。


「大体! 俺に教会を潰すだの何だのの話をよく出来たよな!? 俺が毎日教会に行ってるのを知ってる癖に!」


「それは……悪かったよ。だがこれも仕事だ。それにあの土地は……」


「もう使われてない? だからなんだよ! 教会はそんな簡単に壊して良い物じゃない! 人の拠り所を主を知りもしない人間の住みかに変えるのが石工の仕事か!?」


「ノア……! その言い方は……」


 バベルがこちらをなだめようとしているが、俺は止まれない。


「石工の誇りがなんだ! お前たちがやってるのはただの……!」


「お前! いい加減にしろよ!」


 バキッ!と鈍い音と共に、俺の体が後ろに跳ねた。

 遅れて頬の痛みと血の味を感じて、俺は殴られたのだと理解する。


「教会がなんなんだよ! 事あるごとに勧誘してきやがって! 行く気はないって何度言ったら分かるんだよ! つまんねぇ教義に囚われて俺たちに無理難題吹っ掛けてきて『助けようとしてるのに!』だ!? ふざけんな!」


「ちょっと、バベル! 止めなよ! 親友なんでしょ!?」


 そのまま地面に倒れた俺に殴りかかろうとしたバベルを、リリスが制止する。

 なんだなんだと飲み屋から出てきた石工たちが外の光景に、ギョッ。とした表情で引っ込んでいくのを見て、俺は、フッ。と笑いをこぼす。


「親友ね……いつからだっけな。遊ばなくなったのは」


「……」


「もう5年は、昼間に顔を合わせてなかったよな。お互い腹を割って話せたのなんてもっと前だ」


「ノア……」


 怒りが落ち着いたのか、バベルはゆっくりと振り上げた拳を下に降ろす。


「『いつも一緒』だなんて、詭弁だったよな」


 バベルは一瞬固まったが、ハッ。とした表情でボソリと呟く。


「お前、あの石像と誕生日カード、まだ持ってたのか……」


「俺にとっちゃかけがえのない宝物だ」


「……。ノア、じゃあお前は覚えてるのか?」


「何を?」


 ぶっきらぼうに答えると、バベルは少しうつむいて言葉を続けた。


「塔の話、昔しただろ。でっかい塔を建てて、でっかい男になるって」


「してたな、そんな話」


 今思い出しても子供じみた絵空事だ。

 いや、バベルはそれを今現実にしようとしているのか。


「あの時言ったよな、手伝ってくれるって。一緒にでっかい男になろうぜって、約束したよな」


「バベル、まだそんな昔の事……」


「俺は、昼間に会えなくても、腹割って話せなくても、ただお前と一緒にまた何かやりたかったんだ」


「……」


「今回の塔の話を聞いたとき、真っ先にお前の顔が浮かんだ。教会を潰すって話に、もしお前が苦い顔しなけりゃ、あの時『一緒に行こう』って誘おうと思ってたんだ」


「なるほどな……」


 それはそうだ。バベルは優しい。

 何も考えなしに俺が傷つくような事は言わない。

 そんなこと、分かりきっていた筈なのに……。


「なぁ、ノア。お前俺たちに何か隠してるだろ? 教えてくれ。親友じゃないか」


「親友か……。バベル、もうすぐ大洪水で世界が沈むって聞いたら……信じるか?」


「……数分前の俺なら笑ってたかもな」


「はは、酷いな。俺は真剣なのに」


 何故か涙が溢れてきて、俺は慌てて袖でぬぐい、何とか言葉を紡ぐ。


「母が死んだあの日、俺は天使様から神託を授かった。『人間が王都に天を突く塔を作ろうとしている。到底許されない』と。だから主は大洪水を起こし、一度世界をやり直そうとしているらしい」


「それはまぁ随分と横暴なやつだな」


 バベルの軽口に少しヒヤリとしながらも、俺は話を続ける。 


「それで、天使様に聞いたんだ。どうにか皆を助けられないかって。天使様が言うには、『信心深ければ良い』と……」


「何それ、どうやって示すの? 今から教会にでも行けば良いわけ?」


 リリスが呆れたようにため息をつき、俺は下を向いてしまう。

 恐らくそれだけでは足りない。

 大洪水のタイムミリットがいつかは分からないが、長くはないだろう。

 それまでに信心深さを示すなどやはり……。


【まだ諦めてねぇのか。呆れたやつだ】


 また、蛇の声がした。


【どっちを取るか選べよぉ。親友たちとこのまま死ぬか、お前だけ助かるか】


 そう、今のままなら道は二つに一つだろう。


『蛇の声に耳を傾けるな』


 ふと、透き通った声が空から降ってくる。

 慌てて辺りを見渡したが、白い鳩の姿はどこにも見えない。

 急に挙動不審になった俺をバベルが心配そうに眺めていたが、当の俺は、ハハッ。と笑いをこぼす。


「そうか、上か。主は天を自分の物だと言っていた」


「ん? だから何よ」


 首を傾げたリリスへ、俺はその肩を掴んで興奮気味に詰め寄る。


「リリス、塔の一番上に教会を作れるか!? それはもう立派な教会を!」


「上? ま、まぁ別にそれくらいなら……」


「塔はうんと高くしよう! そっちの方が良い!」


「さっきと言ってることが違うじゃねぇか……」


 興奮している俺に若干引いているのか、バベルはひきつった笑みを浮かべている。

 しかし、その顔はどこか嬉しそうだ。


『よくやった、ノア』


 バサバサと、どこからともなく天使様が羽ばたいてきた。


「天使様……」


「え、そいつが!?」


 失礼に驚くリリスを無視して、天使様はクルクルと喉を鳴らす。


『主はそれで納得するそうだ。全く、気まぐれな主に仕えるのは苦労する』


「天使様は、初めからこうするおつもりだったのですか?」


『主は万能ではない、そして私もな……。私のちょっとしたミスで運命が変わったとして、誰にも攻められる筋合いはない』


 天使様は俺の選択を見届けてくれた。

 その事実だけで十分だった。


「ありがとう……ございました」


『私は道を示しただけだ。あの日、お前が願ったままにな』


 それだけ言うと、白い鳩はどこかへと飛んでいってしまった。天使様はきっと、これからも誰かを導いていくのだろう。

 俺も俺のやれることをやらなければならない。

 例えば……


「あぁ、そうだ小麦! ちゃんと送るよ。在庫全部! うん!」


 興奮覚めやらない俺に、バベルは、はぁ……。とため息をつく。


「取り敢えず風呂に入れ。泥だらけだぞ」


「あぁ、すまな……いや、お前が殴り飛ばしたせいだろ!?」


 殴られた事を思い出した瞬間、頬の痛みがぶり返してきて思わずその場にうずくまる。


「あ、おい。……そんなに痛かったか? 殴ったりして悪かったな」


「いや、大丈夫だ。こちらこそ、あんなこと言ってすまなかった……」


 まるでコントの様なやり取りをしている俺たちを見て、リリスは優しい微笑みを浮かべている。



 気付けば、城の向こうから太陽が顔を覗かせていた。

 俺は泥だらけだったが、どこか清々しい気分で太陽の光を全身に浴びる。

 

 あれ以来、天使様の声も悪魔の声も聞こえてこない。

 ただ、バベルの肩を借りながら石工たちの宿舎に向かう途中、【チッ】という声と共に森へと消えていく蛇の尾が見えただけだった。






 やがて、季節を何周か繰り返した頃、王都にそれそれは立派な塔が完成した。

 その日一番上の教会で始めて執り行われた婚礼は、この塔に関わった二人の創設者の物だった。


 かつて小麦を育てていたというその教会の神父は、塔の建設者が刻まれた石碑を誇らしげに見せ、事あるごとにこう言うのだ。


「これは、約束を果たした証だ。お互い、一度は忘れた約束をな」

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バベルの塔、ノアの方舟 @Kinoshitataiti

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