第4話(終)
チュンチュンと小鳥が鳴いている。
目を開けると、カーテンの隙間から入り込んだ光が、部屋の中をぼんやりと照らしていた。
手に何かが触れた。佐紀はそれが何であるかを確認しようと、掴み、引き寄せて見た。
それは、昨晩読み、先ほどまで夢の中で読んでいた、翔太から借りた本だった。
寝ぼけた頭が急速に動き出すのを感じる。
夢で見たのは、この本を佐紀より前に読んだ誰かの読書模様だったのだろう。
それは現実の過去ではなく、想像した過去かもしれないと佐紀は思う。
けれど夢の中で、ではあるが、誰かの心とつながったような心地がしたようにも思えた。
「どうだった?」
翔太に問われ、佐紀は頭の中から言葉を探す。
伝えたいことは、たくさんある。聞きたいことも、たくさんある。
「すごく、面白かった」
「どんなところが?」
「物語自体もよかった。だけど、それだけじゃなくて――」
言葉に詰まる佐紀の顔を、翔太が微笑み覗き込む。佐紀は恥ずかしそうに視線をそらすと、どこか遠くを見ながら、
「私より前に読んだ人が、どんな気持ちで読んだんだろうって想像するのも面白かった」
「あはは! そうだよね、やっぱりこの本、面白いよね」
翔太の返答は、佐紀の想像を超えていた。翔太が共有しようとしていることが、どんなことであるかを考える。けれど、そこには折り線も、線も丸印もない。ヒントは表情や雰囲気にしかなく、それをじっと見つめるほどの勇気を持ち合わせていない佐紀には、満足のいくゴールにひとりでたどり着くことはできなかった。
「大真面目に読んでるんだよね。どんな描写も逃さずに食ってやるって感じがすごくする。そのくせ、油ものを触った手で紙にふれちゃうとか、ちょっと雑なところもあってさ」
「あの、さ。この本って、翔太のなの?」
「今はそう。だけど、もともとは俺のじゃない」
「誰の?」
「父さんの」
「へぇ」
「だいぶ前に渡されたんだ。本を綺麗に読む俺が気に食わないって言って」
佐紀は胸にずきん、と痛みを感じた。
「俺もね、昔は綺麗に読みたくて、貸すのは絶対お断りって感じだったんだ。でもさ、きれいに保存して、きれいに読むのが本のためってわけじゃないんだなって、この本を読んで思ったんだ」
「そっか」
「うん、そう。きれいじゃなくてもいいって思えるようになってからは、かなり気が楽になった。だからさ、佐紀にもこの感覚を、無理にとは言わないけど知って欲しいっていうか。そういう気づきをお届けできたらと思った次第で」
翔太が言いたいことは、理解できた。けれど、佐紀の頭の中では、まだうまくことを消化できてはいない。
きれいじゃなくてもいい、ということはわかった。
だが、自分はきれいなままがいいのだ。その部分は、譲れそうにはなかった。これまでの自分を肯定するためにもだ。
ある日、大好きな作家の新刊が出ることを知った佐紀は、同じ本を二冊予約した。
そうして、手に入れた二冊のうち、美しいほうを本棚にしまい、絵画の一部にする。
もう一冊は、ブックカバーをかけ、読む。手が届く場所には、付箋とお気に入りのシャープペンシル。
まだ、本を汚すことには抵抗がある。だから、引き返せるようにと選んだふたつを、読み進めながら気になった場所に使う。
物語に落ちながら、罪悪感が膨らんだ。けれど、自分の心で全部食ってみたその先に、どんな風景が広がっているのか。そのことを想像すれば、どんどんと興味も膨らんだ。
はじめての汚しは、決してうまいとは言えない。余すところなく、描写を食えたとも思えない。
けれど、翔太からもらった気づきは、新たな世界への扉を開いてくれた。
佐紀の本棚に、異変が起きる。ドレスの横に普段着が並ぶように、絵画の横に食後の本がちんまりと並び始めたのだ。
絵画の完璧な美しさに傷がつき始めると、佐紀の心は羽が生えたように軽くなった。
もう、完璧である必要などない。多少傷がついているくらい、なんてことはない。
ようやく過去作にも手を伸ばす。今と比べればどこか拙い世界にも、魅力はぐっと詰まっている。原点が、今をさらに魅力的に見せてくれる。
上隅を折り、ペンでチェックを入れたお気に入りの一冊を手に、佐紀は翔太に声をかけた。
「これ、読んでみてくれない? それで、感想を聞かせて」
翔太は、真意を探るように、佐紀の顔をじっと見た。
「なにか、俺に届けてくれんの?」
「うん。プレゼントがあるの」
「じゃあ、受け取りに行ってくる」
翔太は本をひょいと掲げると、歩き出した。
その背中を、佐紀は微笑み見た。彼ならきっと、たどり着いてくれる。そう信じ、彼の背中に背中を向けて、歩き出す。
風が吹き、髪をふわりと踊らせた。
佐紀は、風に幸運を約束された気になって、トコトッ、トコトッと足を弾ませた。
〈了〉
ココロリンク 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya
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