第3話
翔太はなぜ、この本を読んで欲しいと思ったのだろう。
面白い物語だから?
この後、ものすごいどんでん返しがあったりするのか?
物語の大波小波に流されながら、物語から顔を出した佐紀の氷山の一角が、翔太の頭の中を想像する。
折られているページにたどり着くと、ふぅと息をつく。
線に出会っては、この線を引いた誰かはなぜここに線を引いたのかを考えた。丸印がついているのは、どのシーンに誰がいるのかをきちんと把握するためのようで、黒幕を示唆するものではないらしいことに気づいた。
ただひたすらに読み進めていると、気づけば左手の厚みがほとんどなくなり、物語はクライマックスへと突入しようとしていた。
するとその時、それまでは上の隅を斜めに折ってばかりだった線が、縦になった。
大きすぎる違和感に、手が止まる。佐紀はページをどんどんと右から左へと送った。やはり、これまでの線は、そのすべてが上隅だった。
折り線をひとつひとつ丁寧に見ていくと、もうひとつの発見があった。それは、そのすべてが丁寧なものだったということだ。
この本を佐紀よりも先に読んだ誰かは、もしかすればあえてしおりを使わずに、本を傷つけながら読んだのかもしれない。
どうして? なにか意味があるのだろうか。それとも、たいした意味などなく、ただ〝折る〟ということに関しては几帳面だったというだけなのだろうか。
本から視線を外し、窓の外を見た。レースのカーテン越しでも、向こうの様子はよくわかった。気づけば太陽は沈み、夜の闇が街を深海のように濃く深く染め上げている。
もう残りはわずかであり、このまま読み切ってしまっても構わないと、佐紀は思った。しかし、ぐぅとなるほどの空腹に気づいてしまっては、集中力が欠ける。
佐紀はクライマックスを残して、食事をとりに外出することにした。
その足は、自然とラーメン屋へと向かった。
その理由が、作中のワンシーンを彩ったバリカタの豚骨ラーメンであると気づいたのは、黄身がトロトロの煮卵をレンゲにのせたときのことだった。
帰宅すると、お風呂に入り、スキンケアをし、歯磨きをした。
本を読み終えたなら、余韻のままに就寝できる環境を整えるためにだ。
すべてが終わると、佐紀は再び本を手に取り、縦の折り線を目印に、それを開いた。
物語の世界にダイブする。もう、愛着を覚え始めているシミをなで、線と丸を意識して、どんどんと左の手を軽くする。
最後の一文を読み終えて、吐息をついた頃。佐紀は視線を紙から外し、時計を見た。
世界はすでに、明日へと移ろっていた。
ぱたん、と本を閉じると、ごろん、と体を横たえた。
余韻に溺れながら、佐紀の思考は深夜とは思えないスピードでグルグルと考え事を繰り返す。
本に折り線をつけたこと。線や丸印をつけたこと。それらは、佐紀の価値観では許されざる行為だった。
けれど、実際に傷つけられた本を読破して、佐紀は思った。
この読み方は、もしかすれば非常に丁寧で、愛情深いものなのかもしれないと。
誰かからの借り物であれば許されざる行為に違いないが、それが自分のものであるのなら、こうして読むのもまた一興なのかもしれないと。
物語に溺れ、思考を繰り返し、疲れ果てた脳みそが、夢の世界へとダイブする。
そこには、顔をぐりぐりと塗りつぶされた誰かがいた。翔太ではない、と、佐紀はおぼろげに思う。
その人は、ポテトチップを食べながら、ぱらりぱらりとページをめくっては、時折ペンを走らせた。
飽きたのやら、んー、と伸びをすると、ページの上隅を丁寧に折って、本を閉じた。
誰かの服が変わった。
その人は、今度はコーラのペットボトルを口につけ、ソファーにどんと腰かけると、折り目を目印にして本を開いた。
コーラが空になった頃、本の上隅に折り目が増えた。
誰かが本を読み進めるさまを、佐紀はぼんやりと見続けた。
誰かの読書は気まぐれで、のんびりとしていた。それはページが縦に折られる時まで続いた。
その人は、忽然と消えた。
本は開かれることなく、薄暗い部屋の中に放置された。
佐紀はその本にまとわりついている亡霊か何かのように、ただ本とともに時が流れるのを感じていた。
それからしばらくすると、再び誰かが本を手に取った。その人は、最近までそれを読んでいた人と似たような体型だったが、髪型も髪色も異なっていた。顔は相変わらず塗りつぶされているように見えたために、はっきりと同一人物とは言えなかった。
テーブルの上には、ポテトチップとコーラがある。だから、同じ人なのだろうと佐紀は考えた。
縦に折ったページより、少し前から読み始める。ポテトチップを頬張り、コーラで流し込む。折り線のページに辿り着くと、立ち上がった。どこかへ消えて、戻ってくると、再び本を手に取った。
佐紀はその人に寄り添いながら、再び物語のクライマックスに溺れた。
ポテトチップは部屋の湿気を吸い、コーラからは炭酸が好き勝手逃げ出していくことに、その人も佐紀も気づかなかった。
最後の一文を読み終えた頃、カーテンが開け放たれている窓の向こうには、茜色の気配があった。
クカァ、クカァとカラスが鳴いていた。
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