第6話 ある恋人たちの形

「今日もありがとうございました」と私は黒一色の服を着た岸さんにお礼を言う。岸さんは言うところのツアーコンダクターで月一のペースでウイーンに来ている。ここ最近はよく呼んでもらえる。

なぜかいつも一色のふわっとした物を来ているので、うらで私は魔女様と呼んでいる。

「美保さんの解説はいつもながら評判がいいですよ」

「いえそんな、まあ、音楽をやっていましたから」ちょっと見栄をはる。

「そうか、美保さん、ピアニストですものね」

「あっ、いや」ピアニストと言うのはちょっとこそばゆい。

話をごまかす。

「今日のお客さんは、ほぼ新婚旅行の人ばかりみたいでしたけど、そういうツアーだったんですか?」

「そういう訳でもないんだけれど。ツアー自体が高額なんで、どうしてもそういう人ばかりなのよ」

「一生に一度の思い出、という感じですね」

「ええ」


仕事を終えた私は小さなアパートに帰る。

仕事はツアーガイドだ。

ピアニストと言われて否定しなかった。

これも小さな見栄かなと思う。

あと少しで三十代が終わる、言うところのアラフォーというやつか。

今日の新婚カップルたちを見て、ちょっと複雑だ。もし音楽を諦めれていたら私はガイドする立場ではなく、される側にいたのかもしれない。


でも私は音楽を捨てられなかった。


自分の力量にある程度自信もあった。

だからこのウイーンに留学したかった。

ピアノに突っ走らなければ、あんな風に、このウイーンに旅行客として孝と来れたかもしれない。

孝は、私の事を本当に愛してくれた。

そして私も愛していた。

だからピアノをもっと早く捨てていれば、孝と結婚ていたかもしれない。

あれから十五年の月日が経っていた。

あの時、大学を卒業したとき、孝と結婚していれば、孝との間に子供が出来て、今頃は高校生くらいかな、そんな未来があったかもしれない。

私は人生を間違えた。

いえ、間違ったとは思いたくはない。

そもそもピアニストは嘘ではない。

これでも音大主席だ、そのままの勢いで、卒業後ウイーンへの留学を決めた。

渋る両親を説得して、恋人の孝に別れを告げて、私にはピアニストとして、輝かしい未来があるはずだった。

でも世の中は甘くない。

世界有数の音楽院に入っても、そこでは私は普通の人、日本の音大主席は、そこではたんなる学生だった。

卒業して初めはパブのようなところで弾いたりしていたが、それも卒業後五年くらいで声もかからなくなった。

思えばその時だったのかのしれない、その時日本に帰っていれば・・・。

孝はきっともう結婚していただろうから、孝とは結婚できなかっただろうと思う。でも日本で別の人生があったかもしれない。

そして、もし孝が待っていてくれていたら、孝と普通に結婚して、普通の家庭をもっていたかもしれない。

でも私は諦められなかった。

両親や、孝に大見得を切った。

絶対にピアニストになって、日本に帰って来ると。

だから今更帰れない、そんな恥ずかしいことは出来ない。

でもそのせいで私は、このウイーンで細々とガイドなんかをしながら食いつないでいる。

もう自分がピアノを弾けることさえ忘れかけているのに。

日本に帰りたくないと言えば嘘になる。



「ガイドさんピアニストなんですか」と新婚カップルに尋ねられた。

「ええ、一応」

「どおりで楽友協会の解説素敵でした。すごいですね。ウイーン在住のピアニストに楽友協会の解説してもらえるなんて、やっぱり思い切ってこのツアーにして良かったね」

「本当だね。高かったけど」

「そんなこと言わないの。新婚旅行なんだから」初々しい。私がこの年頃は、芽が出なくて、でも喘いで喘いで、歯を食いしばって、髪を振り乱してピアノを弾いていたときだ。

「おふたり、お幸せになってくださいね」

私は新婚カップルから離れる。

ピアニスト、知らない人はピアノが弾ければ、みんなピアニストだ。

こんな風に言われることは珍しくない。

そんな言葉にすがるつもりもなかったし、いまなら、それすら崩壊している。でも私はピアニスト、忘れたはずの思いは何処か心の奥底にあり、そういう思いが私を縛る。

だから日本になんか帰れない。



「美保」と声を掛けられた。

「えっ」私は声の方を向いた。

「たかし。孝なの」

「そうだ。このツアーのガイドやっているって聞いて来た。探したよ。ウイーンなんて全然分からないし、言葉だって」

「なんでここに」

そこには懐かしい孝が立っていた。



お金がないので、ウイーンでも一番安いレストランで食事をした。

孝はここが高級店なのかどうか判断がつかないと思った、だから私は見栄を張るため、孝の食事代を出そうとした。

話してみると孝は、外見以外何も変っていない。

そう外見以外だ。

あれから十五年たっている。

「孝。親父になったね」

「お前こそ、おばさんになって」

「酷い。年上に言われたくない」

「年上って、二ヶ月だろ」

「年上は、年上だよ」一体孝は何をしにきたんだろう。単に様子を見にきただけか。

孝、結婚したのかな、イヤしているか。孝は現実主義だ。きっと子供もいて、孝気が弱いところがあるから、きっと奥さんのに尻にひかれているかな。休みにどこかにつれて行けなんて言われて、ヘトヘトになって、次の日上司に怒られていてね。そんな事を想像したら、少し笑ってしまう。

「なに笑っているんだよ」

「えっ、ああゴメン」


おおかた食事が終わり、デザートを食べながら、コーヒーなど飲んでいると急に孝の顔が真面目になる。

「美保。いつ帰って来るんだ」孝のそんな変化に、ちょっと私はたじろいだ。

「帰らないよ、だってこっちの生活、凄く充実していて、楽しいし」

「本当か?」

「本当だよ。この間だって。新婚カップルに、楽友協会の解説素敵でしたって褒められたばかりだし。ピアニストの解説はひと味違うって」

「ピアノ、弾いているの?」

「弾いているよ」

「どこで、いつ、」

「どこって・・・」

「俺の時間は止まったままだ」

「止まったままって?」

「言葉どおりさ。美保がこっちに来たときから何も変わっていない」

「なんで。孝、普通に就職したよね。あれから十五年だよ。結婚して、子供つくって、家が手狭になったと言い合ってさ。背伸びして住宅ローン組んで。毎月少ないお小遣いで。

でも、休みの日には奥さんと子供と一緒にどこかに出かけて。疲れ切って次の日会社に行って、上司から家族サービスは程々にって怒られてさ。そんな十五年じゃなかったの」孝が黙ったまま私を見つめる。

待っていたの?私を待っていてくれたの?いやそんなわけない。だって、十五年だよ。「十五年、孝はどうしていたの?」

「お前を、待っていた」

「なんでそんなバカなこと、孝の人生が・・・。何でよ、何であたしなんかのために、孝を捨てたのに、孝の人生を生きなきゃだめだよ。ヤダ、あたしなんで泣いているんだろう」

「美保。美保。俺はそれを、お前としたいんだ」

「えっ」

「俺、お前の夢かなえてやりたかった。だからそんな些細なことは俺が我慢すれば良いと思っていた。でも、お前じゃなきゃだめなんだ」

「でも、あたし。ピアノをやるために・・・・」孝は私を見つめる。

もう私にピアノはないことが分かっているかのように。

「ピアノ、諦めてくれ。みんなには、俺が無理矢理ピアノを諦めさせたって言う。俺が美保の夢を諦めさせて。無理矢理連れて帰って来たって言うつもりだ。だからお前だってしょうがなくピアノを諦めて、俺のために日本に帰って来る。そうだろ」

「そんな事」

「そんな事だろ」

「そんなに、優しくしないでよ。あたしボロボロなんだから」

「じゃあ、俺は何をしたら良い?」

「良いんだよ。何もしなくて、ただ抱きしめてくれるだけで。良いんだよ、それだけで良いんだよ」

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ミュージックパラダイス 帆尊歩 @hosonayumu

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